「これ」
礼央は紅蘭さんに向かって無造作に拳を差し出した。何かを渡そうとしているらしい。
ためらいがちに差し出される紅蘭さんの手を見ながら、どうか嫌がらせではありませんように、と祈る。礼央を信じてはいるけれど。
手のひらにぽとん、と落とされたものを見て、紅蘭さんが小さく首を傾げた。と、その表情がみるみる変わった。まるで雲が晴れて太陽が顔を出したように明るく。言葉が少なくても、行為がそれを補った例を目の当たりにした、と思った。
「ケンカを売ってごめん。すごく失礼なことを言いました」
ほっとする俺たちの前で礼央が頭を下げた。紅蘭さんが首を横に振る。綺麗な爪の指先でつまみあげたのは黒猫の形をした……アクセサリーだろうか。
「こちらこそ、酷いことを言いました。ごめんなさい」
紅蘭さんも頭を下げた。同時に全員がほっと息をついたように感じた。
お詫びにプレゼントだなんて気取ったことをする礼央を軽くつつくと、ニヤッと笑った。それから。
「落ち着こうと思ってガチャガチャやったら出てきた。これ、みんなの分」
そう言って広げたバッグの中には丸い玉がいくつも……。
「礼央! 何回やったんだよ?!」
礼央が後ろめたそうな顔をして、俺の耳に。
「実はお金、あと500円しか残ってないんだ」
なんてこった! これから昼メシなのに。
「分かった。俺がそのカバンから、必要な分のガチャガチャをやってやるから」
少しお金がかかったけれど、礼央はちゃんと苦しさを乗り越えてくれた。仲直りの方法も礼央らしくて、こういうところが好きだし、尊敬もしている。
仲直りの結果、大鷹たちも一緒に昼メシを食べることになり、紅蘭さんのファンだった太河は喜んだ。俺も……かな。
昼はテイクアウトのホットドッグを買って、海に面した広場で食べた。海風で紙や袋が飛ばされるので、みんなで追いかけたり拾ったりしては笑い合った。
紅蘭さんは自分を「くぅちゃん」と呼んでほしいと言った。彼女たち自身が紅蘭=「くぅちゃん」、紫蘭=「しぃちゃん」と呼び合っているそうだ。今日、紅蘭さんが男みたいな服装をしているのはKuranであることを隠すためだから、その頼みは当然だろう。
太河は年上の――しかも憧れの――相手をちゃん付けで呼ぶことに戸惑いはあったようだったけれど、「いとこ同士だと思えば」と言われて納得するとたちまち慣れてしまった。しかも大鷹のことも「しぃちゃん」と呼んでいる。気付いたら礼央も「しぃちゃん」を使っていた。「大鷹」がふたりいるのだから、流れとしておかしくはない。けれど。
そこで迷ってしまうのが俺だ。俺は大鷹を何て呼ぶ?
くぅちゃんは俺たちを「礼央」「太河」「景くん」と呼ぶことにしたらしい。礼央と俺に差が出たところに彼女の心の距離が見える。最初の言い合いと仲直りが礼央との友情につながったのかと思うと感心してしまう。
それは礼央も同じらしい。礼央はくぅちゃんに対して、もう意地の悪いことは言わない。でも、優しいわけでもなくて、少し挑戦的なからかいや揚げ足取りをする。
対するくぅちゃんはそれを楽しんでいるようで、遠慮のない言葉を返している。最初に礼央に向かってまるで啖呵を切るように言い返したあの気性を思えば、少し厳しいやり取りもちょうどいいのかも知れない。
俺は礼央の様子を見ながらじんわりと「よかったなあ」と思っている。学校での礼央の明るさや人懐っこさには、漠然とだけれど、自分を隠して周囲を楽しませようという自己犠牲的なところがあるのではないかと心配していたから。もしかしたらそれは、「親戚の家に住んでいて、卒業後はそこを出るつもりだ」という事情を知っている俺の取り越し苦労かも知れない。でも、午前中にくぅちゃんの言葉に不意を衝かれた様子が俺の推測を裏付けているように思えるのだ。
二十四時間、他人の中で暮らしている礼央には、心を許せる相手を一人でも多く見つけてほしい。だからくぅちゃんとキツいことを言い合っている礼央を見るのが嬉しい。太河もそんなふたりの間で爆笑していたりするから、心配はなさそうだ。後ろから見ていると、まるで男の子が3人でふざけあっているみたい。
それはそれとして。
問題は、俺が大鷹をどう呼ぶか、だ。
大鷹はと言えば、「礼央くん」「太河くん」そして「鵜之崎くん」だ。俺だけ苗字。
慣れてしまったから、というのが最大の理由だと思う。そして、どんな呼び名で呼ばれようが、俺自身は何も変わらない。
でも、関係はいくらか変わる気がする。
俺は「しぃちゃん」と呼びたい。その呼び名を聞いた瞬間に彼女にぴったりだと思った。そして、呼び方を変えるなら今日のうちだと分かっている。けれど、その勇気が出ない。
彼女はどう思っているのだろう。どうでもいいのかな……。
頭の中で「しぃちゃん」と言ってみる。なかなかいい響きだ。しぃちゃん、しぃちゃん、しぃちゃん――。
「バレー部は、連休中は?」
隣からの声ではっとした。せっかく並んで歩いているのに、ぼんやりしていたなんてもったいない!
「練習があるのは後半だけ。……コーラス部は?」
「しぃちゃんは?」と口に出す決心がつかなくて、それを使わない方法を選択している俺。ああ、情けない。
「うちは無し。家で自主練」
「じゃあ、ゆっくりできるね。家族の予定とか?」
「ううん、うちは両親ともずっと仕事で。今日はくぅちゃんが久しぶりに何もない休日で、前から行きたかったお店に行こうってことになって」
「あれ? そうだったの? じゃあ、俺たち邪魔――」
「ああ、いいのいいの」
彼女が笑いながら言った。
「もう午前中に行ったの。そうしたら、どのお店もすごい行列で、今日はあきらめたんだ」
「午前中から行列って……何の店?」
「パンケーキとアップルパイとピザ!」
楽しいことを打ち明けるように彼女が言った。親しみのこもった笑顔に、やっぱり「しぃちゃん」と呼んでも大丈夫かな、と少し勇気が湧く。
「どの店もってことは、それ、もしかして別々の店? 1軒じゃなくて? それが全部行列?」
「そうなの。3軒ともまわるつもりだったの。でも、どこも開店前から大行列! くぅちゃんが雑誌の記者さんに教えてもらったところなの。さすが話題のお店だよね」
「へぇ……」
ファミレスとファーストフードにしか馴染みがない俺には、食べ物屋を目指して遊びに来るということも驚きだ。しかも3軒まわるつもりだったとは。
いや、それよりも。
今の会話、すごくいい流れだった。俺たち、やっぱり仲良しなんじゃないだろうか。だったらこの流れでどうだろう?
――よし。言っちゃおう。
やっと決心がついた。はっきり宣言してしまえば俺の中でもすっきりする。
「ええと、あのさぁ」
「ん? なあに?」
小鳥みたいに首を傾げる彼女。俺にとっては彼女らしさの一つであるその仕草を見たら、ほっとして笑いがこみ上げてきた。同時に肩の力が抜けて、のどから楽に声が出た。
「俺も『しぃちゃん』って呼ぼうかと思うんだけど」
「ああ! もちろん!」
即答と笑顔が返ってきた。よっしゃ!
「あたしも『景ちゃん』って呼んでいい?」
――ん?
俺の予定と違う言葉が聞こえた。
「景、『ちゃん』?」
「ふふっ、そう」
「もちろん構わないけど……」
まあ、考えてみれば、「しぃちゃん」と「景ちゃん」なら両方とも「ちゃん」付けでバランスが取れていると言えば言える……けど。礼央は「礼央くん」なのに、俺は「景ちゃん」?
「本当はね」
俺の腑に落ちない様子に気付いたのか、大鷹――しぃちゃんがにこにこ顔で説明してくれた。
「クラス替え初日にいちごが『景ちゃん』って呼んでるのを聞いて、あの時点であたしの頭の中には『景ちゃん』がインプットされちゃったんだよね」
なんと! 初日からすでに「景ちゃん」認定されていたなんて!
「でも、たいした知り合いじゃないのに名前で呼ぶなんて馴れ馴れしいかな、と思って。だからいつも、頭の中で『ええと、鵜之崎くんだよね』って確認してから話しかけてたの」
「なんだ。そうだったんだ」
思わず笑ってしまった。
礼央が彼女に自分の呼び方を指定したとき以来、俺はあれこれ気にしてきた。でも、彼女はきっかけがなくて遠慮していただけだったのだ。
彼女のことが、また少し分かった。
はきはきしていて潔いところがある一方で、心の中ではいろいろなことに迷ったり遠慮したりしている。委員会初日のようにフレンドリーな態度の裏側で、個人的な部分の距離は簡単には縮めてこない。その辺は俺と結構似ている気がする。
そんな彼女が今、俺を「景ちゃん」と呼んでくれると言っている。これは大進歩じゃないだろうか。――いや、そうじゃなくて、先に「しぃちゃん」と呼ぶと言えた俺が進歩したのかな?
「ねえ! アップルパイの店、もう一回見に行ってみない?」
くぅちゃんが笑顔で振り向いた。
「中に入れなくてもテイクアウトで2個くらい買って、みんなで味見しようよ。それならお金がない礼央も一緒に食べられるでしょ?」
そう言ってニヤリと礼央を見たくぅちゃんのキャップには黒猫のピンがついている。礼央の所持金が少ないことはくぅちゃんにバレてしまったらしい。
「景、聞いた? ふたりは今日、食べ物の店をはしごする予定だったって」
「うん、聞いたよ。3軒だってね」
笑って答えた俺の隣からしぃちゃんが「どこも美味しいんだって」と元気に付け足した。俺たちの前ではくぅちゃんと太河がデザートの話で盛り上がっている。
青空に薄く刷いたような雲がかかる春の終わりの穏やかな日。一緒にいる全員が楽しい気分でいられることがこんなに嬉しいなんて、俺はちょっと感激し過ぎだろうか……。