文化祭からそろそろ十日が経つ。経費の精算、備品の補充、各クラスの収支報告のまとめ。生徒会室には雑務が山積みだ。

 今日も僕、滝藤一途(たきとうかずと)は生徒会室にこもりきりだ。向かいの席には、生徒会長の方月(ほうつき)まひろが座っている。この死ぬほど忙しい時に、部屋には二人だけだ。他の生徒会メンバーや文化祭実行委員はみんな先に帰ってしまった。

「もうそろそろ7時ね。滝藤くん、君は先に帰っていいよ」
「あ、うん。……それじゃ、この書類終わらせたら失礼します」

 そんな、いいですよ。最後まで付き合いますから、帰りにマックでも寄りましょう。頭の中にはそんな言葉も思い浮かんだけど、口にはしない。実際、作業に飽きてきてそろそろ帰りたいと思っていた頃合いだった。隙あらば手を抜くのが、僕の信条だ。
 第一、女の子を夕飯に誘うなんて、それは僕のキャラじゃない。顔が良くて話も上手い副会長の池上みたいな人種が言う言葉だ。でも、あいつは一年生で生徒会書紀の工藤さんと先に帰ってしまった。

「今頃あいつらよろしくやってんだろうなぁ……」

 昨日、映画の話をしてたし、たぶんシネコンだろう。工藤さんの事は、僕も密かにいいなと思っていた。いいなと思うだけで、付き合いたいとかそういうつもりはなかったけど……。それでも、後夜祭の花火を見上げながら池上と工藤さんがいい雰囲気になっていたのを目撃した時、僕の心は少なからず動揺した。

「よろしくって……何が?」
「え?」

 方月さんがきょとんとした顔で尋ねてきた。

「いや今、言ったでしょ? 誰、あいつらって?」

 うわっ!? 口に出してた? 全く無意識だったけど、なんとなく唇を動かしてたような口触りが残っている。

「ええっと……、ホラ知らない? 池上と工藤さんの事」
「池上くんと工藤さん?」

 変につくろうのも不自然だし、隠すことでもないから話してしまおう。僕はそう思った。

「あの二人、文化祭でいい感じになって、多分付き合い……始めたと……思うん……だけど……」

 けどすぐに、それが過ちだったことに気づく。方月さんが微妙な顔をしている。しまった、コレではあの二人がデートのために生徒会の仕事をサボってますと会長に密告してるようなもんじゃないか!?

「つまり……池上くんと工藤さんが今日早めに帰ったのは、逢引きのためと……?」

 えらく古風な言い回しで方月さんは確認してきた。

「逢引き……うーん。まぁそういうことになるのかな?」
「まさかと思うけど、滝藤くん以外の実行委員が来てないのは……?」
「え? あ~……それも知らない?」

 文化祭実行委員は1年生と2年生の各クラスから一人ずつ、合計16人選ばれていて、3~4人ずつ日替わり当番で生徒会業務を手伝うこととなっている。その16名の実行員の殆どが、文化祭の前夜祭で彼氏彼女が出来ていたのだ。
 池上が企画した、リアルマッチングアプリイベントのおかげだ。40代後半の先生の言葉を借りるなら「ねるとんパーティー」みたいな企画で、本祭を一緒に回る相手を見つけようという趣旨だった。企画を盛り上げるために、実行委員は全員参加することになった(今思えば、あの時生徒会メンバーが参加していなかったのは、池上がすでに工藤さんとよろしくやっていたからかもしれない……)
 その結果、実行委員のほとんど全員がステキな相手に巡り会えた。それまでの雑用の日々に対するご褒美と言わんばかりに本祭と後夜祭では、青春を謳歌したのだ。ちなみに「ほとんど全員」と言ったのは、例外もいるから。その例外は今、生徒会室で会長と二人きりで収支報告書に誤りがないかチェックしている……。

「そんな……それじゃあ、本番終わってからみんなの集まりが悪いのって……?」

 会長は、その辺の事情を全く知らなかったらしい。かなりショックを受けているようだ。

「堕落よ……みんな堕落している……」

 おおう。これまた大げさな言葉が出てきたぞ。けどまぁ、確かに堕落だ。祭りの後始末なんて面倒くさい仕事ではあるけど、これだけ出席率が悪いと方月さんだって思う所があるんだろう。

「……滝藤くんくらいだもん。真面目に当番の日に出てきて、遅くまで仕事してくれるの」
「なっ、馬鹿にしないでよ?」

 方月さんの言葉が、遠回しに前夜祭唯一の例外である僕をディスってるように聞こえた。脳裏に、はにかみながら僕に養生テープを渡してくれた工藤さんの顔や、そんな彼女と工藤が二人で花火を見上げている姿などが浮かぶ。……そして僕は反射的に言ってしまった。

「言っとくけど、僕だってそれなりにやってるからね」

 口からのでまかせ。思えばこれがすべての始まりだった。
「それなりにって……君も”堕落”してるの?」
「堕落……う、うん。まぁね。僕だって、それなりにダラク? してますよ!?」

 言ってて悲しくなる。だらしなくダラダラ過ごすのは得意だ。でも、方月さんの言う”堕落”が、役目そっちのけで異性とよろしくやる事だとしたら、僕ほど堕落から遠い人間はいない。

 異性に興味がないわけじゃない。勉強や趣味の方が楽しくて恋人はいらないというわけではなく、むしろ絶賛募集中だ。デートスポットとか、イベントとか、めちゃくちゃ興味がある。けど残念ながら僕には女の子どころか男友達すら少ない。クラスメイトのノリには馴染めず、部活も入ってない。
 だから異性との会話も事務的なものを除けば、一学期に一度あるかないかくらいだ。その一度の日は、夜なかなか寝付けないほど興奮してしまうボンクラ野郎。それが滝藤一途だ。

 文化祭実行委員に選ばれたのも、クラスで団結して模擬店を成功させるというノリに馴染めなかったからだった。去年の文化祭に、冬の球技大会、今年の体育祭と合唱コンテスト。そういった行事にいちいち熱くなるカースト上位の連中。それらを冷ややかな目で見ていたら、いつのまにか推薦されていた。団結を拒む異分子を、体よく厄介払いしようというワケだ。

 そんな僕が、”堕落”なんてしているはずがない。けど、方月さんの目にはありありと絶望の色が浮かんでいた。

「……るい」
「へ?」

 彼女は不意に顔を伏せて、なにかつぶやいた。

「……ずるい。私だって……私だって……」

 徐々に声が大きくなり、一度伏せた顔を上げて真っ直ぐ僕を見つめてくる。え? 嘘でしょ? ……その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「私だって”堕落”したいのに!!」

 切実な空気がこもる独白だった。「青春したい」とか「彼氏が欲しい」ならともかく、「堕落したい」とは……。彼女の頬はほのかに紅くなり、涙で潤んだ瞳は輝きを増している。

「どうして? どうしてみんなそんな自由なの? 私なんて、自分のことだけで精一杯なのに……!」

 自分のことで精一杯……ああ、そうかもな。

 美人なだけではない。成績は常に学年トップだし、球技大会で個人賞をもらう程度にはスポーツも出来る。親はどこかの会社の社長らしく、身につけているものはどことなく高そうなものばかり。その上、生徒会長。今どきマンガのヒロインだってもう少し隙があるぞ、と言いたくなる程リアリティのない完璧美人。それが方月まひろだった。

 そんな完璧超人でいるには結構努力が必要だと思う。精一杯になるのも当然だ。他の人はもっと適当にやる。最低限のことだけやって後は手を抜いて、その余裕で青春を楽しむ。そういう意味では確かに、今生徒会室にいない連中は”堕落”してるのかもしれない。

「そうだ滝藤くん、教えてよ。”堕落”の仕方」
「へ?」
「私、みんなみたいな高校生活を送ってみたい! だから方法が知りたい!」
「え、えーと……?」

 どういう事? 潤んだ瞳がじっと僕の顔を見つめてくる。 その姿を見て心臓が高鳴る。ここにきて、僕はとんでもない事に気づいた。

 今僕は、校内一の美人と密室にいる。二人きりで。

 工藤さんのような愛嬌のある可愛らしさではない。方月まひろは非の打ち所がない美貌の持ち主だ。整った鼻筋、黒く大きな瞳、少しだけ厚い唇。それに背中まで伸びる、黒く艷やかなロングヘア。完璧すぎて、かえって僕の心にフィルターが掛かっていた。絶対に、何があっても、自分と同じレベルには下りてこない女性。だから二人きりでも緊張も何もしなかった。
 なのに一度、その事実に気づいてしまったらダメだ……。僕の心臓は急速に活動速度を早めだす。

「ダメかな……私みたいなつまらない人間には、みんなと同じようになんて、出来ない?」

 んなことはない!! つまらない人間とか……自己認識バグりすぎでしょ? 誰の手にも届かない高嶺の花。そう思われてるから、浮いた話が無いんじゃないの?

「そ……そんなことは」
「だったら教えて! ヒントだけでいいから?」

 ヒント……ねえ。つまらない人間と言ったらそれはむしろ僕の方だ。そんな僕が、彼女に何を教えられると?

 この場にいるのが池上じゃなくてよかった。池上だったら何も言わずに肩を抱き寄せて、ぶちゅーと口を吸うくらい造作なくやるだろう。それは流石に許しがたい。
 じゃあ僕は?僕に同じ真似が出来るわけがない。何度も言うようだけど、それは僕のキャラじゃない。

「ねえ?」
「え、えーと……」

 いやダメだろ! これだけ悩んでいる人を前に、はぐらかして逃げるとかダメだ。キャラとかいってる場合じゃない。僕なりに方月さんを助けるんだ!

「ご……午前2時」
「え?」
「午前2時にさ、カップ麺食べてみなよ? 最高に堕落した味がするから……」
「死にたい……」

 翌日、学校へ向かう足取りは重かった。最寄り駅を下りて、校門をくぐるまでの10分間がとてつもなく長く感じる。

 なんであんな提案をしたんだ僕は……? 人並みの青春に憧れ、悩んでいた完璧少女に「カップ麺食え」はいくらなんでも無い……。

 でも、弁明だけはさせて欲しい。ただのギャグのつもりだったんだ! 彼女が悩んでいるのはわかった。そしてその悩みを解消する力が、僕にはなさそうな事を自覚した。だからせめて、空気をなごまそうとして放った渾身のギャグだ。堕落といえば深夜のカップ麺、そこはみんな異論ないだろう? ギャグセンスやタイミングがおかしいと言われればぐうの音も出ないけど……。
 その後、方月さんは笑うでも怒るでもなく、狐につままれたような顔で「わかった、やってみる」と言っただけだった。昨日はそこでおしまい。やっちまったことを理解した僕はいたたまれなくなって、チェックし終えた報告書を片付けて生徒会室を出て来てしまった。ひとり残された方月さんが何を思ったのか、それはわからないし、わかりたくのない。

 彼女は違うクラスだし、文化祭実行委員の任期は今月いっぱいだ。当番日は理由つけて休んで、このまま顔を合わさないようにしよう。僕はそう心に誓う。他の実行委員たちもサボってるんだから、僕だって別にいいだろう。少なくともあの部屋で、方月さんと二人きりとか絶対イヤだ。そのたびに昨日の微妙ォ~な空気が再現されるんだから……。

 次の交差点を右に曲がれば校門が見えてくる。もういっそ、学校そのものをサボっちまうか? 一瞬だけそんなことも考えた。ここを曲がらずにまっすぐ進めば、少なくとも今日一日、方月さんと会う可能性はゼロになる。うん、そうだ。そうしよう。気が進まないことは先送り。それは僕が17年の短い人生の中で掴んだ、情けない処世術だ。
 しかし、その処世術を実行しようとしたその矢先、僕は後ろから肩を叩かれた。え? 何?

「おはよう」

 にっこりと微笑むその顔もやっぱり綺麗だった。

「ほ……方月さん!?」

 校門をくぐる前にエンカウントする可能性は考えていなかった。僕の背筋は硬直する。

「どうしたの? 早くしないと校門しまっちゃうよ?」
「は、はい……」

 しかたなく角は右折する。どういうつもりかわからないけど、方月さんは僕の横に並んで歩いていた。けど何も言わない。昨日のことをネタにしてからかってくれるならまだ救いがある。けど無言のままだと真意が見えず、どうすることも出来ない……。

「あ、あのさ……いい天気だね」

 苦し紛れのクソみたいな話題。私は面白い話が出来ません、と告白しているようなものだ。

「きょ、今日の学食ってメニューなんだっけ? 僕、唐揚げ定食が好きだからアレがいいなー……なんて……」

 自分でも驚くほどクソ話題しか出てこない。ギャグセンスの無さは昨日で十分露見しているのに、これ以上醜態さらすなよ……。

「……食べたよ」
「え?」

 食べた? 何を? 唐揚げ定食??

「昨日言われた通り……深夜2時にカップ麺食べた……」

 ぶっ!? え? 何? 嘘でしょ? からかってます?

「へ、へー。そうなんだ……どうだった?」
「…………」

 無言。そして足が止まる。なんなんだこの人は?

「えっと、方月さん? 早くしないと門が……」
「最高だった!」
「え?」

 僕の目を、真っ直ぐと貫いてくる黒い瞳。それはらんらんと輝いていた。昨日見たような涙をためた悲しさと絶望が含まれた輝きじゃない。歓喜と興奮に満ちた光だ。

「あんなに美味しいものがこの世にあるのかっていうくらい……あれはそう、罪。罪の味がした!」
「は、はぁ……」

 またしても大げさな言い回し……けど、喜んでくれたなら何より……。

「昼休み、生徒会室に来て!」
「へ? 昼休み?」

 生徒会の仕事は基本的に放課後行われる事になっていたはずだ。

「 私、感想を語りたいの! だから付き合って、待ってるから!」
 昼休み、僕は学食の入り口に書かれている「本日の日替わり:唐揚げ定食」の文字を横目に、購買部で昼食を買って生徒会室へと向かった。

「遅いよ! 滝藤くん!」

 方月さんはすでに来ていて、お弁当を広げていた。小さな弁当箱には、自分で作ったと思われるおかずが詰め込まれていた。茶色一色になりがちな高校生の弁当。彼女のものは緑赤黄色と色鮮やかで見た目にも美味しそうだった。完璧超人は料理も完璧みたいだ。

「滝藤くん、お昼はそれだけ?」
「え? うん」

 僕が小脇に抱えていた昼ごはんを机の上に並べてると、方月さんは聞いてきた。買ってきたのは、焼きそばパンとコロッケサンド、それにスポーツドリンク。学食が満席のときの僕の定番メニューだった。

「だめだよ、野菜もとらないと。それにスポーツドリンクは糖も塩分も多いからお昼はお茶とかの方が……」
「…………」

 何だそれは? どーゆーギャグだ?

「どうしたの?」
「う、うん。あえてツッコむよ? 深夜にカップ麺食べたことを話したい人が言うセリフ、それ?」

 ネタでやってるんだとしたら、昨日の僕よりセンスあるかもしれない。けど、方月さんは至って真面目に言っているようだった。

「だからこそよ。普段、しっかりとした食生活を送れば送るほど、あの味は特別なのものになる。私はそう思ったの」

 そう語る彼女の眼は、ムダに真っ直ぐでその奥を覗き込むと吸い込まれそうな感覚に陥った。

「昨日、滝藤くんに提案されたときは、正直よくわからなかった。なんでそんな夜中に、そんな身体に悪そうなもの食べなきゃいけないんだって。でも……」

 方月さんは天を仰ぐように視線を上にやり……そしてふるふると震えながら恍惚の表情を浮かべた。

「自分が悪い事をしているという感覚と、口の中に広がるラードと化学調味料の味。肌荒れや体重への心配……そういうのが一体となって、気がついたら夢中で食べていたの。初めての体験だった……!」

 僕が週イチ……いや週に2~3回はやってる夜食の習慣。そんな当たり前の経験に、方月さんは心の底から感激している様子だった。

 聞けば、そんな些細なことに彼女は涙ぐましい努力をしていたらしい。まず方月家には常備のカップ麺など存在しないそうだ。非常袋の中に幾つかあって、賞味期限が近づいて入れ替えるときにのみ食べることが出来るらしい。だから学校帰りにわざわざコンビニで一つだけ買って帰ったという。
 さらに方月家では、驚くべきことにダイニング以外でものを食べる習慣も、夜9時以降に食事をするという発想もないそうだ。だから彼女は、買ってきたカップ麺をそっとカバンの奥へ忍ばせて、自分の部屋へ持ち込むとクローゼットへと隠した。
 たったそれだけの行為でも、両親に見つかって怒られたらどうしよう、と気が気でなかったという。育ちが良いとは聞いていたけど、方月家は思った以上にちゃんとしている家庭らしい。
 そして問題はお湯だ。深夜にそっと台所へ言ってお湯を沸かすわけにもいかない。だから彼女は「少し遅くまで勉強するから」という理由を付けて、ティーバッグ数個とマグカップ、そして電気ケトルを寝る前にママから借りた。もちろんティーバッグとカップはブラフだ。

「それらをクリアして、ようやく! ようやく食べることが出来たの!!」
「ははは……。それはまた……大変だったね」

 未知の文化に触れる探検家のような思いで、彼女の話を聞いていた。僕が当たり前にやってることが、壮大な大冒険になる人がいるとは……それもこんなすぐ近くに。そりゃあ、ただのカップ麺だって格別に美味くなるわけだよ。

「アレなの。まさしくアレこそ。私が求めていた"堕落"そのものなの! ありがとう滝藤くん!!」
「なんというか、お役に立てて光栄だよ……」

 そんなんでいいのか? もともと青春がしたい、異性と素敵な関係を持ちたい。そんな話じゃなかったっけ? 僕のテキトーな言葉のせいで、願望がダウンサイジングしたとしたら、ちょっと申し訳ない。けど、彼女はとても楽しそうだった。

「それでさ、滝藤くん……。ここから先は、お願いなんだけど……いや、無理にとは言わないんだけど……」

 急に方月さんの言葉の歯切れが悪くなる。まっすぐと僕を見据えていたはずの瞳が、急に泳ぎ始めた。

「その……私を弟子に……してくれない?」
「は? 弟子?」
「うん。ほら! 滝藤くん言ってたでしょ、僕もそれなりに堕落してるって。だから色々教えてほしいの……」
「…………」

 そういうつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ……。
 とはいえ、彼女が求めるような"堕落"を、色々教えてあげられそうなのは事実だった。最初に言っていたような、異性との繋がりについてならば、僕は絶望的に知見がない。でも、日々の生活をだらしなく生きることに関してならば、いくらでも助言できる。はなはだ不本意ではあるけど……。

「わかったよ。協力する」
「ほんと? 嬉しい! ありがとう!!」


 かくして、生徒会長と僕だけが所属する非公式部活動「堕落部」が発足した。活動内容は至ってシンプルで「週に一回、だらしなく生きる」とういうものだ。

 週に一回というのは僕の発案だ。「だらしなく」というのは歯止めが効かない。どんな完璧超人でも、だらしなく生きることが習慣化したら転落は目に見えている。僕は方月さんがそうなる様を見たくないし、責任を負う勇気もなかった。

「わかった。じゃあ"堕落"は毎週水曜日だけということで」

 方月さんもそれに同意する。今日が火曜日だから、最初の活動日は明日ということになる。

「なにか準備することはある? 何でも言って!」

 "堕落"のために準備をするというのも変な話だけど、方月さんらしい言葉だなと思った。

「うん、そうだなぁ……大丈夫、全部僕がやるよ」

 全然誇らしいことじゃないけど、こういう事ならば僕はすぐに思いつく。


 翌日の昼休み。僕は方月さんから鍵を借りて、備品室と宿直室を訪れていた。生徒会室にはこういった特別室に入れる鍵が常備されている。それは生徒会長という役目が、そして方月まひろという生徒が、先生たちから信頼されているという証拠だった。そんな立場を悪用し、僕たちは"堕落"のための準備を進める。

「こんなところかな?」

 6限の授業が終わると、僕は昼休みのうちに生徒会室に運び入れたそれを手早く組み立てた。生徒会室にあるイスを5個ずつ2列に並べる。列が向かい合うように、背もたれをはそれぞれ外側にむける。そしてそれらを縦も横も密着させると、200×80センチくらいのスペースが出来上がる。
 お次は座布団だ。宿直室の押し入れの中にたくさん入っている。文化祭の準備中、落語研究会が大喜利に使うために申請したので、この存在に気づくことが出来た。文化祭実行委員さまさまだ。そんな座布団を並べたイスの座面に敷き詰める。これで寝転んでも背中が痛くない。
 仕上げは備品室から持ってきたカーテン。これは、各クラスの窓際に使われているものの予備で結構大きい。一枚かぶせると並べたイスはすっぽりと隠れてしまった。これで完成だ。

「これは……ベッド?」

 首を傾げながらも方月さんは尋ねてきた。正解だ。見かけは悪いけど、座布団のマットとカーテンのシーツで、ベッドとしての機能は満たしているはずだ。

「そう。ちょっと寝てみてよ?」
「う、うん……?」

 方月さんは、上履きを脱いでちょこんと即席ベッドの脇に並べておいた。こういう所に彼女の育ちの良さが現れる。そして、おずおずとカーテンの上に這い上がり、ゆっくりと身体を横たえる。

「どう?」
「うん……思ったより寝心地はいいみたい。安定もしてる」

 そこは抜かりなかった。ただ椅子を並べただけだといつ崩れるかわからない。だから10本の脚をそれぞれダクトテープでぐるぐる巻きにして固定していた。このテープは文化祭で使用したものの余りだ。

「そっか、お昼寝。学校でお昼寝なんて確かに"堕落"っぽいね!」

 方月さんは嬉しそうだ。でも、今度は不正解。

「ふっふっふ。甘い、甘いよ方月さん。お楽しみはこれからさ!」

 僕はカバンの中からポテトチップ。これは生徒会室に来る前に購買部で買ってきたものだ。それらを開封して、方月さんの枕元に置く。

「どうぞ」
「どうぞって……ええっ!? まさか、ここで?」

 方月さんは跳ねるように、上半身を起こす。寝そべってお菓子を食べるなんて発想が、彼女の頭の中にはまったくなかったらしい。

「仰向けよりも、うつ伏せのほうがいいかな?」
「こ、こう?」

 彼女はぐるりと体を捻る。ちょどめの前にポテトチップの開封口がくる。

「あ……」

 そこから漂うバター醤油の香りが鼻腔をくすぐったのか、彼女の顔に恍惚の色が交じる。昨日、深夜ラーメンの感想を語ってくれたときの顔だ。更に僕は、もう一個の椅子を彼女の頭の上に置き、そこに更に2つのアイテムを用意する。

「シーツの上だと安定しないから、こっちに置いておくよ」

 そう言いながら、コーラの蓋をひねる。ぷしゅっという音が生徒会室に響く。

「そしてもう一つはこれ! 読んだことある?」
「週刊少年ホップス……聞いたことはあるけど……」

 少年漫画雑誌の絶対王者すらも、彼女にとっては「名前くらいは知ってる」程度なのか。これは相当な箱入りぶりだ。

「ベッドの上の、ポテチ、コーラ、ホップス。これはもう三種神器と言ってもいいと思うよ?」
「そうなんだ……でも、食べかすがシーツの上とかページの隙間とかに入ったら大変そう」
「堕落者はそんな考えないの! さぁさぁ、食べてみてよ!」
「う、うん……」

 彼女はそっとポテトチップの袋に手を伸ばし始めた。
「部活なんだから、活動記録は付けなきゃでしょ?」

 木曜日。そう言って方月さんは僕にルーズリーフを一枚手渡してきた。真面目か。
 寝転んでポテチを食べること、コーラを飲むことへの罪悪感。それらが案外難しいという発見。そもそも制服のまま寝転ぶことに対して最初に覚えた抵抗。そしてそれらを全部ひっくるめても代えがたい、"堕落"という蜜の味……そういうことがB5サイズの紙片に手書きで丁寧に綴られていた。
 中でも、初めて読む週刊少年ホップスの世界は衝撃的だったようで、その項目が最も文字数が多かった。男の子向けのマンガなんてみんな殴り合ってばかりで女の子はパンツを見せてばっか、そんな偏見が彼女の中にあったらしい。
 しかし、キャラクターたちが悩み、考え、苦悩しているさまに衝撃を受け、それでも拳を握る主人公の勇敢さや、自分の意志を貫き通そうとするヒロインの強さに心を打たれたらしい。
 すごい。漠然と「つえー、すげー」とかいってる僕なんかよりもしっかりとマンガを楽しんでるじゃないか。けどやっぱり"堕落"と呼ぶには真面目すぎてなんだか笑ってしまう。
 特に新連載には強く心を惹かれたようだ。他の連載はどうしても前提知識が必要になってしまうから、感激はしてもその一話で深く入り込むことは難しかったらしい。その点、新連載はすべてが方月さんと同じラインでスタートするから一番、感情を入れ込むことが出来たそうだ。それにしても、漫画雑誌一冊でこんなに喜んでもらえるとは……。堕落部の活動日は水曜と決めたけど、ホップスの発売日に合わせて月曜日に替えたほうがいいのかな?

「ダメだよ。一度決めたことをそんなすぐに変えるなんて。それに週の頭から"堕落"ってのも良くないと思う」

 方月さんはそう言って首を横に振った。やっぱ真面目か。


 そんなわけで、毎週水曜日の"堕落"の習慣が始まった。
 即席ベッドはすぐにバラせるように、テープの固定方法を工夫し、座布団とカーテンは資料棚の空の部分に隠しておくようにした。ホップスだけじゃない。僕は家にあるマンガやライトノベルを週に一冊、持ってくることにした。
 それに使ってないタブレットも。僕のスマホでテザリングして、映画やアニメ鑑賞をするためだ。サブスクで彼女が好きそうな作品を僕があらかじめピックアップしておく。以外なことに方月さんは、昔のハリウッド映画が好きだった。まだCGもない頃のSFやアクション映画、SFXを駆使して観るものを圧倒する娯楽大作たちだ。
 もちろんコーラとポテチは欠かせない。その時は簡易ベッドはイスの並び方と個数を変えて、簡易ソファにする。
 "堕落グッズ"はすべて資料棚に隠した。空だった棚のスペースが少しずつ埋まっていく。幸いその棚は鍵付きだったので、方月さんは毎回、活動が終わるたびに施錠した。翌日木曜日は生徒会の定例会がある、その時に生徒会室の不正使用がバレないように、入念に痕跡を消してから帰る。その証拠隠滅行為も、僕らの背徳感を刺激した。

 ああ、断っておくけど色っぽい発展は全くしていない。彼女は簡易ベッドに、僕は残ったイスを並べただけのものに、ぐたーっと寝転んでマンガを読むだけだ。ボディタッチはほとんどしていない、唯一触れ合うことがあるとすれば、同時にポテチの袋に手を伸ばしたときくらいだろう。それで良かった。この完璧少女にとっての特別な存在になれるなんて期待してなかったし、僕ごときが分不相応な夢をもてるような人間じゃないことも理解している。僕は、彼女にとっての息抜きの時間を提供できればそれで良かった。


 10月いっぱいで僕の文化祭実行委員の任期は終わった。それでも毎週水曜日は生徒会室に通い続けた。そして11月もあっという間に過ぎ、方月さんの活動記録をまとめたファイルも少しずつ厚みをましていき……期末試験の季節がやってきた。

「今日は流石に、活動はなし……だよね?」
「うん、来週から試験だし勉強しないと……」
「滝藤くんって、成績はどのくらいなの?」
「うーん、中の中だな」

 全教科、平均点のプラマイ10点以内。それが僕の成績だ。誰かに一目置かれるほど良くもないかわりに、補講を受けたこともない。まさに僕らしい点数。そもそも試験勉強を本気でやりきった記憶もなく、だいたい最後の方はなぁなぁで終わってしまう。それで平均点なんだから、大したものだと自分では考えていた。

「そうだ! 活動休みの代わりに、一緒に勉強しない?」
「え? 学年一位の方月さんと?」
「そう! わからない所あったら教えてあげるよ。いつものお返しにね!」