そんなわけで、私はただいま絶賛逃走中である。
無駄に長い独白と回想で現実逃避をしてみたが、かなりの危機的状況であると言えよう。
問題は相手はサッカー部のエースであることだ。これが吹奏楽部なら逃げ切れただろうが、サッカー部相手に逃走なんて私はなんて愚行に及んでしまったんだろう。周囲にいたお友達も、同じくサッカー部の人達が多かった気がする。
油断すればすぐに捕まってしまうだろう。
しかしここは校舎内。広いグラウンドとは違い、地の利はコチラにあるはずと私は階段を駆け上がる。
背後からクソ野郎と仲間たちの足音や怒号が聞こえるが、近づいてくる気配はない。寝坊体質のせいで遅刻ギリギリの日々を送っているおかげで、階段を駆け上がるスピードには少々自信があるのだ。
「おっと」
踊り場を曲がる瞬間、靴下のままの足が滑って思わず軸がずれる。
やはり片足の上履きを無くしたハンデは大きい。今は上下移動で距離を稼いでいるが、体力的にどうやって逃げ切るべきかと考えて私は二階の奥を目指した。
「お邪魔します!」
飛び込んだのは美術室。
勢いよく開け放たれたドアが壁にぶつかり盛大な音を立てる。
部活中であった数名の美術部員が驚いた顔をして私を見つめていた。大人しそうな眼鏡の女の子なんて、びっくりしすぎて涙目だ。
「亮介! 匿って!」
私が大声で呼びかければ、一人の男子美術部員が億劫そうな顔でこちらをみた。
その表情から滲む「めんどくさい」を隠さないオーラが今は頼もしい。
私は後ろ手でドアをそっと閉めると大股で彼の傍へと駆け寄った。
「・・・今度は何をしたんだよ」
失敬な。いつも私が何かをしでかしているような口調だ。文句を言ってやりたいが今はそんな暇はない。
「訳は後で話すからとにかくかくまっておくれよ!」
返事を待たず、私は亮介の背後に積まれた画材の段ボールや芸術なのかゴミなのかわからない創作物の中に潜るようにして隠れる。
おあつらえ向きに黒い布的なものがあったので背中に被れば私も現代アートの一つに見えない事はないだろう。
ホコリと油くさいけど、この際我慢だ。
「おいっ!ここに誰か逃げ込んでこなかったか」
私がうまく隠れたと思った数秒後に美術室のドアが開く音が聞こえた。
この声はクソ野郎ではない。仲間の一人だろう。声に滲む苛立ちに彼らが本気で私を探しているのがわかる。
こんなに男との人達に熱烈に追っかけられたのなんて、幼稚園の豆まきで鬼役をやったとき以来ではないだろうか。
他にもバタバタと廊下を走る音も聞こえて、私を探し回っている様子が伝わってくる。
「いいえ。そういえばさっき、誰かが廊下を全力疾走していったみたいですけど」
動揺の欠片もなくサラリと噓をついてくれる亮介に心から感謝した。あんた俳優の才能があるよ。
「クソッ!」
乱入者は三流並みの捨て台詞を吐いて乱暴にドアが閉めたらしい。
大きな音に続いて嵐のように去っていく足音たち。
完全に静かになってから布を外して顔を出せば、想いきり呆れた顔の亮介が私を見ていた
「自主するなら付き添ってやるぞ」
「私を犯人だと決めつけるのはやめてよね」
「明らかにお前が悪いだろ、絶対。謝るなら早いほうがいいぞ」
「お断りよ」
制服についたホコリを払いながら出てくる私に、美術部員の女の子がハンカチを貸してくれた。
「で、何したんだよ」
「・・・初恋に上履きを投げつけてきた」
「意味が分からない」
「話せば長いのよ」
「じゃあいい」
「聞いてよー!」
彼、山内亮介は私の幼馴染だ。
小さい頃はチビで泣き虫だったのでよく私の後ろに隠れていた。
寝坊する私を起こして学校に連れて行ってくれる優しい男の子だったのに、成長とともに伸びる身長に反比例して優しさや可愛げというものがなくなってしまった。
そして泣き虫だったのが嘘みたいにクールで知的なキャラへと変貌を遂げた。
今では美術部に属する芸術青年というステータスまで身に着けたのだ。
正直、誰だお前状態。
懸命な読者の皆様はこの亮介と私が恋仲になる物語を読まされると予想したのだろうが、残念ながらハズレだ。
「冷たくするなら紗奈ちゃんに電話で愚痴ってやる」
「紗奈を巻き込むのはやめろ」
亮介には可愛い彼女がいる。他校、しかも女子高の。
女子高!こんな偏差値中くらいの平凡な公立校ではなく、お嬢様養成学校と名高い私立の女子高!しかも中高一貫校!この言葉にときめかない人間がいるだろうか、いやいない。
亮介と紗奈ちゃんの出会いは絵に描いたような少女漫画なのだが、長いのでここでは割愛する。二人は雪だるまも裸足で逃げ出すほどにラブラブアツアツであることだけを記しておこう。
「で、何をやったんだ」
しぶしぶ話を聞いてくれるモードに入った亮介に経緯を簡単に説明する。
私の初恋が砕けた部分とクソ野郎の暴言は表現3割増しで話しておいた。
「上履きはないだろう、靴にしとけ」
亮介も意外と過激派だ。一緒に話を聞いてくれた美術部員たちも私の話にうなずいてくれた。
そうか、やっぱりクソ野郎の暴言は許されざるものだったのだ!
「でも不味いな。相手はクソでも先輩だろう?しかも運動部系」
「・・・やっぱりそう思う?」
「姿を見られたのが一番不味い。逃げ足だけは早いんだから、顔さえ割れてなければ何とかなったろうが」
「顔、顔かぁ・・・」
正直、顔を見られたかどうかはよくわからない。
先輩、いやクソ野郎の姿を一目見たいと下駄箱の隅に身を隠していた所からの上履き攻撃だったし、上履きが顔から落ちた瞬間に背中を向けて逃げ出したから、もしかしたら顔は見られてないかもしれない。
「とにかく今は無事に家まで帰り着くことだけを考えろ」
「わかった」
何の会話だろう。神妙な顔で頷く私に亮介は優し気な笑顔を向けてくれた。
やはり困ったときの幼馴染だ。頼りになる。
うんうんと頷いていると亮介が私の首根っこを掴んでずるずると引きずり、ゴミでも捨てるかのように美術室から放り出した。
「頑張れよ」
文句を言う暇なくドアが閉められる。
私を見下ろす亮介の顔には『巻き込むな』と思い切り書いてあった。
ここでもう一度ドアを開けてすがる方法もあるが、その場合、亮介がものすごく怒るだけはなく、クソ野郎に捕まるよりも怖い思いをするのが目に見えているのでグッと我慢だ。匿ってくれただけで良しとしよう。