狭間。そこは人間とは異なる存在であるあやかしたちの棲む常世と、人間の住む現世の境に存在する空間。
あやかしというのは現世では物の怪や妖怪、はたまた神様などと呼ばれることもある存在だ。妖怪と聞いて真っ先に思い付くのは河童とか天狗とか座敷童子だろうか。ちなみに河童と天狗らしきあやかしは既に現世でお目にかかっている。
数日前から働き始めた私のアルバイト先はその狭間と呼ばれる少々複雑な場所にある。現世の駅前通りの路地裏を抜け、小さな赤い鳥居をくぐるとそこには視界いっぱいに竹林が広がる。どうやらその赤い鳥居が狭間への入り口のようだ。
竹林の奥深くにひっそりと佇んでいるお店──十五夜堂、通称色屋。
十五夜堂という店名は店長がつけたらしいけどその由来はすぐに分かった。店長の名前が秋月さんなのだ。
「店長こんにちは。お疲れ様です」
時刻は午後三時。店に入ると店長はイスに腰掛けて本を読んでいた。一応今は営業時間なのだけど客が来ないのだから仕方ない。
店長は相変わらず自分の色彩をどこに置いてきたのかと言いたくなるような、色屋らしからぬ黒一辺倒。なぜ目隠しをしているのかは気になるけど聞いてもいいのか分からなくてまだ聞けないままだ。
十五夜堂の営業時間は朝の十時から夜の十二時まで。だけどここは店長の自宅兼職場で営業時間外の対応も可とされていて、実質二十四時間営業の店だ。だからといって客が来るかどうかは別の話だけど。むしろ客が来ないからこその二十四時間営業なのだろう。私は好きな時間に来て好きな時間に帰っていいという破格の待遇を受けているので大学の講義がないときや休みの日に出勤させてもらっている状況だ。
「今日は夜雀はいないのか」
「はい今日は一人です。ヒヨコさんは病院の守り神みたいなので毎日は来られないらしいです」
「守り神ねぇ。そんな立派なあやかしには見えなかったが」
「ヒヨコさんは優しいあやかしですよ」
「お前さんにはな。俺には辛辣じゃないか」
「まぁ最初のことがあったのでそれは……」
あれから正式に働くことが決まり、最後まで反対していたヒヨコさんは次の日もその次の日も出勤についてきてくれた。働くことを決めた私を怒りつつ心配してくれていて、そんな風に心配してもらえて嬉しかった。ヒヨコさんは世話焼きで優しいあやかしだ。
数日付き添ってようやく心配ないと分かったのか、それともやはり病院をこれ以上は不在に出来ないからなのか昨日ついに明日はついていけないと言われた。
「それより店長、ゴミ、増やしましたね?」
ギクリ、という効果音が見えそうな反応をいただいた。
「聞いてくれ。これはゴミじゃない」
「その書き損じて丸められた紙もですか?」
「それはゴミかもしれないが」
「ではこれは?」
「それも……ゴミかもしれないが」
罰が悪そうに顔を逸らす店長。目隠しのせいで表情は読みにくいけど、そのわりには性格のせいなの分かりやすい。
出勤初日は言われるがままじっとした。二日目もじっとした。三日目もじっとした。四日目はじっとできなくなった。
そもそも何もしなくていいというのは素晴らしいことだけど、何もすることがないというのは拷問に等しい。暇だ。この職場はとにかく暇なのだ。今までのバイトはあくせくと動き回っていたからこんな風に閑古鳥が鳴く職場というのは初めてだ。だからと言って、店長は良いと言ってくれているけど勤務中に何か関係ない別のことをするのも今はまだ気が引ける。
だから四日目にしてようやく店の掃除をすることを決意した。この店が繁盛しない理由の一つにこの汚さがあげられると思う。本当はもっと早くから綺麗にしたい欲は出ていたのだけど、なんとなく店長との接し方を探っているうちに言い出せなかった。なにせあやかしを上司に持つなんて初めてのことで距離感が掴めないのだ。
捨てていいものかダメなものかは分からないから聞きながら作業していくと、転がっていたゴミのほとんどが本当にただのゴミだったことが判明した。それらをようやく全て昨日綺麗にし終えたのに、今日のこの有り様。ほとんど元通りだ。
「乱雑になっている方がいいならそのままにしておきますけど」
嫌みではなく純粋な提案。散らかっている方が落ち着くという人がいることも事実だ。店長がそちら側だというならもちろん雇い主の言葉に従うつもりだ。
「いやそれは綺麗な方が気持ちはいいが、気がついたらこうなってるんだよ」
「なら片付けますよ。いいですか?」
「ああ、頼む。何もしなくていいって言ったのに悪いな」
「いえ、何もしないのもそろそろ飽きてきたので。店長は何してるんですか?」
「俺は本を読んでる」
「……」
「何だ?」
「……目隠ししたままで読めるんですか?」
聞いた。やっぱりどうしても気になる。