後宮を舞うは七彩の糸


 翠玉と、同じ髪型。同じ服装。
 小柄な――翠玉もずいぶん小柄だが――娘である。年の頃は、あまり変わらないように見えた。
「三家の呪いは、江家が主導したものではないか!」
 円らな瞳が愛らしい娘である。それがきりりと凛々しい眉を吊り上げ叱責してきたのだ。翠玉は驚き、清巴を見て「どういうことです?」と聞いた。
 清巴は「ご紹介します」と困り顔で、娘を腕で示した。
「こちらは、劉家のご息女で、劉李花(りか)様です。翠玉様と同じように、呪詛の件を解き明かすべくこちらにいらっしゃいました」
 やはり、同じ三家の出身だった。
 視線を李花に戻せば、その表情に友好の兆しは見えない。
「あ……えぇと、その、よろしくお願いします」
「並べられるのも不愉快だ。劉家は潔白。それを証明するためにここへ来た」
 李花は「絶対に、邪魔は、するな」と翠玉を指さして念押ししてきた。
 こうなると、翠玉も黙ってはいられない。
「江家とて、呪詛には無関係です!」
「盗人猛々しい。江家のせいで、我らがどれほどの苦渋を舐めさせられたか!」
 売られた喧嘩は受け流す主義だが、呪いの話は別問題だ。
「江家は決して呪詛など――」
「黙れ! 劉家は江家に騙された――」
 ふたりの間に、清巴が割って入る。
「ご両者、そこまでに」
 互いに眦を吊り上げていた翠玉と李花は、ふん、と音を鳴らして鼻息を吐き、そっぽを向きあった。
(黙らせるには、事実を明らかにするのが一番早い)
 改めて強く決意し、
「清巴さん。祈護衛に伝わる資料を、なんでも構いませんので見せてください」
 と翠玉が言えば、
「江家に見せる必要はない。私が調べます」
 と李花も言い出す。
 キッとふたりの視線がぶつかった。
 そこに清巴が割って入る。
「わかりました。斉照殿をご案内したのち、内密に、祈護衛の書庫へご案内しましょう。見聞きしたものに関しては、くれぐれも他言無用に願います」
「「もちろんです」」
 翠玉と李花は声をそろえ、また、ぷいと互いに背を向けた。
 清巴の先導で、ふたりは廊下に出る。
 扉に近い位置にいた翠玉が先に出ようとすると、李花が腕で遮り先に出る。
 三度繰り返したが、バカバカしくなってきた。
(子供でもあるまいし!)
 いちいち取りあっていられない。翠玉は、おとなしく李花の後ろに続いた。
 細い廊下に出れば、いくつもの扉が並んでいる。
「ここは斉照殿の裏手です。我々の宿舎は別にありますが、女官と宦官が十名ずつと、専属の衛兵も五名詰めております。専属の衛兵の持つ長棒(ちょうぼう)には緑の布が巻かれておりますので、見分けが必要な際にはご参考になさってください。夕になると外部の者が出入りいたしますのでご注意を。一夕(いっせき)の鐘でご政務を終えられた明啓様が、外城からお戻りになりますと、お食事を運ぶ宦官が大挙して押し寄せます。三夕の刻を過ぎますと、ほぼ全員が下がりますので、その間だけは、人の耳にお気をつけください」
 細い廊下の角を曲がると、今度は広々とした廊下に出た。
 窓が大きく、広いだけでなく明るい。なにやら、高価そうな青い壺が対で置いてある。
「斉照殿の中央にあるのが、央堂(おうどう)。お食事などは央堂でなさいます。その左右に、書画骨董を収める部屋がひとつずつ。右鶴(うかく)の間と、左亀(さき)の間。奥にあるのがご寝所です。――この扉の向こうは中庭で、桜簾堂はそちらに」
 清巴が示したのは、青い壺の横にある扉だ。
 すぐに清巴は反対側にある扉を示して「こちらです」と言った。
「これより、斉照殿の外に出ます。くれぐれも、慎重な行動を。おふたりは、離宮から来た女官、ということにいたします。なるべく口を開かぬように」
 念を押したあと、清巴は小さな扉を開けた。
 ぱっと視界が開ける。
(こんな小高い場所にあったのね)
 昨夜は必死であったし、あたりは暗かったので、建物の記憶は曖昧だ。 
 白い石畳の階段を見下ろし、それから振り返って斉照殿を見上げる。
 山吹色の瓦が、朝の光を美しく弾いていた。
(なんと美しい……)
 再び視線を下げれば、白い石畳が続いている。
 石畳の果てには、ぐるりと方形に内城を守る塀がある。
 瓦はすべて山吹色である。壮観だ。
 階段の手すりには緻密な彫刻が施され、獅子の彫像は、今にも動き出しそうな躍動感がある。
 物見遊山に来たつもりはないが、なにを見てもいちいち感動してしまう。
 階段を下り、彫刻を左右に見つつ進めば、斉照殿と向かいあう形で建つ建物が近づく。
 対になっているのか、ふたつの建物は形がそっくりだ。
「あちらの月心殿(げっしんでん)は、未来の皇后陛下がお住まいになる殿です」
 清巴は、左手に月心殿を見ながら説明をした。
「皇后陛下は、まだ決まっていないのですか?」
 翠玉が聞けば、清巴は「はい」と答えた。
「現在、三名の姫君が入宮されていますが、正式なご婚儀は陛下の加冠ののち。立后はご即位の年の末と決まっております。今は慣例に従い、仮に夫人、とお呼びしている段階です」
 月心殿を越えれば、いくつもの殿が規則的に並んでいる。
 どれも同じ、山吹色の瓦の建物だ。
「これが、姫君たちのお住まいですか……」
「妃嬪の殿は、九つ。ひとつの殿には、四つの房がございます。入宮なされた順に北から埋めて参りますので、今はどなたもそれぞれの殿の、北の房にお住まいです」
 琴都一の薬問屋は、今年六人目の妻を迎えたと話題になっていたが、比べれば、薬問屋もかすむ。皇帝は皇后以外にも、最大三十六人もの妻が持てるらしい。
 広大な居城に、莫大な人の力と富をつぎ込んだ建物。美しく着飾る妻たち。
 宇国に殉じた江家との間には、とてつもなく大きな隔たりがある。
 とうに知っていたつもりだったが、目の当たりにすれば、いっそう隔たりは強く感じられた。
 なんとも言えない気分で、翠玉は歩を進めていく。
「先帝陛下には、亡くなられた太后陛下の他、三十一人の妃嬪がおられました。お子を産まれてご存命なのは四名のみ。今は皆様が万緑殿においでです」
「……他の、皆様は?」
「先帝陛下の喪に服されるべく、髪を下ろされ、郊外の寺院にてお過ごしです」
 後宮の妃嬪の思いなど、知る由もない。
 だが、美しく着飾る毎日から一転、髪を下ろして祈りに生きる日々へ。その落差は、さぞ大きいだろう、とは思った。
 その時――しゃらん、しゃらん、と遠くで鈴の音が聞こえてくる。
 別の方向から、しゃらん、と音が重なった。
「あの音は――」
「夫人のお通りを知らせる鈴でございます。音が聞こえましたら、速やかに道の端へ移動してください」
 翠玉は戸惑った。もう十分なほど広い道の端を歩いているつもりだ。
「もっとですか?」
「もっとです」
 清巴は少し屈んで、さーっと後向きに端まで移動した。
 翠玉と李花も、それに倣う。
 しゃらん、しゃらん、しゃらん――さらに三つめの音が重なった。
 さらさら、と軽い音が聞こえてくる。
 音は近づいてきた。衣ずれの音と、涼やかな金属の音。きっと身に着けた宝飾品のぶつかる音だろう。
 ほんのりと、得も言われぬ上品な香りが鼻をくすぐる。
(まるで天女だ)
 目の端に映る紅色の袍は、目が眩むほど豪奢であった。
 ちらりと見えた沓にまで、びっしりと刺繍が施されている。
 だが――
(なにをそんなに急いでいるの?)
 行列の足の動きは、速い。
 優雅な姫君が、どういうわけか下町の女たちと同じように、足を急がせている。
 好奇心に勝てず、少しだけ首を傾け、様子をうかがう。
 複雑に結われた、艶やかで豊かな髪と、きらびやかな袍だけが見えた。
 鈴が無数についた棒を持つ者。大きな朱色の日傘を持つ者と、小さな山吹色の日傘を持つ者。なんとも華やかな行列である。
紅雲(こううん)殿にお住まいの、(じょ)夫人です」
 小声で、清巴が言った。
 その声に、また別の鈴の音が重なる。
 まったく同じ編成の、色違いの列が、紅色の列の横に並ぶ。
 こちらは菫色の列だ。日傘も、淡い青と紫である。
菫露(きんろ)殿にお住まいの、(きょう)夫人です」
 駆け比べでもするように、ふたつの列は進んでいく。
 その二列の速度が、やや落ちたところで、間に入った別の一列が抜き去った。
 こちらの列は、白い。
白鴻(はっこう)殿にお住まいの、(しゅう)夫人です」
 三人が三人とも、背が高く、すらりとして姿がいい。後ろ姿しか見えずとも、康国における、美の見本を眺めている気分だ。
 賑やかな三列は、角を曲がって視界から消えていった。
「なにやら、お忙しそうでございますね」
「夫人の皆様は、万緑殿にご挨拶にうかがうのが朝の習いです」
 万緑殿は、先帝の子を産んだ太妃たちの住まいだ、と聞いたばかりである。
 毎朝毎朝、眩いばかりに着飾り、駆け比べをしながら姑たちに挨拶するらしい。
(ご苦労なことだ)
 三人の夫人を見送ったのち、一行はまた歩きだした。


 九つの殿の間を抜け、目的地にたどりつく。
 細長い建物が、いくつか連なっている。そこに華やかさはない。斉照殿を出発してからここまでに見てきた建造物とは、違う精神で造られたのだろう。
「こちらが祈護衛の書庫です。中には祈護衛の衛官がいますので、おふたりは一切口をきかぬように」
 清巴が扉を何度か叩くと、ギギ、と鈍い音をたてて開いた。
 出てきたのは、深緑の袍に黒い冠を頂いた宦官だった。清巴とあまり変わらぬ年齢に見える。
「――清巴様、おはようございます。……そちらは? 見ない顔です」
 膝を曲げて挨拶をする翠玉と李花を、祈護衛の宦官は気難しい表情で見た。
「昨日入った新入りだ。佳雪の姪で、身元は確かだから、安心してくれ」
「名は?」
一葉(いちよう)二葉(によう)だ」
 力の入っていない嘘の経歴に、力の入っていない偽名が重なった。
「……一と二? 長女と次女を、宮仕えに差し出したのですか」
「三女と四女が大層な器量よしでな。もう縁談の口が決まっているそうだ。上のふたりは器量こそ落ちるが、よく気がきくので雇うことにした」
 さらに、適当な嘘の逸話まで追加される。
(失礼な!)
 様々な感情を外に出すのを、ぐっとこらえた。
 祈護衛の宦官は、翠玉と李花をじろりと見て「無理もない」と余計な感想を述べる。
「それで、この書庫になんのご用でございましょう?」
「陛下が、ここの資料をご所望でな。できるだけ古い時期のものがよいそうだ」
 斉照殿も、祈護衛も、皇帝が双子だと知っている。ここで言う陛下、というのは、弟の身代わりをしている兄の明啓の方だろう。
「ご幼少の砌より、何度も学ばれておりましょうに……」
「焦りもしよう。あと半月しかない」
「ですから、三家を皆殺しにするしかない、と再三申し上げております」
 はぁ、と祈護衛の宦官はため息をつきつつ、三人を書庫に招いた。
 ぞわりと背が寒くなる。
(祈護衛の人たちが、三家の皆殺しを主張しているのね……知っていたら、こんなところに来なかったのに!)
 細長い建物の内部は、外から見るよりもいっそう細長い。薄暗さに、少し目が慣れてきた。両側に棚があり、竹簡が並んでいる。
「皆殺しでは解決しない、と陛下はお考えだ」
「呪いを恐れて罪人を生かした結果が、今の惨状ではございませんか。温情など要りませぬ。恩を知らぬ三家の輩など、殺してしまった方が世のためです」
 長屋に押し入られた時の恐怖がまざまざと思い出され、翠玉は胸を押さえた。
(江家は、なにもしていない)
 いっそ、この場で叫びたい。
 耐え続けて一生を終えた、祖父や父の名誉を守りたかった。
 だが――叫べば、すべて終わってしまう。ぐっと翠玉は拳を握りしめた。
「とにかく、資料を用意してくれ。急いでいる」
 祈護衛の宦官は奥の方に向かい、少しして数本の竹簡を抱えて戻ってきた。
「殺すべきです。禍々しい角の生えた疫鬼(えきき)の一族など」
 その祈護衛の宦官の、嫌悪感を(みなぎ)らせた表情に、翠玉の血の気は音を立てて引いた。
(角? 三家の者には角が生えているとでも?――あ……あれか)
 昨夜から、やけに頭のあたりを気にされていた理由が、やっとわかった。
 ――あれは、江家の娘の頭に、角が生えているかを調べていたのだ。
(本気で……? そんなバカバカしい話を、そろいもそろって信じていたのか、この人たちは!)
 頭にカッと血が上り、だが、すぐ虚しさに襲われた。
 虚しさに続き、凍えるほどの恐怖を感じる。
(そんな荒唐無稽な話がまかり通る場所で、冤罪を証明できるの?)
 どれだけこちらに理があろうと、疫鬼の言葉を信じてもらえるとは思えない。
「では、この資料はもらっていく。くれぐれも勝手な真似はするなよ?」
 竹簡を受け取り、清巴は祈護衛の宦官に釘を刺した。
「もちろんです。ただ、祈護衛はこの忌々しい呪いから、宋家をお守りするためだけに作られた組織でございます。熱が入るのは当然でございましょう」
 清巴の忠告を受け流し、祈護衛の宦官は奥に戻っていく。
 書庫を出、数歩歩いたところで、李花が、
「劉家は……江家とは違う」
 と呟いた。
 江家の人間とは違う。角など生えていない、とでも言いたかったのだろうか。
 勢いよく言い返そうとして、思い留まった。
 李花の声が、ひどくか細かったからだ。到底、腹を立てる気にはなれない。
(なんと恐ろしいところに来てしまったのだろう……)
 大きな不安が、背からのしかかってきた。
 祈護衛の書庫から斉照殿に戻る道のりは、果てしなく遠く感じられた。

 その日の三夕の刻。
 斉照殿の裏の部屋にいた翠玉は、央堂に呼ばれた。
 呼ばれたのは翠玉だけだった。対立しがちな翠玉と李花を、一緒に呼ばぬよう清巴あたりが進言したのかもしれない。
 青い壺のある廊下を抜け、通されたのは央堂の横にある、書画骨董を置いてある部屋のうちのひとつだった。鶴の彫刻があるので、きっと右鶴の間だろう。
 このひと部屋だけでも、翠玉が住んでいた長屋の部屋より広い。
 よくわからないが、たしかに書と画と、壺やら彫刻やらが置いてある。
「待たせたな。こちらもやっと解放されたところだ」
 真紅の敷物が敷かれた長椅子に座っていたのは、啓進――いや、明啓である。
 着替えを済ませたらしく、皇帝の証である冕冠などは身につけていない。落ち着いた藍の袍を着て、高い場所でまとめた髪は布で包んだだけの姿だ。長屋を訪ねてきた青年が、そのままそこにいる。
 昨夜が初対面だが、やっと顔見知りに会えたという安堵があった。
 食事のあとは、斉照殿にいるのは秘密を知る者だけになる、と清巴が言っていた。明啓も、長い身代わりの一日を終えたところなのだろう。
「ご政務、お疲れ様でございました」
「今、清巴が桜簾堂にいる祈護衛の者を下がらせている。腰の重い連中だ。ここで、茶でも飲んで待っていてくれ。酒がいいか?」
「では、お茶をお願いいたします」
 茶など飲んだことはないが、酒を飲む気分ではない。これから、大きな仕事が待っている。
 女官が扉の前で待機していたらしく「ただいまお持ちいたします」と小さな声が聞こえたあと、衣ずれの音が遠ざかった。
 明啓に席を勧められ、卓をはさんだ向かい側に腰を下ろす。
 待つ間、見るともなしに書画の類を眺めていた。
「連中が出ていくのを待つ間、貴女にいくつか尋ねておきたい」
「どうぞ、なんなりと」
 ふぅ、と翠玉は吐息まじりに応じた。
「……どうした。活きが悪いな。今更、怖気づいたか?」
「もっと……単純な話だと思っていました。まさか、角が生えているかどうかを確認されるとは……」
 明啓は「あぁ、それか」と気まずそうな表情を見せた。
「角はなかった、と昨夜のうちに報告を受けている」
 がっくりと肩を落とし、翠玉の口からは、深いため息がもれた。
「角などありません」
「そのようだな。かく言う俺も、初めて会った時、貴女が布を被っていたので多少は構えた。すまん。心から謝る」
 もう、ため息さえ出ない。翠玉は頭を抱えた。
 そこに、茶が運ばれてくる。かぎ慣れぬ香りだが、不思議と心地いい。
「我らは、ただの人です」
「それほど強く、宋家は三家の呪いを恐れてきたのだ。……言い訳にはなるまいが」
 顔を上げ、翠玉は「ただの人です」と繰り返しておいた。
「それで、お尋ねになりたいこととは?」
「呪詛についてだ。これまで祈護衛に任せてきたが、これ以上、連中には任せられん。弟は優秀な男だ。必ずや世をよりよいものにするだろう。肉親の情もあるが、国の未来のためにも弟を助けたい」
 明啓の言葉は、耳に優しい。蔑みや偏見が含まれていないせいだろうか。
 こちらも、真摯に答える気力がやっと戻ってくる。
「たとえば天算術などは、生まれた年、月日、時間から占いますので、本人がその場にいなくとも成立します。ですが、私が用いる気を通す――糸を使った蚕糸彩占や四神賽は、気に触れねば答えが出ません。気は触れて通すものでございます。呪詛は必ずしも触れずとも成立しますが、呪詛とは気を乱すもの。気に関わる以上、距離の影響を受けます」
 明啓は茶を一口飲み、翠玉にも勧めた。
 恐る恐る、淡く緑がかった液体を一口飲めば、爽やかな芳香が鼻に抜けた。美味しい、とは思わないが、心地いい感覚である。
「下馬路から天錦城ほど離れては、呪詛などできんのだったな?」
「はい。距離もそうですが、柱、屋根、道、塀、といった建造物は、気を遮る遮蔽物です。内城はぐるりと塀で囲われておりましたので『(むし)』は――蟲というのは、呪詛の根源のようなものです。大抵は壺や箱に、虫、(ねずみ)、蛇、(ひきがえる)といった生き物と呪符を入れて埋めるのですが――この内城の内部にあると思われます」
「なぜわかる?」
「気は、建物の壁は超えられても、塀を超えられません。内と外を隔てるものでございますから。――あぁ、だからといって呪詛にかかった者を急に塀の外へ移動させますと、これも気が乱れますのでかえって命を縮めます」
 ふむ、と唸って、明啓は腕を組んだ。
「そういうものか……」
 翠玉にとって、気の扱いは日常だ。
 だが、明啓にはそうではないのだろう。納得しかねている様子だ。
 ここは、かみ砕いて説明する必要がありそうである。
「たとえば、琴都一の剛力の男がいたとします。抱えられる人の数は、何人程度だと思われますか?」
「なんだ、急に。……まぁ、そうだな。片腕にひとりずつ、肩車でもすれば、三人は抱えられるか」
「人の為すことですから、おのずと限界があります。塀を超える呪詛は、人を百人抱えるような、人の範疇を超えたことなのです」
 明啓は「なるほど」と納得した様子だ。
 理屈が通じたことに、翠玉はホッとする。
「では、二百年続く呪いも、人には為せぬか?」
「死者は呪いを保てません。有効なのは、せいぜいその手を汚した当人が生きているうちだけでしょう。三家を滅ぼした高祖当人は、長命であったはずです」
 明啓は、小さく苦笑した。
「たしかに。建国当時、青年だった高祖が九十六歳まで生きている。高祖本人さえ呪い殺せなかった三家に、二百年後の子孫までは殺せぬか。……ますます、これまで信じてきたことがバカバカしく思えるな。早く弟にも教えてやりたい」
「子孫なり縁者なりが、代を重ねて強い怨恨と、正しい呪詛を一日も欠かさず続ければ可能かと思います。しかし今、江家で異能を有するのは私のみ。私が琴都に住みはじめたのは三年前。それ以前は、祖父の代から葬儀の際しか琴都に入っておりません。琴都で廟を守る伯父には、異能はございませんし……ですから、江家が代を重ねて呪いを保つのは不可能です」
 翠玉の頭の中で結論は出ている。
 ――三家は、この呪いに携わっていない。
「――偶然ではないか、とも思うのだ。あれは、呪詛と時期が一致しただけの、ただの病ではないか、と」
 呟くように、明啓が言った。
 翠玉は、とっさに返事をしかねて、茶を口にした。
(……ご自分でおっしゃるなんて)
 そうだ。人が倒れれば、病だと思うのが普通だ。いきなり呪いのせいだ、とは思わないだろう。
 三家を滅ぼした高祖本人が、呪いに倒れたと噂されるならば、まだしも理解できる。実際、高祖の手は血にまみれていたのだから。
 だが、もはや皇帝も代を十以上も重ねている。離宮で暮らしていた皇太子が即位した直後に倒れた――という事実から、すぐ様呪いを連想するのは難しい。
「薬師の診立ては、いかがでしたか?」
「原因はわからぬそうだ。……だが、原因のわからぬ病などいくらでもある。このまま加冠を待たずに――弟は死ぬかもしれない」
 二百年続く、三家の呪い。
 三十三番目の子。
 加冠を前に殺される。
 そう幼い頃から繰り返し聞かされ、双子はひとりの皇太子として扱われたというのだから、疑う余地はなかったのかもしれない。
 翠玉にとっては、人が人を百人抱えるような話だ。だが、先帝や、離宮にいた腹心たち、祈護衛、そして当の双子にとって、呪いはたしかに存在していたのである。
 いや、明啓以外の人にとっては、今も変わらず存在しているのだろう。
(このまま陛下――洪進様が身罷(みまか)られたら、呪いは三家のものだと断定されてしまう)
 ここに来るまでは、楽観していた。
 三家を皆殺しにしたところで、宮廷が得るものなどなにもない。バカバカしい、とさえ思っていた。
 だが、違う。それでもなお、疫鬼を殺すに値する、と判断する者がいるのだ。
「勝手を申しますが、もし洪進様が病でしたら、三家の冤罪は晴らせません。祈護衛の人たちに、どんな目にあわされるやら……」
「必ず守る」
 思いがけない言葉に、翠玉はぱちぱちと睫毛を忙しく上下させた。
「……え……」
「長く、三家の末裔は、不当に我らを狙っていると思いこんでいた。己を殺す者として、怨みさえしてきた。だが、貴女に会って、話して、認識を改めた。角が生えているだのと、世迷い事を信じていた己を、今は恥じている。先祖を酷く殺した一族の城に入るのとて、さぞ勇気が要ったろう。俺は身代わりに過ぎないが、必ずや約束を果たす。――改めて、よろしく頼む」
 明啓が、頭を下げる。
 翠玉も、慌てて頭を下げた。
「も、もったいないお言葉です」
「面を上げてくれ」
「明啓様がお先にどうぞ」
「頼んでいるのは私の方だ」
「そうは言っても、はい、そうですか、と言えるわけがありません」
 頭を下げたまま、言いあいをした挙句、
「では、一、二、三、で上げよう」
 と明啓が無茶なことを言いだした。
 だが、逆らうわけにもいかず、
「「一、二、三」」
 と声をそろえ、同時に顔を上げる。
 目が合った途端に緊張が解け、翠玉は小さく笑った。明啓も、笑んでいる。
 今、三家が無実だと信じてくれるのは、目の前にいる身代わりの皇帝ただひとり。実に心もとない。
(いえ、どんなに小さな灯りでも、真っ暗闇よりずっとマシだ)
 最初に会った時に感じたとおり、明啓は生真面目な人である。
 理屈も通じる。会話も成立する。三家を不当に蔑まない。守る、と約束し、罪と則を撤廃すると誓ってくれたのだ。
(この灯りに、すがるしかない)
 翠玉は、気を取り直して茶杯を干した。
「私だけでなく、劉家の末裔も参っております。よほどの覚悟だったでしょう」
「そうだな。大した度胸だ。彼女は成功の報酬に入宮を希望している」
 劉家の娘が入宮するには、罪と則の撤廃が前提になる。かつ、撤廃を世の人々に広く認識させるだろう。劉家の名誉が、一挙に回復できる。良案だ。
「あくまでも、我らが呪いを明らかにできれば……という話ですね」
「そのとおりだ。期待しているぞ」
 コンコン、と扉が叩かれた。
 清巴が「準備が整いました」と扉の向こうで言う。
(いよいよだ)
 これから翠玉は、皇帝を蝕むものが呪詛か否かを絹糸で調べる。呪詛は気を乱す。呪詛であれば、糸がその答えを示すはずだ。
 三家の冤罪を晴らし、自由を得るための大きな一歩である。
 明啓が立ち上がったのに続き、扉を出る。
 央堂を経て、廊下に出る。途中で李花と合流した。
 青い壺の横の扉から、中庭に出る。外はすでに暗く、吊るされた灯籠が明るい。
 渡り廊下の向こうに、小さな廟のような建物があった。
(これが、桜簾堂か。……廟に似ている)
 堂の形は六角で、屋根の端は反り上がっている。廟と同じだ。
 衛兵が、重い扉を開ける。
「あ」
 驚きに、翠玉は小さく声を上げていた。
 目の前に、淡い紅色をした、玉を連ねた簾が垂れている。 内部の灯りをキラキラと弾く様は、夢のように美しい。
(あぁ、そうか。これは魔除けなんだ)
 枝垂桜は、破邪の力を持っている――と聞いている。
 この堂の桜を模した簾は、そのために用意されたのだろう。
 まず明啓が簾をくぐる。翠玉と李花も続いた。
 簾はぐるりと堂の内部を一周していて、内部に入ればいっそう幻想的に見える。
「大康国第十五代皇帝・宋啓進様――明啓様の弟君にあたる洪進様でございます」
 後ろにいた清巴が言った。
(康国の皇帝――この人が……)
 緊張が、翠玉の足を強張らせた。
 堂の真ん中に、天蓋のついた牀が置かれている。
 枕頭には、薬師らしき男と、桜色の袍の女官が侍っていた。
「陛下のご様子は?」
 明啓が尋ねれば、薬師が「お変わりありません」と答えた。
 足が、動かない。
 名状しがたい恐怖に、翠玉の身体が抗っている。
(動け! こんなところで怯んでいられない!)
 怖気づく身体を、心の中で叱咤する。
 重い足を必死に動かせば、牀の上に横たわる人の姿が、はっきり見えた。
 真白い寝間着が、上下している。
(生きている)
 呪いに倒れた皇帝――という、物語めいた存在が、はじめて生身の人間として認識できた。
 薬師と女官が、一礼して下がっていく。
 もう一歩、翠玉は牀に近づいた。
 青ざめた顔。額には汗が浮いている。
 その通った鼻梁と、薄い唇。秀でた額には見覚えがあった。
(似ている……本当に、瓜二つ!)
 翠玉は、横たわる洪進と、牀の前に立つ明啓を見比べていた。
 不思議な感覚だ。横たわる人の身体から、魂だけが抜け出たかのようである。
 何度か視線を行き来させるうちに、明啓が、
「見分けがつくまい?」
 と苦く笑って言った。
「はい」
 素直に、翠玉は認めた。
 今は同時に視界に入っているので困らないが、別々の場所で会ったならば、まず見分けられないだろう。
「声も、所作も、喋り方も、似ているはずだ。誰も見分けがつかない。父――先帝も、離宮で我らを育てた者たちも。我々は、そのように育てられた。どちらがどちらでも構わないように」
 明啓は、洪進を見つめている。さながら、鏡だ。
 だが、いかに鏡映しのようであっても、同じ人間ではない。
 どちらがどちらでも構わないように――とは行き過ぎではないか。
「どちらがどちらでも……とおっしゃいますが、明啓様が兄君で、三十三番目のお子のはずだった、と聞いております」
「少なくとも、父も、弟もそう思っていた。だが、双子の、どちらを兄とし、どちらを弟とするかは、地方によって違うのだ。宋家では、先に母の腹から出た方を兄とする。だが、南では逆に、母の腹から先に出た方が弟なのだそうだ」
 どきり、とした。
 翠玉は、後に出た方が兄、先に出た方が弟だと思っている。
(私がそう思うのは、江家が南方の出身だからなのね)
 翠玉の知る神話にある。双子のどちらを兄とし、弟とするか。双子は争い、地を割る騒動になるのだ。そこで天の神が、先に母の腹に生じた方を兄とする、と決める。兄は先に生じて、弟にその場を譲って奥に下がり、弟が外に出たのを見届けてから出てくるものだ、と。
 だから、自然とそう思った。――後に生まれた方が兄だ、と。
「宋家は北の出身。だから私が兄とされた。しかし、三家は南の出身。呪いがどちらに降りかかるか――誰にもわからなかった」
 三十三番目と、三十四番目の子。どちらかが加冠を前に死ぬ。
 ならば、どちらでも構わぬように育てよう――
(いや、それでもやはり、乱暴な話だ)
 半ば呆れつつ、翠玉はまた一歩、牀に近づいた。
「けれど明啓様は、ご自身が呪いに倒れるものと思っていらしたのですよね?」
「同じ日に生まれたとはいえ、兄と弟。物心ついた時には、自然と自分の方が死ぬと思っていた。まさか、倒れるのが弟の方だとは……」
 明啓は、苦しそうに眠る弟を見つめたまま言葉を詰まらせた。
 そんな乱暴な計画だが、奇しくも功を奏している。洪進の身体を蝕むものが、病であれ、呪いであれ、康国の政治は滞りなく行われているのだ。
(もっと怒りが湧くかと思っていたのに……)
 二百年、冷や飯を食わせた宋家の主。目の前に立った時、冷静でいられる自信がなかった。それなのに――
(腹の立てようがない)
 眉を寄せ、額に汗を浮かせる青年の姿には、同情しか湧かなかった。
 翠玉は、懐から絹糸を出す。
 できることは限られているが、できる限りのことをしたい。
「では、失礼いたします」
「頼む」
 絹糸をスッと引き、鋏で切る。
 糸束と懐に鋏をしまって、翠玉は床に膝をついた。
 そっと洪進の小指に糸を結ぶ。
 幸い、この部屋は薄暗く、蚕糸彩占には適した環境だ。
 翠玉は左手に絹糸の端を持ち、右手を上げた。
 その手が、知らず震えている。
(落ち着いて。いつもどおりにすればいい。いつもどおりに……)
 睡眠中の人の気は、たしかな色彩を持たない。その曖昧さは、淡い玉虫色、といったところか。
 江家に伝わっているのは占術であって、呪詛ではない。呪詛に精通しているとは言い難いが、呪詛とは気を乱すもの。糸を通る気で、呪詛がかけられているか否かを判別することはできる――と翠玉は思っている。
(呪詛ならば、その証しが見えるはず)
 呼吸がやや落ち着くのを待ち、翠玉は糸を撫でた。
 その途端――
「あッ!」
 糸が、燃え上がった。
 白い炎が、視界を覆う。
 翠玉は、ぺたりと尻餅をついていた。
 糸が――切れている。
「どうした。糸が……これは、どういう意味だ?」
 糸の色彩は、余人には見えない。あの炎が、明啓には見えていないのだ。
「炎が……糸が、焼き切られました」
 明啓が、翠玉を助け起こす。自分の手の震えに、その時はじめて気づいた。
 糸を焼き切る強い気など、翠玉は知らない。
「焼き切れる……?」
 明啓は、切れた糸の端を拾い上げ「焼けてはいない」と言った。
「鋏で断った部分と、見比べてくださいませ。刃物の断面とは違うはずです」
(だん)(ざん)(れつ)(ゆう)(しょく)。気がもたらす損傷には種類があり、それぞれに意味が違う。
 翠玉も、糸の断面を確認する。たしかに焦げはしていないが、その先は丸まっていた。融。強い気の力が、糸を融かしたのだ。
「……たしかに、違っている。では、弟の身体を蝕んでいるのは――」
「呪いです。とても……強い呪詛です」
 呪詛が、これほど凄まじいものだとは、想像もしていなかった。
「――明啓様、そろそろ。翠玉様も」
 清巴にうながされ、翠玉は洪進の小指から糸を外す。
 先ほどは必死で気づかなかったが、ほんの少し指に触れただけでもわかるほど、洪進の体温が高い。
 これほど苦しんでいる人に、なにもしてやれないのが心苦しかった。
(……負けてたまるか)
 意地が、頭をもたげた。
「お時間をください、明啓様!」
「なにを――」
 パッと袂に入れていた小箱を出し、翠玉は洪進の掌に、賽を載せた。
 呪いは、意識のない洪進の身体を巡っている。触れられる今ならば、呪詛の蟲の位置がわかるはずだ。
「この呪詛の、蟲はいずれに?」
 賽に向かって口早に問い、ころりと転がす。
 出た目は、黒が【一】、青が【三】、白も【三】。
 そして赤が――【五】。
「翠玉、急いでくれ! 祈護衛の者が戻ってくる!」
 扉の前で、明啓が呼んでいる。
「はい!」
 翠玉は賽を握り、駆けだした。
 お急ぎを、と清巴の声がし、急げ、と明啓の声が重なる。
 夢中で、桜簾堂を出、渡り廊下を走る。
「ここに隠れろ」
 明啓が囁き、手近な場所にあった部屋に、李花ともども押し込まれる。
 目の前で、格子の戸が閉まった。
 慌てて走ったせいで、呼吸が荒い。翠玉は袍の袖で口を押えた。
 格子から外をのぞけば、深緑の袍の男女が、渡り廊下を歩く姿が見える。
(あぁ……危ないところだった)
 あれは、きっと祈護衛の者たちだ。
 祈護衛の者は、深緑の袍を着ている、と清巴が言っていた。斉照殿の女官であれば、着ている袍は桜色のはずである。
 呼吸の音が立つのさえ、恐ろしい。
 なにせ、三家皆殺しを叫ぶ者たちだ。こんなところで鉢あわせなどしては、なにをされるかわかったものではない。
 冷や汗が、背筋をつたった。
 深緑の袍の男女は、桜簾堂に消えていく。
 ぎぃ、と扉の閉まる音が聞こえた。
 やっと、まともな呼吸ができる。翠玉は「はぁ」と思わず声をもらした。
「いいぞ。もう出てきても大丈夫だ」
 明啓の声が聞こえ、格子の戸が開かれる。
「……申し訳ありません。もっと急ぐべきでした」
 李花が、また翠玉を押しのけて先に出るかと思ったが、出てくる気配がない。
 振り返れば、李花が頭を深々と下げている。
「李花さん……?」
 こちらには、李花に謝られる理由がない。翠玉は戸惑った。
 謝るとすれば、急げ、と言われても四神賽を振るべく粘ったこちらの方だ。
 思い切り下げていた頭を、李花は、がばりと上げた。
「私が間違っていた。すまない。罪と則は、江家がもたらした、と父から聞いて育った。ずっと……ずっとだ。三十三番目の子を殺す呪いの話を聞いた時も、江家がかけたに違いないと……なんの疑いもせず、そう判断した。だが、違う。あれは江家の呪いでも、三家の呪いでもない」
 翠玉は、劉家の異能を知らない。
 裁定者の江家が、占術という形で裁定者の異能を継いでいるのだから、劉家も守護者の名に相応しい異能を持っているはずだ――と想像する程度である。
「――なにが、見えたのですか?」
「護符が焼けた。そちらの糸が切れたのと、恐らく同じだ」
 李花は、懐から護符を出した。
 劉家の異能は、この護符を用いるものらしい。
 なにやら飾り文字のようなものが書かれているが、翠玉には読み取れない。
 その護符の端が、握り拳ほどの大きさで欠けていた。
「焼けた……のですね?」
 欠けた護符が示す事が、見た目よりも深刻なのは想像に難くない。
 切れた糸があるだけ。欠けた護符があるだけ。傍目にはわからないだろう。だが、翠玉には事の重大さが推測できる。
「あぁ、焼けた。いや、融けた、というべきだな。護符の変化には、長い時間がかかるものだ。数日――場合によっては数カ月。一年かかる場合もある。これだけの短い時間で、はっきりと変化を示すなど……信じがたい。人の為したこととは思えん」
 翠玉は、コクコクとうなずいた。
 そうだ。その通りだ。
 とんでもない事態が起きている。
 まだ掌の中にある四神賽を、翠玉は握りしめた。
「ご両者、続きは中で」
 清巴にうながされ、一行は右鶴の間に戻った。
 明啓が座る長椅子の向かいに、翠玉と李花が座る。
 ふたりはそろって卓の上に、絹糸と、四神賽と、護符を置いた。
「呪いは存在する――と言うのだな?」
 明啓に問われたふたりは、声をそろえて、
「「はい」」
 と答えた。
 つい半日前まで角突きあわせていたふたりが、今は声までそろえている。
 明啓と清巴は、互いの顔をちらりと見てから、視線を卓の上に戻した。
「そなたらの話を聞く限りで――弟の身を蝕んでいるのは呪いで、かつ、その呪いは強力で、人が為したものとは思えぬ。そういうことだな?」
 また、ふたりはそろって「「はい」」と返事をした。
「そのとおりです。私は、かつてこれほど強大な力に触れたことはございません」
 まだ、翠玉の身体には、恐怖と緊張が残っている。
 明啓は「ふむ」とうなって、腕を組んだ。その眉間には、深いシワが寄っている。
「俺は、人が為すとも思えぬ力を、異能と呼ぶものと理解している」
「……はい」
「異能を持つ者は稀だ。俺は、三家の者しか知らぬ」
 卓の上から、翠玉の瞳に、明啓の視線は移る。
 その視線の鋭さに、翠玉は慌てた。
「……お、お待ちください」
 話が振り出しに戻っている。――これは、三家の呪いだ、と。
「それほどの強い呪詛を行い得る者など、他に誰がいる?」
 翠玉は、李花と顔を見あわせてから、首を横に振った。
「「存じません」」
 また、声がそろう。他に答えようがないのだ。いかんともしがたい。
「翠玉。貴女の言葉で言えば、百人を抱える剛力の者が、存在していたということだ。生身の人間とは思えん。そなたらが明かしたのは、祈護衛の出した結論を補強しているだけだ」
 明啓の言葉を、ふたりはそろって、
「「違います」」
 と否定した。
「あの呪詛は、新しいのです。燃え上がった白い光は、呪詛のかけられた時期の新しさを示しています。せいぜい、十日、半月……その程度です。呪いは五十年も経てば、墨より黒くなるもの。二百年経てば、消し炭のようになるでしょう。しかし、あの炎は白かった。それに、洪進様がお倒れになった時期、私どもは天錦城におりません」
 翠玉がそう断言すれば、次に李花も、
「新旧で言えば、明らかに新しいものです。古い呪いは断面が黒くなり、裂けたように紙が毛羽立ちます」
 と言い切った。
「それに、四神賽によれば蟲の位置はこの内城の中にございます。いえ、もう少し対象も絞れました」
 翠玉は、先ほど桜簾堂で出た目のとおりに、四神賽を卓の上に置いた。
 黒が【一】、青が【三】、白も【三】。そして赤が【五】。
「これを、どのように読む」
 明啓は、賽を見つめたまま問う。こちらの話を聞く気があるらしい。
「賽は、近い距離しか示しません。六の目が出れば地の果てまでを含みますが、出たのは幸い、五の目まで。具体的な距離を示しています。――後宮の、地図などはございますか?」
「清巴」
 は、と短く返事をして、清巴が出ていく。
「一が示すのは、今いる屋根の下。この斉照殿の内部にあれば、四つの賽の目はすべて一、と出ます」
「あぁ、そうだったな。昨夜、たしかにこの目で見た」
 昨夜、翠玉は、翠玉自身の居場所を四神賽で占っている。
 ぴたりと目のそろった賽を、明啓に見せておいてよかった。話の通りが早い。
「二は屋外に出て八十歩以内。三は百六十歩。四は三百二十歩。五は六百四十歩。六は、六百四十歩より遠く地の果てまで。つまり――」
 翠玉は立ち上がって北を手でぴしりと示し「北限は斉照殿の屋内」と言った。
 次に東を示して「東に百六十歩」。
 さらに西を示し「西に百六十歩」。
 南を示して「南に六百四十歩」と説明をして、腰を下ろした。
「北はともかく、それ以外は見当がつかんな」
「東西には九殿を含み、南限は九殿のうちの北側の六つです」
 具体的な数を出すと、明啓は驚きを顔に出した。
「わかるのか?」
「今日、後宮の倉庫まで歩きました」
「歩数を……数えていたのか?」
「もちろん数えました。四神賽を持ってきておりますから」
 翠玉は、簡単に答えた。
 ここで清巴が地図を持って戻り、内城の地図が、壁にかけられた。
 最も北にあるのが、皇帝の住まいである斉照殿。
 すぐ南隣に、対になっているのが、未来の皇后が住む月心殿。
 その下が、妃嬪らの住まいである九殿。南北に三列。東西に三列。
 南北に隣り合う殿と殿の間には、それぞれ小ぶりな庭が、合計六つ。
「つまり呪詛の範囲に入るのは、斉照殿と、月心殿。――北側の六殿と、三苑か」
 南列の西にある万緑殿は、範囲から外れる。万緑殿は、太妃たちの住まいだ。
 翠玉は、九殿のうち、北列の東を指さした。
「今、対象の六殿にお住まいなのは――紅雲殿の、徐夫人」
 次に、九殿の中央を。
「菫露殿の、姜夫人」
 最後に、北列の西を示した。
「白鴻殿の、周夫人。以上の三夫人です」
 江家の人間として、口伝だけで膨大な占術を修めてきた。記憶力には自信がある。
 翠玉が「あっていますか?」と問うべく、清巴を見たが、あまりに清巴の顔が青ざめていたので聞きそびれてしまった。
「も、もしや、姫君が呪詛を行ったとお疑いになっておられるのですか……?」
 この清巴の態度には、さすがにいら立ちを感じる。
(三家への疑いは簡単に受け入れるのに、入宮した姫君を疑うのは躊躇うのね)
 当たり前といえば当たり前だが、もやもやした感情はいかんともしがたい。
「当人か、実家か、おつきの者に紛れたか……外部の者によって蟲が埋められただけなのか。それは調べねばわかりません」
 極力、感情を押し殺して翠玉は言った。
「しかし……」
「夫人がたの入宮の時期は、おわかりになりますか?」
「……入宮……少々お待ちを」
 清巴が額の汗を押さえつつ記憶をたどろうとするのを、明啓が止めた。
「よい。俺が覚えている。――徐氏が五月四日。姜氏が五月五日。一日空いて周氏が五月七日だ。そのすぐ翌日に弟は倒れた」
 右鶴の間は、しん、と静かになった。
 沈黙の中、清巴が「なんと恐ろしい」と呟く声が、やけに大きく響く。
 彼は洪進を蝕む呪いを恐れているのではない。入宮した姫君を疑うこと自体を恐れているのだ。
「なにかの間違いでは? せめて、もう一度占うことはできませぬのか?」
 青い顔で清巴が言うのに、翠玉は「無理です」と答えた。
「四神賽は、呪詛を受けたご本人の手に触れねば使えませぬ。――それに、気を通すのは一日に一度のみ。仮にもう一度行うにせよ、明日を待たねば」
 翠玉が答えるのに、李花が「護符も書く枚数は限られています」と言葉を添えた。
 江家と同じで、劉家にも異能を用いる上限が決められているらしい。
 翠玉はさして驚かなかった。人が一日に気を通し得る量には限界がある。それは暑ければ人が汗をかくのと同じ。自然で、当然の理屈だったからだ。
 再び沈黙に包まれた右鶴の間に、コンコン、と扉を叩く音が響く。
 誰ぞが、明啓に報告を持ってきたらしい。
 それを機に、ふたりは部屋に戻るように指示された。

 部屋に戻ると、卓の上に酒器が用意されていた。
「お疲れ様でした。せっかくですから、いただきましょうか」
 翠玉の誘いに、李花は笑顔で乗ってきた。
 さっそく、互いに酒を注ぎあう。見たこともない透明な酒は、杯に注ぐと豊かな香りが立った。
「明啓様は、どう出ると思う?」
 くい、と杯を空けた李花が問うてくる。
「さぁ。お身内のことですし、弟の妻になる予定の女性を疑うわけにも……というか、姫君の実家も政治の実権を握る貴族でしょうし。あとは呪い云々よりも、政治の問題です。我らの出る幕はありませんよ」
 翠玉も、くい、と杯を空けた。美味しい。互いに、また瓶子から酒を注ぎあう。
「それで政治的に判断した結果、三家の呪いだ、と明啓様が言い出したらどうなる?」
「どうしようもないですね。……残念ですが」
 二杯ほど空けたのを機に、ふたりはお互いの話を簡単にした。
 翠玉が十八歳で、李花がひとつ年上であること。そして、互いに江家、劉家において唯一異能を継ぐ者であること。しかしながら、独り身であること。
「そうか、貴女もか。父は生まれてすぐ死に別れ、祖父が二年前に死んでからは、異能を継ぐのは私だけになった。弟たちも、妹も、異能を持たない。……早く嫁げと急かされてばかりだ」
「私も同じです。三年前、父を亡くしてからは、ただひとりになりました。……私の伯父も、早く嫁げ、早く子を産めとうるさいです」
 翠玉には義弟がいて、郷試に向けて勉学に励んでいること。琴都内にある廟は伯父と従兄が守っていること。
 李花には弟がふたりと妹がひとりいて、成功の報酬に妃嬪の座を求めたこと。母と叔父が、江家と比較的近い場所にある廟を守っていることなどを伝えあった。
 話しているうちに、ため息が出た。
 今話題に出た家族や親族も、ここからの展開次第では皆殺しにされてしまう。
「お(かみ)の判断次第か。……儚いな、我々の運命も」
「宮廷の人たちは、我々を人と思っていないですからね。鼠を殺すのに、人は躊躇わないでしょう」
「命があり、暮らしがある。……ただの人なのだがな、こちらも」
 はぁ、とそろってため息をつく。
「私の住んでいた長屋は、賊に襲われかけました。劉家も、襲われたのですか?」
「未遂で済んだ。踏み込まれる前に、清巴さんが手配した兵士が捕らえてくれたのだ」
 このまま天錦城を出れば、またいつ襲われるかわからない。
 もう一度、ふたりはそろってため息をついた。
 手の届く場所にある棚には、祈護衛の書庫から借りた竹簡が置いてある。
 翠玉はそのうちのひとつを手に取り、カラカラと開いた。
【宇国の僭帝が死したのちも、抵抗を続けていた三家には、族誅が課された。前王朝で隆盛を極めた三家に連なる者は、二百を超える数であった。まず、女子供の処刑を、男子らの目前で行った。のちに男子らは市中を晒し者にされた上、次々と斬首されていった】
 凄惨な処刑の様が、竹簡には記されている。
(なんと(むご)い……)
 その様が、脳裏に浮かぶ。か細い嘆き。生々しい悲鳴。血なまぐさい風。血に染まる大地。
 カラカラと、また竹簡を広げる。
【すべてを見届けた当主らが、最後に残った。『三十三番目の直系の子孫を、加冠を前に呪い殺そう』と執行者たる陶家の当主が呪った。『簒奪者の血はその男子をもって絶え、呪いは天を覆うであろう』と守護者たる劉家の当主が呪った。『呪いを免れる道はただひとつ。三家に我らが無念を慰めさせよ』と裁定者たる江家は言った。 このため高祖は、三家の血筋をわずかに残し、祭祀を続けさせた】
 端まで竹簡を読み終えた翠玉は、竹簡をくるくると巻いた。
(三家を皆殺しにするのは、理屈にあっていない)
 呪いを免れるには、祭祀を三家の子孫に行わせるのが正しいのだ。
(ずっと、二百年も守ってきたものを、なぜ急に(くつがえ)したのか……)
 手酌で酒を注ぎ、翠玉は眉を険しく寄せた。
「……誰が、三家を皆殺しにすべき、などと言い出したのでしょう?」
「わからんが……祈護衛ではないのか? 他にいないだろう。なんにせよ、我々がここで退けば、皆殺し派が勢いを増すだろうな。――無念だ」
 李花は、立て続けに手酌で二杯あおった。
(まったく、やり切れない)
 翠玉も、くい、と杯を空けた。
 罪と則の撤廃を願い、勇んで天錦城の真ん中まで来たというのに、人任せの幕引きとは後味が悪い。
「まだ、やれることはあります。だって、ここには異能の持ち主がふたりもいるのですよ?」
「まったくだ。占術と護符があれば、もっとできることはある」
 今度は、また互いに酌をしあった。
「このままでは、家族を守れません」
「あぁ、こんなところで引き下がれるか」
 杯を空け、ふたりはうなずきあう。
「夫人がたを刺激せずに、蟲を捜す方法があれば……」
「彼女たちの殿に、護符さえ貼れれば……」
 空いた杯を置き、ふたりは腕を組んで考え込む。
(話を聞いてくれるのは……きっと、明啓様しかいない)
 足掻くのをやめた者から沈んでいくのが世の定めだ。
 やれることは、やり尽くしてから沈みたい。
 要は、真犯人を見つければいいのだ。それで万事解決する。
 問題は手段だ。あくまでも、姫君たちと、その実家の顔を潰さずに――
 すくっと翠玉は立ち上がった。
「どうした?」
「名案が浮かびました」
「……名案? おい、酔ってるのか?」
「いいえ。いたって正気です。私、明啓様にお会いしてきます」
「落ち着け。やはり酔っているな。相手は皇帝だぞ?」
 だが、翠玉は部屋を飛び出していた。背で「明日でいい」と李花が言っていたが、足は止まらなかった。
 なにも、酔った挙句の暴挙ではない。
 明日まで待てば、明啓は身代わりの政務を果たすべく、外城に行ってしまう。次に面会できるのは明日の三夕の刻。待機時間が長すぎる。
 細い廊下に出、角を曲がって青い壺のある広い廊下に出る。
 小走りに進む途中で、翠玉は足を止めた。
 向こうから、衣ずれの音が聞こえたからだ。
 端に寄らねば――と頭の隅で考えているうちに、人の姿が見える。明啓だ。
「翠玉――どうした?」
 まさか、会いに行こうとした相手が、向こうから来るとは思っていなかった。
 ひどく動揺して、翠玉は「お話が――」と上ずった声を出してしまう。
「あの――」
「ちょうどいい。話があった」
 都合のいい偶然である。明啓の方も翠玉に話があったようだ。
「なんでございましょう」
 動揺を収め、翠玉は明啓に近づいた。
 雰囲気から察して、大きな声で話す内容でもなさそうだ。
「貴女の邸を襲った賊がいたな?」
 翠玉が住んでいたのは、長屋の一部屋だ。邸、というほどの規模ではない。
 あの長屋全部を翠玉の邸、と呼んでいるのかもしれないが、確認の手間は省いた。
「はい。姿は見ていませんが」
「あの場で捕らえて牢に入れていたが――殺された」
「え……!?」
 昨日の夜、長屋の裏から侵入しようとした賊のことだ。
 明啓が、連れてきた黒装束の兵士たちに、捕らえて情報を聞き出すよう命じていたのを覚えている。
「劉家を襲った者たちも、諸共だ。何者かに殺された」
「どうして……どうして、そのようなことに……」
「口封じだろう」
「い、一体誰が――まさか、祈護衛が……?」
 いや、と明啓は首を横に振る。
「祈護衛は、内城のみを祈祷で護る小さな機関だ。それほど大胆な真似ができるとも思えん。裏で糸を引いている者がいる。弟の妻になる女だからといって、躊躇している暇はなさそうだ。手を貸してくれ。なんとしても、呪いを暴きたい」
 翠玉の説得を待つまでもなく、切迫した状況が明啓に決断させたらしい。
 なんと都合のいい展開だろう。説得の手間が省けた。
「実は――私に、策がございます」
 ひそり、と翠玉は囁いた。未来を告げる占師の口調で。
「聞かせてもらおう」
 くい、と明啓は形のよい眉を上げた。
「つきましては――明啓様にも、ひと肌脱いでいただきたく、お願い申し上げます」
 怪訝そうな顔をする明啓に、にこり、と翠玉は笑んだのだった。

 ――二宵の鐘が、遠くで聞こえる。
 辺りはすっかりと闇に沈み、庭の灯篭が、池の水面(みなも)に揺れていた。
 ここは、後宮の一角にある槍峰苑(そうほうえん)。六つの庭のひとつである。
 白い牡丹が月明かりを弾く、夜でさえ華やかな庭だ。
 庭の真ん中に、ぽってりした形の四阿(あずまや)がひとつ。灯りがぽつりと浮いている。
(すい)(ぎょく)、終わったぞ」
 庭を抜け、四阿に入ってきた背の高い青年は、明啓(めいけい)だ。
「お疲れ様でございました」
 手燭を持って一礼したのは、翠玉だ。
「そなたに言われたとおり、(せい)(しょう)殿(でん)を出て、北列の東端の……」
(こう)(うん)殿(でん)です」
「そうだ。紅雲殿の横を通り、そのすぐ南にある庭を……」
(そう)(ちょう)(えん)です」
「よく覚えているな。それで、この宵の散策にどんな意味があるのだ?」
「人の耳がございますので、戻りましてからご報告いたします。念のため、まっすぐ斉照殿には向かわずに、南列をぐるりと迂回して移動しましょう」
 明啓を置いて、翠玉は先に歩き出した。
 歩幅がずいぶん違うので、後ろにいたはずの明啓は、すぐ横に並んだ。
「ここに来て二日とは思えんな……俺より後宮に詳しい」
「陛下が(うと)いだけでございましょう」
 斉照殿の外である。人の耳を警戒して、翠玉は、明啓、とは呼ばなかった。
「しかたあるまい。あえて避けているのだ。俺のものではないからな」
 明啓も警戒している。この後宮は弟のものだ、とは言わなかった。
「四神賽の示した範囲にあるのは、六殿、三苑。そして三夫人だけ。それくらい、覚えていただかなくては困ります」
「反論の余地なしだ。すぐに覚えよう」
 槍峰苑を出て、まず南に向かう。
 太妃たちの住まう万緑(ばんりょく)殿で角を曲がり、東方向へと進んでいく。
「夫人がたの反応は、いかがでした?」
 明啓が、翠玉の指示に従って通ったのは、三つの庭だ。
 紅雲殿の南にある、(そう)(ちょう)苑。
 (きん)()殿の北にある、(ひゃっ)()苑。
 (はっ)(こう)苑の南にある、槍峰苑。
 まっすぐに東から西に歩けば、その三つの庭を通過できる。
「いずれも東から、建物は、紅雲殿、菫露殿、白鴻殿。夫人は、(じょ)夫人、(きょう)夫人、(しゅう)夫人、の順です」
 後宮に疎い明啓のために、翠玉は指を折りながら説明した。
「紅雲殿では、窓に姿が見えた。菫露殿では、声だけが聞こえた。白鴻殿では、琴の音が聞こえていた」
 琴の音は、槍峰苑で待機していた翠玉の耳にも届いている。おかげで待機時間が短く感じられたものだ。
「……なるほど」
 三人の夫人は、それぞれに個性のある反応をくれたようだ。
「徐夫人に、姜夫人に、周夫人か……」
 明啓は、指を折って復習している。
 やはり生真面目な人だ。翠玉は小さく笑む。
「覚えるのは簡単ですよ」
「まったく簡単ではない。庭の名も多すぎる」
 最初こそ速足だったが、明啓はやや歩みを遅くした。
きっと翠玉が小走りになっているのに気づいたからだろう。背の高い明啓と、小柄な翠玉では歩幅に差がある。
(明啓様は、存外お優しい)
初対面の時の強引さが、信じられない思いだ。
「元になる、神話があるのです」
「……神話か」
「はい。六殿のうち、東列にあるのが紅雲殿と(とう)()殿。間にあるのが双蝶苑です。(あかつき)の女神が、朝の参拝に遅れた番の蝶を、橙花の陰に隠してやった、という神話があります。そこから、暁の女神は恋人たちの守護者になったのです。夜明けの紅い雲と、番の蝶。そして蝶の安らう橙色の花。――覚えやすいと思われませんか?」
「そんな話は初耳だ。……たしかに神話を知っていれば、覚えやすいな」
「私は、父に教えてもらいました。きっと南方に伝わる神話なのでしょう。北の港町出身の継母と義弟は、今の話を知りませんでした」
 中原の北と南では、崇める神の名も違う。言葉の発音、文化だけでなく、人の体格も違っている。北の人は概ね大きく、南の人は概ね小さい。宋家は北。江家は南。今、明啓と翠玉が並んで歩いているだけでも、その体格の差は明らかだ。
「なるほど。紅雲殿と、橙花殿。間にあるのが双蝶苑か。よし、覚えたぞ」
 ぽん、と明啓は手を叩く。
 明啓が笑顔で「他はないのか?」と聞くので、翠玉もつられて笑んでいた。
「では、中央列に移りましょうか。翡翠(ひすい)殿と菫露殿の間は、百華苑。これも元になる神話がございます。花の女神から生まれた、いずれ劣らぬ美貌の姉妹の神の名が、(すい)(じょう)(きん)(じょう)というのです。彼女たちの暮らす世界が、百華苑といいます。彼女たちはよく喧嘩をしては仲直りをして、周りを振り回すんです」
「神も喧嘩ばかりだな。いや、人も同じか。兄弟姉妹というものは、喧嘩をしながら育つものだ。ふむ、面白い。翡翠殿と菫露殿。間にあるのが百華苑。もう覚えた。すると……西列にある白鴻殿と――」
(そう)()殿です。間にあるのは槍峰苑」
「なるほど……さながら――雪を頂く険しい山に、豊かな水を(たた)えた湖。そこで安らう一羽の白鳥の物語、といったところか」
 顎に手を当て、明啓は真剣な表情で推測を述べた。
「神話の舞台はおおよそ、ご想像のとおりでございます。()(がみ)に見初められるも、その愛を拒んだ女神が自らの姿を白鳥に変えて逃れる、という神話です」
「……無理強いはよくないな。性質(たち)の悪い男神だ」
 生真面目な明啓らしい感想に、翠玉は小さく噴き出した。
 神話の男神という男神が、明啓のように優しければ、女神も逃げずに済むだろう。
「まったくです」
 そんな話をするうちに、南列の三殿を過ぎ、角を曲がっていた。ここからは北へ向かい、斉照殿に戻る。
「そなたは、若いながら知恵があるな。感服する」
 明啓は、加冠直前なので十九歳。翠玉とはひとつ違いだ。
 昨夜も李花に若い、と言っていたので、比較しているのは、離宮で彼の周りにいた人々なのかもしれない。
「一介の占師でございます。おからかいくださいますな」
 先帝の時代から、皇太子の優秀さは下馬(げば)()でも知られていた。
 どちらがどちらでもよいように育てられたのだから、双子はどちらも同じように優秀なのだろう。――弟は優秀な男だ、と明啓は言うが。逆の立場ならば、逆のことを言うのではないか、と思う。
 そんな相手に評価されるのは、ひどく気恥ずかしい。
「老師を思い出す。……数年前、離宮を抜け出して、山の猟師と懇意になった。身分は隠してな。弓矢の扱いや、獣のさばき方を教えてもらったのだ。猟師には猟師の知恵がある。占師には占師の知恵が。その道を専らに歩む者の知恵は尊い」
 翠玉は、明啓の言葉に感心した。
(謙虚な方だ)
 高貴な人は、己の尊さに(おご)り、弱者を見下す者ばかりだろう、と思っていた。
 まして、二百年も三家を赦さなかった宋家の皇族など、その代表のはずだ。そんな明啓の口からこぼれた謙虚な言葉に、翠玉は態度に出さずに驚く。
(もし明啓様がいらっしゃらなかったら、賊に殺されて、今頃、()(きん)と一緒に廟に祀られていたかもしれない)
いきなり、妻になってくれ、と言われた時には、その強引さに驚いたが。
 だが、彼がいなければ、この危うい賭けに挑むことさえできなかったのだ。
(間違いない。これは、得難い幸運だ)
 明啓の強引なほどの行動力と、占師の知恵を認められる大らかさが、翠玉をこの場所へと導いた。これは、僥倖と言っていい。
「非才の身ながら、全力を尽くします」
「謙遜は要らない。貴女は俺に希望の光を見せてくれた。女神のような人だ」
 見上げる明啓の表情には、明るい笑みがある。
(強引というより……屈託がないというか、邪気がないというか……)
 まっすぐに向けられる信頼が、急に(おも)()ゆくなって、目をそらしていた。
 紅雲殿の横を通り、北へ向かう。
月の明るい夜だ。
 静かな石畳の上を、ふたりはゆっくりと歩いていく。
 (げっ)(しん)殿の横を経て、斉照殿の階段を上った。
 翠玉はいったん裏に回ろうとしたが「一緒に」と正面に誘導された。
 緑の長棒を持った衛兵が、正面の扉を開ける。
 昨日と同じように、央堂(おうどう)を抜けて()(かく)()へと入り、紅い長椅子に腰を下ろす。
「――それで、今宵の散策は、なにが目的だったのだ?」
 茶を運んできた女官の衣ずれの音が遠ざかり、聞こえなくなったところで明啓が問うた。
 昨夜の廊下での密談は、新たな報告が入って遮られてしまった。
 三つの庭を、ゆっくり横切ってもらいたい、としか伝えていない。そんな荒い説明でも、きっちり役割を果たしてくれる明啓は、やはり得難い存在である。
「今朝、夫人がたが万緑殿にいらしている間に、手紙を扉の前に置いておいたのです。【二宵の刻に、貴人が庭を通る】と。華々(かか)(じょう)()の名前を添えておきました」
「そうか。……それで、それぞれに反応があったわけだな」
 紅雲殿では、姿が。
 菫露殿では、声が。
 白鴻殿では、琴の音が。
「素直な反応をくださった紅雲殿の徐夫人から、順に訪ねて参ります」
 紅雲殿の、徐夫人の住まいは北の房。庭は南の房に面している。占いを信じ、同じ殿内とはいえ、南の房まで移動して姿を見せた。徐夫人が、もっとも期待どおりの反応だったと言える。
「貴女が、直接か?」
「はい。あくまで、占師・華々娘子としてでございます。姫君や、ご実家を刺激することなく蟲の在処を見つけます」
 土足で踏み込む捜査は不可能だ。なにせ相手は、国政に関わる貴族の娘。賊の口封じの件もある。下手な刺激はしたくない。
 そこで翠玉が思いついたのが、占師として彼女たちの懐に飛び込む作戦であった。
「そう簡単に、口を割るか? 時間もない。あと十日余りだ」
 呪詛は大罪。明らかになれば、族誅は確実だ。
 彼女たちが、占いのついでに口を滑らせるとまでは楽観していない。
 翠玉は懐に手を伸ばし、ひらり、と紙を取り出した。
「手紙に示された時間に、実際に陛下は庭に現れた。半信半疑だった夫人がたも、認識を改めたでしょう。今でしたら、その占師の勧める護符を貼るくらいのことは、していただけそうではありませんか?」
 翠玉が卓の上に置いたのは――劉家の護符であった。

 明けて、五月二十七日。
 三夕の鐘が、遠くで聞こえる。
 華々娘子の黒装束を身にまとった翠玉は、紅雲殿にいた。
 頭から布を被る姿はいつもと同じ。ただ、今は顔の下半分も布で隠している。斉照殿の女官とは、別の存在として接触したかったのだ。
(けい)(しん)様がいらしたの。本物よ! そこの庭にいらしたの。ちらりと目が――嘘じゃないわ。本当なの。月明かりの下にお姿が見えた。……あぁ、夢のよう……貴女のお陰よ、華々娘子」
 喜色満面で翠玉を迎えたのは、紅色の袍の徐夫人である。
(お美しい方だ)
 後ろ姿さえ女神のようだと思ったが、間近で見れば、いっそう思う。
 ふっくらとした頬と、杏仁型の目。艶やかな髪。すらりと背が高く、百人が百人、美しい、と称えるだろう。袍の見事さも相まって、美術品でも見ている気分だ。
 耳の上辺りに飾った大きな花の飾りなど、誰しもに似合うものではない。
 彼女の好みなのか、調度品も、大ぶりな花の意匠が多いようだ。
 焚かれている香りまで、心なしか華やぎを感じさせた。
「お知らせした甲斐がございました」
 翠玉は、黒布の下で笑みを浮かべる。
 ――占師を装って、夫人たちの殿に入り込む。
 ――護符を貼り、その変化で蟲の在処を絞り込む。
 それが翠玉の作戦である。
 皇帝の即位から加冠の儀まで、一ヶ月以上の間がある。婚儀はさらにそのあとだ。この空白期間の無聊を慰めるべく、斉照殿の意思で派遣された占師――として、翠玉はここにいる。(せい)()が間に立っての紹介なので、疑われてはいないはずだ。
「でも、心配だわ。啓進様は、なにやらお悩みのご様子だったの。それはそうよね。先帝陛下の急なご崩御で、さぞお心を痛めておいででしょう。私がお傍で支えてさしあげられたらいいのに……」
 ほぅ、と悩ましい吐息を、徐夫人はもらした。
 中庭に面した客間の窓際の、円い卓をはさんでふたりは座っている。
 こぶりな庭に植えられた紅色の牡丹は、殿の雰囲気にも、その主にもよく似あっていた。
「徐夫人の優しいお気持ち、必ずや陛下にも伝わりましょう」
「そうだといいけれど。入宮のその日に、斉照殿でのお食事に招いていただいたきりよ。あの時は、私、緊張でなにも喋れなくて……あぁ、これ、実家から送られてきたお菓子なの。どうぞ、召し上がれ」
 卓の上に、どん、と置かれているのは、脚つきの大きな皿だ。
 山のように盛られているのは、真白い雪に似た干菓子であった。
「これは……」
「ご存じ? 雪糕(せっこう)というの」
 徐夫人が、控えていた侍女に目をやれば、若い侍女は「米と蓮の実、上等な白い砂糖で作った菓子でございます」と説明をした。
 わざわざ上等、と言うからには、相当に上等なのだろう。実際、これほど白い砂糖を、翠玉は見たことがない。
「いえ。私、はじめて目にいたしました。まことに、雪のようでございますね」
「遠慮しないで、どうぞ。父が言うの。丈夫な子を産むには、滋養が大事だって。気が早すぎると思わない?」
 ふふふ、と徐夫人は愛らしく笑った。
 後宮の女性の役割はただひとつ。次代に皇帝の血を継ぐこと。
 先帝の遺児の中で、男子はひとり――実際はふたりだが――のみ。あとの十人は皇女ばかりだ。
(気が早い、とはおっしゃるけれど、急ぐご実家の気持ちもわかる)
 新皇帝に、まだ子はいない。世継ぎ誕生を、康国全体が待ち望んでいる。
 その強い望みが、皇帝の加冠にあわせて輿入れするはずの三人の姫君を、予定を前倒しにしてまで入宮させた。
 清巴の話では、立后も、この三人のうちのひとりと目されているらしい。
 後継ぎ。そして、皇后の位。
 その両方を、喉から手の出るほど求めているのは、夫人たちの実家も同じだろう。
(弱味につけこむのは気が引けるけれど……それもこれも、未来のご夫君のためです。お許しを!)
 心の中で謝罪するうちに、茶が運ばれてきた。
 翠玉は「いただきます」と会釈し、顔を隠す黒布を持ち上げ、雪糕を一口かじる。
 甘い。とてつもなく、甘い。
 ほろりと口の中で崩れれば、いっそう甘さが広がった。
 下町暮らしで口に入るのは、薄い粥と、肉包だけだ。菓子の類など、父の葬儀で、豆沙(こし)(あん)の饅頭ひとつを、子欽と分けあったのが最後である。継母の葬儀では、供える菓子もなかった。
「おいしゅうございます」
 思わず、笑みがこぼれる。
 強い甘さを、少し苦みのある茶で流す。なんとも贅沢だ。
「それで、占いって、なにがわかるの?」
 徐夫人は、雪糕を口に運びつつ、のんびりと問うた。
「お生まれになった日の、二十四の大星と、四十八の小星の位置から、その方の運勢を読み解きます。人生は大きく、春、夏、秋、冬と――」
「そういうのはいいの。今は夏のはじめでしょう? 冬の話など聞きたくないわ」
 徐夫人は袖で隠した手を、くさいものでも避けるように振った。
 五月下旬。季節は初夏である。
 占術において、夏の区切りは、加冠、あるいは結婚だ。
 偶然ながら、今はどちらの意味においても初夏といえる。
「では、どのような占いをお好みですか?」
「そんなこと、とうにわかっているでしょう?」
 徐夫人は、柔らかに笑みつつ、目を細めた。
 華やかで明るい美貌から、いら立ちが感じ取れる。
「もちろんでございます。ですが――個々の望みというのは、存外、ひとつのようでひとつではありません」
 いら立ちは伝わってくる。だが、翠玉は、口調も態度も変えなかった。
「啓進様に、一日も早くお会いしたい。……それ以外ないわ」
 ひとつのようで、ひとつではない。
 似た境遇の者が、誰しも同じ望みを持つとは限らない。人の数だけ望みはある。
 異能を継ぐ三家出身の、翠玉と李花(りか)でさえ望みは違う。
 呪詛を解き、冤罪を晴らす。一致しているのは目の前の一事だけ。呪詛が解けた瞬間から、もう向かう方向が違っている。そして、歩き出すのはまったく別の道。その後、隔たりは大きくなる一方だ。
 翠玉は、罪と則から解放されればそれでいい。欲しいのは、穏やかな暮らしだ。子欽が郷試に受かれば、養子の口も見つかるだろう。あとは我が身を死ぬまで養えれば御の字である。
 李花は、名誉を回復させるべく入宮を望んでいる。下町と後宮は、その距離以上に大きな隔たりがある。翠玉と李花の人生が、交わることはない。
 望みが近しいのは、今、この一瞬だけだ。
 夫人たちも同じである。
 今でこそ、皇帝の愛を早く得たい、という一点に集約されている。
 愛を得たい。子を得たい。寺には入りたくない。実家を盛り立てたい。皇后になりたい。他の夫人らに負けたくない。――似ているが、それぞれに違う。
 望みの精度を上げるのは、江家の占いの基本である。
「徐夫人のお望みと、未来へ導くものがわかる占いがございます。いかがですか?」
「要らない。私の望みは啓進様――愛する人と添い遂げること。それだけよ」
 きっぱりと徐夫人は言い切って、また雪糕を頬張った。
 先ほどから、ずっと口が動いている、もう四つめだ。
(困ったな。絹糸を結べれば、多少の手がかりになるかと思ったのに)
 しかし、ここで無理を通せば、すべて台無しになってしまう。
 正面から入れぬ時は、早々に裏へ回るのが吉だ。
「では――まじないを」
 翠玉は、懐から護符を出した。
 侍女たちの間から、小さな声が上がる。
「これで、陛下にお会いできるのね?」
「はい。大変よく効きますが――代わりに多少、煩雑(はんざつ)な手続きが要ります」
「別に構わないわ」
「護符を房の四方に貼らせていただきます。それと双蝶苑にも。一日、二日と経ちますと、この護符に変化が現れるのです」
「……変化? 護符が、どうなれば陛下にお会いできるの?」
 顔が近づく。華やいだ香りが、ふっと濃くなった。
「秘中の秘ゆえ、明かせませぬ。ですが、この変化を読み解きますと、次にお会いできる日がわかります」
「……わかるの? 本当に?」
「はい。念のために――もうひと手間。この糸を指に結んでいただけますか?」
 徐夫人は警戒を表情に示した。
「なんのために?」
「用いる呪文が変わるのです」
 あくまでも笑顔で、翠玉は適当な嘘をついた。
(お許しを!)
 気は(とが)めるが、ここが勝負だ。
 なにせ頼りの明啓は、後宮に疎い上に、そもそも日中は外城にいる。
 今も桜簾堂(おうれんどう)で、ひとり苦しむ洪進(こうしん)の姿を思えば、躊躇うわけにはいかない。
(少しでも、たくさんの情報がほしい)
 翠玉は、絹糸を懐から出し、スッと引いて鋏で切る。

「その、糸?」
「はい。こういたしますと、徐夫人の陛下を思うお気持ちが、正確に呪文に反映されます。強く思う者が、より多くを手に入れるのは世の道理でございましょう」
 よく回る舌だ、と我ながら感心する。
 こう言っておけば、徐夫人は強く心で皇帝を思うだろう。
「強く思えばいいのね。簡単だわ」
 案外あっさりと、徐夫人は翠玉の誘導に乗ってきた。
(ありがたい)
 ほっと胸を撫で下ろし、翠玉は徐夫人の小指に糸を結ぶ。
 辺りの暗さも頃合いだ。絹糸の彩りも、よく見えるだろう。
 部屋に灯りをともそうとしている侍女に「しばしお待ちを」と頼んで止めた。
「では、目を瞑ってくださいませ」
「……いいわ」
 翠玉は、左手で糸を握り、スッとひと撫でした。
 わかるのは、心の憂いの遠因だ。
 糸の色は、淡く変じはじめた。(とう)()薄紅(うすべに)珊瑚(さんご)
 キラキラと輝く様に、胸の内だけで驚く。
(なんと美しい……)
 色彩もさることながら、日の光を弾く朝露のような輝きは、息を呑むほど美しい。
 これほど純粋な気に、翠玉ははじめて触れた。
「恋――」
 口から、自然に言葉がこぼれていた。
 ハッとして、顔を上げる。
「あら、どうしてわかるの?」
 目を瞑ったままの徐夫人は――はにかんでいた。
 翠玉は、自分の不用意な言葉を悔いる。
(陛下とは、入宮した日にお会いしたきりだと言っていた。一目で恋に落ちた、とも考えられなくはないけれど――)
 徐夫人が思う相手まで、糸の彩りから読み取ることはできない。
 もし未来の夫以外の相手だったならば、その恋は許されぬものである。
「失礼いたしました。不躾なことを」
 翠玉は、静かな声で謝罪した。
「いいの。謝らないで。……本当ですもの」
「え――」
「私、啓進様にお会いしたことがあるの。お話もしたわ。……お花をいただいたの。大きくて、綺麗な、紅い花。あれは十二歳の頃……あの日からずうっと……啓進様の妻になりたいと願ってきた。その願いがやっと叶うのよ」
 目を閉じたまま、うっとりと言う徐夫人の様子に、ひやりとする。
(まさか、面識があったなんて! どちらと? 洪進様? 明啓様?)
 双子は、外では啓進、と名乗っている。
 徐夫人が会って話したのが、兄弟のどちらなのかは判断できない。
(さん)()(さい)(せん)をした甲斐があった)
 ひやりとはしたが、反面、ほっとする。徐夫人が、なにをどの程度知っているかはわからないが、今の段階で知れたのは幸いだ。
(斉照殿の人たちにも、速く報せないと)
 ドキドキと落ち着かない鼓動を、深呼吸で落ち着けて、もう一度糸を撫でる。
 糸の色は、触れた箇所から変じていく。
 山吹。(いな)()柚子(ゆず)
 黄色は、商人の客に多く見られる色だ。契約を伴う関係に現れる場合がある。
「今、ご実家とは――」
「まぁ、本当になんでもわかるのね! そうなの、それが悩みの種。実家がせっつくの。早く早くって。わずらわしいわ」
 目を閉じたまま、徐夫人は肩をすくめた。
 最後に、ひと撫で。
 糸の色は――()(むらさき)に変じた。
 現れる色彩は、必ずしもひとつの事柄を示すとは限らない。
 濃紫は、高位に上る兆しとも読めるが、その反面、深い喪失を示す色でもあった。
 皇帝を慕う徐夫人にとっては、不吉な兆しになり得る。
(……言わずにおこう)
 翠玉はそう判断し、糸を解いた。婚儀を控えた姫君には、余計な情報だ。
「以上でございます。では、これより護符を貼らせていただきます」
 ぱちりと瞼を上げた徐夫人に会釈をし、翠玉は、パン、パン、と二度手を叩いた。
 すると、それを合図に李花が入ってきた。彼女も翠玉と同じ黒装束に、布を頭から被り、さらに顔を半分隠している。
 ここからは、彼女の出番だ。
 護符の貼り方にも作法があるらしい。書いた本人が貼るのが望ましいらしく、部屋の外で待機していたのだ。
 当初は、同席するよう頼んだが、断られた。曰く、融通のきかない性質(たち)だから――とのことだった。
「呪文は『太栄繁興(たいえいはんこう)』で頼みます」
 ひそり、と翠玉は李花の耳元に囁いた。
 ところが――なんのことやらさっぱりわからない、という顔を李花はしている。
 当然だ。そんな呪文はない。適当に景気のよさそうな文字を並べただけ。蚕糸彩占に誘導するための方便だった。
 翠玉は、目を片方瞑って合図を出したが、
「『太栄繁興』?」
 李花が、なんの話だ? とばかりの大きな声で聞き返してきた。
 さすが、自分で融通がきかないと言うだけのことはある。
(……まずい。通じてない!)
 ひやりとした。
 しかし李花は、翠玉の表情を見て自分の間違いに気づいたようだ。
 惜しい。一瞬だけ早ければ、あんな大きな声で聞き返したりはしなかったろう。
「そ、そうです。徐夫人は特別なお客様ですから。手間はかかっても『太栄繁興』を行うべきです」
 李花は「承知しました!」と一礼して、てきぱきと準備をはじめた。
「あれを持ってきて」
 徐夫人が、つごう六つめの雪糕を口に入れつつ侍女に命じる。
 運ばれてきたのは、大きな翡翠の指環だった。
「これは――」
「私は、特別な客なのでしょう? しかるべき品を差し上げようと思ったの」
 ふふ、と徐夫人は、朗らかに笑んだ。
「もったいのうございます。このような素晴らしいお品を」
「いいの。私の望みは、美しい指環をすることではないのよ。ただ、愛する方の妻になりたい。それだけなのだから」
 徐夫人は、白魚のごとき指を飾る、珊瑚の指環を撫でた。
 ほしくはない、と言いながら、耳飾りも、腕飾りも、それぞれに翠玉が一生触れる機会さえなさそうな品々ばかり。実家の裕福さが一目でわかる。
「では、ありがたくいただきます。必ずや、この護符が報いましょう」
 恭しく指環を受け取った。
 金目のものを欲しがらない占師は、怪しまれる。いったん受け取って、ほとぼりが冷めた頃に、斉照殿の者にでも謝罪つきで返却してもらえば済むだろう。