堂の真ん中に、天蓋のついた牀が置かれている。
枕頭には、薬師らしき男と、桜色の袍の女官が侍っていた。
「陛下のご様子は?」
明啓が尋ねれば、薬師が「お変わりありません」と答えた。
足が、動かない。
名状しがたい恐怖に、翠玉の身体が抗っている。
(動け! こんなところで怯んでいられない!)
怖気づく身体を、心の中で叱咤する。
重い足を必死に動かせば、牀の上に横たわる人の姿が、はっきり見えた。
真白い寝間着が、上下している。
(生きている)
呪いに倒れた皇帝――という、物語めいた存在が、はじめて生身の人間として認識できた。
薬師と女官が、一礼して下がっていく。
もう一歩、翠玉は牀に近づいた。
青ざめた顔。額には汗が浮いている。
その通った鼻梁と、薄い唇。秀でた額には見覚えがあった。
(似ている……本当に、瓜二つ!)
翠玉は、横たわる洪進と、牀の前に立つ明啓を見比べていた。
不思議な感覚だ。横たわる人の身体から、魂だけが抜け出たかのようである。
何度か視線を行き来させるうちに、明啓が、
「見分けがつくまい?」
と苦く笑って言った。
「はい」
素直に、翠玉は認めた。
今は同時に視界に入っているので困らないが、別々の場所で会ったならば、まず見分けられないだろう。
「声も、所作も、喋り方も、似ているはずだ。誰も見分けがつかない。父――先帝も、離宮で我らを育てた者たちも。我々は、そのように育てられた。どちらがどちらでも構わないように」
明啓は、洪進を見つめている。さながら、鏡だ。
だが、いかに鏡映しのようであっても、同じ人間ではない。
どちらがどちらでも構わないように――とは行き過ぎではないか。
「どちらがどちらでも……とおっしゃいますが、明啓様が兄君で、三十三番目のお子のはずだった、と聞いております」
「少なくとも、父も、弟もそう思っていた。だが、双子の、どちらを兄とし、どちらを弟とするかは、地方によって違うのだ。宋家では、先に母の腹から出た方を兄とする。だが、南では逆に、母の腹から先に出た方が弟なのだそうだ」
どきり、とした。
翠玉は、後に出た方が兄、先に出た方が弟だと思っている。
(私がそう思うのは、江家が南方の出身だからなのね)
翠玉の知る神話にある。双子のどちらを兄とし、弟とするか。双子は争い、地を割る騒動になるのだ。そこで天の神が、先に母の腹に生じた方を兄とする、と決める。兄は先に生じて、弟にその場を譲って奥に下がり、弟が外に出たのを見届けてから出てくるものだ、と。
だから、自然とそう思った。――後に生まれた方が兄だ、と。
「宋家は北の出身。だから私が兄とされた。しかし、三家は南の出身。呪いがどちらに降りかかるか――誰にもわからなかった」
三十三番目と、三十四番目の子。どちらかが加冠を前に死ぬ。
ならば、どちらでも構わぬように育てよう――
(いや、それでもやはり、乱暴な話だ)
半ば呆れつつ、翠玉はまた一歩、牀に近づいた。
「けれど明啓様は、ご自身が呪いに倒れるものと思っていらしたのですよね?」
「同じ日に生まれたとはいえ、兄と弟。物心ついた時には、自然と自分の方が死ぬと思っていた。まさか、倒れるのが弟の方だとは……」
明啓は、苦しそうに眠る弟を見つめたまま言葉を詰まらせた。
そんな乱暴な計画だが、奇しくも功を奏している。洪進の身体を蝕むものが、病であれ、呪いであれ、康国の政治は滞りなく行われているのだ。
(もっと怒りが湧くかと思っていたのに……)
二百年、冷や飯を食わせた宋家の主。目の前に立った時、冷静でいられる自信がなかった。それなのに――
(腹の立てようがない)
眉を寄せ、額に汗を浮かせる青年の姿には、同情しか湧かなかった。
翠玉は、懐から絹糸を出す。
できることは限られているが、できる限りのことをしたい。
「では、失礼いたします」
「頼む」
絹糸をスッと引き、鋏で切る。
糸束と懐に鋏をしまって、翠玉は床に膝をついた。
そっと洪進の小指に糸を結ぶ。
幸い、この部屋は薄暗く、蚕糸彩占には適した環境だ。
翠玉は左手に絹糸の端を持ち、右手を上げた。
その手が、知らず震えている。
(落ち着いて。いつもどおりにすればいい。いつもどおりに……)
睡眠中の人の気は、たしかな色彩を持たない。その曖昧さは、淡い玉虫色、といったところか。
江家に伝わっているのは占術であって、呪詛ではない。呪詛に精通しているとは言い難いが、呪詛とは気を乱すもの。糸を通る気で、呪詛がかけられているか否かを判別することはできる――と翠玉は思っている。
(呪詛ならば、その証しが見えるはず)
呼吸がやや落ち着くのを待ち、翠玉は糸を撫でた。
その途端――
「あッ!」
糸が、燃え上がった。
白い炎が、視界を覆う。
翠玉は、ぺたりと尻餅をついていた。
糸が――切れている。
「どうした。糸が……これは、どういう意味だ?」
糸の色彩は、余人には見えない。あの炎が、明啓には見えていないのだ。
「炎が……糸が、焼き切られました」
明啓が、翠玉を助け起こす。自分の手の震えに、その時はじめて気づいた。
糸を焼き切る強い気など、翠玉は知らない。
「焼き切れる……?」
明啓は、切れた糸の端を拾い上げ「焼けてはいない」と言った。
「鋏で断った部分と、見比べてくださいませ。刃物の断面とは違うはずです」
断、斬、裂、融、蝕。気がもたらす損傷には種類があり、それぞれに意味が違う。
翠玉も、糸の断面を確認する。たしかに焦げはしていないが、その先は丸まっていた。融。強い気の力が、糸を融かしたのだ。
「……たしかに、違っている。では、弟の身体を蝕んでいるのは――」
「呪いです。とても……強い呪詛です」
呪詛が、これほど凄まじいものだとは、想像もしていなかった。
「――明啓様、そろそろ。翠玉様も」
清巴にうながされ、翠玉は洪進の小指から糸を外す。
先ほどは必死で気づかなかったが、ほんの少し指に触れただけでもわかるほど、洪進の体温が高い。
これほど苦しんでいる人に、なにもしてやれないのが心苦しかった。
(……負けてたまるか)
意地が、頭をもたげた。
「お時間をください、明啓様!」
「なにを――」
パッと袂に入れていた小箱を出し、翠玉は洪進の掌に、賽を載せた。
呪いは、意識のない洪進の身体を巡っている。触れられる今ならば、呪詛の蟲の位置がわかるはずだ。
「この呪詛の、蟲はいずれに?」
賽に向かって口早に問い、ころりと転がす。
出た目は、黒が【一】、青が【三】、白も【三】。
そして赤が――【五】。
「翠玉、急いでくれ! 祈護衛の者が戻ってくる!」
扉の前で、明啓が呼んでいる。
「はい!」
翠玉は賽を握り、駆けだした。
お急ぎを、と清巴の声がし、急げ、と明啓の声が重なる。
夢中で、桜簾堂を出、渡り廊下を走る。
「ここに隠れろ」
明啓が囁き、手近な場所にあった部屋に、李花ともども押し込まれる。
目の前で、格子の戸が閉まった。
慌てて走ったせいで、呼吸が荒い。翠玉は袍の袖で口を押えた。
格子から外をのぞけば、深緑の袍の男女が、渡り廊下を歩く姿が見える。
(あぁ……危ないところだった)
あれは、きっと祈護衛の者たちだ。
祈護衛の者は、深緑の袍を着ている、と清巴が言っていた。斉照殿の女官であれば、着ている袍は桜色のはずである。
呼吸の音が立つのさえ、恐ろしい。
なにせ、三家皆殺しを叫ぶ者たちだ。こんなところで鉢あわせなどしては、なにをされるかわかったものではない。
冷や汗が、背筋をつたった。
深緑の袍の男女は、桜簾堂に消えていく。
ぎぃ、と扉の閉まる音が聞こえた。
やっと、まともな呼吸ができる。翠玉は「はぁ」と思わず声をもらした。
「いいぞ。もう出てきても大丈夫だ」
明啓の声が聞こえ、格子の戸が開かれる。
「……申し訳ありません。もっと急ぐべきでした」
李花が、また翠玉を押しのけて先に出るかと思ったが、出てくる気配がない。
振り返れば、李花が頭を深々と下げている。
「李花さん……?」
こちらには、李花に謝られる理由がない。翠玉は戸惑った。
謝るとすれば、急げ、と言われても四神賽を振るべく粘ったこちらの方だ。
思い切り下げていた頭を、李花は、がばりと上げた。
「私が間違っていた。すまない。罪と則は、江家がもたらした、と父から聞いて育った。ずっと……ずっとだ。三十三番目の子を殺す呪いの話を聞いた時も、江家がかけたに違いないと……なんの疑いもせず、そう判断した。だが、違う。あれは江家の呪いでも、三家の呪いでもない」
翠玉は、劉家の異能を知らない。
裁定者の江家が、占術という形で裁定者の異能を継いでいるのだから、劉家も守護者の名に相応しい異能を持っているはずだ――と想像する程度である。
「――なにが、見えたのですか?」
「護符が焼けた。そちらの糸が切れたのと、恐らく同じだ」
李花は、懐から護符を出した。
劉家の異能は、この護符を用いるものらしい。
なにやら飾り文字のようなものが書かれているが、翠玉には読み取れない。
その護符の端が、握り拳ほどの大きさで欠けていた。
「焼けた……のですね?」
欠けた護符が示す事が、見た目よりも深刻なのは想像に難くない。
切れた糸があるだけ。欠けた護符があるだけ。傍目にはわからないだろう。だが、翠玉には事の重大さが推測できる。
「あぁ、焼けた。いや、融けた、というべきだな。護符の変化には、長い時間がかかるものだ。数日――場合によっては数カ月。一年かかる場合もある。これだけの短い時間で、はっきりと変化を示すなど……信じがたい。人の為したこととは思えん」
翠玉は、コクコクとうなずいた。
そうだ。その通りだ。
とんでもない事態が起きている。
まだ掌の中にある四神賽を、翠玉は握りしめた。
「ご両者、続きは中で」
清巴にうながされ、一行は右鶴の間に戻った。
明啓が座る長椅子の向かいに、翠玉と李花が座る。
ふたりはそろって卓の上に、絹糸と、四神賽と、護符を置いた。
「呪いは存在する――と言うのだな?」
明啓に問われたふたりは、声をそろえて、
「「はい」」
と答えた。
つい半日前まで角突きあわせていたふたりが、今は声までそろえている。
枕頭には、薬師らしき男と、桜色の袍の女官が侍っていた。
「陛下のご様子は?」
明啓が尋ねれば、薬師が「お変わりありません」と答えた。
足が、動かない。
名状しがたい恐怖に、翠玉の身体が抗っている。
(動け! こんなところで怯んでいられない!)
怖気づく身体を、心の中で叱咤する。
重い足を必死に動かせば、牀の上に横たわる人の姿が、はっきり見えた。
真白い寝間着が、上下している。
(生きている)
呪いに倒れた皇帝――という、物語めいた存在が、はじめて生身の人間として認識できた。
薬師と女官が、一礼して下がっていく。
もう一歩、翠玉は牀に近づいた。
青ざめた顔。額には汗が浮いている。
その通った鼻梁と、薄い唇。秀でた額には見覚えがあった。
(似ている……本当に、瓜二つ!)
翠玉は、横たわる洪進と、牀の前に立つ明啓を見比べていた。
不思議な感覚だ。横たわる人の身体から、魂だけが抜け出たかのようである。
何度か視線を行き来させるうちに、明啓が、
「見分けがつくまい?」
と苦く笑って言った。
「はい」
素直に、翠玉は認めた。
今は同時に視界に入っているので困らないが、別々の場所で会ったならば、まず見分けられないだろう。
「声も、所作も、喋り方も、似ているはずだ。誰も見分けがつかない。父――先帝も、離宮で我らを育てた者たちも。我々は、そのように育てられた。どちらがどちらでも構わないように」
明啓は、洪進を見つめている。さながら、鏡だ。
だが、いかに鏡映しのようであっても、同じ人間ではない。
どちらがどちらでも構わないように――とは行き過ぎではないか。
「どちらがどちらでも……とおっしゃいますが、明啓様が兄君で、三十三番目のお子のはずだった、と聞いております」
「少なくとも、父も、弟もそう思っていた。だが、双子の、どちらを兄とし、どちらを弟とするかは、地方によって違うのだ。宋家では、先に母の腹から出た方を兄とする。だが、南では逆に、母の腹から先に出た方が弟なのだそうだ」
どきり、とした。
翠玉は、後に出た方が兄、先に出た方が弟だと思っている。
(私がそう思うのは、江家が南方の出身だからなのね)
翠玉の知る神話にある。双子のどちらを兄とし、弟とするか。双子は争い、地を割る騒動になるのだ。そこで天の神が、先に母の腹に生じた方を兄とする、と決める。兄は先に生じて、弟にその場を譲って奥に下がり、弟が外に出たのを見届けてから出てくるものだ、と。
だから、自然とそう思った。――後に生まれた方が兄だ、と。
「宋家は北の出身。だから私が兄とされた。しかし、三家は南の出身。呪いがどちらに降りかかるか――誰にもわからなかった」
三十三番目と、三十四番目の子。どちらかが加冠を前に死ぬ。
ならば、どちらでも構わぬように育てよう――
(いや、それでもやはり、乱暴な話だ)
半ば呆れつつ、翠玉はまた一歩、牀に近づいた。
「けれど明啓様は、ご自身が呪いに倒れるものと思っていらしたのですよね?」
「同じ日に生まれたとはいえ、兄と弟。物心ついた時には、自然と自分の方が死ぬと思っていた。まさか、倒れるのが弟の方だとは……」
明啓は、苦しそうに眠る弟を見つめたまま言葉を詰まらせた。
そんな乱暴な計画だが、奇しくも功を奏している。洪進の身体を蝕むものが、病であれ、呪いであれ、康国の政治は滞りなく行われているのだ。
(もっと怒りが湧くかと思っていたのに……)
二百年、冷や飯を食わせた宋家の主。目の前に立った時、冷静でいられる自信がなかった。それなのに――
(腹の立てようがない)
眉を寄せ、額に汗を浮かせる青年の姿には、同情しか湧かなかった。
翠玉は、懐から絹糸を出す。
できることは限られているが、できる限りのことをしたい。
「では、失礼いたします」
「頼む」
絹糸をスッと引き、鋏で切る。
糸束と懐に鋏をしまって、翠玉は床に膝をついた。
そっと洪進の小指に糸を結ぶ。
幸い、この部屋は薄暗く、蚕糸彩占には適した環境だ。
翠玉は左手に絹糸の端を持ち、右手を上げた。
その手が、知らず震えている。
(落ち着いて。いつもどおりにすればいい。いつもどおりに……)
睡眠中の人の気は、たしかな色彩を持たない。その曖昧さは、淡い玉虫色、といったところか。
江家に伝わっているのは占術であって、呪詛ではない。呪詛に精通しているとは言い難いが、呪詛とは気を乱すもの。糸を通る気で、呪詛がかけられているか否かを判別することはできる――と翠玉は思っている。
(呪詛ならば、その証しが見えるはず)
呼吸がやや落ち着くのを待ち、翠玉は糸を撫でた。
その途端――
「あッ!」
糸が、燃え上がった。
白い炎が、視界を覆う。
翠玉は、ぺたりと尻餅をついていた。
糸が――切れている。
「どうした。糸が……これは、どういう意味だ?」
糸の色彩は、余人には見えない。あの炎が、明啓には見えていないのだ。
「炎が……糸が、焼き切られました」
明啓が、翠玉を助け起こす。自分の手の震えに、その時はじめて気づいた。
糸を焼き切る強い気など、翠玉は知らない。
「焼き切れる……?」
明啓は、切れた糸の端を拾い上げ「焼けてはいない」と言った。
「鋏で断った部分と、見比べてくださいませ。刃物の断面とは違うはずです」
断、斬、裂、融、蝕。気がもたらす損傷には種類があり、それぞれに意味が違う。
翠玉も、糸の断面を確認する。たしかに焦げはしていないが、その先は丸まっていた。融。強い気の力が、糸を融かしたのだ。
「……たしかに、違っている。では、弟の身体を蝕んでいるのは――」
「呪いです。とても……強い呪詛です」
呪詛が、これほど凄まじいものだとは、想像もしていなかった。
「――明啓様、そろそろ。翠玉様も」
清巴にうながされ、翠玉は洪進の小指から糸を外す。
先ほどは必死で気づかなかったが、ほんの少し指に触れただけでもわかるほど、洪進の体温が高い。
これほど苦しんでいる人に、なにもしてやれないのが心苦しかった。
(……負けてたまるか)
意地が、頭をもたげた。
「お時間をください、明啓様!」
「なにを――」
パッと袂に入れていた小箱を出し、翠玉は洪進の掌に、賽を載せた。
呪いは、意識のない洪進の身体を巡っている。触れられる今ならば、呪詛の蟲の位置がわかるはずだ。
「この呪詛の、蟲はいずれに?」
賽に向かって口早に問い、ころりと転がす。
出た目は、黒が【一】、青が【三】、白も【三】。
そして赤が――【五】。
「翠玉、急いでくれ! 祈護衛の者が戻ってくる!」
扉の前で、明啓が呼んでいる。
「はい!」
翠玉は賽を握り、駆けだした。
お急ぎを、と清巴の声がし、急げ、と明啓の声が重なる。
夢中で、桜簾堂を出、渡り廊下を走る。
「ここに隠れろ」
明啓が囁き、手近な場所にあった部屋に、李花ともども押し込まれる。
目の前で、格子の戸が閉まった。
慌てて走ったせいで、呼吸が荒い。翠玉は袍の袖で口を押えた。
格子から外をのぞけば、深緑の袍の男女が、渡り廊下を歩く姿が見える。
(あぁ……危ないところだった)
あれは、きっと祈護衛の者たちだ。
祈護衛の者は、深緑の袍を着ている、と清巴が言っていた。斉照殿の女官であれば、着ている袍は桜色のはずである。
呼吸の音が立つのさえ、恐ろしい。
なにせ、三家皆殺しを叫ぶ者たちだ。こんなところで鉢あわせなどしては、なにをされるかわかったものではない。
冷や汗が、背筋をつたった。
深緑の袍の男女は、桜簾堂に消えていく。
ぎぃ、と扉の閉まる音が聞こえた。
やっと、まともな呼吸ができる。翠玉は「はぁ」と思わず声をもらした。
「いいぞ。もう出てきても大丈夫だ」
明啓の声が聞こえ、格子の戸が開かれる。
「……申し訳ありません。もっと急ぐべきでした」
李花が、また翠玉を押しのけて先に出るかと思ったが、出てくる気配がない。
振り返れば、李花が頭を深々と下げている。
「李花さん……?」
こちらには、李花に謝られる理由がない。翠玉は戸惑った。
謝るとすれば、急げ、と言われても四神賽を振るべく粘ったこちらの方だ。
思い切り下げていた頭を、李花は、がばりと上げた。
「私が間違っていた。すまない。罪と則は、江家がもたらした、と父から聞いて育った。ずっと……ずっとだ。三十三番目の子を殺す呪いの話を聞いた時も、江家がかけたに違いないと……なんの疑いもせず、そう判断した。だが、違う。あれは江家の呪いでも、三家の呪いでもない」
翠玉は、劉家の異能を知らない。
裁定者の江家が、占術という形で裁定者の異能を継いでいるのだから、劉家も守護者の名に相応しい異能を持っているはずだ――と想像する程度である。
「――なにが、見えたのですか?」
「護符が焼けた。そちらの糸が切れたのと、恐らく同じだ」
李花は、懐から護符を出した。
劉家の異能は、この護符を用いるものらしい。
なにやら飾り文字のようなものが書かれているが、翠玉には読み取れない。
その護符の端が、握り拳ほどの大きさで欠けていた。
「焼けた……のですね?」
欠けた護符が示す事が、見た目よりも深刻なのは想像に難くない。
切れた糸があるだけ。欠けた護符があるだけ。傍目にはわからないだろう。だが、翠玉には事の重大さが推測できる。
「あぁ、焼けた。いや、融けた、というべきだな。護符の変化には、長い時間がかかるものだ。数日――場合によっては数カ月。一年かかる場合もある。これだけの短い時間で、はっきりと変化を示すなど……信じがたい。人の為したこととは思えん」
翠玉は、コクコクとうなずいた。
そうだ。その通りだ。
とんでもない事態が起きている。
まだ掌の中にある四神賽を、翠玉は握りしめた。
「ご両者、続きは中で」
清巴にうながされ、一行は右鶴の間に戻った。
明啓が座る長椅子の向かいに、翠玉と李花が座る。
ふたりはそろって卓の上に、絹糸と、四神賽と、護符を置いた。
「呪いは存在する――と言うのだな?」
明啓に問われたふたりは、声をそろえて、
「「はい」」
と答えた。
つい半日前まで角突きあわせていたふたりが、今は声までそろえている。