「来たわね、猫間くん」

 その日の放課後。美解部部室で待ちかまえるわたしのところに、まんまと猫間くんが現れた。

「そりゃ来ますよ。部活ですし」

 猫間くんはとぼけた表情でかばんを置いた。

「やよひ先輩。昨日の『サロメ』なんですけど、」

「それなんだけどね」

 わたしは猫間くんのことばをさえぎった。

「解釈の余地はないわ。サロメはただのビッチよ」

「……えー」

「オスカー・ワイルドの作中で、預言者ヨカナーンは白皙の美青年であったとくりかえし記述されているわ。サロメはきれいな顔にひとめ惚れしたのね。それで首を欲しがった。とんだビッチだわ」

「先輩、今日の解釈雑すぎやしません?」

「猫間くんも夜道に気をつけてね」

「なんで僕!」

「サロメは巷間にたくさんひそんでいるのよ。ほら、あなたの背後にも……」

「いませんて! もう、せっかく僕も調べてきたのに」

 と、猫間くんは口をとがらせ、かばんから薄い文庫本を取りだした。その表紙には見覚えがる。岩波文庫版の『サロメ』だ。

「う。ちゃんと読んできたのね」

 胸が少し痛む。後輩はきちんと部活の準備をしてきたというのに、部長のわたしときたら……。

「えっと、じゃあ猫間くん、読んでみてどう思った? 解釈を教えてくれる?」

「……そうですね」

 猫間くんが文庫本のページを繰る。

「物語を読んでるときは、たしかに先輩の言うとおり、サロメはヨカナーンにひとめ惚れしたんだろうなって思いました。でも後ろについてた解説を読んでると、」

「別の解釈を思いついた?」

「はい。もしかしたら、ワイルドはサロメに自分を重ねてたのかな、なんて。うーん、うまく言えないんですけど……」

 猫間くんは口ごもり、それからわたしを見た。

 そんなふうに助けを求められたらしかたがない。かわいいなあ。後輩をフォローするのは部長の役目である。雨の日に段ボール箱からこっちを見て「くーん」とか鳴いてたら拾っちゃうなあ。猫間くんって名前の割に犬っぽいところも……やばい。妄想が思考に侵食している。

「……こほん。いい視点ね。その解釈は的を射ていると思う」

 咳ばらいをして、湧きあがる煩悩をなんとか抑える。

「サロメはずっとヨカナーンを、もっといえば、美を求めている。その姿勢は確かにワイルドに重なるわ。ワイルドも小説や戯曲で美を追求した人だから」

 ワイルドの作風は、唯美主義とも耽美主義とも称される。

「あともう一点。手の届かないものを欲したという点でも重なるわ。猫間くん、解説にはダグラス卿についても書かれていたわよね?」

 猫間くんはうなずき、「ワイルドの恋人ですよね」と答えた。

「そう。ダグラス卿はね、目にもまぶしい美青年だったの。それこそヨカナーンのように。でも、十九世紀末のイギリスでは、同性愛は法律で禁じられていた。ワイルドは起訴され、投獄された。『サロメ』の発表より後の話だけどね」

「なんというか、救いがないですよね」

 と、猫間くんは沈んだ声でそう言った。

 そのとき、わたしの脳裏にある可能性がひらめいた。

「もしかしたら……」

 昨日見たビアズリーの画集をもう一度開く。ページはもちろん『クライマックス』。

「昨日も言ったけど、ビアズリーは『サロメ』の英訳版に挿絵を提供したの。その英訳を手がけたのは、誰あろうダグラス卿よ。評判はいまいちだったそうだけどね。ダグラス卿は翻訳に関しては素人だったみたいだし」

「それでもワイルドはダグラス卿に英訳させたんですね。でも、それがどうかしました?」

「タイミングの問題よ。ワイルドはまずフランス語で『サロメ』を書いた。その原本を読んで、ダグラス卿は英訳をしたし、ビアズリーは挿絵を描いた。つまり、挿絵を描くにあたって、ビアズリーはワイルドとダグラス卿との関係をすでに知っていて、そのうえで『サロメ』の原本を読んでいた。サロメがワイルドの、ヨカナーンがダグラス卿の投影であると、ビアズリーはそう解釈してこの『クライマックス』を描いた。……だとしたらこの絵は、ビアズリーからワイルドへのメッセージかもしれない」

 わたしは生首からしたたり落ちる鮮血から、水面に咲く花までを指でなぞった。

「極限にまで追い求めれば、たとえすべてが破綻したとしても、そこから花の咲くこともある」

 そして宙に浮くサロメの足許へ伸びる根を指さす。

「そして花は求めた者のところにも返ってくる」

 猫間くんが「わあ」と小さく声をもらす。

「『いつかあなたも報われる』と、ビアズリーはワイルドにそう伝えたかったんですね」

「どうかしら。現実での破綻は目に見えていた。むしろビアズリーはこう言いたかったのかも。『せめて戯曲の中でくらい、サロメが報われてもよかったじゃないか』とね」

「『ヨカナーンがサロメの思いに応えるラストにすればよかったのに』ということですか」

 猫間くんは、うんうんと何度もうなずいた。

 ……ん?

 それ、まずくない?

 あらためて考えてみると、『思いに応える』という解釈は非常によろしくない。

「ごめんやっぱり今の解釈は間違い。サロメはただのビッチでね、」

「あ、しまった」

 猫間くんは壁の時計を見て立ち上がった。

「すみません。僕、用事があるので帰ります」

 今日の用事といえば、それはもしかしなくても、昨日の……。

「猫間くん!」

 彼にかけ寄る。そして左手の袖を、そっと指でつかむ。

「用事って、桧原夕雨?」

「……わかります?」

 猫間くんはそう言って頬をかいた。

 行かないで。

 その言葉を口にはできなかった。

 昨日、桧原夕雨がどれほどの覚悟を決めて思いを告げたのか。

 そう考えたらもうだめだった。

 自分の全てを否定されるかもしれない。

 わたしはその怖さを知っている。

 わたしは人とちょっとずれている。美術部は、わたしの居場所にならなかった。

 人に自分を見せるのは怖い。

 千湖に絵を見せるのだって、どれだけ勇気をふりしぼったか。

 地に身をなげうつような桧原夕雨の覚悟を、なかったことにはさせられない。

 だからわたしは、猫間くんの袖から手を離した。

「……行ってらっしゃい」

 猫間くんは真顔でわたしを見返した。

「行ってきます」

 そして部室を後にした。