冷たい雨の降る夜だった。高校卒業後は大学に行きたい、そう、母親に告げた。ボロ服を繕う母は進めていた縫い針の動きを止めた。そんなお金はない、すぐに働いて家にお金を入れてほしい、私とは目も合わさずにそうぼそりと言うと再び指を動かした。古く雨漏りのする6畳間の隅では弟がゲームに興じている。その弟をちらりと見て、あの子もこれから授業料がかかるだろ、と母は独り言のようにつぶやいた。私は反論した。教師になりたいから大学に行かせてほしい、お金は奨学金とバイトで賄うから迷惑はかけないからと、正論で彼女を畳みかけた。彼女は無言だった。天井から垂れた雨水が畳の上に置かれた洗面器をたたく音に混じり、ゲーム機は私を嘲るようにピコピコという電子音を鳴らした。私は正座した太腿の上で両手で拳を強く握った。体を売ってまで稼いできた、嫌な男でも相手をしてきた。遊びにもいかず、お洒落もせず、ひたすらに耐えてきた。なのに、ろく
に勉強もせずに高校に進学するつもりの弟を優先するなんて。拳が震えた。限界だった。ぷつんと自分の中の糸が切れた。膜が破れた。ついに……言ってはいけないひとことは母をひるませた。


『お母さんがバカだから! だからお父さんにも逃げられるんだよ!』


母は何も言わなかった。針を動かしていた。


*-*-*


「……恵、梢恵?」


隣にいた博人の声で私は意識を戻した。スイーツスタンドで紙に包まれたドーナツをほおばるお客さんに幼い頃を思い出してしまっていたらしい。私の家ではドーナツは高級品だった。他の家では普通におやつだったショップのドーナツ。カードの点数を集めてもらえる景品も私には手の届かないものだった。


「なんだ、ドーナツを食べたいのか?」
「あ……うん」


じゃあ帰りに、と博人は私の頭をポンと叩いた。