アレクサンドラが手に持って「ひらひら」させたのは、
 3枚からなる、シモンの契約書。
 ロジエ魔法学院教師として雇用される契約書である。
 
 シモンは思わず声が上ずった。

「け、け、契約書!? み、み、見せて頂けますかぁ!!」

 ご存じの通り、契約書に関して……
 シモンには重いトラウマがあった。
 前職、コルボー商会におけるで苦い思い出があるからだ。

 あの時……自分は未熟だった。
 借金まみれで精神的に追い込まれていた状況でもあったが、示された契約書の内容をろくに確認せず、安易にサインしてしまった。

 結果、地獄のようなパワハラ特訓と搾取(さくしゅ)に搾取を重ねられる……
 辛い日々が待っていた。
 そんな(てつ)は二度と踏まない、シモンはそう心に誓っている。

 真剣且つ思いつめたような顔つきをした、シモンの要望に対し、アレクサンドラは快諾する。

「OK! 構わないわ。存分に読んでね。全ての内容を隅から隅まで確認してちょうだい」

「ありがとうございまっす!!」

 シモンはアレクサンドラから3枚つづりの契約書を受け取り、じっくりと目を通した。

 トラウマの原因たる、あのブグロー部長の顔が浮かんだ。
 部長が発した、ぴー音が連発で鳴り響く、えげつないNGワードも聞こえてくる気もしたが……
 顔をぶんぶん横に振り、一切を遮断(しゃだん)すると、アレクサンドラから渡された契約書の内容は、はっきりと目に入って来た。

 シモンは、何度も何度も契約書を見直した。
 片や、アレクサンドラもけして()れたりせず、じ~っと見守っている。

 10分後、シモンは契約書の内容を全て暗記した。

 ……内容はアレクサンドラが告げた通りであった。

 契約金が金貨10,000枚!!
 給金は初任給が月額金貨40枚、残業代、各種手当の支払いがはっきりと明記されていた。
 年10%の昇給、受け持つ生徒の成績による出来高でボーナス、随時昇格あり等々も、詳細に記載されていた。

 当然ながら、永久に働くとか、わけの分からない天引きとか、強制的な生命保険の加入とか、使途不明的謎の社員共済費は皆無!!
 つまり、奴隷の如く扱い、搾取(さくしゅ)される可能性はゼロ
 がんじがらめに縛るような内容は一切無かった。

 そうそう!!
 通勤によって発生する交通費も支給される。
 出張する場合、手当も交通費も全て支給。
 コルボー商会のように『自腹』ではない。

 つらつら考えた末……
 シオンは顔をあげた。

「お待たせしました」

 アレクサンドラは満面の笑み。
 シモンが契約をOKすると自信を持っているようだ。

「どう? シモン君、納得した?」

「は、はい! も、もう充分ですっ!」

「何だったら、契約書を持ち帰って、じっくり読み返すとか、王国労働法に照らし合わせるとか、そうした上、後日の返事でも構わないわよ」

「……いえ、大丈夫っす。全部丸暗記しましたから」

「ええっ? 全部丸暗記? 3枚つづりの契約書をたった10分で? まさかぁ、うふふふ、冗談でしょ?」

「いえ! 冗談抜きで全てを完璧に憶えました」

「へぇ、驚いたわ」

「それより、ひとつだけ質問して良いですか。その後にお願いもありますが」

「構わないわ。質問? 何?」

「ええっと、……俺の契約金が金貨10,000枚って? 先輩はどういう根拠で算出したんですか?」

「簡潔明瞭! シモン君が、もしも冒険者になったら、1年で最低でも稼げる金額をシミュレーションしたの」

「な、成る程」

「君の実力ならすぐランカーになって、金貨10,000枚くらい楽勝で稼げるわ。それを考えたら、契約金が金貨10,000枚でも安いくらいよ」

 補足しよう。
 アレクサンドラのいう冒険者のランカーとは、ランクB以上の上級冒険者の事をいう。
 命を懸けた仕事ではあるし、ばくち的な要素も大きいが、腕利きの冒険者は楽に年間で金貨数万枚を稼ぐという。
 シモンがコメントした通り、10,000枚でも王都に結構な邸宅を構える事が可能だ。

「それに、シモン君は魔法鑑定士もランクAの資格を取得したでしょ?」

「はい、少し前に」

「魔法鑑定士は、現在引く手あまたの人気職業よ」

「ですね!」

「うん! ランクCは身分証明書代わりでそんなに重くは見られない。ランクBなら、まあ普通に就職出来るけど、シモン君が取得したランクAなら冒険者、商業の両ギルドを始め、求人は五万とある」

「はい、認識してます」

「うふふ、だから契約金の金貨10,000枚は、他所(よそ)へ行かれないようにとの意味もあるわ。ちなみに、前職のトレジャーハンター経験を活かして、当学園も君を魔道具研究の教師をメインに考えてるの」

 魔道具研究は魔法鑑定士を目指す者が選択する専門科目である。
 シモンも魔法大学在籍時に専攻し、在学中にランクBの魔法鑑定士資格を取得していた。

「ええ、俺、魔法鑑定士の資格を活かしたかったので……魔法女子学園の魔法教師のオファーは前向きに検討したいとは思います」

「うふふ、前向きに検討か。あとひと押しね。さっきシモン君が言ったお願いってのも関係ありそうね」

「はあ、まあ……」

「口ごもるって、何、お願いを具体的に言ってみてくれない?」

 相変わらず笑顔のアレクサンドラ。
 ここはもう正直に言うしかないだろう。

「はあ……俺、昔から、女子って苦手で、緊張して、まともに話せなくなります。面と向かってちゃんと生徒に教えられるかなって、授業が出来るかなって、少し不安があります」

「成る程。それで魔法男子学園で教育実習を受けたのね」

「まあ、そうです。男同士だと、互いに気楽なんで。それに言葉遣いもでっす」

「ふふふ、そうなんだ。それと言葉遣いはさっきも言ったけど、いつも通り『俺』でOKよ!」

「はあ、了解です。先ほど女子生徒は見かけましたが、ちょっとだけ、びびりました。改めて学園内を見学させて頂ければと」

「あはははははっ! 強力な魔物やおぞましい不死者(アンデッド)をガンガン倒したトレジャーハンターが可愛い女子を怖がるの? お安い御用よ。これから? すぐ行きたい?」

「先輩のご都合が宜しければ、ぜひ」

「了解! でもさ」

「はあ、何でしょう?」

「女子が苦手って、私の事は平気なの?」

「はあ……先輩は何とか、大丈夫ですかね……」

 シモンが唯一、問題なく話せる女性は……自分の母である。
 年齢はアレクサンドラと同じくらい……だろうか。
 しかし、母親と同じように見てしまうとか、アレクサンドラにそんな事を言うわけにいかない。
 絶対に……ぶっ殺される。
 
「うふふ、じゃあ、大丈夫じゃない。私が平気なら、ウチの魔法教師の職は絶対に務まるわよ」

 シモンがとんでもない事を考えているとは露知らず……
 アレクサンドラは晴れやかな笑顔を見せたのである。