そんな健気でささやかな望みを私に託し、倉嶋さんは最後に「付き合わせてしまってすみませんでした」と言い残してから席を立った。
足早にこの場を去ろうとする後ろ姿がどんどんと小さくなっていく。
その姿を見て、私の中にはぼんやりとした焦燥感が芽生えていた。
この気持ちはなんなのだろう。
考えても分からないけれど、とにかく倉嶋さんをこのまま帰してはいけない。
そう思った瞬間、私は彼女に向かって走り出していた。
「待ってください!」と大きな声で叫び、カフェを出てすぐのところでそのグレーのコートの袖を捕まえる。

「本当に心残りはないんですか!?」

「えっ……?」

「もしも千里くんに言いたいことや聞きたいことがあるなら、彼本人と話をされた方がいいと思います!……その、私が口を出すことではないですが」

自分の言っていることがはたして正しいことなのか自信が持てず、言葉尻がどんどんと小さくなっていく。
いや、仮に正しかったとしても余計なお世話であることには変わらないし、もしかしたら恋人という立場への驕りに聞こえたかもしれない。
出すぎた真似をしてしまったと冷や汗を感じていると、私に引き止められて呆然としていた倉嶋さんが、やっとその口を開いてくれた。

「私、そんなつもりであんなことを言ったわけではないんです。ただ、ずっと宙に浮いていた想いを誰かに明かして、終止符を打ちたかっただけで」

「分かっています。それならなおさら、その誰かは私ではなく、千里くんでなければならないのではないでしょうか」

私がそう言うと、倉嶋さんはハッと目を見張り、やがて何かを諦めたように俯いた。

「日下部さんはお人好しですね。自分の恋人と、その恋人のことが好きだった女を引き合わせようとするなんて」

「恋人がいるからといって、ほかの女性と話すらできないなんてことはおかしいですから」

倉嶋さんがぎゅっと唇を噛みしめ、小さく息を吐く。
その艶やかな黒髪が冬の風にさらされて静かに靡くと、彼女は痛々しいほどにひたむきな瞳で、もう一度私を見上げた。

「……あのころ、私の世界の中心は千里で、私はほかの誰よりも彼を愛して理解しているのだと自負していました。一生触れられなくてもいい。そばにいられるだけでよかったのにって、振られてからもずっと、彼のことが忘れられなくて」

当時の気持ちが溢れ出るかのような言葉に、私までもが胸を締めつけられる。
倉嶋さんの瞳はいつしか潤み始めていて、今にも涙を流してしまうのではないかと思われたが、彼女はひたすら真っ直ぐに私を見つめた。

「お言葉に甘えられるなら、彼の具合がよくなったころに、一度だけ連絡を取ってもいいですか」

「私が許可を出すようなことではないので」

「日下部さん。そんな性格だと、いつか損をしてしまいますよ」

ふふっと困ったように笑った倉嶋さんは、それから「本当にありがとうございました」と言うと、今度こそこの場を後にしていった。
彼女の消えた方角を見つめながら、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。
優しくて正直で一途な人だ。
千里くんの仕事にも精通していて、きっと彼のことも具に分かるのだろう。
倉嶋さんに会って話ができたのなら、あるいは彼の心が救われることもあるかもしれない。

「どうして……っ」

けれどどうして、千里くんを救えるのが私ではないのだろう。
悔しさに乱れそうになる呼吸を押さえつけるように、もう一度大きく息を吸う。
吐き出した息は白く染まって、すぐに夜の空へと消えていった。