私の中の悪魔が意地悪く囁く。
――こういうときに力になれなくて、あなたはなんのために彼の恋人でいるの。



結局それ以上は千里くんに声をかけることができず、元々面会時間のぎりぎりに来ていたこともあり、私はすぐに病室を出る羽目になった。
肩を落としながら、人気の薄い院内を出口に向かってとぼとぼと歩く。
先ほどのような状況では、どう接するのが一番よかったのだろう。
あのままそっとしておくより、やはり何か言葉を残した方がよかったのかもしれない。
けれどいくら考えたって、私には綺麗事のような言葉しか思い浮かばない。
だいたい人を慰めたり、相談に乗ったりしたことなんてほとんどないのだから。
こんなところにまで響いてしまう経験値の低さが恨めしい。
千里くんの恋人が私ではない誰かだったら、彼を勇気づけることだってできたかもしれないのに。

「あの」

今日何度目か分からない自己嫌悪にまたしても陥っていると、後ろからおずおずとした調子で声をかけられた。
こんなときにいったい誰だろうか。
イライラとしながら、なかば八つ当たりのように勢いよく振り向く。
するとそこにはとっくに帰ってしまったはずの倉嶋さんが立っていて、私はあからさまに驚いてしまった。

「く、倉嶋さん……!?」

「すみません、待ち伏せするようなことをして。どうしてもお話がしたくって」

ペコペコと忙しなく頭を下げる倉嶋さんに、訳が分からず目を白黒させる。
わざわざ私を待っていてまで話したかったこととはなんだろう。
まさか嫌味のひとつでも言われてしまうのだろうか。
彼女は千里くんのことが好きだったのだから、私なんかが彼のそばにいるのは相応しくないと感じたのかもしれない。
そんなことを考えて身構えると、彼女はなぜか顔色をパッと明るくさせて私を見上げた。

「日下部さんって、作家の日下部聖先生ですよね」
「は、はい、そうですが」

「わぁ、すごい……! すでにご存知だとは思いますが、彼方くん、昔から日下部先生の大ファンで。私も彼に薦められて先生の本を何冊も読みました。新作の小説も、もうすっごく感動して」

「え、あ、ありがとうございます」

予想外の言葉をかけられ、面を食らったままたどたどしくお礼を言う。
一瞬、千里くんとこんなにも親しかったのだというマウントを取られているのかとも思ったけれど、倉嶋さんからはそういった負の感情がいっさい見えず、ただ純粋に私の著作を褒めてくださったようだった。
しかもその話しぶりから、本当に何冊も読んでくれたことが分かる。
端から疑ってかかってしまった自分が恥ずかしくなるくらい、汚れのない瞳。
そんな瞳を持つ彼女を、私はどこか眩しささえ感じながら見つめた。

「ずっと憧れていた人とお付き合いをしてるだなんて、本当に小説みたいに素敵なことだなぁと思って……って、ああっごめんなさい! 一方的に話をしてしまって。私、夢中になるといっつもこうで。恋人のことを分かったように話されるのって、あまり気分のいいものではないですよね」

「いえ、そんな」

むしろ倉嶋さんの方こそ複雑に感じるところだってあるだろうに、それを微塵も表に出さないなんて。
千里くんから聞いていたとおり、彼女は本当に素直で優しい人なのだろう。
その心根の清らかさに感嘆していると、倉嶋さんはどこか居心地が悪そうに苦笑いをした。

「なんだか後ろめたいので正直にお話ししますが、実は私は学生のとき、彼方くんのことが好きだったんです。告白をして、振られてしまいましたが」

「存じています。……でも千里くんも、倉嶋さんのことが好きだったと言っていました」

「はは、そうだったんだぁ……」