「ああもうっ……!」
気を抜くとすぐに悶々としだす自分に憤って髪をかき乱す。
千里くんはこういう不安やあらぬ誤解を抱かせないために、あらかじめ彼女のことを伝えてくれたのではないか。
そんな千里くんの誠実さを踏み躙るようなことを考えてはいけないし、彼に対してあまりにも失礼だろう。
それは分かっている。
けれど二人の関係はお互いを嫌い合って途切れたわけではないということも事実なのだ。
この再会を機に距離が近づくことだってありえないわけではない。
そうしていつか心変わりをされたとして、私に彼を責める権利などあるだろうか。
初めから覚悟をしなければならないことだったではないか。
千里くんと過ごせる時間が、泡沫のような短い奇跡なのだということは。
それから病院に向かうまでの時間、自分が何を考えていたのかはまるで覚えていない。
気づけば私は千里くんの病室の前に立っていて、扉越しに中の様子を窺っていた。
病室からは聞き慣れた千里くんの声と、知らない女性の声がする。
ひっそりと盗み聞きをしていると、どうやら二人はお仕事関係の難しい話をしているのだと分かった。
私の知らない世界の話、二人だけの世界の話……なんて卑屈が極まっていく思考にハッと気づいて、雑念を振り払うように頬を叩く。
まだ何も起きていない内から不安になってばかりいてどうする。
今の私はまだ千里くんの恋人なのだから、気負わず堂々としていればいい。
己を無理やり鼓舞して、いつまでも病室の外で突っ立っているわけにもいかず、意を決してノックをする。
そしておそるおそる部屋を覗くと、中にいた二人の視線が私へと向いた。
「聖ちゃん」
「千里くん、遅くなってごめんね。具合はどう?」
「うん、体の方は大丈夫だよ。こちらこそ忙しいのに迷惑かけてごめんね」
「このくらい大したことじゃないよ」
白いベッドの上にいた千里くんは、入院着こそ着ていたものの、いつもと変わらない表情や顔色をしていて、私は安堵の息を吐いた。
それから傍らの女性の方へと視線を移す。
目が合うと、彼女は穏やかに笑って会釈をしてくれた。
「紹介するね。こちらは倉嶋紗英さん」
「初めまして、倉嶋です。彼方くんとは大学時代の友人で、今日は展示会で偶然会ったんです」
「そうなんですね。初めまして、日下部です」
動揺が顔に出ないように笑顔をつくり、私も同じく会釈を返す。
千里くんの好きだった人――倉嶋さんは、パンツスーツに黒縁の眼鏡をかけた、真面目で賢そうな感じの方だった。
色白で小柄で華奢で、かちっとした格好をしていても溢れ出る柔らかい雰囲気がどことなく千里くんと似ており、二人がかつて両想いであったことは想像に難くない。
それにしても不安定な自由業という身の上だと、こういういかにもきちんと会社勤めをしている方に対して、妙なコンプレックスを刺激されてしまうのはなぜなんだろう。
自分の職業には誇りを持っているし、なんなら唯一と言っていいほどの長所だとも思っているのに。
またしても同世代の女性に身勝手な劣等感を抱いている自分にうんざりとする。
倉嶋さんは千里くんのことも関わっているから、なおのこと強く気にしてしまうのだろう。
「それじゃあ私は帰るね。お大事に」
「うん。今日は本当にありがとう」
彼女は千里くんと二、三ほど言葉を交わすと、そのまま私と入れ違いに病室を後にしていった。
残された私と千里くんのあいだに、なんとなく気まずい空気が流れているような気がして、取り繕うような笑顔で彼の顔を見る。
「こんな状況だけど、とりあえず展示会お疲れさま。倒れるだなんて災難だったね。それだけお仕事を頑張っていたってことかな」
気を抜くとすぐに悶々としだす自分に憤って髪をかき乱す。
千里くんはこういう不安やあらぬ誤解を抱かせないために、あらかじめ彼女のことを伝えてくれたのではないか。
そんな千里くんの誠実さを踏み躙るようなことを考えてはいけないし、彼に対してあまりにも失礼だろう。
それは分かっている。
けれど二人の関係はお互いを嫌い合って途切れたわけではないということも事実なのだ。
この再会を機に距離が近づくことだってありえないわけではない。
そうしていつか心変わりをされたとして、私に彼を責める権利などあるだろうか。
初めから覚悟をしなければならないことだったではないか。
千里くんと過ごせる時間が、泡沫のような短い奇跡なのだということは。
それから病院に向かうまでの時間、自分が何を考えていたのかはまるで覚えていない。
気づけば私は千里くんの病室の前に立っていて、扉越しに中の様子を窺っていた。
病室からは聞き慣れた千里くんの声と、知らない女性の声がする。
ひっそりと盗み聞きをしていると、どうやら二人はお仕事関係の難しい話をしているのだと分かった。
私の知らない世界の話、二人だけの世界の話……なんて卑屈が極まっていく思考にハッと気づいて、雑念を振り払うように頬を叩く。
まだ何も起きていない内から不安になってばかりいてどうする。
今の私はまだ千里くんの恋人なのだから、気負わず堂々としていればいい。
己を無理やり鼓舞して、いつまでも病室の外で突っ立っているわけにもいかず、意を決してノックをする。
そしておそるおそる部屋を覗くと、中にいた二人の視線が私へと向いた。
「聖ちゃん」
「千里くん、遅くなってごめんね。具合はどう?」
「うん、体の方は大丈夫だよ。こちらこそ忙しいのに迷惑かけてごめんね」
「このくらい大したことじゃないよ」
白いベッドの上にいた千里くんは、入院着こそ着ていたものの、いつもと変わらない表情や顔色をしていて、私は安堵の息を吐いた。
それから傍らの女性の方へと視線を移す。
目が合うと、彼女は穏やかに笑って会釈をしてくれた。
「紹介するね。こちらは倉嶋紗英さん」
「初めまして、倉嶋です。彼方くんとは大学時代の友人で、今日は展示会で偶然会ったんです」
「そうなんですね。初めまして、日下部です」
動揺が顔に出ないように笑顔をつくり、私も同じく会釈を返す。
千里くんの好きだった人――倉嶋さんは、パンツスーツに黒縁の眼鏡をかけた、真面目で賢そうな感じの方だった。
色白で小柄で華奢で、かちっとした格好をしていても溢れ出る柔らかい雰囲気がどことなく千里くんと似ており、二人がかつて両想いであったことは想像に難くない。
それにしても不安定な自由業という身の上だと、こういういかにもきちんと会社勤めをしている方に対して、妙なコンプレックスを刺激されてしまうのはなぜなんだろう。
自分の職業には誇りを持っているし、なんなら唯一と言っていいほどの長所だとも思っているのに。
またしても同世代の女性に身勝手な劣等感を抱いている自分にうんざりとする。
倉嶋さんは千里くんのことも関わっているから、なおのこと強く気にしてしまうのだろう。
「それじゃあ私は帰るね。お大事に」
「うん。今日は本当にありがとう」
彼女は千里くんと二、三ほど言葉を交わすと、そのまま私と入れ違いに病室を後にしていった。
残された私と千里くんのあいだに、なんとなく気まずい空気が流れているような気がして、取り繕うような笑顔で彼の顔を見る。
「こんな状況だけど、とりあえず展示会お疲れさま。倒れるだなんて災難だったね。それだけお仕事を頑張っていたってことかな」