「そっか、よかった。あのね、実は俺、仕事終わりに気を失って倒れちゃって、さっき救急車で運ばれたんだ」

「きゅ、救急車!?」

思いもよらぬ話に声が裏返る。
片手で持っていたスマートフォンも落としそうになり、私は慌てて両手で持ち直した。
気を失って倒れて救急車で運ばれてなんて、それは相当な状況だったのではないだろうか。
原因となると、やはりここのところ何日も続いていた過労と寝不足のせいなのかもしれない。

「目が覚めてからはなんともないんだけど、倒れたときに頭を打ったから、念のために検査をすることになって。それでちょっとだけ入院することになった」

「入院って……大丈夫なの?」

「うん、今はもう元気なんだ。心配かけるようなことを言ってごめんね」

本人の声色的には大したことがなさそうだけれど、とはいえ心配なことに変わりはない。
早く彼の顔を見て安心したいという気持ちに駆られて、私は足早に歩みを進めた。

「分かった。あとで必要そうなものを調べて持っていくから、ほしいものがあれば連絡してね」

「ありがとう。迷惑かけるね」

「迷惑じゃないよ。千里くんの役に立てるなら嬉しい」

むしろポンコツな私が役に立てるなんてめったにないことなのだ。
千里くんが大変なときに不謹慎かもしれないけれど、私は彼の力になれることが心から嬉しかった。

「それじゃあ、また後で」

「聖ちゃんっ」

とりあえず一度マンションに帰って、千里くんの荷物をまとめよう。
そう考えて電話を切ろうとしたところで、彼は焦ったように私の名前を呼んだ。

「後で分かることだから先に言っておこうと思うんだけど、実は会場に昔の知り合いがいて、その人が救急車を呼んだりして助けてくれたんだ」

「昔の知り合い?」

「うん。前に話したことがあったよね」

そこまで言うと、千里くんは心を落ち着かせるかのように一呼吸置いた。
胸騒ぎを覚えるような空白の時間に、思わず固唾を呑む。

「……俺が昔、好きだった人」

やがて聞こえたその言葉に、一瞬だけ心臓が止まったような気がした。
たしかに聞いたことがあった。
私と千里くんがまだ知り合ったばかりのころ、デートと称して行った美術館のカフェテラスで、私の方から彼女の話をしてほしいとお願いをしたのだ。
千里くんから語られた昔の想い人の話は、聞いているこちらの胸までも熱くさせるくらい、愛おしくて切ないものだったのを覚えている。
彼は自分の体質のことで彼女を傷つけてしまい、それから疎遠になったと言っていたけれど。

「彼女は俺とは別の会社に勤めているんだけど、ちょうど同じ会場で仕事をしていたみたいで、偶然居合わせたんだ」

「そ、そうなんだ」

「うん。隠すのも変だから言っておこうと思って」

「そっか。……教えてくれてありがとう」

明らかに温度を失った自分の声を他人事のように聞いて。
通話が終わり、しばらく経っても、私はその場から動けずに立ち竦んでいた。
千里くんが初めて好きになった人。
真面目で大人しくて優しい、きっと彼とお似合いの人。
彼女は久しぶりの再会だったのにもかかわらず、千里くんのピンチに現れ、彼を助けてくれたのだ。
それはまるで小説のように運命的でドラマチックなことではないか。
たとえばそこに恋心が蘇ったとしても、何もおかしくはないくらいに。