まるで採れたての蜂蜜のようにとろけた瞳で私を見つめる千里くんに、ときめきと罪悪感が同じだけ募る。
この人にかかっている呪いは相変わらずタチが悪い。
それに胸を高鳴らせてしまう私は、いったいどれだけ浅ましいのだろう。
けれどどうしたって、彼を好きだと思う気持ちは止めることができないのだ。

「じゃあ俺はそろそろ行くから」

それからしばらくのあいだ雑炊を食べる私をにこにこと見守っていた千里くんは、時計を見てから名残り惜しむように立ち上がった。

「千里くん、最近出勤が早いよね」

「十二月に業界最大の展示会があってね。それが終わるまではけっこう忙しくなるかもしれないんだ」

「そっかぁ。あんまり無理しないで」

「うん。聖ちゃんも」

微笑んで、ひらひらと手を振りながら千里くんが出かけていく。
離れていくその後ろ姿を見送るのは、いつも少し寂しい。
まるでもう二度と私の元には帰ってこないような気がして。
そして特に今日は、そんな感情が強く胸を締めつけた。

「千里くんっ……!」

思わず切羽詰まった声色で呼び止めてしまい、驚いた千里くんが目を丸くして振り向く。
なんとなく、何か言わなければいけないと思ったのだ。
恋人らしく、馬鹿みたいに溢れていく彼への気持ちを言葉で伝えなければと。
それなのに、この世界のどんな言葉も私の感情を表すには物足りないような気がして、そうしているうちにまた怖くなってしまう。
私ばかりがこんなにも好きを募らせていくことが怖い。
いずれはこの想いを抱えたまま、一人にならなくてはならないのかもしれないのに。
穏やかな彼に向けるには到底似つかわしくない、歪で陰湿な恋情を抱えて、私は指先が震えるほどに怯えていた。

「どうかした?」

「……ううん。ごめん、なんでもない。行ってらっしゃい」

結局何も口に出せぬまま、私は千里くんに向かって手を振った。
そんな私を不思議そうに見つめながらも、彼はドアの向こうに消えていく。
力なく下げた手を握りしめることもできないまま、私はしばらくのあいだ呆然と立ち尽くしていた。
視界の隅のローテーブルには、千里くんが見ていたらしい、物件情報のチラシが置いてある。
千里くんはどこまで私との未来を考えてくれているのだろう。
上手く好きだとも言えない。
仕事に躓いて生活もままならない。
そんな女との未来を。

「分かんないよ……」

崩れ落ちるようにして蹲り、両腕でぐっと膝を抱える。
自分があまりにも情けなさすぎて、どうにかなってしまいそうだった。



それからどれだけ時間が経っても、書き下ろしの執筆は進まなかった。
最近はしょうがなく抱えている連載作品やエッセイの原稿を優先して進めつつ、相変わらずメディア向けの仕事もそれなりにこなしている。
今日は雑誌の取材が二件と、久しぶりにテレビ番組の収録も一件だけあった。
収録の内容は同い年の女性が集まり、お題に沿ってトークをするというものだ。
〈己を武器に時代を切り開く女性たち〉という名目で私のほかに集められたのは、今年会社を設立したという起業家の方と、まだ駆け出しだというシンガーソングライターの方だった。
活動する舞台は違えども、けして安定しているとは言えない世界で生きている二人とは、初めて会ったにもかかわらず共通点がたくさんあり、仕事・私生活・恋愛・将来のことなど、話は大いに盛り上がった。
彼女たち曰く、十年も作家を続けられ、ヒット作も生み出せた私は、同世代の一歩先を歩いているらしい。