「日下部先生」

「……はい」

「王道の恋愛小説なら、あなたより巧みに書ける方がこの世にはたくさんいます。その中で、あえて日下部聖が書いたものを読者は求めているのです」

いつもの飄々とした笑みを潜め、熱のこもった目をした東雲さんを見て息を呑む。

「ジャンルが変わろうとも、あなたの持ち味は忘れないでください」

「私の持ち味……?」

「言語化するのは難しいですが、そうですね……読者の心を抉る容赦のないストーリー展開と、冷静で淡々とした文章で綴られる的確な心情描写といったところでしょうか」

やはり甘ったるいだけの平凡な恋愛小説などはお呼びでないということなのだろう。
構想が振り出しに戻ってしまったと諦めて腹を括り、頭の中で書き直す算段を立て始める。

「けして自分を見失わないように、お願いしますね」

圧力の感じる笑顔で締めくくられ、私は渋々と頷いた。
この人は本当に、作品に対していっさいの妥協を許さないのだ。
つまりはそれだけ情熱を持っているという証なのだけれど、こちらも改めて気を引き締めなければ、きっといつまで経っても脱稿できない。
そう直感した私は、東雲さんが席を立った後も喫茶店に居残り、糖分補給としてチョコバナナパフェを注文してから、さっそく持ち歩いていたタブレット端末を起動させた。

「容赦のないストーリーと的確な心情描写か……」

パフェに乗っていたウエハースを齧りながら、端末に保存してあるプロットと睨めっこをする。
東雲さんの見解を聞く限り、おそらく恋に落ちるまでの過程はいいのだろう。
問題はその感情を、どんな展開によって、どうやって育んでいくかだ。
今回の話は片方の男性との恋が実ったものの、ライバルとなる女性の登場によりすれ違い、もう一人の男性との距離が近づいていくという流れになっている。
かなりベタな設定だけれど、言い換えれば王道でとっつきやすいはずだ。
ならば土台はそのままにしてオリジナリティのあるエピソードを挟み、もう少し踏み込んだ展開と心情描写を意識して……――。

「あー、ダメだダメだ」

泥沼に入り込みそうな気配を察知し、慌てて首を振る。
こんなふうに打算的なことばかり考えていて、いいアイデアが浮かんだ試しなどないのだ。
もっと主人公の気持ちに寄り添いつつフラットな状態で思考しなければ、またしても独りよがりな話になってしまう。
生まれたばかりの恋を育んでいくにはどうしたらいいか。
だけど、そんなこと。

「……こっちが知りたいし」

パフェを頬張った口の中に、チョコレートソースがほろ苦く広がる。
まるで自分の恋愛模様のような味に、私はひとつため息を吐いた。
千里くんに恋をしてから、私は初めて知る感情に浮かれていた。
荒廃していた自分の庭に、奇跡的に咲いてくれた花。
その花を愛でることが楽しくて仕方なかったのだ。
けれどこの先千里くんと恋人として付き合っていくためには、自分の庭ばかりに囚われていてはいけないことくらい、恋愛初心者の私だって理解している。
私も千里くんの庭に花を咲かせて、お互いの花を守っていかなければ、この関係はいつか終わってしまうのだと。
彼の庭を、これ以上ないくらい色とりどりに染め上げたい。
彼の中で価値のある人間でいたいし、あわよくばずっと私だけを見つめていてほしいと思う。
けれどこれまで恋愛とは対極に在った私は、どうしても千里くんの心を繋ぎ止める方法を見つけることができなかった。