考えてみれば皮肉な話だ。
たったひとつだけ守り抜いてきたものが、ある意味母の存在によって支えられていたなんて。
遠い昔のことを思い出しながら、私はスマートフォンの発信ボタンを前に、先ほどからかれこれ十五分ほど逡巡していた。
さすがにいい加減腹を括らなければいけないだろう。
そう思い、溜まった唾を飲み込んでから、意を決してボタンに触れる。
コール音が鳴るたびに速さを増していく鼓動を感じていると、やがて目的の人物に電話は繋がった。

「もしもし」

「久しぶり、お母さん。元気?」

「ええ。あなたの方から電話をかけてくるなんて珍しいわね」

耳元で響くのは久々に聞く母の声だった。
そのどこか淡々とした声に、図らずも体が竦み上がる。
彼女と話をするときに萎縮してしまう癖は、いつまで経っても抜け切らなかった。
けれどここまできて怖いなどとは言っていられない。
千里くんのそばにいることを選んだ私は、せめて一度くらい、母ときちんと向き合わなければならないと思っていた。
新しい人生を歩む彼の隣で、胸を張っていられるように。

「報告したいことがあって。実は今度、私の書いた小説が有名な文学賞を受賞することになったんだ」

「そう」

「お母さんも、一緒に喜んでくれる?」

「何度も言っているでしょう。私はあなたが作家になったことを完全には認めていないの」

予想していたとおりの冷たい返事に、覚悟ができていても心が折れそうになる。
それでも私は自分を奮い立たせ、汗の滲む手でスマートフォンをギュッと握った。

「お母さんが私を心配してくれている気持ちは分かってる。それでも私は作家という職業を誇りに思ってるし、これからも続けていきたいんだ」

「さっきから何が言いたいの? 私への当てつけ?」

「ううん、そうじゃないよ」

改めて考え方の違いをまざまざと感じ、力なく俯く。
やはりこの人とはどうしたって分かり合うことができない。
こうして距離を詰めようとしたって、さほど意味はないのだろう。
それでも。

「今、私は幸せだよって伝えたかったの」

素直な気持ちを打ち明け、私は反論される前に電話を切った。
卑怯な方法に苦笑いをしつつ、ふぅと長く息を吐く。
初めて、本当に生まれて初めて、自分の素直な気持ちを母に伝えることができた。
なんだ、やればできるのではないかと、少しだけ自分に自信を持つ。
それにしても、今日も私と母は面白いくらいに噛み合わなかった。
もしかしたら私たちのあいだの溝が埋まる日は永久に来ないのかもしれない。
ならばもはや受け入れるしかないのだろう。
これが私と母の在り方なのだ。
たとえこれから先も認めてもらえなくたって構わない。
私は私の信じる道を進んでいけばいい。
不器用で不甲斐なくたって、裏を返せばそれだけ伸び代があるということなのだから、きっと大丈夫。
そう考えて、まるで視界が開けたかのように気持ちが晴れていく。
ああ、言葉を紡ぎたいな。
自分や誰かの心に響くような文章をこの手で生み出してやりたい。
きっと今ならば希望に満ち溢れたものが書けるはずだ。
そんな欲求が膨らんできて、やはり私はこの仕事がとても好きなのだと思う。
私にできることは今も昔も物語をつくることだけだけれど、そのたったひとつをこれからも大切にして、徹底的に愛していこう。
そうしよう――――。