鼻の奥がつんと痛んで、胸も苦しい。
当たり前だ、好きな人のそばを離れることが嬉しいことのはずがないのだから。
しかしこの別離が千里くんのためになるならば、体に響く痛みや苦しみすらも愛せると思った。
どうかこの先、千里くんが幸せに生きていけますように。
遠くでそれを願い続けることが、私にとってもっとも上等な生き方になるだろう。
そう確信して、部屋を出ていくために足を踏み出す。
「……なんにも言わずに見送るって決めてたのに、やっぱりダメみたいだ」
しかし次の瞬間、私の体は強い力によって後ろに引っ張られてしまった。
背中に軽い衝撃が走り、それからほのかなあたたかさに包まれる。
「行かないで、聖ちゃん」
いったい何が起こったのだろう。
訳が分からずにまばたきを繰り返していると、耳元に響いた千里くんの切実な声で、私はやっと彼の腕の中にいることに気づいた。
背中から抱きすくめられ、驚きとともに胸を高鳴らせたのも束の間、自分の体温が彼を傷つけることを思い出して反射的にもがく。
しかし逃れるなんて許さないとでもいうように腕に力を込められ、私は絶望感でいっぱいになった。
「ち、千里くんっ」
「俺みたいな情けない男が望んではいけないことなのかもしれない。でも、言わせてほしい」
「千里くん、待っ――」
「俺は聖ちゃんが好きだ。これからも君のそばにいさせて」
千里くんの言葉が頭の中でじわりと甘く溶けていく。
嬉しいと思うのと同時にその感情は罪だということを自覚して、私はギュッと目を瞑った。
私だって千里くんのことが好きだ。
できることならこのまま、彼の腕の中でそのあたたかさに溺れてしまいたい。
けれどそういうわけにはいかないことを、私が一番よく分かっている。
なけなしの良心で千里くんの胸を突っぱね、距離を取る。
傷ついた顔で私を見下ろす彼を振り切るように、私はその揺らぐ瞳を見つめた。
「千里くんが私に好意を抱いてくれたのは嬉しい。でもその好意は、きっと千里くんの苦しみから産まれたものだよ」
自分の言葉に自分で悲しくなってしまうが、それが真実であることに変わりはない。
千里くんがお兄さんに傷つけられることがなければ、彼が私に関心を寄せることもなかっただろう。
彼の好意は負の産物でしかないのに、そんなものを後生大事に愛そうとするなんて、不健康この上ないことだ。
「千里くんはこれから何にも囚われずに生きていける。だからもう、私のことなんか目にも留まらないくらい幸せになってほしいの」
自分の幸せよりも他人の幸せを願えるなんて、これほどまでに素晴らしいことはない。
そう思える人に出会えただけで私は十分だ。
だからこれ以上、甘い言葉で私の心をかき乱さないでほしい。
そう訴えるように言うと、千里くんの眼差しが強くなったような気がした。
「きっかけはたしかにそうだった。兄の件がなかったら、俺が君の作品に触れることはなかったかもしれない。でもそれがなんだって言うの?」
「だからそれこそが千里くんの不幸なんだよ」
「聖ちゃんこそ分かってないよ。俺はもう、日下部先生よりも聖ちゃんのことを愛しているんだ」
思いがけない千里くんの言葉に、私は目を見張った。
やっぱり気づいていなかったとでも言いたげに、彼が悪戯っぽく笑う。
「俺にとっての君は、最悪な境遇から救ってくれた、紛れもない神様だった。でも君に出会ってから、日下部聖は神様なんかじゃなくて、傷つきながら生きている一人の女性なんだって知った。作家という職業に対する誇りに胸を打たれたし、俺のことを一生懸命に考えてくれることが信じられないくらい嬉しかった。いつも真面目で健気で、他人の気持ちに共感して寄り添える、そんな生身の君に俺は惹かれたんだ」
当たり前だ、好きな人のそばを離れることが嬉しいことのはずがないのだから。
しかしこの別離が千里くんのためになるならば、体に響く痛みや苦しみすらも愛せると思った。
どうかこの先、千里くんが幸せに生きていけますように。
遠くでそれを願い続けることが、私にとってもっとも上等な生き方になるだろう。
そう確信して、部屋を出ていくために足を踏み出す。
「……なんにも言わずに見送るって決めてたのに、やっぱりダメみたいだ」
しかし次の瞬間、私の体は強い力によって後ろに引っ張られてしまった。
背中に軽い衝撃が走り、それからほのかなあたたかさに包まれる。
「行かないで、聖ちゃん」
いったい何が起こったのだろう。
訳が分からずにまばたきを繰り返していると、耳元に響いた千里くんの切実な声で、私はやっと彼の腕の中にいることに気づいた。
背中から抱きすくめられ、驚きとともに胸を高鳴らせたのも束の間、自分の体温が彼を傷つけることを思い出して反射的にもがく。
しかし逃れるなんて許さないとでもいうように腕に力を込められ、私は絶望感でいっぱいになった。
「ち、千里くんっ」
「俺みたいな情けない男が望んではいけないことなのかもしれない。でも、言わせてほしい」
「千里くん、待っ――」
「俺は聖ちゃんが好きだ。これからも君のそばにいさせて」
千里くんの言葉が頭の中でじわりと甘く溶けていく。
嬉しいと思うのと同時にその感情は罪だということを自覚して、私はギュッと目を瞑った。
私だって千里くんのことが好きだ。
できることならこのまま、彼の腕の中でそのあたたかさに溺れてしまいたい。
けれどそういうわけにはいかないことを、私が一番よく分かっている。
なけなしの良心で千里くんの胸を突っぱね、距離を取る。
傷ついた顔で私を見下ろす彼を振り切るように、私はその揺らぐ瞳を見つめた。
「千里くんが私に好意を抱いてくれたのは嬉しい。でもその好意は、きっと千里くんの苦しみから産まれたものだよ」
自分の言葉に自分で悲しくなってしまうが、それが真実であることに変わりはない。
千里くんがお兄さんに傷つけられることがなければ、彼が私に関心を寄せることもなかっただろう。
彼の好意は負の産物でしかないのに、そんなものを後生大事に愛そうとするなんて、不健康この上ないことだ。
「千里くんはこれから何にも囚われずに生きていける。だからもう、私のことなんか目にも留まらないくらい幸せになってほしいの」
自分の幸せよりも他人の幸せを願えるなんて、これほどまでに素晴らしいことはない。
そう思える人に出会えただけで私は十分だ。
だからこれ以上、甘い言葉で私の心をかき乱さないでほしい。
そう訴えるように言うと、千里くんの眼差しが強くなったような気がした。
「きっかけはたしかにそうだった。兄の件がなかったら、俺が君の作品に触れることはなかったかもしれない。でもそれがなんだって言うの?」
「だからそれこそが千里くんの不幸なんだよ」
「聖ちゃんこそ分かってないよ。俺はもう、日下部先生よりも聖ちゃんのことを愛しているんだ」
思いがけない千里くんの言葉に、私は目を見張った。
やっぱり気づいていなかったとでも言いたげに、彼が悪戯っぽく笑う。
「俺にとっての君は、最悪な境遇から救ってくれた、紛れもない神様だった。でも君に出会ってから、日下部聖は神様なんかじゃなくて、傷つきながら生きている一人の女性なんだって知った。作家という職業に対する誇りに胸を打たれたし、俺のことを一生懸命に考えてくれることが信じられないくらい嬉しかった。いつも真面目で健気で、他人の気持ちに共感して寄り添える、そんな生身の君に俺は惹かれたんだ」