しかし当の千里くんは、私に個人情報が流れることなど気にしてはいないらしい。
気軽に差出人を尋ねられ、おそるおそる封筒に書かれた名前を確認する。

「差出人は、えっと……彼方、(ゆう)さん……?」

千里くんと同じ名字だ。
ということは、きっとこれはご家族の方から届いたものなのだろう。
しかし何か嫌な予感がしてバッと顔を上げる。
すると彼の表情から笑みが消えたのが見えて、私は確信した。

「もしかして、お兄さんからだった……?」

「うん。そう」

遠い目をしながら、千里くんは明らかに温度を失った声で相槌を打った。
しかし彼からは以前、お兄さんと顔を合わせることはおろか、長いこと連絡を取ることすらしていないと聞いた気がする。
それなのに、どうして急に手紙なんかが届くのだろう。
突然のことに私までもが動揺していると、彼は受け取った封筒をぐしゃりと握りつぶしてしまった。

「捨てる」

「待って。何か大切なものかもしれない。確認だけはした方がいいよ」

私の言葉に、千里くんは逡巡する素振りを見せてから、不本意そうながらも封を開けてくれた。
中からはくしゃくしゃになった紙が数枚出てきて、それを広げた彼は怖いくらい静かに目を通していく。
その様子を、私は息を呑んで見つめた。

「来月から海外へ行くんだって。戸籍からも抜けるらしい」

「そうなんだ……」

「それから」

千里くんは手元から紙を一枚だけ引き抜くと、私の方へ差し出して見せてくれた。
堅苦しく綴られた文面には、要約すると一千万円を彼に譲渡する旨が書かれている。

「慰謝料のつもりかな。お金で償えると思ったんなら最悪」

「どうするの?」

「もちろん受け取らないよ。そっくりそのまま送り返してやる」

捨て鉢のようなため息を吐き、千里くんは手紙をテーブルの上に放った。
そのまま深く俯いたせいで、彼の目元に影が落ちる。

「俺は絶対に許さない。謝ることすらさせない。少しでも罪の意識があるなら、一生その呵責に苦しめばいい」

まるで吐き捨てるように、千里くんはそう言った。
しかし強い言葉とは裏腹に、その顔は心底苦しそうに歪んでいる。
彼はずっと、お兄さんを憎んだり恨んだりしてきたのだろう。
しかしそんな思いは、穏やかで優しい性格の彼には似つかわしくない。
きっと精神的にもかなり負担だったはずだ。
それでもお兄さんが日本から出て行くことは、千里くんにとって大きな好機になると思った。
これを機に、長年にわたって苦しめられた“身勝手な愛”から完全に逃れてほしい。
そして何にも囚われない人生を歩んでいってくれたらいい。
そのために、私にできることはないだろうか。
千里くんの抱える苦しみを知っている第三者は、この世にたった一人、私だけだ。
それなら私にしかできないことは必ずあるはず。
彼のために、何か。
そう考えて、私ははたと気がついた。
わいてくる衝動のままに千里くんの目の前に立つと、彼は不思議そうな顔をして私を見た。


「ねぇ、千里くん。提案があるんだけど」

「提案?」

「千里くんが許してくれるなら、私がお兄さんに会いに行きたい」