どうしよう、怖い、気持ち悪い。
パニックで上手く働かない脳内で、それでも私は必死に落ち着くように自分へ言い聞かせた。
ここは相手を刺激せず、冷静に対処しなければ。

「は、放してください、痛いです」

「テレビで見るよりもお、お綺麗ですね」

「放してください……!」

「先生を見たとき、俺の運命の人だと思いました」

だめだ、言葉が噛み合わない。
掴まれている腕は、私の意に反してどんどんと力を込められる。
恐ろしいほど爛々とした目に見下ろされ、いつしか歯の根が合わないほどガタガタと震えていた。
怖い、嫌だ、助けて――――。

「誰かっ……!」

恐怖が極まったころ、私はついに悲鳴を上げた。
冷静にとか、もうそんなことを考えている余裕はなく、ただその手から逃れられるようにと必死にもがく。
しかし私が暴れたことに驚いたのか、男は焦ったように私の口を手でふさぐと、そのままマンションの裏手へと引きずり込んだ。
電灯もない真っ暗なその場所に投げ倒され、口から内臓が出てしまいそうなほどに強く背中を打つ。
手も足も地面で擦り切れ、身体中が痛い。

“殺される”。
自然とそんな死の予感がした。
怖くて、ただ怖くて、すでに声は出ず、代わりにしゃくり上げるようなか細い呼吸音が口から漏れる。
散々もがいたせいで、まともに抵抗する力は残っていない。
その体をなおも強く押さえつけながら、男は私の腹の上に跨った。
このまま身も心も蹂躙されるのだろうか。
男の荒い息遣いが頭上で響くのを聞きながら、この上なく絶望的な気持ちになる。
いっそ気を失ってしまえたらいいのに、感覚はむしろ鋭敏に働いた。
かすかな低い笑い声。
背中に擦れる固いコンクリート。
土と汗と、どこかから流れた血の匂い。
肌をまさぐるガサガサとした皮膚と体温。
それらが残酷なほどに心を引き裂いていく。
諦めとともに目を閉じて、私はすべてが終わるのを待とうとしていた。
そのときだった。
遠くから、誰かが駆けてくるような足音が聞こえた。
かと思えば次の瞬間、私の上にいた男が不細工な声を立ててふっ飛んだのだ。
腹を圧迫していた体重が急になくなり、反動で思いきり咳き込んでしまう。
いったい何が起こったのだろう。
涙を滲ませながら、それでも暗闇に慣れてきた目を凝らしてみると、今しがた現れたばかりの人物が、男の胸ぐらを鷲掴みにしているのが見えた。

「っ痛ぇ……」

「あんた誰? 自分のしたこと分かってるの?」

「ひっ」

「彼女のポストに変な手紙を入れたのもあんたの仕業? そういうの、なんて言うか分かる? ストーカーって言うんだよ」

「ちさと、くん……?」

聞こえてきたのは、紛れもなく千里くんの声だった。
しかしその声は、激しい怒りを孕んだかのように低く震えている。
どうして彼がここに。
理由は分からないけれど、どうやら彼は男の脇腹を蹴り飛ばし、私を助けてくれたらしい。
痛む体をなんとか起こして、呆然と彼らを見やる。
するとそのうち、逃げ出そうとする男と取り押さえる千里くんで揉み合いになってしまったようだった。
男が千里くんの腕を押しのけようと彼に触れているのに気づき、怖れと怒りでわなわなと体が震え、頭も熱くなっていく。

「やめて……」

そんな手で彼に触らないで……!

「千里くんっ!」