そのことに気づいた私は、体が震えるような恐ろしさを感じていた。
どんなに母の存在に抗おうとしても、私に彼女の血が流れているのは紛れもない事実だ。
悔しいけれど、母と同じ愛し方をしてしまわない自信なんてない。
どうしよう、このままいけば、私は母の二の舞いを演じてしまう気がする。
それだけは絶対に避けたかった。
いっそ千里くんの連絡先を消して、一切の交流を絶ってしまおうか。
しかし理由も伝えずにそんなことをしたら、彼の心をいたずらに傷つけてしまうかもしれない。
そう考えると結局どうすることもできず、私の心は宙ぶらりんのまま落ち着くことはなかった。
調子の悪い日が続いていても、もちろん仕事は待ってくれない。
日々項目の増えていくToDoリストとにらめっこをしながら、私はなんとか求められるものに応えていく。
まるで心だけ置いてきぼりにされているような、はたまた大切な物を根こそぎ奪われてしまったような、そんな空虚で心細い環境で、私は生きていくことに精一杯だった。
そんな日常を送っていたある日のこと。
その日は遅くまで雑誌の取材があり、帰路に着くころにはとっくに日付が変わっていた。
疲れきった体と安全面を考慮し、電車を使わずにタクシーで帰宅した私は、自宅マンションの手前で降りると、ある異変を察知したのだ。
エントランス付近に怪しい人影がある。
全身黒ずくめでキャップを深く被った、おそらくは恰幅のよい男性だ。
その人は辺りをキョロキョロと見回しながら、誰かが来るのを待っているようだった。
怪しい、怪しすぎる。
もしかして例の手紙を私のポストに入れた人物だろうか。
恐ろしい仮定が頭に浮かび、思わずその場に立ち竦んだ私は、手に持っていたスマートフォンを握りしめた。
マンションの管理人さんはとうに退勤してしまっている。
近くに頼れる人もいないし、こういうときは警察に連絡をした方がいいのかもしれない。
しかしあの人が手紙の差出人とも私のストーカーとも決まったわけではないのに、少し大げさだろうか。
不審者ではなくマンションの住人だったり、本当に誰かと待ち合わせをしているだけなら、はた迷惑な通報になってしまう。
とはいえ、このままあの人の横を通ってマンションに入るのはどうしても躊躇われた。
今からでもホテルを予約した方がいいかもしれない。
しかしもう深夜であるのに、今からでも泊まることなんてできるのだろうか。
――何かあったら些細なことでもすぐに連絡して。
これからどうするべきかを悩んでいると、ふいに千里くんの言葉が脳裏に過ぎった。
彼ならきっと、この状況から逃れるために力を貸してくれるだろう。
しかし思い直して、慌てて首を横に振る。
時刻はもう0時を過ぎているのだ。
こんな時間に電話なんて迷惑だし、すでに就寝しているかもしれない。
それにこれ以上、私の事情に彼を巻き込むことはしたくなかった。
千里くんへの発信ボタンをスマートフォンに表示させたまま葛藤を続ける。
すると、遠くに見えていた男の体がこちらへ向き、目が合ったような気がした。
悪い予感は的中し、やはり男は私を目がけて走ってくる。
逃げなくては。
頭では分かっているのに、あまりの恐怖で体が動かない。
「日下部先生ですよねっ」
「きゃっ……!」
向かってきた男に強く腕を掴まれる。
その拍子にスマートフォンが手からこぼれ、地面に落ちる乾いた音が響いた。
目の前でニタニタと笑う男に見覚えはない。
おそらく会ったことなど一度もないはずだが、この人は今、日下部先生と言っただろうか。
やはり私を待っていたのだと分かり、背筋が凍る。
「会いたかったです……! あの、俺、先生のファンで」
それから男はぼそぼそとした声で、何やら聞き取れない言葉を呟いた。
掴まれた二の腕から生温い体温が伝わり鳥肌が立つ。
どんなに母の存在に抗おうとしても、私に彼女の血が流れているのは紛れもない事実だ。
悔しいけれど、母と同じ愛し方をしてしまわない自信なんてない。
どうしよう、このままいけば、私は母の二の舞いを演じてしまう気がする。
それだけは絶対に避けたかった。
いっそ千里くんの連絡先を消して、一切の交流を絶ってしまおうか。
しかし理由も伝えずにそんなことをしたら、彼の心をいたずらに傷つけてしまうかもしれない。
そう考えると結局どうすることもできず、私の心は宙ぶらりんのまま落ち着くことはなかった。
調子の悪い日が続いていても、もちろん仕事は待ってくれない。
日々項目の増えていくToDoリストとにらめっこをしながら、私はなんとか求められるものに応えていく。
まるで心だけ置いてきぼりにされているような、はたまた大切な物を根こそぎ奪われてしまったような、そんな空虚で心細い環境で、私は生きていくことに精一杯だった。
そんな日常を送っていたある日のこと。
その日は遅くまで雑誌の取材があり、帰路に着くころにはとっくに日付が変わっていた。
疲れきった体と安全面を考慮し、電車を使わずにタクシーで帰宅した私は、自宅マンションの手前で降りると、ある異変を察知したのだ。
エントランス付近に怪しい人影がある。
全身黒ずくめでキャップを深く被った、おそらくは恰幅のよい男性だ。
その人は辺りをキョロキョロと見回しながら、誰かが来るのを待っているようだった。
怪しい、怪しすぎる。
もしかして例の手紙を私のポストに入れた人物だろうか。
恐ろしい仮定が頭に浮かび、思わずその場に立ち竦んだ私は、手に持っていたスマートフォンを握りしめた。
マンションの管理人さんはとうに退勤してしまっている。
近くに頼れる人もいないし、こういうときは警察に連絡をした方がいいのかもしれない。
しかしあの人が手紙の差出人とも私のストーカーとも決まったわけではないのに、少し大げさだろうか。
不審者ではなくマンションの住人だったり、本当に誰かと待ち合わせをしているだけなら、はた迷惑な通報になってしまう。
とはいえ、このままあの人の横を通ってマンションに入るのはどうしても躊躇われた。
今からでもホテルを予約した方がいいかもしれない。
しかしもう深夜であるのに、今からでも泊まることなんてできるのだろうか。
――何かあったら些細なことでもすぐに連絡して。
これからどうするべきかを悩んでいると、ふいに千里くんの言葉が脳裏に過ぎった。
彼ならきっと、この状況から逃れるために力を貸してくれるだろう。
しかし思い直して、慌てて首を横に振る。
時刻はもう0時を過ぎているのだ。
こんな時間に電話なんて迷惑だし、すでに就寝しているかもしれない。
それにこれ以上、私の事情に彼を巻き込むことはしたくなかった。
千里くんへの発信ボタンをスマートフォンに表示させたまま葛藤を続ける。
すると、遠くに見えていた男の体がこちらへ向き、目が合ったような気がした。
悪い予感は的中し、やはり男は私を目がけて走ってくる。
逃げなくては。
頭では分かっているのに、あまりの恐怖で体が動かない。
「日下部先生ですよねっ」
「きゃっ……!」
向かってきた男に強く腕を掴まれる。
その拍子にスマートフォンが手からこぼれ、地面に落ちる乾いた音が響いた。
目の前でニタニタと笑う男に見覚えはない。
おそらく会ったことなど一度もないはずだが、この人は今、日下部先生と言っただろうか。
やはり私を待っていたのだと分かり、背筋が凍る。
「会いたかったです……! あの、俺、先生のファンで」
それから男はぼそぼそとした声で、何やら聞き取れない言葉を呟いた。
掴まれた二の腕から生温い体温が伝わり鳥肌が立つ。