「なんで今までそれを教えてくれなかったんですか……」

そんなにもイメージが悪いことを知っていたら、顔出しだろうが恋愛小説の執筆だろうが、もっと前から試していたのに。
私が恨めしげに言うと、東雲さんはきまりが悪そうに顔を顰めた。

「……あなたには、コアなファンに愛される細く長い作家生活が合っていると思っていたんです。知名度が上がりすぎると、過度な中傷を受けることや、ストーカーに悩まされるといったこともあるでしょう?」

言われてみればデビュー作が話題になったとき、私は辛辣な講評や中傷的な手紙をまともに受け取って傷ついたこともあった。
どうやら東雲さんは、そのことを懸念していたらしい。
まさかこの人が、そんな思いやりを持ってくれていたとは知らなかった。

「それになんだかんだと言って、私も日下部聖の紡ぐ物語を愛しているということですよ。無闇に消費されるより、あなたに合った売り出し方をしたかった」

照れ臭さが滲む顔を隠すように、東雲さんが眼鏡のブリッジを持ち上げる。
彼の仕草を見ながら、私は嬉しくなって笑ってしまった。

「ですがあなたは、その売り出し方に不満を持っていらっしゃるようでしたからね」

「東雲さんの気持ちは嬉しいんですけど、まあ有り体に言えばそうですね」

「そこが腑に落ちないんですよ。あなたはどちらかといえば目立つことが苦手なタイプでしょう?」

「そりゃあ私にだって作家としてもう一花咲かせたいっていう気持ちくらいありますよ。専業なんで生活もかかってますし、売れるに越したことはないですから」

それに一人でも多くの人に届けば、中学生のころの千里くんのように、私の紡ぐ物語を必要としてくれる方の手にも渡るかもしれない。
それはこの上なく作家冥利に尽きることだろう。
そこまで考えて、私は苦笑した。

ううん、そんなのはすべて綺麗事だ。
今の私は、千里くんただ一人に喜んでもらえればそれでいいと思っている。
彼のために物語を書いたと言っても過言ではないくらいなのだから。
仕事に対してとんだ私情を挟んでしまっていることに我ながら呆れていると、眼鏡の奥の東雲さんの目がかすかに細められたのが分かった。

「どうかしました?」

「日下部先生。あなた恋をしてますよね」

「は、はぁ!?」

「子供のころからあなたを見てきたんですから、それくらい分かりますよ」

感慨深いものですねと、茶化す言葉が続く。
飲んでいたブレンドコーヒーを吹き出しそうになり、私は慌てて口を押さえた。

「相手は誰なんです? 男の影なんて見えませんでしたが」

「やめてくださいよ! そんなんじゃないですから!」

「そうでなければ、あなたがいきなりあんな恋愛小説を書けるわけがないでしょう?」

「えっ? あの話って恋愛だったんですか……?」

思わず素っ頓狂な声を出してしまうと、東雲さんは怪訝な顔つきで押し黙った。
なんだこいつとでも言わんばかりの彼の視線が、私の顔へと突き刺さる。
しかし驚いても無理はないだろう。
だって私は恋愛小説を書いたつもりなんてこれっぽっちもなかったのだから。
なぜ東雲さんから快諾を得られたのか不思議でならなかったけれど、彼が初めからあれを恋愛小説だと解釈していたのならば理解できる。

……えっ、じゃあ、なんだ?
あの話が恋愛小説だと言うのなら、私が千里くんに向けているこの感情も恋情だと言うのだろうか。