千里くんにとっても分かりやすいであろう“対価”を明示すると、彼は「ああ、そのことかぁ」と照れたように笑った。
その話を知ったときから、いつか彼女の話を聞いてみたいと思っていたのだ。
それに恋の話をすれば、彼の恋愛欲を刺激できるかもしれないという打算もあった。
期待に膨らんだ目で千里くんを見つめる。
すると彼は降参というように両手を挙げてから、訥々と話し始めてくれた。

「彼女は同じ化学科の学生でね、勉強一筋って感じの、真面目で大人しい子だったよ。少し猫背で、黒縁のメガネをかけてて、いつも一人で静かに過ごしてるような子だった」

千里くんの声を聞きながら、会ったこともない女性のことを思い浮かべる。
しかし彼から語られるその人の姿は、正直、私が予想していたどの女性とも印象が違った。
彼には見るからに朗らかでかわいらしい、どちらかと言えば彼女とは正反対の女の子が似合うような気がしていたのだ。
彼自身も出会った初めのころは、そんな彼女を近寄り難く思っていたらしい。
しかしグループワークで一緒になってから、段々と話をするようになったそうだ。

「喋ってみると、けっこう面白い子でさ。好きなものの話をするときなんかは饒舌で、すごく早口になるんだ。その早口を揶揄うと、唇をギュッとつぐむように照れて、そんな仕草がかわいかった」

懐かしみながら語られる口調から、溢れるような愛しさが感じられて、私は思わず胸をときめかせた。
千里くんは、本当に彼女のことが好きだったのだろう。
誰かのことをそこまで愛することができるのならば、やはり彼にはもう一度恋をしてもらいたいと思う。

それから千里くんは、彼女とのエピソードをいろいろと教えてくれた。
彼女とは同じ分野に興味があって、よく遅くまで一緒に勉強をしていたこと。
彼の体質を理解してくれた彼女が、なるべく彼が人と接近しないように気を遣ってくれていたこと。
優しくて飾ったところがない彼女の話を聞くたび、千里くんがその人を好きになった理由もよく分かるような気がした。

「それで、2年の夏ごろかな。彼女の方から告白されたんだ。一生触れられなくてもいいから、付き合ってほしいって」

「なんて答えたの?」

「すぐには答えられなかった。俺も彼女のことを好ましく思っていたけど、俺みたいなやつが人並みに恋愛をできるとは思わなかったから」

そう言った千里くんの真っ直ぐにそろったまつ毛が徐々に伏せられていく。
その様子をじっと見つめながら、私はふと、いつか聞いた彼の寂しげな声を思い出していた。

「そういえば、彼女の心を傷つけてしまったって言ってたね」

「うん。ちょうど返事を保留にさせてもらってたころのことかな」

それは二人並んでキャンパス内を歩いていたときの出来事だったそうだ。
対向から来た集団の一人にぶつかられた彼女が、その拍子に彼の腕に掴まってしまったらしい。
そこまで聞いて、私はその結末が手に取るように分かってしまった。
「きっと予想どおりだよ」と、千里くんも自嘲ぎみに笑う。

「聖ちゃんにもやってしまったみたいに、俺は咄嗟に彼女の手を振り払ってしまったんだ。罪悪感いっぱいで謝る俺に、彼女は動揺を隠しながら必死に笑顔をつくってくれた」

「優しい人だね」

「うん。そんな優しい子の心を、俺は傷つけてしまったんだ」

もしもこの先彼女と付き合ったら、いつかきっとまた同じ顔をさせてしまう。
そう思った千里くんは結局告白を断ってしまい、そこから彼女とも疎遠になってしまったのだと言った。
……どうしよう、恋愛欲を煽るどころか、むしろ墓穴を掘ってしまったみたいだ。