「なんでもない、春休みのことです。その日、両親は仕事で出かけていて、家には俺と兄だけがいました。俺は自分の部屋で春休みの課題をしていたのですが、分からない問題があったので、兄に聞きにいったんです」

そこで、彼方さんの手がわずかに震え出したのが分かった。
自分では気づいていないのだろうか、彼はなんともないような様子で、ただ前を見据えている。
その手と表情を交互に確かめながら、私はハラハラと彼を見守ることしかできなかった。

「兄はいつもどおり、問題を分かりやすく教えてくれました。俺はそれにお礼を言ってから、少し兄と話をしようかと、兄のベッドに腰をかけたんです」

冷めた表情とは裏腹に、彼の震えは徐々に体の方へと広がっているようだった。
手にギュッと力を込めているせいか、指先が白く変色している。

「すると兄は突然、“早く自分の部屋に戻れ”と言いました。“勉強の続きをしろ”と怒りつつ、なぜだか焦った様子でした」

あまりにも苦しそうな彼方さんの姿を見ていられず、私は話を遮るように、わざとイスの音を立てながら腰を上げた。
しかしどうやらもう、彼の目に私は映っていないらしい。
焦点の合わない瞳が、ひたすら(くう)をさまよっている。

「いつもはそんなことで怒ったりしないのに“どうして”と問うと、兄は俺を思いきり突き飛ばして、覆いかぶさってきました」

「……彼方さん」

「最初は悪ふざけをしているのかと思いました。しかし兄は見たこともない恐ろしい顔つきで俺を見下ろしたんです」

「彼方さんっ」

「そして、兄は、俺に――」

「彼方さんっ……!」

淡々と話を続けようとした彼方さんは、三度目の声かけでようやく私の声に気づいたようだった。
正気に戻ったのか、彼の目がまるで信じられないものを見たかのように見開かれる。
そのこめかみからはいつの間にか尋常ではない冷や汗が流れていて、それを見た私の息をヒュッと詰まらせた。

「もうっ、もういいですっ! 震えてますっ……顔色も真っ青です!」

「……いえ、先生さえよければ、このまま話をさせてください」

「でもっ」

「いつか誰かに知ってもらいたいと思っていたんです。それがあなたであれば、これ以上のことはない」

そう言って、彼方さんはへらりと力なく笑った。
その笑顔がとてつもなく痛々しい。
胸が苦しくなるのを感じながらも、私は大人しくイスに座った。

「それから、兄は月に一度くらいの頻度で俺の体を苛むようになりました。たぶんその行為のせいで、他人の体温を気持ち悪く感じるようになったんだと思います」

「そのことを、ご両親には……?」

「もちろん言えませんでした。もしも両親に知られたら、せっかくできた家族がバラバラになってしまう。俺はそれが何よりも恐ろしかったので」

「お兄さんは、なぜそんなことを」

「一度本人に聞いたことがあります。兄は、俺を愛しているのだと言いました。そのとき、兄も行き場のない思いに悩まされているのだと知りました」

ああ、そうか。
彼が向けられていた身勝手な愛情の正体は、こんなにも重たいものだったのか。
その重さを知りたくなかったような、けれどもどこかで感じ取っていたような、不思議な感覚になりながら息を吐く。