突飛な妄想へと行きついてしまった思考を押さえつけ、これは想像力の発達した作家の悲しき性だと、心を落ち着かせるためにコーヒーを飲む。
「俺の話、役に立ちそうですか?」
ひとしきり彼方さんの話を聞くと、彼は心配そうに私の顔を窺った。
「もちろんです。彼方さんのおかげでリアルな話が書けそうな気がします」
「それならよかった」
優しく微笑まれて、はからずも赤面しそうになる。
この非恋愛体質な人間でさえ籠絡させてしまいそうな力があるのだから、彼に恋人がいないのだとしたら、やはり何かの間違いではないだろうか。
「……あの、機密事項なら仰っていただかなくて構わないのですが」
どことなく居心地が悪くなり咳払いをしていると、そんな前置きをした彼方さんが真っ直ぐに私を見つめた。
「次回作もミステリーを書かれるんですか?」
「あ、いえ……実は恋愛ものを予定しています」
“恋愛もの”という言い慣れない言葉に、舌が絡まりそうになる。
ついにそのことが話題に上ってしまったなと、古くからの読者さんの手前で照れくさく思っていると、彼方さんは意外そうに目を丸くしていた。
「……恋愛がメインのお話は、ほとんど書かれたことがなかったですよね」
「はい。昔から、そういった類の話は苦手で。ですが万人が手に取りやすいジャンルではあるので、周年記念小説にぴったりだとの戦略的な意図が編集部にありまして」
東雲さんに言わせれば、作家の等身大の恋愛話というのは、それだけで多くの読者の気を引くものらしい。
10周年記念作で、しかも作家人生初の恋愛小説と銘打てば、きっと大勢の方が手に取るはずだという打算が彼にはあるのだろう。
たしかに一理あるとは思うけれど、それは作者本人の得手不得手を度外視すればの話だ。
苦笑いをしながら担当編集との一連のやりとりを伝えると、なぜだかそれを聞いた彼方さんは、その表情を一気に曇らせてしまった。
「彼方さん……?」
「すみません。でしたらやっぱり、俺はお役に立てないかもしれません」
「えっ、そんなこと――」
「日下部先生」
いきなり強い口調で名前を呼ばれ、私の体は自然と固まった。
一体どうしたというのだろう。
彼方さんの瞳に先日と同じような影が見えて、やはり私の勘は間違っていなかったのかと、静かに息を呑む。
「本来なら、このあいだお伝えしなければならなかったことがあります。あのとき、先生を突き飛ばしてしまった本当の理由です」
「本当の理由……?」
「はい。俺、他人の体温が極度に苦手なんです。他人に触れるのも、他人から触れられるのもだめで」
あのとき咄嗟に手が出たのはそのせいなのだと、自分の右手を左手で握りながら、彼方さんは悲痛な面持ちでそう言った。
突然の話に疑問符を浮かべながらも続きを促す。
すると彼は、一語一句を確かめるように事の子細を教えてくれた。
受診をしたことはないため正確な病名は分からないが、彼はおそらく接触恐怖症というものを患っているのだそうだ。
つまりは他人の体温に、異常なほどの恐怖や嫌悪を感じてしまう体質らしい。
「先生は虫や爬虫類は好きですか?」
「いえ、まったくです。むしろヘビなんかは特に苦手で」
「俺の話、役に立ちそうですか?」
ひとしきり彼方さんの話を聞くと、彼は心配そうに私の顔を窺った。
「もちろんです。彼方さんのおかげでリアルな話が書けそうな気がします」
「それならよかった」
優しく微笑まれて、はからずも赤面しそうになる。
この非恋愛体質な人間でさえ籠絡させてしまいそうな力があるのだから、彼に恋人がいないのだとしたら、やはり何かの間違いではないだろうか。
「……あの、機密事項なら仰っていただかなくて構わないのですが」
どことなく居心地が悪くなり咳払いをしていると、そんな前置きをした彼方さんが真っ直ぐに私を見つめた。
「次回作もミステリーを書かれるんですか?」
「あ、いえ……実は恋愛ものを予定しています」
“恋愛もの”という言い慣れない言葉に、舌が絡まりそうになる。
ついにそのことが話題に上ってしまったなと、古くからの読者さんの手前で照れくさく思っていると、彼方さんは意外そうに目を丸くしていた。
「……恋愛がメインのお話は、ほとんど書かれたことがなかったですよね」
「はい。昔から、そういった類の話は苦手で。ですが万人が手に取りやすいジャンルではあるので、周年記念小説にぴったりだとの戦略的な意図が編集部にありまして」
東雲さんに言わせれば、作家の等身大の恋愛話というのは、それだけで多くの読者の気を引くものらしい。
10周年記念作で、しかも作家人生初の恋愛小説と銘打てば、きっと大勢の方が手に取るはずだという打算が彼にはあるのだろう。
たしかに一理あるとは思うけれど、それは作者本人の得手不得手を度外視すればの話だ。
苦笑いをしながら担当編集との一連のやりとりを伝えると、なぜだかそれを聞いた彼方さんは、その表情を一気に曇らせてしまった。
「彼方さん……?」
「すみません。でしたらやっぱり、俺はお役に立てないかもしれません」
「えっ、そんなこと――」
「日下部先生」
いきなり強い口調で名前を呼ばれ、私の体は自然と固まった。
一体どうしたというのだろう。
彼方さんの瞳に先日と同じような影が見えて、やはり私の勘は間違っていなかったのかと、静かに息を呑む。
「本来なら、このあいだお伝えしなければならなかったことがあります。あのとき、先生を突き飛ばしてしまった本当の理由です」
「本当の理由……?」
「はい。俺、他人の体温が極度に苦手なんです。他人に触れるのも、他人から触れられるのもだめで」
あのとき咄嗟に手が出たのはそのせいなのだと、自分の右手を左手で握りながら、彼方さんは悲痛な面持ちでそう言った。
突然の話に疑問符を浮かべながらも続きを促す。
すると彼は、一語一句を確かめるように事の子細を教えてくれた。
受診をしたことはないため正確な病名は分からないが、彼はおそらく接触恐怖症というものを患っているのだそうだ。
つまりは他人の体温に、異常なほどの恐怖や嫌悪を感じてしまう体質らしい。
「先生は虫や爬虫類は好きですか?」
「いえ、まったくです。むしろヘビなんかは特に苦手で」