将来結婚しようね、と約束した幼馴染が剣聖になって帰ってきた~奴隷だった少年は覚醒し最強へ至る~

・アイシャ視点

 私は、特になんてことのない獣人族の娘。
 大好きなお父さんとお母さんと一緒に、穏やかな時間を過ごしていた。

 お父さんのゴツゴツした手が好き。
 大きくて力強くて、頭を撫でてもらうと、とても落ち着くことができる。

 お母さんの細い手が好き。
 白くて綺麗で、その手で作る料理はとてもおいしい。
 何度もおかわりをして、お腹いっぱいになっちゃうことは何度もあった。

 朝は、お父さんとお母さんと一緒にごはんを食べる。
 今日はこんなことがしたいな、っていう私のわがままを、お父さんとお母さんは笑顔で受け止めてくれる。

 ごはんを食べた後は、お父さんはお仕事に。
 お母さんは家のお仕事をする。

 私はお母さんのお手伝いだ。
 最近、洗濯物をたたむのが上手ね、って褒められた。
 えへん。

 お昼ごはんを食べた後は、お母さんと一緒の時間。
 最近のお気に入りは、お母さんに膝枕をしてもらうこと。
 温かくて気持ちよくて、毎日してもらっている。

 夜は、お母さんと一緒にお父さんのお迎え。
 お仕事おつかれさま、って言うと、お父さんはうれしそうに笑う。

 朝と同じようにみんなでごはんを食べて、色々なお話をして……
 そして、夜は一緒に寝る。

 そんな普通の日々。
 でも、私にとっては、なによりも大切な時間。

 私は幸せだった。

 でも……

 ある日、幸せは崩れた。

 私達の里が襲われたのだ。
 相手はわからない。
 人間がいて……
 でも、それだけじゃなくて魔物もいた。

 人間と魔物が一緒になって、私達の里を襲ってきた。

 村は炎に包まれた。
 あちらこちらから悲鳴が聞こえてきて……
 私は、この世の終わりがやってきたんだ、って思った。

 私はお父さんとお母さんに連れられて逃げた。
 獣人族だから走るのは得意。
 お父さんとお母さんと一緒に、必死に走った。

 走って……
 走って……
 走って……

 でも、なにか怖いものが後ろから近づいてきた。
 なんとか逃げようとするんだけど、でも、逃げられなくて、引き離すことができなくて……
 少しずつ距離が近づいて、追いつかれそうになっていた。

 お父さんとお母さんは……足を止めた。

 先に逃げろ。
 そう言って、お父さんとお母さんは、逃げてきた道を戻った。

 一人で逃げるなんていやだ。
 そんなことできない。

 できないのに……
 そんなことをしたらいけないのに……

 私は逃げた。
 怖くて、怖くて、怖くて……
 寒気にも似た感情に突き動かされるまま、無我夢中で走り続けた。

 お父さんを置いて。
 お母さんを置いて。
 私は……一人で逃げた。

 だから、罰が当たったんだと思う。
 里を襲った怖いものから逃げることはできたけど……
 でも、それだけ。

 幸運……って言っていいのかわからないけど、それはおしまい。
 行く宛のない私は、フラフラと森の中をさまよい……
 そして、盗賊に捕まった。

 これは罰だ。
 お父さんとお母さんを見捨てた、罪深い私に対する罰。

 私は一人。
 ずっと一人。
 幸せになれないし、なったらいけない……

 ずっと。
「アイシャ?」
「……」

 アイシャはうつむいてしまい、こちらの手を取ろうとしない。
 怖かったはずなのに。
 寂しかったはずなのに。

 それなのに、なぜか我慢をしていて……
 震えながらも、一人で耐えようとしてしまう。

「わたしは……悪い子だから。こんなわたし……助ける価値なんて、ないの……」

 アイシャは、どんな想いでその台詞を口にしたのか?
 どんな背景があって、そんな台詞を口にするに至ったのか?

 彼女の気持ちがわかるなんてこと、簡単には言えない。
 わからない。
 わからないのだけど……

 それでも。
 確かに言えることが一つ、ある。

「大丈夫だよ」
「あ……」

 アイシャをそっと抱きしめた。

 幸せになったらいけない、とか。
 助ける価値がない、とか。

 そんなことはないんだよ、と伝えるように抱きしめる。
 頭を撫でる。

「僕は、そんな風に思わないから」
「でも、わたし……」
「アイシャがなにを考えているのか、わからないよ。でも、それが絶対、っていうことはないと思うんだ。勘違いしているかもしれないし、思い込んでいるだけかもしれない。だって……そうじゃないと、寂しすぎるよ」
「で、でも……」

 アイシャは、まだ迷いを振り切れないらしく、僕から離れてしまう。
 それも仕方ないと思う。
 この子は、僕が思っている以上に、重いなにかを抱えているんだと思う。

 僕にできることは、一緒に背負うか……
 支えて、楽にしてあげること。

「すぐに気持ちを切り替えるなんて、そんな無茶は言わないよ。ただ、覚えておいてほしいんだ」
「なに……を?」
「僕がいるよ」
「……あ……」
「僕だけじゃなくて、ソフィアもいる。リコリスもいる。アイシャが辛い時、悲しい時、隣に寄り添い、支えるよ。それくらいのことはできるし、させてほしい」
「……うぅ……」
「だから、おいで?」

 手を差し出した。

 アイシャは僕の手を見て……それから、自分の手を見る。
 迷っているみたいだ。

 でも、拒絶から迷いまで進むことができたのだから、あと一歩かもしれない。
 その一歩を、無理矢理に誘うことはできない。
 こればかりは、アイシャが決めるしかない。

 そうでないと、きっと、どこかで心にしこりが残る。
 やがて、それは大きくなり、後々の問題に発展すると思う。

 だから……

 アイシャ、僕の手を取って。
 心の中で強く祈り、願う。

「……っ!」

 五分ほどの迷いの後、アイシャは、そっと手を伸ばしてきた。
 恐る恐るという感じで、すごくゆっくりだ。
 でも、急かすようなことはしない。
 心の中で応援しつつ、彼女の勇気を見守る。

 そして……

 そっと、アイシャの手が僕の手に触れた。
 迎え入れるように、小さな手を優しく握る。

「がんばったね」
「……よく、わからないの。でも……」

 アイシャは、泣いているような笑っているような、そんな顔で僕を見る。

「フェイトの手……温かいね」
「フェイト! アイシャ!」

 部屋を出て少ししたところで、ソフィアと合流することができた。

 僕とアイシャが手を繋いでいるところを見て、彼女はホッとしたような顔に。

「アイシャ、よかった、無事だったのですね……!」
「わぷっ」

 ぎゅうっと抱きつかれて、アイシャがあたふたと慌てる。
 ただ、イヤがっているという感じじゃなくて、どうしていいかわからなくて、照れているみたいだ。

「ごめんなさい、アイシャ……」
「どうして……謝るの?」
「怖い思いをさせてしまいました。不安にさせてしまいました。寂しがらせてしまいました。全部、私の責任です」
「僕達の、だよ」
「そうですね……はい。ごめんなさい、アイシャ」
「……ソフィアのせいじゃ、ないよ?」

 恐る恐るという感じで、アイシャがソフィアを抱き返した。
 小さな手が彼女の体に触れる。

「ん……ソフィアも温かいね」
「ふふ、私は基礎体温が高いので」
「えっと、その……」
「どうしたのですか?」
「……もっと、ぎゅうってしても……いい?」
「はい、もちろん」
「んっ」

 甘えるような感じで、アイシャがソフィアに抱きついた。
 アイシャは女の子だから、相手が女性だと、遠慮なく甘えることができるのかもしれない。

 猫耳がぴょこぴょこ。
 尻尾がフリフリと、うれしそうに揺れていた。

 これだけで、アイシャの心の負担を全部取り除けたなんて思わない。
 でも、多少は軽くすることができたはずだ。
 この調子で、いつか、アイシャの心からの笑顔を見ることができるように、がんばりたいと思う。

「アイシャ、抱っこしてもいいですか?」
「うん」
「では、失礼しますね」

 アイシャを抱っこするソフィア。
 その顔は、とてもうれしそうだ。

 ソフィア、かわいいものが大好きだからなあ。

「ところでソフィア、会場にいたドクトルの私兵は?」
「全員、斬ってきました。あ、殺してはいませんよ? ただ、今後の人生は、色々と諦めてもらわないといけませんが」

 恐ろしい……

 でも、こんなことをするドクトルに加担するような連中だ。
 後遺症が残ったとしても、同情する気にはなれない。

「ただ、地下の敵を一掃しただけです。地上からの援軍はあると思いますし、今のうちに逃げましょう」
「そうだね。アイシャは任せてもいいかな?」
「はい、任せてください。指一本、触れさせません」

 ソフィアがそう言うのなら、アイシャは絶対に安全だ。

 彼女が剣聖だからとか、そういうところは信頼するポイントじゃない。
 ソフィアは、世界で一番信頼できる幼馴染だ。
 その彼女が言うのだから、なにも問題はない。

「いきましょう」
「うん」

 僕は剣を抜いて、先頭に立つ。
 その後ろを、アイシャを抱っこしたソフィアが進む。

 会場へ戻った。
 すでに客は逃げた後らしく、誰もいない。

 いや。
 会場の端などに私兵が倒れていて、うめき声をこぼしていた。
 全員、ソフィアにやられたのだろう。

 見た感じ、敵はいない。
 ただ、どこかに隠れていないとも限らないし、地上からの増援と鉢合わせないとも限らない。
 ソフィアとアイシャを危険に晒すわけにはいかない。
 油断することなく、注意して進もう。

「……フェイト」
「うん、わかっているよ」

 もう少しで会場の外に出る……というところで、僕とソフィアは足を止めた。
 ピリピリと刺すような殺気がぶつけられている。

「そこにいるのは誰? 隠れているのはわかっているんだけど」
「……ちっ、勘の鋭いガキだ」

 姿を見せたのは、ファルツだ。
 それともう一人、黒尽くめの男がいる。

「ここまで好き勝手しておいて、そのまま逃げられると思っていたのか?」
「……それ、僕の台詞なんだけど」

 たくさんの人に酷いことをして。
 アイシャに酷いことをして。

 その悪事の片棒を担いだファルツを見逃すつもりなんてない。
 アイシャの安全が第一で、捕まっていた人達の安全が第二。
 それらを達成した今、心置きなく戦うことができる。

 ただ……

「……むう」

 黒尽くめの男から、イヤな気配しかしない。
 例えるなら、死神と対峙したような感じ。
 濃厚な死の気配をまとっている。

「あのガキを捕らえろ、下手に傷をつけるな。男と女は殺せ」
「わかった」

 用心棒、というところかな?
 それなりの実力者であることは間違いない。
 僕の力が通じるかどうか……

 なんて迷いを抱いていたら、ソフィアがアイシャをこちらに渡してきた。

「フェイト、アイシャを頼みます。あの男は、私が相手をします」
「……うん、了解」

 ソフィアがそういう判断をしたのなら、下手に出しゃばらない方がいい。
 アイシャを代わりにおんぶして、後は彼女に全部任せることにした。

「ソフィア、気をつけてね?」
「大丈夫です。私は、剣聖ですから」
「それでも、僕にとっては大事な女の子だから」
「……」
「ソフィアの顔、赤いね」
「し、仕方ないじゃないですか。フェイトからそんなことを言われたら、その、どうしても照れてしまいます」

 アイシャのツッコミに、ソフィアは照れ照れで答えた。
 かわいい。

「じゃあ、また後で」
「はい、また後で」

 再会の約束を交わして、その場を後にした。
 アイシャをおんぶしたフェイトが会場の外に出た。

「今は放っておけ」

 用心棒のどうする? というような視線を受けて、ファルツがそう答えた。
 その視線はソフィアから外れていない。

「あのガキの確保が最優先と言われているが……しかし、ここでコイツに背を向けるわけにはいかん。女だが、剣聖の称号を持つからな」
「女だから、というのは、今時遅れた考え方ですよ?」

 ソフィアは不敵に笑い、剣を抜いた。
 聖剣ではなくて、普段から愛用している剣だ。

 あなたごとき、これで十分。
 そんな挑発が込められているのだけど、しかし、用心棒は無反応。
 怒ることはなく構えて、与えられた任務を淡々とこなそうとする。

 ……厄介な相手ですね。

 ソフィアは心の中で苦い表情を作る。
 挑発に乗るような相手なら、簡単に倒せただろうが、そういうわけにはいかないらしい。

「殺せ」

 ファルツの命令と共に用心棒が動いた。
 蜃気楼のようにその姿が消えて、風のごとき速さで側面に回り込む。

 しかし、素早いだけでソフィアの目をごまかすことはできない。
 ソフィアは左足を軸にして、体を九十度回転。
 用心棒を真正面に捉える。

 剣を構えて、踏み込む。
 そのまま、人の目に視認できないほどの速度で突撃を……

「っ!?」

 しようとしたところで、ソフィアはゾクリとした悪寒を覚えた。
 このままだとまずい。

 直感に従い、突撃は中止。
 さらに後ろに跳んで逃げる。

 ピリッとした刺激が頬に走る。

 ソフィアは視線を前に向けたまま、指先で頬を拭う。
 いつのまに切れていたのか、血が流れていた。

「いったい、なにをしたのですか?」

 用心棒も剣を構えている。
 しかし、彼の間合いに入っていないし、遠距離攻撃をしかけられた覚えもない。

「俺の攻撃は不可視の斬撃……」
「不可視の?」
「今は、運良く避けられたみたいだが……果たして、幸運はいつまで続くかな?」

 用心棒は不敵に笑う。

 その様子を見て、ソフィアは違和感を覚えた。
 なにかがおかしい。
 そう思うものの、具体的な箇所を指摘することはできない。

 なんだろう?

 モヤモヤとした感を抱く。
 ただ、今はじっくりと考えている余裕はない。

 用心棒は急加速。
 風のように距離を詰めてきて、その手に持つ剣を横に薙ぐ。

 速い。
 並の冒険者なら、なにが起きたかわからずに死んでいるだろう。
 ベテランの冒険者でも回避することは難しく、ある程度の傷を負わされているだろう。

 しかし、ソフィアにとってはなんてことのない一撃だ。
 正確に剣筋を見極めて、体を安全な位置に逃がして回避。
 カウンターの一撃を……

「くっ……!?」

 再び悪寒を覚えた。

 カウンターの突きを中断。
 強引に体を捻り、横へ跳んだ。

 それが幸いした。
 さきほどまでソフィアが立っていた場所を、なにかが通り抜けるのをハッキリと感じた。

 ビシリ、と床に剣撃の跡が刻まれる。
 用心棒の言う不可視の斬撃が走り抜けたのだろう。

 確かに見えない。

 ソフィアは動揺することなく、冷静に事実を受け止めた。
 そして、攻撃は中止。
 回避に専念をして、分析を徹底する。

 用心棒が言うように、確かに剣は見えない。
 不可視の斬撃という言葉は正しい。

 しかし、見えないからといって、絶対無敵というわけではない。
 攻撃の予兆……
 空気を裂くわずかな感覚を察知することで、回避が可能。

 不可視の斬撃は特別速いわけではない。
 用心棒の剣速と同程度。
 また、攻撃範囲も変わらない。

 見えないというだけで、その他は、普通の剣となにも変わらないのですね。

 そう判断するソフィアではあるが、攻めていいものかどうか、判断に迷う。

 不可視の斬撃の効果範囲など、だいたいのところを推測することはできた。
 しかし、それが本当に正しいかどうか、それはまだ断定することはできない。
 ここぞというタイミングを狙うため、用心棒が出し惜しみしている可能性がある。
 あるいは、今は一段階目で、二段階目、三段階目の攻撃が残されているかもしれない。

 そう考えると、迂闊な行動に出るわけにはいかない。
 いかないのだけど……

「考えるだけ無駄ですね」

 慎重になることは必要ではあるが、時に、大胆に行動しないと勝てない戦いというものがある。
 今回がそのパターンだろう。

「そろそろ、私の番です」
「ほう」

 ソフィアの言葉を聞いて、用心棒は唇の端を吊り上げた。

 歪な笑み。
 その表情からは、自分が絶対的有利に立っているという自信が見えた。

 不可視の斬撃。
 今のところ、ソフィアは致命傷を受けていないが、それも時間の問題。
 この攻撃を避け続けることはできないし、見切ることなんて、もっと不可能。
 いずれ、不可視の斬撃の前に倒れる。

 そう信じる用心棒は、改めて攻撃に移る。

「お前の番は永遠に訪れない。ずっと、俺が主導権を握る」

 用心棒は自信たっぷりに言い、剣を斜めに振る。

 速度もキレも大したことはない。
 ソフィアは半身にして斬撃を回避。

 直後、頭の中で警報が鳴る。
 空気の流れに異常。
 左右からなにかが迫る。

 素早く視線を走らせるものの、やはり、なにも見えない。
 これもまた、用心棒の不可視の斬撃なのだろう。

 ただし、

「どうということはありませんね」

 手品の種を見抜いた今、なにも問題はない。

 体をひねり、右からの不可視の斬撃を回避。
 続けて、一歩後ろに下がることで、左からの不可視の斬撃を回避した。

「ば、バカな!? 貴様、今のどうやって……」

 必殺の攻撃を完全に見切られたことで、用心棒が動揺した。

 その様子がおかしくてたまらないというように、ソフィアが笑う。

「不可視の斬撃の正体は、じっと見つめないとわからないほどの極細のワイヤーですね?」
「くっ……」
「あなたは剣士ではなくて、糸使い。剣の攻撃は全てフェイクで、糸を操ることこそが本命。なかなかに手の込んだ仕掛けでしたが、種が割れてしまえば大したことはありませんね。所詮は、ただの手品です」
「バカを言うな……俺のワイヤーは、種が割れたからといって、簡単に避けられるようなものじゃない! この技術をみにつけるために、どれだけの年月と努力を費やしたことか……!!!」
「それは、おあいにくさまでした。ですが……私は、これでも剣聖を名乗っていますので。これくらいの手品にやられてしまうほど、脆くはありません」
「くっ、ううう……ぐあああああっ!!!」

 いつの間にか立場が逆転して、追いつめられていた。
 その事実を認めたくないというように、用心棒が獣のように叫ぶ。

 そして、やぶれかぶれの突撃。

 ワイヤーを巧みに操り、全面攻撃をしかける。
 前後左右、上からもワイヤーが迫る、避けることのできない多面攻撃。
 用心棒が持つ最大の必殺技だ。

 これを使い、仕留めてきた敵は数しれず。

 しかし、

「その手品はもう見切りました」
「なぁっ!?」

 避けようのない、多面攻撃。
 逃げるスペースは欠片もないはず。

 それなのに……

 魔法でも使ったかのように、ソフィアは全ての攻撃をかすり傷一つ負うことなく避けてみせた。

 ありえない、と用心棒が目を剥くが、これは紛れもない現実。
 障害をあっさりと乗り越えたソフィアは、用心棒に迫り、剣の腹を痛烈に叩きつける。

 ゴキィッ、と骨を数本まとめて砕く感触。
 その激痛に耐えられるわけがなく、用心棒は意識を手放した。

「ば、バカな……」

 大金を払い、雇った用心棒。
 その力は、自身が知る限り最強。

 それをあっさりと倒されてしまい、ファルツは愕然とした。

 こんなはずじゃなかった。
 邪魔者を排除して、ドクトルに対する覚えを良くする。
 そして、さらに上へ登り、いずれ、冒険者協会の全てを掌握する。

 そんな野望を思い描いていたのだけど……
 ガラガラと夢が崩れていく音が聞こえた。

「さて」

 ソフィアは剣を抜いたまま、ファルツに向き直る。

「ひぃ」

 ファルツは震えた。
 猛禽類と相対しているかのような恐怖。

 いや。
 猛禽類では収まらない。
 竜に睨まれているかのような、そんな圧倒的な絶望感。

 ソフィアはにっこりと笑う。
 ただし、目はまったく笑っていない。

「安心してください、殺しはしません。ただ、フェイトを巻き込み、傷つけようとしたことは許せませ。そしてなによりも……アイシャをひどい目に遭わせようとしたことは許せません。私、あの子のことをもっと知りたいと思っているみたいなので。そんなわけで……聞きたいことや証言してほしいこと、たくさんあるので、殺しはしません。ただ……命以外のものは、色々と諦めてくださいね?」

 ……その後、屋敷中にファルツの悲鳴が響いたとか。
「よし、一階に出た!」

 どこからともなくドクトルの私兵が湧いてきて、なかなか面倒だったのだけど……
 なんとか、一階まで戻ることに成功した。

 そこで、気がついた。

「この音は……」

 この屋敷を中心にして、戦争が繰り広げられていた。

 雄叫びや悲鳴。
 剣と剣がぶつかる音。
 魔法が炸裂する音。

 地下にいたから気づかなかったけど、地上はひどい有様だ。
 魔物の大群に飲み込まれたかのように、屋敷は荒れ果てている。
 それだけの激戦が繰り広げられているのだろう。

「クリフの援軍だよね? よかった、ちゃんと派遣してくれたんだ」

 今までの経験のせいか、もしかしたら……と疑うところがなかったわけじゃない。
 なので、クリフがきちんと約束を守り、ドクトルの不正を暴くために行動してくれたことをうれしく思う。

 できれば、ドクトルも捕まえて貢献したいのだけど……
 でも、ごめん。
 今はアイシャの安全を優先させてもらうよ。

「アイシャ、しっかり僕に掴まっていてね?」
「ん」

 ぎゅっと、小さな手が僕の背中を掴む。

 この手を、もう二度と離したりしない。

 そう誓い、僕達は、戦場と化した屋敷を駆ける。
 廊下をまっすぐに進み、いくらかの角を曲がる。

 ほどなくして玄関ホールに出た。
 あとは、正面ドアから外に出ればいいのだけど……

「やあ、待っていましたよ」

 最後の難関として、ドクトル・ブラスバンドが待ち構えていた。

 その手に持つのは、漆黒の剣。
 その身にまとうは、漆黒の鎧。

 完全武装で僕達の前に立ちはだかる。

「いやはや、やられてしまいましたよ。キミは、これほど大胆な決断はできないと見ていたのですが……やれやれ、私の人を見る目も衰えてしまいましたかな」
「僕が、あなたのような悪人に本気で協力するとでも?」
「私が悪人ならば、キミは協力しなかったでしょう。しかし、私はそこらの盗賊のような悪人ではない」
「……どういう意味?」

 一連の悪事には、ドクトルなりの信念がある、ということだろうか?

「私のしてきたことは、確かに悪事でしょう。しかし、私腹を肥やすために悪事をしてきたわけではないのです」
「なら、なんのために?」
「もちろん、人々の幸せを守るために、です」

 そう言うドクトルは、本気で言っているかのようだった。

「なんの力を持たない人々が幸せになるには、優れた統治者が導いてやらなければなりません。私には、その統治者たる資格がある! 優れた素質がある! 故に、人々の上に立ち、導いていく義務があるのです」
「……まさか、そのために必要なものを手に入れるために、悪事に手を染めた?」
「その通りです。世の中、綺麗事ばかりではやっていけませんからね。上に登るためには、金が必要なのですよ」
「そんな無茶苦茶な……人を幸せにするために、人を苦しめるなんて……」

 なんて矛盾。

 しかし、ドクトルは己のしていることになにも疑いを抱いていないようだ。
 絶対的に自分が正しいと、信じ込んでいる。

 この人は……ダメだ。
 価値観が独善すぎる。
 魔物と同じで話がまったく通じない。

「今回のことで、けっこうな痛手を受けましたが……しかし、まだ挽回は可能。目障りな動きをするクリフを含めて、反逆者を根絶やしにすればいい。そうすれば、私に逆らう愚か者は消える。おや? そう考えると、これはこれで良い機会なのかもしれませんね」
「……」
「そこで、改めて提案するのですが……今からでも遅くはありません。私の元につきませんか?」
「そんな提案、受け入れるとでも?」
「キミには才能がある。あの剣聖を超えるような、とてつもない才能が。殺してしまうには惜しい」
「……」
「そして、その娘を利用すれば、さらなる力を手に入れることができる」
「アイシャを?」
「強くなりたくありませんか? 誰にも負けることのない、絶対の力を手に入れたくありませんか? ならば、私の手を取るのです。さあ、一緒に……」
「断るよ」

 楽しそうにペラペラと喋るドクトルの言葉を遮り、即答した。

 片手で剣を構えて、片手でアイシャをしっかりと支える。

「あなたは、なにか勘違いしているみたいだけど……僕が欲しいのは力なんかじゃないよ」
「ふむ? ならば、なにが欲しいのですか? 金ですか? 女ですか? 名声ですか?」
「あなたには絶対にわからないものだよ。だから、あなたの仲間になるなんていうことは、絶対にない」

 言い放ち、剣の切っ先をドクトルに向けた。

 ドクトルは、無言でそれを見て……
 ややあって、ため息をこぼす。

「やれやれ……私に敵対するとは、なんて愚かな。見どころがあると思いましたが、それは力だけ。心は、とことん未熟のようですね」
「これで未熟って言われるのなら、未熟でいいよ。あなたのような、卑怯で汚い大人になんてならない」
「交渉決裂ですね」

 ドクトルの顔から笑みが消えた。

「存分に殺し合いをしよう……と言いたいところですが、その前に、その娘は背中から下ろした方がいいのでは?」
「その間に、アイシャをまたさらうつもり?」
「そうしたいところですが、あいにく、私の部下は外の相手で手一杯でしてね。ここにはいませんから、安心してください。ただ単に、巻き込んでしまうと私が困るのですよ」

 どうして、ドクトルはアイシャのことを気にかけるのだろう?
 純粋に心配している、なんてことは絶対にないだろう。

 奴隷として扱われていない。
 やけに待遇が良いなど、気になるところはある。

 ただ、それらの謎の解明は後回し。
 今はドクトルという壁を乗り越えることを考えよう。

「アイシャ、部屋の端に机が見えるよね? あそこに隠れてくれないかな?」
「うぅ……で、でも」
「大丈夫、怖がることはないよ。ちょっとだけ待ってて。そうしたら、僕が外に連れ出してあげるから」
「……うん」

 涙目になりながらも、アイシャは僕の背中から降りた。
 何度も振り返りつつも、部屋の端にある机の影に隠れる。

 ひょっこりと顔を出して、こちらを見る。
 すごく心配しているみたいだけど、でも、僕の言いつけを守り、動く様子はない。

 これなら、思う存分に戦える。

「さあ、覚悟してもらうよ!」
「……くっ、ははは、あはははははっ!!!」

 ドクトルが笑う。嗤う。嘲笑う。
 おかしくて仕方ないというかのように、表情を歪ませる。

 その顔は……
 さながら、悪魔のようだった。

「才能があるとはいえ、まだ雛鳥も同然。そのような小僧が、吠えてくれますね」

 ドクトルが剣を構えた。
 瞬間、強烈な圧が吹き荒れる。

「愚かにも私に逆らったこと……煉獄にて後悔するがいいっ!!!」
 ドクトルが力強く吠えた。
 同時に床を蹴り、突撃。

 速い!?

 視認できないというほどじゃないけど、気を抜けば見失ってしまいそうなほどだ。
 ソフィアに稽古をつけてもらっていなかったら、危なかったかもしれない。

「くっ!」

 避けることは難しい。
 雪水晶の剣を盾代わりにして、ドクトルの攻撃を受け止める。

 ギィンッ!!!

 耳に残るような高い音が響いた。
 それと同時に、手が痺れ、吹き飛ばされる。

 なんていう馬鹿力!
 なんとか防ぐことに成功したけれど、完全には無理。
 吹き飛ばされて、体勢も崩してしまう。
 剣を手放さなかったことは不幸中の幸いと見るべきか。

「もう終わりか!」
「そんなことっ!」

 即座に追撃に移るドクトルは、再び、超速の突撃を見せた。

 ただ、それは二度目。
 同じ動きを即座に繰り返すものだから、ある程度、予測することができた。

 横へ転がるようにして回避。
 続けて絨毯を掴み、おもいきりまくり上げる。

「むぅ!?」

 これは予想外だったらしく、絨毯の上に乗っていたドクトルがわずかにバランスを崩す。
 その隙に立ち上がり、剣を構え直す。

「ちょっとちょっと、フェイトってば劣勢じゃない。大丈夫?」

 今まで様子を見守っていたリコリスが、ようやく我に返った様子で、慌てて問いかけてきた。

「正食、あまり余裕はないかな……」
「あたしも、なにかしましょうか?」
「ううん。それよりも、リコリスはアイシャの近くにいてあげて。心細いだろうし……それに、いざという時はなんとかしてほしい」
「……ホントに大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「……信じたわよ。アイシャのことはあたしに任せて、フェイトは、さっさとアイツを倒しちゃいなさい!」

 ふわりと飛んで、リコリスはアイシャのところへ。

 そのタイミングで、ドクトルも体勢を立て直した。

「やりますねえ……高い身体能力だけではなくて、とっさの機転もすばらしい。頭の回転も早く、度胸もあり、応用力も高い。ははは、本当に惜しい。ここで殺してしまうのが、とても惜しいですよ」
「あなたの方こそ、そんなに強いなんて驚きだ」
「言っていませんでしたが、これでも、元Sランクの冒険者ですからね。あの剣聖ほどではありませんが、私もそれなりに活躍していたのですよ?」
「だからこそ、最後は自分で戦う……か」

 厄介な相手だ。

 ソフィアは、僕はSランク相当の実力があると言った。
 そして、ドクトルも元Sランク。

 実力は同じ……じゃない。
 僕は身体能力が優れているだけで、剣の技術、戦闘技術はまだまだ拙い。

 対するドクトルは、どちらの技術もかなり鍛えられている。
 条件次第では、ソフィアに匹敵するかもしれないほどの強者だ。

 身体能力は互角。
 技術は相手の方が上。
 冷静に状況を分析するのなら、ピンチかもしれない。

 それでも。

「今ならまだ、考え直す機会を与えてもいいですが……」
「何度でも言うよ。お断りだね!!!」

 今度はこちらから踏み込んだ。
 全体重を乗せるようにして、右足を前へ。
 そのまま体を傾けるようにして、深く低く駆ける。

 傾けた剣を、下から上へ。
 半円を描くように振り上げた。

「ほう、これはなかなか」

 ドクトルは感心したような声を漏らしつつ、僕の剣を冷静に受け止めてみせた。
 そのままカウンターに移ろうとするが、

「させない!」

 さらに連続で剣を叩き込む。
 技術なんてない、力任せのデタラメな剣技だ。

 それでも、威力だけはある。
 ドクトルは防御に専念せざるをえなくて、カウンターに移ることができない。

 体力はあるから、このまま攻撃を続けることは可能だ。
 この勢いで押し切り、勝つとまではいかないものの、ある程度のダメージを与えない。

 そんなことを思うのだけど……しかし、思い通りにならないのが現実というものだ。

「……はははっ」

 ドクトルが楽しそうに笑い、

「っ!?」

 瞬間、ものすごく嫌な予感がして、僕は攻撃を中断して大きく後ろへ跳んだ。

 なんだろう、今のは……?
 あのまま攻撃をしていたら、なにもわからないままやられてしまうかのような……
 そんな死の予感を覚えた。

「キミは、本当に素晴らしい力を持っているのですね。この私を相手に、持ちこたえるだけではなくて優位に立つとは」
「……負けを認めるのなら、おとなしく投降してくれないかな?」
「まさか。いつ私が負けを認めたと? 負けを認めるべきは、キミの方だ。さあ……最後の警告です。私に下りなさい。でなければ……殺す」
「くっ……」

 思わず背中が震えてしまうほどの濃厚な殺気が叩きつけられた。
 こんな殺気をまとうことができるなんて、コイツ、本当に人間か?

 でも、折れてやるわけにはいかない。
 僕だけじゃなくて、アイシャの運命がかかっているんだ。
 絶対に負けてやるものか。

 言葉を返さずに、代わりに剣を構えてみせた。

「やはり、そうなりますか……惜しいですが、仕方ありませんね。味方になるのなら心強いが、敵になるというのなら、キミはとても厄介な人間だ。ここで確実に殺しておくとしよう」
「できるとでも?」
「ええ、できますとも……この魔剣があればね」

 ドクトルは冷たく笑い、今までずっと腰に下げていた、もう一本の剣を抜いた。

 その刀身は、闇を凝縮させたかのように黒く。
 柄に埋め込まれた宝玉は、血のように赤い。

 そして、まとうオーラは死の匂いを濃厚に漂わせていた。

「魔剣ティルフィング……その力、その身を持って味わうがいい!!!」
 魔剣?
 ティルフィング?

 そんなもの聞いたことがない。
 名前からして、聖剣と似たようなものなのだろうか?

 よくわからないけど、警戒するに越したことはない。
 僕は剣をしっかりと構え直して、ドクトルの動きを注視する。

 注視していたのだけど……

「さあ、死になさい!」
「……え?」

 気がつけば、ドクトルが目の前に迫っていた。

 速いなんてものじゃない。
 時間を止められたかのように、気がつけば目の前にいて……
 彼の動きを目で追うことができない。

 ゴォッ! と斬撃が迫る。

 受け止め……ダメだ!
 そんなことをしたら死んでしまう。

「くぅっ!!!」

 僕は、咄嗟に予備の剣を抜いて、デタラメに、しかし全力で迎撃する。

 予想通りというか、持ちこたえられたのは一瞬だけ。
 予備の剣は負荷に耐えることができず、半ばからへし折れた。

 ただ、ドクトルの斬撃を一瞬ではあるけれど、遅らせることに成功。
 その一瞬で、僕は体を安全地帯に逃がした。

「このっ!」

 逃げに回っていたら、ドクトルを倒すことができない。
 それ以前に、ヤツの攻撃を止めないと。
 このまま一気にたたみかけられれば、そのまま押し切られてしまう。

 そう判断して、最後の予備の剣で斬りかかる。

「神王竜剣術・壱之太刀……」

 ありったけの力を込めて。
 今の自分にできる最大の技を叩き込む。

「破山っ!!!」

 殺してしまうかも、ということを考えている余裕はない。
 全力で挑まなければ、逆こちらが喰われてしまう。

 そんな死の予感があった。

 だから、全力を出したのだけど……

 ギィンッ!

 再び刀身が根本から折れて……
 それだけに終わらず、長年雨ざらしにしたかのように、ボロボロと崩れていく。

 いったい、なにが!?

 理解するよりも先に、ドクトルが動いた。
 口元に冷たい笑みを貼りつけつつ、魔剣と呼ぶ漆黒の剣を振る。

 一撃目は上体を逸らすことで回避。
 続く二撃目は、そのまま体を横に傾けて、倒れるようにして避ける。

 しかし、三撃目。
 こちらは体勢を完全に崩しているため、これ以上、体を逃がすことはできない。

 この剣でもダメだとしたら……!

 半ば祈るような思いで、雪水晶の剣を抜いて、ドクトルの魔剣を受け止めた。

 まるで巨岩を受け止めたかのよう。
 予想以上の圧に押し切られて、潰されてしまいそうだ。
 それでも踏みとどまり、全身の力を振り絞り対抗する。

「こっ……のぉおおおおお!!!」

 両足でおもいきり地面を蹴る。
 さらに上半身を前に倒すようにして、ドクトルの剣を押し返した。

 多大な負荷がかかっているはずなのに、雪水晶の剣はなんとか耐えてくれて……
 かろうじて、ドクトルの剣を弾き返すことに成功する。

「へぇ、なかなかやりますねえ。まさか、魔剣の力を弾き返すとは」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……その剣は、いったい?」
「ふふっ、おもしろいでしょう? 単に切れ味が鋭いだけではない。持ち主に絶大な力を与えてくれる、最強の剣なのですよ。そう、これこそが魔剣!」
「そんなものが……」

 なるほど、と納得する。
 ドクトルは元凄腕の冒険者というが、引退してそれなりの時間が経っているはず。
 日々、稽古をしていたとしても、これだけ戦えるのはおかしい。

 その魔剣が力を与えているのだとしたら、納得だ。

 とはいえ、そんなものがあるなんて、聞いたことがないんだけど……
 ソフィアが持つ聖剣でさえ、持ち主の能力を強化するなんてことはない。

「惜しむべきは、これでもまだ、本来の力を発揮していないところでしょうか」
「それだけの力がありながら、まだ不完全だって……?」

 恐ろしい。
 思わず体が震えてしまう。

 でも、それだけじゃなくて……
 なんとしても、ここでドクトルを止めないと、という気持ちが湧き上がる。

「フェイト、そんなヤツ、さっさとやっつけちゃえー!」

 リコリスの声援が飛んできた。
 不思議なもので、一人じゃないと思い、まだまだがんばろうという気持ちになる。

「ストレングス!」

 体が淡い光に包まれた。
 若干、体が軽くなったというか、力が湧いてくるというか……
 これはいったい?

「身体能力を強化する魔法をかけたわ! 大幅なパワーアップとはいえないんだけど、でも、ないよりはマシでしょ?」
「うん。ありがとう、リコリス」

 これならなんとかなるかもしれない。
 雪水晶の剣をしっかりと構える。

「準備は終わりましたか?」

 ドクトルは、万全の状態の僕を叩きのめしたいのだろう。
 わざわざこちらの体勢が整うのを待っていた。

 ニヤニヤとした笑みは、悪意に満ちている。

 負けてたまるものか。
 こんな男を野放しにしておけないし……
 なによりも、アイシャのために。

 彼女を自由にするため、今ここで、ドクトルの野望を打ち砕く!

「いくぞっ!」

 僕は気合を入れ直して、床を蹴る。
 さきほどよりも早く、鋭く踏み込む。
 二倍……いや、三倍くらいだろうか?

 それくらいの速度でドクトルに迫る。

「はぁっ!!!」

 剣を縦に振り下ろす。
 自分でも、これはかなりものだ、と思えるくらいの一撃。

 しかし、ドクトルには届かない。
 体を軽く動かすだけで、絶妙なタイミング、間合いで回避されてしまう。

 反撃は……ない。

 ドクトルはニヤニヤと笑うだけで、回避に専念していた。
 たぶん、バカにしているのだろう。
 お前の力なんてたいしたことはない、その剣が届くことはない。
 だから、諦めてしまえ。

 そんなところだと思う。

 でも、絶対に諦めてやるものか。
 その余裕、慢心が失敗だって教えてやる。

「ほらほら、どうしたのですか? 私を倒すのでは?」
「倒してみせるよ!」

 何度も何度も剣を振る。

 縦に。
 横に。
 斜めに。
 真正面に。

 ありとあらゆる角度から斬撃……時に、突きや薙ぎを織り交ぜて叩き込む。
 剣筋はデタラメなのだけど、手数は相当なものだと思う。
 これを防ぐことができる人物は、身近ではソフィアしか思い浮かばない。

 それなのに……届かない。
 ドクトルは全ての攻撃を防いでみせる。

「ふむ、悪くない」
「くっ」
「ただ、まだまだですね。その身体能力は恐ろしいとさえ思うが、しかし、技術がまるで伴っていない。なればこそ、この私と魔剣の力に届くことはない」
「……それはどうかな?」
「なに?」

 確かに、僕の技術は拙い。
 ソフィアは身体能力を褒めてくれたけど、剣技については、まだ合格をもらったことがない。

 だから、手数で攻めるしかない。
 がむしゃらに剣を振るうしかない。

 ただ、それだけで勝てるなんて勘違いはしていない。
 手数を増やしても足りないことはわかりきっていたことなので、一つ、罠にハメてやることにした。

 その罠というのは……

「なっ!?」

 ドクトルの驚きの声。
 壁面に設置された巨大な灯りが、ドクトルに向けて倒れてきた。

 僕は、ただ単にがむしゃらに剣を振っていたわけじゃない。
 数撃に一度の割合で、こっそりと壁面に設置された灯りを支える台を傷つけていた。

 そして、ドクトルをそちらへ誘導。
 タイミングを見計らい、台を破壊して奇襲へ導いた……というわけだ。

「この!」

 無論、こんなことで倒せるなんて思っていない。
 ドクトルは魔剣を振り、自分の体ほどもある巨大な灯りを粉々に砕いてみせた。

 なんていう威力。
 なんていう技量。
 素直に恐ろしいと思う。

 ただ……今は隙だらけだ!

「神王竜剣術・壱之太刀……破山っ!!!」

 今の僕が持つ、最大最強の技を叩き込む。

 ゴガァッ!!!

 強烈な破壊音。
 衝撃波が撒き散らされて、土煙が舞う。

 これならば……と思うのだけど、すぐにその考えを捨てた。
 ドクトルは、元凄腕冒険者。
 おまけに、魔剣という得体のしれない力を手に入れている。
 これで終わってくれるような簡単な相手じゃないだろう。

 僕は後ろへ跳んで距離を取る。
 剣を構えて、いつでも動けるように、ドクトルがいた場所を睨みつける。

「……」

 ほどなくして土煙が晴れて……
 無傷のドクトルが姿を見せた。

「うそぉ……」

 あれで終わりとは思っていなかったけど、それでも、多少のダメージは与えたはずと思っていた。
 思っていたんだけど……

 まさか、まったくの無傷だなんて。

 これは……やばい。
 ゾクリと背中が震える。

「……やってくれましたね」

 ドクトルの声には怒りが満ちていた。
 ダメージこそないものの、僕にしてやられたことで、プライドがひどく傷ついたらしい。

 こちらを睨みつけてくる。
 その瞳は殺気が乗せられていて、気の弱い人ならそれだけで失神してしまいそうだ。

「今のは危ないところでした。魔剣の力がなければ、私はキミにやられていたでしょう」
「……できれば、そのままやられてほしかったんだけど」
「それはできない相談ですねえ。しかし……惜しい、実に惜しい」

 ドクトルの怒気がさらに強くなる。

「キミならば、私の片腕となれたかもしれないのに……そんなキミを殺さないといけないなんて」
「くっ……!」
「この私に、一瞬でも恐怖を与えた罪は重いっ!!!」

 僕は勘違いしていた。

 ドクトルは……まだ本気を出していなかった。
 犬や猫を相手にするように、遊んでいただけだった。

 ドクトルの姿が消える。
 あまりの速さで、僕では視認することができない。

 なにもできないまま、なにもわからないまま、僕はドクトルの凶刃を受けて……

 ギィンッ!

「大丈夫ですか!?」

 死角外からの攻撃を、咄嗟に割り込んできたソフィアが受け止めた。