広い部屋の奥に壇が設けられていて、そこに明かりが集中していた。
照らされているのは、ボロ布だけを着せられた女性や幼い子供達。
首輪と手枷、足枷をつけられた状態で並ばされている。
その手前に、椅子に座り、ニヤニヤと笑う人達が。
いずれも宝石などを身に着けていて、自分はお金をたくさん持っているぞ、とアピールしているかのようだ。
「二万!」
「二万五千!」
「いや、私は五万だ!」
ここがオークション会場で間違いないだろう。
歪な熱気に包まれていて、欲望が渦巻いていて……
吐き気を催すほどにおぞましい、と感じる。
壇上にいる人は、僕達と同じ人間なのに……
それなのに、物のように扱い、踏みにじろうとする。
かつての自分の境遇を思い出して、胸の奥から熱いなにかがこみ上げてくる。
「っ……!!!」
奴隷らしき女性の人は、声を出すことなく静かに泣いていた。
子供達は怯えて、涙目になっていた。
それを見た時、僕の中でなにかがキレた。
「……ソフィア、リコリス」
「はい」
「クリフへの連絡は?」
「もうしておきました」
「確か、準備があるから、突入まで三十分くらいかかるのよね?}
「そうですね、そう聞いています」
事前の打ち合わせでは……
クリフ達の突入に合わせて、僕達も内部から攻撃を開始。
アイシャや他の人達の安全を確保しつつ、ドクトルやファルツの確保、という流れだった。
そういう計画になっていたのだけど……
「……ごめん。僕は、三十分も我慢できないかも」
こんな光景を見せつけられて、じっと耐えることなんてできない。
一分でも一秒でも早く、あの人達を助けたい。
自由にしなければならない。
そんな使命感と……
こんなものを企画するドクトル達と、参加する客達に対する怒りと……
色々な『熱』がこみ上げてきて、心を強く突き動かす。
雪水晶の剣の柄に手をかける。
「僕は、今すぐにあの人達を助けるよ」
「それでいいの?」
リコリスが厳しい顔をして問いかけてきた。
「計画を乱すようなことをしたら、ドクトルに逃げられちゃうかもしれないわよ? そうしたら、また同じことが別の場所で起きるかもしれない。それなのに、いいの?」
「……リコリスの言うことは正しいよ」
考えて考えて考えて……
それから、答えを出す。
僕の答えは、やはり変わらない。
「でも、女性が泣いているんだ。子供が泣いているんだ。それを見過ごすことはできない。大義のためだから、もう少し苦しい思いをしてほしい、我慢してほしいなんて、そんなこと言えるわけがないよ」
「……ふふんっ」
その答えを待っていたと言うかのように、リコリスがニヤリと笑う。
「良い返事ね。そういうの、あたしは嫌いじゃないわ」
「それじゃあ……」
「あたしはフェイトに賛成。協力してあげる。人間のことは、まあ、どうでもいいんだけど……この光景は、さすがのあたしもムカつくわ」
「ソフィアは……」
「私の答えなんて、最初から決まっていますよ」
ソフィアも剣の柄に手を伸ばした。
「私は、フェイトが望むことに力を貸して、全部を叶えます。それが、私がやりたいことですから。使命と言ってもいいですね。それに……」
ソフィアの目尻が吊り上がり、殺気をまとう。
「このような非人道的な行為、断じて見逃すことはできません。即座に叩き潰さないといけません。全員、叩き切りたいです」
「お、落ち着きなさいよ? 許せないのはあたしも同じだけど、皆殺しはさすがに……」
ソフィアが放つ殺気に、リコリスがちょっと引いていた。
「冗談です。証言なども必要でしょうから、殺しはしません」
「ほ……」
「半年、入院コースですね」
「それはそれで、どうなのかしら……?」
バイオレンスな幼馴染だった。
まあ、気持ちはわかるというか、同じなのでなにも言わない。
止めることもしない。
むしろ、やっちゃえ、という気持ちだ。
「リコリスは僕と一緒に。あの人達を助けた後、保護することはできる?」
「んー……たぶん、平気よ。あたしは、なんでもできる万能ミラクルアイドルリコリスちゃんだもの。結界を張ることもできるわ。ただ、フェイトやソフィアみたいなのが出てきたら、さすがに持ちこたえられないけど」
「そちらは、私に任せてください。警護や用心棒など、全て斬ります」
「……さっきも言ったけど、手加減はしなさいよ?」
「気が向けば」
ソフィアの機嫌が少しでも良くなることを祈ろう。
「まずは、すぐにこの場を制圧。それから、アイシャの救出。余裕があれば、ドクトルとファルツの確保。それでいいかな?」
「はい」
「いいわ」
「よし、それじゃあ……」
アイコンタクトを交わす。
それから、心の中でカウントダウンスタート。
3……
2……
1……
「今っ!」
合図を口にしつつ、僕は間の通路を一気に駆け抜けて、壇上に乱入した。
「おや? あなたは……」
司会者が僕に気づいて、不思議そうな顔に。
たぶん、ドクトルから話は聞いているのだろう。
味方だと思っているらしく、不思議そうにしてはいるものの、慌ててはいない。
好都合。
隙だらけなので、遠慮なくやらせてもらうよ。
「ぐぁ!? な、なにが……」
足を斬りつけて、ついでに腕も斬る。
切断したわけじゃないから、ひどい出血じゃないし、死ぬことはないだろう。
でも、すぐに動くことはできないはずだ。
「あ……うわあああああっ!?」
「きゃあああっ、な、なに!? なにが起きているの!?」
突然の事件に、客達が騒ぎ始めた。
中には、判断が早い者もいて、出口に向かい逃げ出そうとしている。
しかし、無駄。
一人も逃さないように、出口はリコリスの魔法で施錠しておいた。
なにも能力を持たない一般人なら、逃げることは不可能だ。
今のうちに、やるべきことをやる。
「あ、あなたは……」
「助けに来ました。じっとしててください」
捕まっていた人達も驚いて、怯えていた。
敵じゃないことを証明するために、なるべく優しい声でそう語りかけて、それぞれを縛る枷を切り落としていく。
奴隷の首輪だとしたら、僕じゃあ切ることはできないんだけど……
まだ奴隷として売られる前なので、契約は完了していない。
彼女達を縛るものは普通の鉄製のものなので、順次、切断して自由にしていく。
「あ……ほ、本当に、私達を助けてくれるんですか……?」
「わたし、おうちに帰れるの……?」
「はい。もう大丈夫です」
「あ、あああぁ……! ありがとうございますっ、ありがとうございますっ」
女性は涙を流して喜び、子供達もつられて泣き出してしまう。
それだけ怯え、苦しみ、傷ついていたのだろう。
改めて、こんなことを企むドクトルとファルツに強い怒りを覚える。
「リコリス、この人達を」
「りょーかい、任せておきなさい!」
リコリスはふわりと飛び上がると、ぶつぶつとなにかつぶやいた。
すると、捕まっていた人達を包み込むかのように、光のカーテンが現れる。
これが結界なのだろう。
軽く触れてみると、強い抵抗力を感じた。
水の中にいるかのように、思うように手を進めることができない。
しまいにはぴたりと止まり、それ以上は進めなくなる。
「この結界、すごいね。前に進むことができないよ」
「ふふーん、でしょ? そうでしょ? すごいでしょ? まっ、天才美少女キューティービューティー妖精リコリスちゃんの特製結界だもの。そんじょそこらのヤツじゃ突破することはできないわ」
これなら安心だ。
次は、アイシャだけど……
「てめえ、裏切るつもりか!?」
「台無しにしやがって……ぶっ殺す!」
激怒するドクトルの私兵達が現れた。
それぞれに武器を持ち、突撃してくるのだけど……
「私を忘れないでくださいね?」
一陣の風が吹いた。
「ぎゃあああ!?」
「ぐあ!?」
「げはぁっ!?」
ソフィアが一瞬で三人を迎撃して、地に叩き伏せた。
うめき声をこぼしているところを見ると、一応、手加減はしたみたいだ。
ただ、手足が変な方向に曲がっていて……
たぶん、荒事に関わることは二度とできないだろうな。
「さあ、私が相手をしてあげます。どこからでも、いつでもかかってきなさい。ただし……」
ソフィアは剣を構える。
そして、鋭く睨みつけた。
「今の私はだいぶ不機嫌なので、相応の怪我を覚悟してくださいね?」
凍てつくような殺気に、私兵達は顔を青ざめさせた。
あの様子なら問題はないかな?
やりすぎてしまわないか、という心配はあるのだけど……
まあ、そうなったら、それはそれでいいか。
こんな連中に同情する要素はゼロだ。
「じゃあ、あとはお願い。僕は、アイシャを探しに行くよ」
「はい、ここは任せてください」
「しっかりやりなさいよ」
二人のエールを受けて、力を分けてもらったような気分だ。
今ならなんでもできそう。
「くっ……こ、このようなことをして、タダで済むと思っているのですか……!?」
司会者が体を起こして、こちらを睨みつけてきた。
しぶとい。
いっそのこと、バッサリと……
なんて乱暴な考えが浮かんでしまうものの、それは我慢。
無抵抗の相手をというのは、さすがにやったらダメだ。
「ドクトルさまに逆らうなんて愚かなことを……! 断言しましょう、あなた達は、アリのように踏み潰されるでしょう!」
「……タダで済むと思うのか、っていう台詞だけど、それは僕の台詞だよ」
放っておけばいいのだけど、でも、そこだけは見逃すことができず、睨みつける。
「たくさんの人にひどいことをして、アイシャにもひどいことをして……そうやって好き勝手して、タダで済むと思わないでくれるかな? 絶対に、落とし前はつけさせる!」
「っ……!?」
司会者がビクリと震えて、押し黙る。
「はー……フェイトってば、怒ると怖いのね」
なにやらリコリスのそんな台詞が聞こえてきたけど、気にしないことにする。
それよりも、今はアイシャだ。
早く助けて、安心させてあげないと!
「はぁっ!」
こちらに向かう私兵を薙ぎ払う。
剣を棍棒のように使うという荒業。
一応、ここにいる全員は捕まえて、きちんとした裁きを受けさせなければならない。
なので、できる限りは命はとらないようにしていた。
身体能力はともかく、僕の剣の技術はまだまだ拙い。
そんな僕が、大勢を相手に手加減をできるというのはリコリスのおかげだ。
「フェイト、次、五秒後に部屋から出てくるわ!」
「了解!」
妖精だけが使える魔法で、リコリスは、いつどのタイミングで敵がやってくるかわかるらしい。
いわば、ナビだ。
そのおかげで、奇襲を受けることはないし、逆に奇襲をしかけることができる。
本当に頼もしい。
敵を打ち倒して。
障害を排除して。
ぐんぐんと突き進む。
そして……
「ここ……かな?」
地下の最奥の部屋。
そこに、一際厳重な扉が見えた。
一部、扉に窓がついていて、中の様子を確認できるようになっている。
そこから中を覗いてみると……
「アイシャ!」
「……ふぇ?」
ベッドで膝を抱えるアイシャの姿が見えた。
窓一つない部屋。
ただ、ひどい扱いは受けていないみたいで、傷はないように見える。
「ふぇい……と?」
アイシャは信じられないものを見るような顔に。
たぶん、僕に見捨てられたと思っているのだろう。
そして、今更なんでここに? と疑問を抱いているのだろう。
胸がズキリと痛む。
幼い彼女の信頼を裏切るようなことをしてしまうなんて……
もう二度と、そんなことはしない。
誰にも踏みにじらせない。
固く誓った。
「アイシャ、危ないから扉から離れて」
「え……?」
「大丈夫、怖いことはなにもないから」
「えと……う、うん」
アイシャは戸惑った様子を見せつつも、部屋の奥に移動してくれた。
よし。
これで、遠慮なくおもいきりやれる。
「神王竜剣術・壱之太刀……破山っ!!!」
何者も寄せつけないような頑丈な扉だけど……
ソフィアが教えてくれた剣術に敵うことはなくて、一気に吹き飛んだ。
ゴォッ! という轟音。
埃が舞い上がる。
「アイシャ、おまたせ」
「おま……たせ?」
部屋に入り、奥にいるアイシャの前へ移動する。
やはり、彼女は不思議そうにしていた。
「なんの、こと……?」
「ごめんね、こんなことになって。信じてもらえないかもしれないけど、僕達はアイシャを見捨てたわけじゃなくて……いや、これは言い訳だね。とにかく、ごめん。怖い思いをしたよね?」
「ふぇ……」
「でも、今度こそ大丈夫だから」
アイシャの小さな手をそっと握る。
「もう、絶対に離さないから」
「……」
アイシャのつぶらな瞳が僕に向いた。
次いで、繋いだ手を見る。
「……一緒に、いてくれる?」
恐る恐るという感じで、小さな声で問いかけてきた。
「わたし、一人ぼっちで……イヤ、だから……一緒にいてほしいの」
「もちろん」
「……っ……」
「今度こそ約束するよ。一緒にいるから。絶対にこの手を離さないよ」
「ホント……?」
「本当」
じっと見つめられる。
僕の言葉の真偽を確かめようとしているかのようだ。
じーっと見つめて……
それから、おもむろに顔を近づけてきた。
すんすんと匂いを嗅ぐ。
「アイシャ……?」
「本当の匂い……それに、落ち着くの」
アイシャは元の位置に戻ると、
「……でも、やっぱりわたしは」
アイシャは、
「幸せになったらいけないの……」
今にも泣き出しそうな顔をしつつ、そんなことを言うのだった。
・アイシャ視点
私は、特になんてことのない獣人族の娘。
大好きなお父さんとお母さんと一緒に、穏やかな時間を過ごしていた。
お父さんのゴツゴツした手が好き。
大きくて力強くて、頭を撫でてもらうと、とても落ち着くことができる。
お母さんの細い手が好き。
白くて綺麗で、その手で作る料理はとてもおいしい。
何度もおかわりをして、お腹いっぱいになっちゃうことは何度もあった。
朝は、お父さんとお母さんと一緒にごはんを食べる。
今日はこんなことがしたいな、っていう私のわがままを、お父さんとお母さんは笑顔で受け止めてくれる。
ごはんを食べた後は、お父さんはお仕事に。
お母さんは家のお仕事をする。
私はお母さんのお手伝いだ。
最近、洗濯物をたたむのが上手ね、って褒められた。
えへん。
お昼ごはんを食べた後は、お母さんと一緒の時間。
最近のお気に入りは、お母さんに膝枕をしてもらうこと。
温かくて気持ちよくて、毎日してもらっている。
夜は、お母さんと一緒にお父さんのお迎え。
お仕事おつかれさま、って言うと、お父さんはうれしそうに笑う。
朝と同じようにみんなでごはんを食べて、色々なお話をして……
そして、夜は一緒に寝る。
そんな普通の日々。
でも、私にとっては、なによりも大切な時間。
私は幸せだった。
でも……
ある日、幸せは崩れた。
私達の里が襲われたのだ。
相手はわからない。
人間がいて……
でも、それだけじゃなくて魔物もいた。
人間と魔物が一緒になって、私達の里を襲ってきた。
村は炎に包まれた。
あちらこちらから悲鳴が聞こえてきて……
私は、この世の終わりがやってきたんだ、って思った。
私はお父さんとお母さんに連れられて逃げた。
獣人族だから走るのは得意。
お父さんとお母さんと一緒に、必死に走った。
走って……
走って……
走って……
でも、なにか怖いものが後ろから近づいてきた。
なんとか逃げようとするんだけど、でも、逃げられなくて、引き離すことができなくて……
少しずつ距離が近づいて、追いつかれそうになっていた。
お父さんとお母さんは……足を止めた。
先に逃げろ。
そう言って、お父さんとお母さんは、逃げてきた道を戻った。
一人で逃げるなんていやだ。
そんなことできない。
できないのに……
そんなことをしたらいけないのに……
私は逃げた。
怖くて、怖くて、怖くて……
寒気にも似た感情に突き動かされるまま、無我夢中で走り続けた。
お父さんを置いて。
お母さんを置いて。
私は……一人で逃げた。
だから、罰が当たったんだと思う。
里を襲った怖いものから逃げることはできたけど……
でも、それだけ。
幸運……って言っていいのかわからないけど、それはおしまい。
行く宛のない私は、フラフラと森の中をさまよい……
そして、盗賊に捕まった。
これは罰だ。
お父さんとお母さんを見捨てた、罪深い私に対する罰。
私は一人。
ずっと一人。
幸せになれないし、なったらいけない……
ずっと。
「アイシャ?」
「……」
アイシャはうつむいてしまい、こちらの手を取ろうとしない。
怖かったはずなのに。
寂しかったはずなのに。
それなのに、なぜか我慢をしていて……
震えながらも、一人で耐えようとしてしまう。
「わたしは……悪い子だから。こんなわたし……助ける価値なんて、ないの……」
アイシャは、どんな想いでその台詞を口にしたのか?
どんな背景があって、そんな台詞を口にするに至ったのか?
彼女の気持ちがわかるなんてこと、簡単には言えない。
わからない。
わからないのだけど……
それでも。
確かに言えることが一つ、ある。
「大丈夫だよ」
「あ……」
アイシャをそっと抱きしめた。
幸せになったらいけない、とか。
助ける価値がない、とか。
そんなことはないんだよ、と伝えるように抱きしめる。
頭を撫でる。
「僕は、そんな風に思わないから」
「でも、わたし……」
「アイシャがなにを考えているのか、わからないよ。でも、それが絶対、っていうことはないと思うんだ。勘違いしているかもしれないし、思い込んでいるだけかもしれない。だって……そうじゃないと、寂しすぎるよ」
「で、でも……」
アイシャは、まだ迷いを振り切れないらしく、僕から離れてしまう。
それも仕方ないと思う。
この子は、僕が思っている以上に、重いなにかを抱えているんだと思う。
僕にできることは、一緒に背負うか……
支えて、楽にしてあげること。
「すぐに気持ちを切り替えるなんて、そんな無茶は言わないよ。ただ、覚えておいてほしいんだ」
「なに……を?」
「僕がいるよ」
「……あ……」
「僕だけじゃなくて、ソフィアもいる。リコリスもいる。アイシャが辛い時、悲しい時、隣に寄り添い、支えるよ。それくらいのことはできるし、させてほしい」
「……うぅ……」
「だから、おいで?」
手を差し出した。
アイシャは僕の手を見て……それから、自分の手を見る。
迷っているみたいだ。
でも、拒絶から迷いまで進むことができたのだから、あと一歩かもしれない。
その一歩を、無理矢理に誘うことはできない。
こればかりは、アイシャが決めるしかない。
そうでないと、きっと、どこかで心にしこりが残る。
やがて、それは大きくなり、後々の問題に発展すると思う。
だから……
アイシャ、僕の手を取って。
心の中で強く祈り、願う。
「……っ!」
五分ほどの迷いの後、アイシャは、そっと手を伸ばしてきた。
恐る恐るという感じで、すごくゆっくりだ。
でも、急かすようなことはしない。
心の中で応援しつつ、彼女の勇気を見守る。
そして……
そっと、アイシャの手が僕の手に触れた。
迎え入れるように、小さな手を優しく握る。
「がんばったね」
「……よく、わからないの。でも……」
アイシャは、泣いているような笑っているような、そんな顔で僕を見る。
「フェイトの手……温かいね」
「フェイト! アイシャ!」
部屋を出て少ししたところで、ソフィアと合流することができた。
僕とアイシャが手を繋いでいるところを見て、彼女はホッとしたような顔に。
「アイシャ、よかった、無事だったのですね……!」
「わぷっ」
ぎゅうっと抱きつかれて、アイシャがあたふたと慌てる。
ただ、イヤがっているという感じじゃなくて、どうしていいかわからなくて、照れているみたいだ。
「ごめんなさい、アイシャ……」
「どうして……謝るの?」
「怖い思いをさせてしまいました。不安にさせてしまいました。寂しがらせてしまいました。全部、私の責任です」
「僕達の、だよ」
「そうですね……はい。ごめんなさい、アイシャ」
「……ソフィアのせいじゃ、ないよ?」
恐る恐るという感じで、アイシャがソフィアを抱き返した。
小さな手が彼女の体に触れる。
「ん……ソフィアも温かいね」
「ふふ、私は基礎体温が高いので」
「えっと、その……」
「どうしたのですか?」
「……もっと、ぎゅうってしても……いい?」
「はい、もちろん」
「んっ」
甘えるような感じで、アイシャがソフィアに抱きついた。
アイシャは女の子だから、相手が女性だと、遠慮なく甘えることができるのかもしれない。
猫耳がぴょこぴょこ。
尻尾がフリフリと、うれしそうに揺れていた。
これだけで、アイシャの心の負担を全部取り除けたなんて思わない。
でも、多少は軽くすることができたはずだ。
この調子で、いつか、アイシャの心からの笑顔を見ることができるように、がんばりたいと思う。
「アイシャ、抱っこしてもいいですか?」
「うん」
「では、失礼しますね」
アイシャを抱っこするソフィア。
その顔は、とてもうれしそうだ。
ソフィア、かわいいものが大好きだからなあ。
「ところでソフィア、会場にいたドクトルの私兵は?」
「全員、斬ってきました。あ、殺してはいませんよ? ただ、今後の人生は、色々と諦めてもらわないといけませんが」
恐ろしい……
でも、こんなことをするドクトルに加担するような連中だ。
後遺症が残ったとしても、同情する気にはなれない。
「ただ、地下の敵を一掃しただけです。地上からの援軍はあると思いますし、今のうちに逃げましょう」
「そうだね。アイシャは任せてもいいかな?」
「はい、任せてください。指一本、触れさせません」
ソフィアがそう言うのなら、アイシャは絶対に安全だ。
彼女が剣聖だからとか、そういうところは信頼するポイントじゃない。
ソフィアは、世界で一番信頼できる幼馴染だ。
その彼女が言うのだから、なにも問題はない。
「いきましょう」
「うん」
僕は剣を抜いて、先頭に立つ。
その後ろを、アイシャを抱っこしたソフィアが進む。
会場へ戻った。
すでに客は逃げた後らしく、誰もいない。
いや。
会場の端などに私兵が倒れていて、うめき声をこぼしていた。
全員、ソフィアにやられたのだろう。
見た感じ、敵はいない。
ただ、どこかに隠れていないとも限らないし、地上からの増援と鉢合わせないとも限らない。
ソフィアとアイシャを危険に晒すわけにはいかない。
油断することなく、注意して進もう。
「……フェイト」
「うん、わかっているよ」
もう少しで会場の外に出る……というところで、僕とソフィアは足を止めた。
ピリピリと刺すような殺気がぶつけられている。
「そこにいるのは誰? 隠れているのはわかっているんだけど」
「……ちっ、勘の鋭いガキだ」
姿を見せたのは、ファルツだ。
それともう一人、黒尽くめの男がいる。
「ここまで好き勝手しておいて、そのまま逃げられると思っていたのか?」
「……それ、僕の台詞なんだけど」
たくさんの人に酷いことをして。
アイシャに酷いことをして。
その悪事の片棒を担いだファルツを見逃すつもりなんてない。
アイシャの安全が第一で、捕まっていた人達の安全が第二。
それらを達成した今、心置きなく戦うことができる。
ただ……
「……むう」
黒尽くめの男から、イヤな気配しかしない。
例えるなら、死神と対峙したような感じ。
濃厚な死の気配をまとっている。
「あのガキを捕らえろ、下手に傷をつけるな。男と女は殺せ」
「わかった」
用心棒、というところかな?
それなりの実力者であることは間違いない。
僕の力が通じるかどうか……
なんて迷いを抱いていたら、ソフィアがアイシャをこちらに渡してきた。
「フェイト、アイシャを頼みます。あの男は、私が相手をします」
「……うん、了解」
ソフィアがそういう判断をしたのなら、下手に出しゃばらない方がいい。
アイシャを代わりにおんぶして、後は彼女に全部任せることにした。
「ソフィア、気をつけてね?」
「大丈夫です。私は、剣聖ですから」
「それでも、僕にとっては大事な女の子だから」
「……」
「ソフィアの顔、赤いね」
「し、仕方ないじゃないですか。フェイトからそんなことを言われたら、その、どうしても照れてしまいます」
アイシャのツッコミに、ソフィアは照れ照れで答えた。
かわいい。
「じゃあ、また後で」
「はい、また後で」
再会の約束を交わして、その場を後にした。
アイシャをおんぶしたフェイトが会場の外に出た。
「今は放っておけ」
用心棒のどうする? というような視線を受けて、ファルツがそう答えた。
その視線はソフィアから外れていない。
「あのガキの確保が最優先と言われているが……しかし、ここでコイツに背を向けるわけにはいかん。女だが、剣聖の称号を持つからな」
「女だから、というのは、今時遅れた考え方ですよ?」
ソフィアは不敵に笑い、剣を抜いた。
聖剣ではなくて、普段から愛用している剣だ。
あなたごとき、これで十分。
そんな挑発が込められているのだけど、しかし、用心棒は無反応。
怒ることはなく構えて、与えられた任務を淡々とこなそうとする。
……厄介な相手ですね。
ソフィアは心の中で苦い表情を作る。
挑発に乗るような相手なら、簡単に倒せただろうが、そういうわけにはいかないらしい。
「殺せ」
ファルツの命令と共に用心棒が動いた。
蜃気楼のようにその姿が消えて、風のごとき速さで側面に回り込む。
しかし、素早いだけでソフィアの目をごまかすことはできない。
ソフィアは左足を軸にして、体を九十度回転。
用心棒を真正面に捉える。
剣を構えて、踏み込む。
そのまま、人の目に視認できないほどの速度で突撃を……
「っ!?」
しようとしたところで、ソフィアはゾクリとした悪寒を覚えた。
このままだとまずい。
直感に従い、突撃は中止。
さらに後ろに跳んで逃げる。
ピリッとした刺激が頬に走る。
ソフィアは視線を前に向けたまま、指先で頬を拭う。
いつのまに切れていたのか、血が流れていた。
「いったい、なにをしたのですか?」
用心棒も剣を構えている。
しかし、彼の間合いに入っていないし、遠距離攻撃をしかけられた覚えもない。
「俺の攻撃は不可視の斬撃……」
「不可視の?」
「今は、運良く避けられたみたいだが……果たして、幸運はいつまで続くかな?」
用心棒は不敵に笑う。
その様子を見て、ソフィアは違和感を覚えた。
なにかがおかしい。
そう思うものの、具体的な箇所を指摘することはできない。
なんだろう?
モヤモヤとした感を抱く。
ただ、今はじっくりと考えている余裕はない。
用心棒は急加速。
風のように距離を詰めてきて、その手に持つ剣を横に薙ぐ。
速い。
並の冒険者なら、なにが起きたかわからずに死んでいるだろう。
ベテランの冒険者でも回避することは難しく、ある程度の傷を負わされているだろう。
しかし、ソフィアにとってはなんてことのない一撃だ。
正確に剣筋を見極めて、体を安全な位置に逃がして回避。
カウンターの一撃を……
「くっ……!?」
再び悪寒を覚えた。
カウンターの突きを中断。
強引に体を捻り、横へ跳んだ。
それが幸いした。
さきほどまでソフィアが立っていた場所を、なにかが通り抜けるのをハッキリと感じた。
ビシリ、と床に剣撃の跡が刻まれる。
用心棒の言う不可視の斬撃が走り抜けたのだろう。
確かに見えない。
ソフィアは動揺することなく、冷静に事実を受け止めた。
そして、攻撃は中止。
回避に専念をして、分析を徹底する。
用心棒が言うように、確かに剣は見えない。
不可視の斬撃という言葉は正しい。
しかし、見えないからといって、絶対無敵というわけではない。
攻撃の予兆……
空気を裂くわずかな感覚を察知することで、回避が可能。
不可視の斬撃は特別速いわけではない。
用心棒の剣速と同程度。
また、攻撃範囲も変わらない。
見えないというだけで、その他は、普通の剣となにも変わらないのですね。
そう判断するソフィアではあるが、攻めていいものかどうか、判断に迷う。
不可視の斬撃の効果範囲など、だいたいのところを推測することはできた。
しかし、それが本当に正しいかどうか、それはまだ断定することはできない。
ここぞというタイミングを狙うため、用心棒が出し惜しみしている可能性がある。
あるいは、今は一段階目で、二段階目、三段階目の攻撃が残されているかもしれない。
そう考えると、迂闊な行動に出るわけにはいかない。
いかないのだけど……
「考えるだけ無駄ですね」
慎重になることは必要ではあるが、時に、大胆に行動しないと勝てない戦いというものがある。
今回がそのパターンだろう。
「そろそろ、私の番です」
「ほう」
ソフィアの言葉を聞いて、用心棒は唇の端を吊り上げた。
歪な笑み。
その表情からは、自分が絶対的有利に立っているという自信が見えた。
不可視の斬撃。
今のところ、ソフィアは致命傷を受けていないが、それも時間の問題。
この攻撃を避け続けることはできないし、見切ることなんて、もっと不可能。
いずれ、不可視の斬撃の前に倒れる。
そう信じる用心棒は、改めて攻撃に移る。
「お前の番は永遠に訪れない。ずっと、俺が主導権を握る」
用心棒は自信たっぷりに言い、剣を斜めに振る。
速度もキレも大したことはない。
ソフィアは半身にして斬撃を回避。
直後、頭の中で警報が鳴る。
空気の流れに異常。
左右からなにかが迫る。
素早く視線を走らせるものの、やはり、なにも見えない。
これもまた、用心棒の不可視の斬撃なのだろう。
ただし、
「どうということはありませんね」
手品の種を見抜いた今、なにも問題はない。
体をひねり、右からの不可視の斬撃を回避。
続けて、一歩後ろに下がることで、左からの不可視の斬撃を回避した。
「ば、バカな!? 貴様、今のどうやって……」
必殺の攻撃を完全に見切られたことで、用心棒が動揺した。
その様子がおかしくてたまらないというように、ソフィアが笑う。
「不可視の斬撃の正体は、じっと見つめないとわからないほどの極細のワイヤーですね?」
「くっ……」
「あなたは剣士ではなくて、糸使い。剣の攻撃は全てフェイクで、糸を操ることこそが本命。なかなかに手の込んだ仕掛けでしたが、種が割れてしまえば大したことはありませんね。所詮は、ただの手品です」
「バカを言うな……俺のワイヤーは、種が割れたからといって、簡単に避けられるようなものじゃない! この技術をみにつけるために、どれだけの年月と努力を費やしたことか……!!!」
「それは、おあいにくさまでした。ですが……私は、これでも剣聖を名乗っていますので。これくらいの手品にやられてしまうほど、脆くはありません」
「くっ、ううう……ぐあああああっ!!!」
いつの間にか立場が逆転して、追いつめられていた。
その事実を認めたくないというように、用心棒が獣のように叫ぶ。
そして、やぶれかぶれの突撃。
ワイヤーを巧みに操り、全面攻撃をしかける。
前後左右、上からもワイヤーが迫る、避けることのできない多面攻撃。
用心棒が持つ最大の必殺技だ。
これを使い、仕留めてきた敵は数しれず。
しかし、
「その手品はもう見切りました」
「なぁっ!?」
避けようのない、多面攻撃。
逃げるスペースは欠片もないはず。
それなのに……
魔法でも使ったかのように、ソフィアは全ての攻撃をかすり傷一つ負うことなく避けてみせた。
ありえない、と用心棒が目を剥くが、これは紛れもない現実。
障害をあっさりと乗り越えたソフィアは、用心棒に迫り、剣の腹を痛烈に叩きつける。
ゴキィッ、と骨を数本まとめて砕く感触。
その激痛に耐えられるわけがなく、用心棒は意識を手放した。
「ば、バカな……」
大金を払い、雇った用心棒。
その力は、自身が知る限り最強。
それをあっさりと倒されてしまい、ファルツは愕然とした。
こんなはずじゃなかった。
邪魔者を排除して、ドクトルに対する覚えを良くする。
そして、さらに上へ登り、いずれ、冒険者協会の全てを掌握する。
そんな野望を思い描いていたのだけど……
ガラガラと夢が崩れていく音が聞こえた。
「さて」
ソフィアは剣を抜いたまま、ファルツに向き直る。
「ひぃ」
ファルツは震えた。
猛禽類と相対しているかのような恐怖。
いや。
猛禽類では収まらない。
竜に睨まれているかのような、そんな圧倒的な絶望感。
ソフィアはにっこりと笑う。
ただし、目はまったく笑っていない。
「安心してください、殺しはしません。ただ、フェイトを巻き込み、傷つけようとしたことは許せませ。そしてなによりも……アイシャをひどい目に遭わせようとしたことは許せません。私、あの子のことをもっと知りたいと思っているみたいなので。そんなわけで……聞きたいことや証言してほしいこと、たくさんあるので、殺しはしません。ただ……命以外のものは、色々と諦めてくださいね?」
……その後、屋敷中にファルツの悲鳴が響いたとか。
「よし、一階に出た!」
どこからともなくドクトルの私兵が湧いてきて、なかなか面倒だったのだけど……
なんとか、一階まで戻ることに成功した。
そこで、気がついた。
「この音は……」
この屋敷を中心にして、戦争が繰り広げられていた。
雄叫びや悲鳴。
剣と剣がぶつかる音。
魔法が炸裂する音。
地下にいたから気づかなかったけど、地上はひどい有様だ。
魔物の大群に飲み込まれたかのように、屋敷は荒れ果てている。
それだけの激戦が繰り広げられているのだろう。
「クリフの援軍だよね? よかった、ちゃんと派遣してくれたんだ」
今までの経験のせいか、もしかしたら……と疑うところがなかったわけじゃない。
なので、クリフがきちんと約束を守り、ドクトルの不正を暴くために行動してくれたことをうれしく思う。
できれば、ドクトルも捕まえて貢献したいのだけど……
でも、ごめん。
今はアイシャの安全を優先させてもらうよ。
「アイシャ、しっかり僕に掴まっていてね?」
「ん」
ぎゅっと、小さな手が僕の背中を掴む。
この手を、もう二度と離したりしない。
そう誓い、僕達は、戦場と化した屋敷を駆ける。
廊下をまっすぐに進み、いくらかの角を曲がる。
ほどなくして玄関ホールに出た。
あとは、正面ドアから外に出ればいいのだけど……
「やあ、待っていましたよ」
最後の難関として、ドクトル・ブラスバンドが待ち構えていた。
その手に持つのは、漆黒の剣。
その身にまとうは、漆黒の鎧。
完全武装で僕達の前に立ちはだかる。
「いやはや、やられてしまいましたよ。キミは、これほど大胆な決断はできないと見ていたのですが……やれやれ、私の人を見る目も衰えてしまいましたかな」
「僕が、あなたのような悪人に本気で協力するとでも?」
「私が悪人ならば、キミは協力しなかったでしょう。しかし、私はそこらの盗賊のような悪人ではない」
「……どういう意味?」
一連の悪事には、ドクトルなりの信念がある、ということだろうか?
「私のしてきたことは、確かに悪事でしょう。しかし、私腹を肥やすために悪事をしてきたわけではないのです」
「なら、なんのために?」
「もちろん、人々の幸せを守るために、です」
そう言うドクトルは、本気で言っているかのようだった。
「なんの力を持たない人々が幸せになるには、優れた統治者が導いてやらなければなりません。私には、その統治者たる資格がある! 優れた素質がある! 故に、人々の上に立ち、導いていく義務があるのです」
「……まさか、そのために必要なものを手に入れるために、悪事に手を染めた?」
「その通りです。世の中、綺麗事ばかりではやっていけませんからね。上に登るためには、金が必要なのですよ」
「そんな無茶苦茶な……人を幸せにするために、人を苦しめるなんて……」
なんて矛盾。
しかし、ドクトルは己のしていることになにも疑いを抱いていないようだ。
絶対的に自分が正しいと、信じ込んでいる。
この人は……ダメだ。
価値観が独善すぎる。
魔物と同じで話がまったく通じない。
「今回のことで、けっこうな痛手を受けましたが……しかし、まだ挽回は可能。目障りな動きをするクリフを含めて、反逆者を根絶やしにすればいい。そうすれば、私に逆らう愚か者は消える。おや? そう考えると、これはこれで良い機会なのかもしれませんね」
「……」
「そこで、改めて提案するのですが……今からでも遅くはありません。私の元につきませんか?」
「そんな提案、受け入れるとでも?」
「キミには才能がある。あの剣聖を超えるような、とてつもない才能が。殺してしまうには惜しい」
「……」
「そして、その娘を利用すれば、さらなる力を手に入れることができる」
「アイシャを?」
「強くなりたくありませんか? 誰にも負けることのない、絶対の力を手に入れたくありませんか? ならば、私の手を取るのです。さあ、一緒に……」
「断るよ」
楽しそうにペラペラと喋るドクトルの言葉を遮り、即答した。
片手で剣を構えて、片手でアイシャをしっかりと支える。
「あなたは、なにか勘違いしているみたいだけど……僕が欲しいのは力なんかじゃないよ」
「ふむ? ならば、なにが欲しいのですか? 金ですか? 女ですか? 名声ですか?」
「あなたには絶対にわからないものだよ。だから、あなたの仲間になるなんていうことは、絶対にない」
言い放ち、剣の切っ先をドクトルに向けた。
ドクトルは、無言でそれを見て……
ややあって、ため息をこぼす。
「やれやれ……私に敵対するとは、なんて愚かな。見どころがあると思いましたが、それは力だけ。心は、とことん未熟のようですね」
「これで未熟って言われるのなら、未熟でいいよ。あなたのような、卑怯で汚い大人になんてならない」
「交渉決裂ですね」
ドクトルの顔から笑みが消えた。
「存分に殺し合いをしよう……と言いたいところですが、その前に、その娘は背中から下ろした方がいいのでは?」
「その間に、アイシャをまたさらうつもり?」
「そうしたいところですが、あいにく、私の部下は外の相手で手一杯でしてね。ここにはいませんから、安心してください。ただ単に、巻き込んでしまうと私が困るのですよ」
どうして、ドクトルはアイシャのことを気にかけるのだろう?
純粋に心配している、なんてことは絶対にないだろう。
奴隷として扱われていない。
やけに待遇が良いなど、気になるところはある。
ただ、それらの謎の解明は後回し。
今はドクトルという壁を乗り越えることを考えよう。
「アイシャ、部屋の端に机が見えるよね? あそこに隠れてくれないかな?」
「うぅ……で、でも」
「大丈夫、怖がることはないよ。ちょっとだけ待ってて。そうしたら、僕が外に連れ出してあげるから」
「……うん」
涙目になりながらも、アイシャは僕の背中から降りた。
何度も振り返りつつも、部屋の端にある机の影に隠れる。
ひょっこりと顔を出して、こちらを見る。
すごく心配しているみたいだけど、でも、僕の言いつけを守り、動く様子はない。
これなら、思う存分に戦える。
「さあ、覚悟してもらうよ!」
「……くっ、ははは、あはははははっ!!!」
ドクトルが笑う。嗤う。嘲笑う。
おかしくて仕方ないというかのように、表情を歪ませる。
その顔は……
さながら、悪魔のようだった。
「才能があるとはいえ、まだ雛鳥も同然。そのような小僧が、吠えてくれますね」
ドクトルが剣を構えた。
瞬間、強烈な圧が吹き荒れる。
「愚かにも私に逆らったこと……煉獄にて後悔するがいいっ!!!」