侯爵夫人と自動人形

「これで……いいかしら?」

 アンナは機械油にまみれた指先を繊細に動かす。歯車がカタカタと回り始める。よし、うまくいった。背中に取り付けられた蓋を閉じる。自動人形《オートマトン》は、アンナに一礼すると、朝食のスープが入った皿を下げて退室していった。
 ここに幽閉されて一年、自動人形(オートマトン)を大量に配備して、人員を減らしている監獄島では、看守の世話すら自分でやらなければならない。この一年で、人差し指の付け根には小さなタコが出来ていた。父みたいな職人の手に近づけた感じがして、悪い気はしない。けど、宮廷のお局様たちは「下賎な指」と嫌味を言うだろうな。ぼんやりとそんな事を考えた。

 窓から風が吹き込んできた。ブルネットの長い髪が、あおられて広がる。とっさに手で押さえようとしたが、流石に機械油を髪の毛に付けたくは無かったので、手を洗いに洗面台へ向かった。

(いい風。すっかり春ね……)

 その窓からは海を一望できた。外国から入ってくる商船、漁定置網を引き上げる小さな漁船。水の上は人の営みで溢れている。ここからは見えないが、更にその先には、帝都の赤レンガが広がっているはずだった。
 そろそろスズランの季節だ。スズランは帝都の紋章にもなっている花で人気が高い。毎年春になると花屋には白く愛らしい花が並び、菓子屋ではその形をイメージしたケーキやチョコレート菓子が売り出される。

(野鴨亭のケーキ、食べたいな。今年も無理かしらね……)

 野鴨亭は、アンナが生まれ育った職人街の外れにある、食堂兼菓子屋だ。子供の頃から、ここの素朴なケーキが好きで、宮廷に入った後も毎年取り寄せていた。

 しかし今の彼女は、皇帝の寵姫という立場を失っている。

 ヴルフニア帝国皇帝アルディス3世の寵愛(ちょうあい)を受け、内務大臣・戦争大臣を歴任し『ヴルフニアの白薔薇』の異名で知られた、フィルヴィーユ侯爵夫人アンナ。彼女は一年前、最愛の人である皇帝陛下の不興を買い、宮廷から追放された。そして今、この監獄の孤島に幽閉されている。

「もっとも……」

 アンナはため息混じりにつぶやく。

「下層地区に送られなかっただけマシかもしれないけど……ね」

 島の頂上部に建つこの塔は、監獄と言っても帝室ゆかりの者だけが入る特別室だ。塔から出ない限り自由な生活が保証されているし、看守の自動人形もそれなりの礼節を仕込まれている。
 これはアンナがまだ、皇帝の寵姫(ちょうき)という立場を失っていないことを意味していた。もし身分が剥奪されていたら、この島の下層地区、一度入ったら出ることは出来ない監獄島の闇の領域に落とされただろう。

(それに、これはこれで気はラクだし)

 悪い方に考えても仕方ない。手を洗って油を落とすと、読みかけの本を手にとって窓際の椅子に腰掛けた。政務に時間を取られて出来なかった読書を、この一年心ゆくまで楽しむことが出来た。

 アンナがしおりを外し、昨夜読んだ一文の続きに目を落とした、その時だった。

『キイィィ……ィィン!!』

 窓の外からだ。甲高い鳴き声が塔の上で聞こえた。

「何?」

 この鳴き声は……。アンナは思わず窓から乗り出す。塔の周囲を、影が旋回していた。翼を大きく広げ、長い尻尾を後方へ伸ばす黒い影。

「飛竜……黒鱗種(こくりんしゅ)がなぜここに?」

 飛竜は馬と並んで、古来より人と繋がりの深い動物だ。馬よりも飼育が難しく、数も少ないが、空を移動できるため重宝されている。文字通り漆黒の鱗を持つ黒鱗種は、帝国軍にも配備されている軍用竜だ。このような監獄島に来るのは非常に珍しい。

「フィルヴィーユ侯爵夫人!!」

 騎乗の男が、窓から顔を出すアンナに気がつき、叫んだ。黒尽くめに金の刺繍が入った軍服。親衛隊だ。

「直ちに、この塔よりお逃げ下さい! あなたは10日後、アルディス陛下の凱旋と同時に処刑されることとなりました!!」
「どういう事です? 処刑……私が!?」

 突然の来訪者は、塔の屋上に飛竜を着陸させると、螺旋階段を降りてアンナの部屋に入ってきた。黒髪長髪の青年。黒鱗種の飛龍に乗り親衛隊の軍服を着ているとなれば、皇帝陛下の近臣だが、知らない顔だった。

「失礼。私はさる方の命を受けてここに参りました。マルムゼとお呼びください」

 マルムゼ……民間伝承に出てくる、王の小間使いとして働く小鬼だ。おそらくは偽名だろう。

「さる方……皇帝陛下ではなく?」
「残念ながら。この軍服も偽装です」
「私が処刑とはどういうことです? 陛下がお決めになったのですか?」

 一年前、陛下は「しばらく頭を冷やせ」と仰せだった。その言葉から、いつかは戻れると考えていたのだが、お怒りは思っていた以上に深いのか……?

「これをご覧ください。それで察していただけるでしょう」

 マルムゼと名乗る青年は、アンナに円筒形の物体を手渡した。片手に収まるくらいの大きさのそれは、真鍮で作られており、陽光に照らされて金色の輝きを放っていた。

「これは……自動人形(オートマトン)楽譜(シリンダー)ではありませんか?」

 それも先程アンナがメンテナンスした自動人形と同じ、皇族専用の特注タイプのものだ。
 職人街で生まれ育ったアンナは、子供の頃からこの物体を見慣れていた。真鍮細工の職人だった父が、魔導工房からの注文を受けて作っていたのだ。

 自動人形は、魔力を原動力として駆動する、時計仕掛けの人形だ。それ自体には心も頭脳も備わっていないが、あらかじめ設定された計算式(アルゴリズム)を組み合わせることで、擬似的な思考を可能としている。
 この計算式(アルゴリズム)を記録するのが楽譜(シリンダー)と呼ばれる真鍮製の円筒管だ。筒にはびっしりと小さな凹凸がつけられている。これを自動人形の体内で回転させると、体内の爪が凹凸に引っかかって振動する。この振動の規則性を機械的に読み取り、自律行動へと変換する仕組みだ。

「ええと……少しお待ちくださる?」

 机の引き出しを開ける。中には数枚の紙と鉛筆が入っていた。アンナは紙を一枚手に取り、シリンダーに巻きつけた。上から鉛筆でこすれば、シリンダーに刻印された凹凸を転写できるはずだ。

「これでよし、と」

 アンナは黒く塗りつぶされた紙を太陽に透かした。凹凸に触れた部分が(あと)となり、日光に透かされてくっきりと見える。
 工房で父の仕事を眺めるのが好きだったアンナは、シリンダーに打刻される信号を一通り読むことができた。

「…………」

 マルムゼは何も言わずに、アンナの様子を眺めている。何も知らなければ奇異に見える行為。それに一切口を挟まない。この人物はアンナがシリンダーの内容を解読できると知っているのか。
 本当に何者なの? それにこのシリンダーには何が?疑念を抱きながら、アンナは日光に透かされた紙に視線を移した。

「ええと……このシリンダー、大きさからして5番管かしら? 」

 一本のシリンダーだけでは精巧な自動人形は制御できない。日常生活の基本動作を記した管、1日の行動を記した管、年間の予定を記した管、緊急時の管など、数本のシリンダーが組み合わされている。5番管には、1ヶ月の大まかな行動が記載されているはずだ。

「……10日後。凱旋……式……演説の原稿は……8番管を参照……」

 点の羅列を言葉に変換していく。

「文書にサイン……処刑命令……対象は……」

 言葉を詰まらせる。その先の点を言葉にすれば……

「アンナ・ディ・フィルヴィーユ……」

 間違いない。宮廷に上がった日、陛下から与えられたフィルヴィーユ侯爵夫人という名が、そこに記されていた。

「見ての通りです」

 マルムゼはようやく口を開いた。

「どういうこと? これは……」

 これはどんな自動人形のシリンダーなの? そう言おうとしたが言葉が続かない。
 いや、続けるまでもない。10日後に凱旋式を行い、寵姫の処刑命令書にサインできる人物など一人しかいない。

「陛下が……自動人形だというのですか?」
「はい。これは極秘に入手した、アルディス3世を名乗る自動人形のスペアシリンダーです」

 マルムゼは抑揚のない口調で答えた。

「待って……」

 思考が追いつかない。

「嘘よ……だって陛下は……」

 陛下は……私が愛したアルディス3世は、断じて人形などではなかった。血の通った人間だったはずだ!

「今は真偽を問うときではありません。あなた様が生き残る方法は一つだけ」

 マルムゼは鞘に収まった短剣を両手で捧げるように持ち、アンナにひざまづいた。

「軍を掌握して下さい。そしてクーデターを起こし、帝国を乗っ取るのです!」
「クーデター……? 私が?」
「はい。この短剣は……」
「知っています。リュディスの剣、ですね?」

 ヴルフニア帝国初代皇帝リュディス1世が、魔王討伐の際に所持していたと言われる銀の短剣。皇帝が司る軍権の象徴だ。病などで皇帝が軍務をこなせない場合、この短剣を与えたものが代理として帝国軍の最高司令官を任される事になっている。

「なぜあなたが、それを持っているのです? このシリンダーといい、どこで手に入れたの?」
「今は、さるお方の命で動いているとだけ。それ以上は、ご容赦ください。その時が来たら、必ずや全てをお話しします」
「その時?」
「あなたが、この国の支配者となった時、です」
「…………」

 信用ならない。自分の死が明記されている謎のシリンダーと、軍を動かせる権威を持った短剣。そんなものを突如渡されて、国家へ叛逆(はんぎゃく)しろ? さるお方とやらは何を考えているのか?

「言い分はわかりました。しかし私は、陛下が自動人形(オートマトン)に取って変わられたなどという世迷言を、すぐに信じるわけにはいきません」
「あなた様のお立場からすれば、当然です」

 抑揚のない真っ平らな声。
 この短時間の間に、アンナは様々な感情に押し流されているのに対して、この男の声には感情の揺らめきが一切感じられない。
 どこか他人事のようなこの話し方に、怒りが込み上げる。

「ですから、まずはその真偽を確認したく思います」

 けど、今は落ち着こう。さっき読み取ったシリンダーの内容には、重大なヒントが隠されている。これで陛下が自動人形なのか、判断できるはずだ。

「このシリンダーには、帝都に帰投中、クラナハで休むと記されていました。日付は……ちょうど昨日です」

 クラナハは北方戦線と帝都の中間地点にある小さな村だ。親征軍は3万の兵力。それだけの人数が国境地帯から帝都へ移動するのだから、その間に何度も休息を挟む必要がある。

「陛下はご親征の際、いつもこの地域ではダスドール要塞にお寄りになられています。それが何故か、このシリンダーではクラナハになっている……」

 ダスドール要塞には大軍を収容できる設備がある。軍隊の駐留に不向きな小村より、こちらを選ぶのは当然だった。

「つまり……遠征軍がダスドール要塞に入ればシリンダーは偽物、クラナハに立ち寄れば本物、ということですか?」
「はい」
「良いでしょう。明後日の新聞には陛下の動静が載るでしょう」

 軍には従軍記者がついており、戦果や皇帝の様子などを逐一帝都の新聞社に、飛竜便や伝書鳩で送っている。
 帝都には新聞社がいくつかあるが、いずれも毎週水曜日が発売日だ。週に一度刊行される新聞を読めば、遠征軍の様子はかなり詳細に分かるはずだった。

「しかしお忘れなきよう。あなたが新聞を待つ2日間も、親征軍は帝都に近づいております。彼らが帝都に帰還したその日、あなたの死は確定します。お覚悟を」
 皇帝アルディス3世の帝都凱旋まで、あと8日。

 しかしてアンナの望みは裏切られた。昼頃、再び飛竜に載って現れたマルムゼは、帝国の主要新聞3紙をテーブルの上に置いた。

「ご覧の通り、遠征軍はクラナハに滞陣したようですな」

 新聞の一面には大見出しで、陛下についての記事が載っていた。しかしその内容は、単なる陣中取材ではない。帝国を騒がす大事件が起きていた。


『皇帝陛下襲撃さる!』
『自動人形の刺客急襲』
『陛下御自ら剣を取り凶賊を撃退す』


 紙面を握る手が震える。アンナは思わず天を仰いだ。

「陛下……」

 クラナハに滞陣中だった皇帝を、暗殺用に調整された自動人形が襲った。陛下は大剣をふるい、自らこの刺客を撃退したという。

「広場は騒然としておりました。警備の不備を糾弾する者、テロへの不安を募らせる者などもいましたが、最も多かったのは陛下の武勇を讃える声です」
「ええ……ええ、そうでしょう。しかしこの記事の内容は問題です!」
「はい」

 アルディス3世は大国ヴルフニアの皇帝である前に、ひとかどの剣士だ。ヴルフニア皇族は代々魔導剣の才に恵まれており、陛下も即位前には決闘剣客として名を馳せていたのだ。
 火炎魔術を剣にまとわせた(ほむら)の剣術で敵を圧倒する姿は、帝国の臣民なら誰でも持っている「強き皇帝」のイメージだ。

 なのに、だ。

「どの記事にも、陛下が魔導剣を使ったとは書いておりません」

 そう。これまで皇帝の華々しい活躍を好意的に描いてきた新聞社すら、魔導剣について触れていない。

「はい。両手持ちの大剣(グレートソード)で自動人形を両断した、とあります」

 本来、アルディス帝の愛剣は両手剣ではない。利き腕だけで扱える片刃剣(サーベル)、それも炎の魔力を付与した特注品を肌見放さず持っているはずだ。一方、記事にある大剣(グレートソード)は、非常に重量のある扱いづらい武具で、帝国国内では使用者が減っている。

「とっさの事態で、手近な所に大剣しかなかった……?」

 アンナは言いながらも、考えづらいと思った。常に所持してるはずの片刃剣を()()()()持っておらず、その場に()()()()時代遅れの大剣があった?

「お分かりでしょうが、大剣を使った理由、魔導剣を使わなかった理由、どちらも説明可能な状況が一つだけございます」
「……はい」

 人間でなければ重量のある大剣でも易々と扱うことができる。そして魔導剣は、体内の魔力を剣に宿す技のため、人間にしか扱うことができない。


 それはつまり、今現在アルディス3世が自動人形であることを意味する。


「フィルヴィーユ侯爵夫人。もはや時間はありませぬ。すぐにこの監獄を脱出し、西方に駐屯する第六兵団へ向かうのです。リュディスの剣を将軍たちに見せれば、彼らはあなた様の味方となります」
「第六兵団を動かし、私に何をしろ、と?」
「ボルフ侯爵家のカノン様を擁立するのです。あなた様が後見人となれば、必ずクーデターは成功します」

 ボルフ侯爵はアルディス帝の従兄弟(いとこ)に当たる。その4歳の息子カノンには、序列が低いものの皇位継承権があった。幼帝を即位させ、アンナが実権を握る。第六兵団の武力があれば不可能ではない。しかし……

「…………」
「何を悩む必要があるのです?」

 叛逆(はんぎゃく)をそそのかすこの男は何者なの? 信用できない。 真の目的は何なのか? 後ろに何者がいるのか? 何もわからない者をどうして信用できる?

「その前にやるべき事があります」
「やるべき事?」
「陛下を自動人形にすり替えたのは何者か? 誰の陰謀によるものかを明らかにするのです」

 この黒髪の男こそが、陛下をすり替えた犯人という可能性だってある。軽々しく誘いに乗ってはいけない。

「皇帝陛下を愛した者として、まずは黒幕を暴きます。軍を動かすとすれば、その後です!」
「馬鹿な! 何を言うのです?」

 初めてマルムゼの声色が変わった。その顔には一瞬だけ、焦りの感情が浮かび上がった。

「マルムゼ殿、約束します。真相にたどり着いた時、自分がこの国の覇者にふさわしいと思ったら、私は喜んで叛逆者(はんぎゃくしゃ)となりましょう」
「そんな時間はございません。すぐにでも第六兵団と合流せねば」
「いえ、1週間以上あります。兵団の掌握と行軍にかかる時間を考慮しても、4日……いえ3日は猶予があるはずです!」

 男の目をまっすぐ見据える。アンナの視線に射抜かれ、ほのかに紫がかった黒い瞳がひるんだ。

「これ以上言っても……お聞きいただけないでしょうね」

 マルムゼは首を振った。

「承知しました。3日です。その時が来たら強引にでも連れていきます」
「ありがとう」

 アンナは頭を下げる。3日。その間に、陰謀の主犯を必ずや……!

「今の状況を整理したいです。少し、一人にさせて下さい。」
「は……」

 マルムゼは一礼し、部屋を出ていく。静寂が部屋に戻ってきた。


「陛下……アルディスさま……」


 目を閉じると、一人の男の顔が浮かび上がった。若くしてヴルフニアの皇帝となり、国内の様々な問題を解決する一方で周辺諸国を武力で圧倒してきた皇帝の顔ではない。
 そんな激務の合間を縫って、アンナの部屋を訪れ彼女に甘え、夜を共にし、同じベッドで眠った男の子供のような寝顔だ。

「あなた様はもう、この世にいらっしゃらないのですか……?」

 恐らくはそうだろう。何者かが陛下のお命を害し、自分の言いなりとなる自動人形にすり替えた。自らが帝国の支配者となるために。
 その何者かは、陛下の姿を使い私まで殺そうとしている。陛下の愛を知り、彼を支えるために大臣にまでなった女。黒幕にとってはさぞかし邪魔なのだろう。

 帝国には、新たな支配者となりうる勢力が、いくつか存在する。皇帝暗殺犯がいるとすれば、そのいずれかだ。

「まずはリーン殿下……」

 陛下の実弟、エルージア大公リーン。皇帝に次ぐ権威の持ち主だ。
 不品行の目立つ不良殿下として有名で、陛下とは仲が悪い。最近では、彼の邸宅が帝室転覆をもくろむ革命派のアジトと化しているという噂もある。もし政変が起きれば、国内の多くの人間が真っ先に彼を主犯だと疑うだろう。

「それに、クロイス公爵……」

 権威の上でのナンバー2が皇弟リーンだとすれば、実力のナンバー2はクロイス公爵だ。アルディスの正室、ルコット皇后の父親で、自他共に認める貴族派の盟主である。
 その老人は、表向きは帝室に忠を尽くす大貴族の鑑というべき人間だった。しかし平民の地位向上を目指す陛下とは、制度改革をめぐり何度か衝突している。

「さっき名前が出てきたボルフ伯爵も……かしら?」

 ボルフ伯爵は、皇帝とも貴族派とも距離を置いている。それは単に政治に興味がないからだと思っていた。しかし、マルムゼが彼の息子を即位させろと言っている以上、容疑者リストに入れないわけにはいかない。

「クロイス公爵を疑う以上、官僚派も疑うべきよね……」

 陛下は、改革を行うにあたり下級貴族や平民出身の人材を抜擢し、若手官僚の専門集団を作っていた。彼らは貴族派に対して、官僚派と呼ばれていた。
 アンナ自身、寵姫という身分ではあるものの、元は職人の娘であり、政治にも参加しているため官僚派の一人といえる。本来は陛下の味方だが、社会の革新をめざすため一部の官僚が、革命派と手を取った可能性もある。

「こうして見ると……」

 あまりにも厄介な実情だ。貴族派と官僚派が対立しており、皇族も一枚岩ではない。もし陛下の死が明らかになれば、その後の権力争いは激しいものとなり、長引けば帝国そのものを衰退させかねない。

「なぜ私なの?」

 マルムゼや彼のバックにいる人物は、その中でアンナが権力の座にふさわしいと考えたのか? いい迷惑だ。誰もそんなの望んでいない。私は、最愛の人の死の真相を知りたいだけだ。しかしそれは、醜悪な権力争いを回避し、帝国を救うことにも繋がる。アンナはそう考えた。
 翌朝。皇帝アルディス3世の帝都凱旋まで、あと7日。

「騎乗のご経験はありますね?」
「ええ、戦争大臣の任期中に。プライベートでも、陛下と共に遠乗りしたことがあります」

 早朝の屋上は、まだ冷たい風が吹きすさんでいた。アンナは鞍にまたがると、飛竜の鱗を撫でる。黒曜石のような透明感のある黒紫色の鱗は、つるりとして触り心地が良い。

「先程も申し上げましたが、犯人探しを手伝うつもりはありません。私はここで、看守の目をあざむく事にのみご協力いたします」
「はい、お願いします。夜には一度戻ります」

 マルムゼに一礼すると、アンナは手綱を引っ張った。飛竜が黒い翼を大きく広げ、天に向かって飛翔する。

「ああ、そうだった。この感じ……」

 心臓が浮き上がるような感覚。初めて飛竜に乗ったときは恐怖しか無かったが、いつしかこの感覚が病みつきになっていたのを思い出した。ある程度の他度まで飛翔すると、東の空が赤くなっているのが見えた。さぁ行こう。黒鱗種の速度なら、帝都へは2時間半といったところか。

 脱獄。アンナは一年ぶりに監獄島を脱出し、帝都へと向かった。
 メティル宮。帝都の繁華街のど真ん中にあるかつての皇宮だ。先帝陛下が、広大な敷地を求めて郊外に今の宮殿を建ててからは、皇弟エルージア大公の私邸となっている。

「相変わらず、すごい活気ね」

 メティル宮は、他の宮殿とはかなり趣きの異なる建物だ。帝都の中心街にあるということもあり、皇弟リーンの生活する区画以外は、市民にも開放されている。中庭は、公園として帝都市民の憩いの場となっていて、建物の一部は賃貸物件として民間に貸し出されている。さらには皇弟が経営するカフェまである。
 カフェと言っても、ただ珈琲や茶を供する店ではない。市内の識者があつまり議論する。文化芸術、国際情勢、それに国内政治について……。そこは一種の政治サロンとなっていた。革命派のアジトと噂されているのが、まさしくこの店だ。

(リーン殿下も、この店によく現れるという。屋敷を直接訪れても門前払いがオチだし、そこで待つ方がいいかも)

 意を決して、カフェの扉を開けた。先が見えないほど立ち込める葉巻の煙が、アンナを出迎えた。その臭いが鼻孔を刺激し、思わず顔をしかめる。

「アルディス帝が名君と呼ばれたのも今や過去の話だ。すっかり貴族の豚どもに飼いならされてしまった」
「やはり貴族や皇族には任せておけん! 平民の権利は、平民が戦って手に入れるべきだ!!」
「そうだ! 奴らを排除して、平民による国家を作るべきだ!!」

 不穏な言葉が飛び交っている。噂なんかじゃない……革命派のアジト、事実ではないか。

(ここに来るには失敗だったかしら……?)

 店中に帝室に対する失望や怒りが渦巻いている。アンナも宮廷では、私的な政治サロンを開き、若手官僚と勉強会を開いたりしていた。が、同じ目的を持った集まりでも、ここまで空気が変わるものなのか。もしこの店に今、皇帝の寵姫がいると知ったら彼らはどんな反応をするだろう? 考えると寒気がした。

「殿下だ!!」

 誰かが叫んだ。それに呼応するようにあちこちから歓声が沸き上がる。皆、上の方を見上げた。アンナもそれに従う。
 吹き抜けから2階席が見える。そこに長身の男が立っていた。アルディスと同じ太陽のような明るい赤毛。エルージア大公リーンだ。

「みんな! どうぞそのまま議論を続けてくれ。この国の未来のため、どうかより熱き議論を! そのために本日も、君たちに一杯ご馳走しよう!!」

 給仕たちがテーブルに一本ずつワインの瓶を置いていく。完成がひときわ大きくなり、拍手も巻き起こった。なるほど、すごい人気だ。皇族であっても王弟殿下は別というわけか。その様子をリーン大公は満足気に眺めていた。その視線が、アンナと重なった所で止まる。リーンもこちらに気がついたようだ。顔に驚きの色が浮かんだのが、煙草の煙越しに見えた。
「南方の植民地より、良い葉巻が届きました。一緒にどうです?」
「いえ、お構いなく」
「では珈琲をお出ししましょう。これも南方産の素晴らしい豆があります」

 アンナは2階にある特別席に通された。そこはリーン大公の専用席のようで、階下の議論の様子を眺めることができる作りになっている。

「しかし驚きました。まさか姉上がこのような場所に足をお運びとは……」

 リーン大公は、以前よりアンナの事を「姉」と呼んでいる。アルディス3世とアンナは男女の仲ではあるものの、妻ではない。だからリーンのこの呼び方も適当ではなかった。

「またそのような呼び方を。本当の姉君に失礼ですよ?」
「ルコット皇后ですか? なに、構うことはありませんよ。もう何年も会っておりませんが、相変わらずつまらない女性だと聞きます」

 皇弟は平然とそう言ってのけた。さらに放言は続く。

「彼女には、貴女(あなた)のような聡明さがない。毎日飽きもせず宮殿の庭でお茶会ばかり。兄上がなぜ貴女ではなく彼女を選んだのか、理解に苦しむ」
「やめて下さい殿下。それ以上のお言葉は、色々な方を傷つけます」
「傷つける? 傷つけられたのは貴女でしょう? 皇太子が生まれた途端、兄は貴女を監獄島に閉じ込めた。 実に身勝手だ!」

 リーンの声に怒気が混じる。

「殿下、違います。私が陛下のお怒りを買っただけ。皇太子様や皇后陛下の事は一切関係ありません」
「どうでしょう? 貴女は、クロイス公爵家の分家による物資横流しを追及した。大臣として当然の行いです。本来なら讃えられるべきなのに、兄は真逆の事をやった」

 アンナの顔が曇る。今でも、間違った事はしていないと思っている。貧民のための福祉物資が、貴族の懐に入り国外へ転売されていた。その摘発を命じたらクロイス公爵が動き、アンナが投獄される事となった。

『君は正しい事をしたが時期と相手が良くない。クロイス家と波風が立てば、できる改革もできなくなってしまう。しばらく頭を冷やして欲しい』

 監獄島へ送られる前日、陛下はアンナの部屋を訪れ、そう言った。それが彼の声を聞いた最後の日となった。

「と……申し訳ない。私は何も貴女を困らせたくてこんな話をしてるのではありません。お許しを」

 アンナが目を伏せたことに気づき、リーンが慌てて釈明をする。アンナはだまって首を縦に振った。

「それで……なぜ帝都にいるのです、姉上? 兄が貴女を許したという話は聞いておりませんが……」
仔細(しさい)あって、陛下のご意向とは別の行動をとっています。お気にかかるなら、どうぞご通報を」
「とんでもない!むしろ御大望を果たすための拠点として、この店を好きにお使いくだされ」
「大望?」
「兄やクロイス公を排除して、帝国の実権を握るのでしょう? 官僚派の巻き返しだ!」

 アンナは背筋をこわばらせた。マルムゼと似たような事を言う。この方も、私が立ち上がることを期待しているのか!? では、マルムゼの背後にいるのは……

「そんな、考えもつかないことです。私が実権を握るなど……」

 ダメだ、相手のペースに乗ってはいけない。距離感をもって接し、私が知りたい情報だけを引き出せ!

「そうかなぁ? 私はふさわしいと思いますよ」

 リーンはテーブルに頬杖を付き、からかうような視線をアンナに向けてきた。どこまで本気かわからない。

「1階をご覧ください。表にこそ噴出してないが、今の帝都にはこういう声が渦巻いている。誰かがそれをすくい取らねば」
「……感心しませんね。皇弟ともあろう方が、革命思想に入れ込んでいるとは」

 階下のテーブルでは議論が白熱している。彼らの話に耳を傾ければ、やはり物騒な言葉が多数混じっていた。中には皇族をひとり残らず追放してしまえ、なんて声もある。

「あなたの脱獄に目をつむる代わりに見逃してください。彼らの国を思う情熱は本物です。その芽を積みたくはない。」
「それが帝国を滅ぼすとしても?」
「いえ、そうはなりません。私がさせません。」

 そう答えるリーンの声は力強かった。

「あなたがさせない……? では政界への進出をお考えで?」
「まさか。兄上が私を認めていないのはご存知でしょう? 政治に携わるなんて、生涯不可能ですよ」

 リーンは力なく笑う。アンナの事を話すときの飄々とした雰囲気から打って変わり、自嘲のこもった笑みだった。

「だからせめて、この声と情熱を、国中に届けたい。それが私の望みです」