パシン……と、乾いた音が夕日の丘の上で鳴った。

「アンナ……?」
「ふざけ……ないで下さい!」

 最愛の人の頬を叩いた右手を握りしめながら、アンナは大粒の涙を流した。

「私に帝国を継がせるですって? どうしてそんな馬鹿げたことをお考えになったのです!?」
「馬鹿げたことだって? これでも本気で考えたんだ。この国の将来を託せる、真に信頼できる者は誰かって」
「それが……私だというのですか!?」
「他に誰がいる? 今も言った通り、私の理想を最も理解しているのは君だった!」
「もし本当にそう思っているのだとしたら、あなたは私のことを何一つ理解してません!!」

 悲痛な叫びを撒き散らすアンナ。涙は止まること無く流れつづけ、顔は火照って紅潮していた。

「今、あなたは私が職務に忠実だったと言いましたね。違うんですよ……全く違います。私が忠実なのは陛下、あなたにのみです。あなたの愛と誠実さこそが私の全てなのです。それを失って、どうして国家の運営など出来ます!?」

 アンナはその場に崩れるようにうずくまった。顔を隠し、嗚咽と鼻をすする音だけが彼女の想いを伝える。

「しかし……」

 アルディスは応える。

「君以上にふさわしい国主はいない。それはまぎれもなき事実なんだ……」

 アンナは首を横に振ると、再び立ち上がった。

「ご心配なく、リーン殿下は王とししての資質をお持ちです」

 感情の高ぶりで充血した目を、まっすぐアルディスに向ける。

「リーンが?」
「はい。あなたとは器の性質が異なるため、お認めになれなかったのでしょう。けど、あの方もヴルフニア皇族の血が流れています。立派に勤めを果たすでしょう」

 現に、民の心を掴み、実に鮮やかに政変を成功させたではないか。アルディス3世の身代わり人形が率いる、親征軍との衝突も避けられた。
 アンナがカフェで垣間見たリーンの情熱は本物だ。民の声を聞き、それをすくい取り、世の中に向けて発信していく。そういう形で彼は名君となっていくだろう。

「ねえ、陛下……いえ、アルディス。あなたのお気持ちをお聞かせ下さい」
「気持ち?」
「ええ。あなたがもう皇帝ではないと言うなら、国のことなんて考えないで。職人の娘に言い寄られている一人の男としてのお気持ちを、聞かせて欲しいの」

 アンナはすっと静かに息を吸い。そして、その言葉を発した。

「アルティス、私の居場所はどこですか?」
「……アン……ナ」

 アルディスの両手が大きく伸び、アンナの身体を掴んだ。そのまま強く引き寄せられ、彼女の身体は男の腕の中に収まった。

「ここだアンナ! すまなかった。私の隣りにいてくれ!!」
「はい……わかりました」

 アンナはアルディスの胸に顔を埋めた。先程まで、空を灼いていた西日は、稜線の向こうに姿を消し、夜の闇が二人の姿を消していった。




 その3日後。エリージア大公リーンは、ヴルフニア帝国の新皇帝に即位。旧官僚派の人材を多く登用し、より民主的な帝政へと移行していくことを全臣民に約束した。同日、先帝アルディス3世、皇太子アルディス=レクス、そして先帝の寵姫フィルヴィーユ侯爵夫人アンナの死が発表された。

 一方、先帝の皇后ルコットは、その生命を保証された。彼女は山あいの小さな館に隠遁することとなった。

 そんなルコットは館に二人の使用人を招き入れ、晩年まで三人で暮らしていたという。その使用人たちの名はアルディスとアンナ。どちらも帝国では珍しくない名前なのだが、この二人の出身地や経歴について、ルコットは何一つ記録を残していない。

 公爵夫人と自動人形 -完-