メティル宮。帝都の繁華街のど真ん中にあるかつての皇宮だ。先帝陛下が、広大な敷地を求めて郊外に今の宮殿を建ててからは、皇弟エルージア大公の私邸となっている。
「相変わらず、すごい活気ね」
メティル宮は、他の宮殿とはかなり趣きの異なる建物だ。帝都の中心街にあるということもあり、皇弟リーンの生活する区画以外は、市民にも開放されている。中庭は、公園として帝都市民の憩いの場となっていて、建物の一部は賃貸物件として民間に貸し出されている。さらには皇弟が経営するカフェまである。
カフェと言っても、ただ珈琲や茶を供する店ではない。市内の識者があつまり議論する。文化芸術、国際情勢、それに国内政治について……。そこは一種の政治サロンとなっていた。革命派のアジトと噂されているのが、まさしくこの店だ。
(リーン殿下も、この店によく現れるという。屋敷を直接訪れても門前払いがオチだし、そこで待つ方がいいかも)
意を決して、カフェの扉を開けた。先が見えないほど立ち込める葉巻の煙が、アンナを出迎えた。その臭いが鼻孔を刺激し、思わず顔をしかめる。
「アルディス帝が名君と呼ばれたのも今や過去の話だ。すっかり貴族の豚どもに飼いならされてしまった」
「やはり貴族や皇族には任せておけん! 平民の権利は、平民が戦って手に入れるべきだ!!」
「そうだ! 奴らを排除して、平民による国家を作るべきだ!!」
不穏な言葉が飛び交っている。噂なんかじゃない……革命派のアジト、事実ではないか。
(ここに来るには失敗だったかしら……?)
店中に帝室に対する失望や怒りが渦巻いている。アンナも宮廷では、私的な政治サロンを開き、若手官僚と勉強会を開いたりしていた。が、同じ目的を持った集まりでも、ここまで空気が変わるものなのか。もしこの店に今、皇帝の寵姫がいると知ったら彼らはどんな反応をするだろう? 考えると寒気がした。
「殿下だ!!」
誰かが叫んだ。それに呼応するようにあちこちから歓声が沸き上がる。皆、上の方を見上げた。アンナもそれに従う。
吹き抜けから2階席が見える。そこに長身の男が立っていた。アルディスと同じ太陽のような明るい赤毛。エルージア大公リーンだ。
「みんな! どうぞそのまま議論を続けてくれ。この国の未来のため、どうかより熱き議論を! そのために本日も、君たちに一杯ご馳走しよう!!」
給仕たちがテーブルに一本ずつワインの瓶を置いていく。完成がひときわ大きくなり、拍手も巻き起こった。なるほど、すごい人気だ。皇族であっても王弟殿下は別というわけか。その様子をリーン大公は満足気に眺めていた。その視線が、アンナと重なった所で止まる。リーンもこちらに気がついたようだ。顔に驚きの色が浮かんだのが、煙草の煙越しに見えた。
「南方の植民地より、良い葉巻が届きました。一緒にどうです?」
「いえ、お構いなく」
「では珈琲をお出ししましょう。これも南方産の素晴らしい豆があります」
アンナは2階にある特別席に通された。そこはリーン大公の専用席のようで、階下の議論の様子を眺めることができる作りになっている。
「しかし驚きました。まさか姉上がこのような場所に足をお運びとは……」
リーン大公は、以前よりアンナの事を「姉」と呼んでいる。アルディス3世とアンナは男女の仲ではあるものの、妻ではない。だからリーンのこの呼び方も適当ではなかった。
「またそのような呼び方を。本当の姉君に失礼ですよ?」
「ルコット皇后ですか? なに、構うことはありませんよ。もう何年も会っておりませんが、相変わらずつまらない女性だと聞きます」
皇弟は平然とそう言ってのけた。さらに放言は続く。
「彼女には、貴女のような聡明さがない。毎日飽きもせず宮殿の庭でお茶会ばかり。兄上がなぜ貴女ではなく彼女を選んだのか、理解に苦しむ」
「やめて下さい殿下。それ以上のお言葉は、色々な方を傷つけます」
「傷つける? 傷つけられたのは貴女でしょう? 皇太子が生まれた途端、兄は貴女を監獄島に閉じ込めた。 実に身勝手だ!」
リーンの声に怒気が混じる。
「殿下、違います。私が陛下のお怒りを買っただけ。皇太子様や皇后陛下の事は一切関係ありません」
「どうでしょう? 貴女は、クロイス公爵家の分家による物資横流しを追及した。大臣として当然の行いです。本来なら讃えられるべきなのに、兄は真逆の事をやった」
アンナの顔が曇る。今でも、間違った事はしていないと思っている。貧民のための福祉物資が、貴族の懐に入り国外へ転売されていた。その摘発を命じたらクロイス公爵が動き、アンナが投獄される事となった。
『君は正しい事をしたが時期と相手が良くない。クロイス家と波風が立てば、できる改革もできなくなってしまう。しばらく頭を冷やして欲しい』
監獄島へ送られる前日、陛下はアンナの部屋を訪れ、そう言った。それが彼の声を聞いた最後の日となった。
「と……申し訳ない。私は何も貴女を困らせたくてこんな話をしてるのではありません。お許しを」
アンナが目を伏せたことに気づき、リーンが慌てて釈明をする。アンナはだまって首を縦に振った。
「それで……なぜ帝都にいるのです、姉上? 兄が貴女を許したという話は聞いておりませんが……」
「仔細あって、陛下のご意向とは別の行動をとっています。お気にかかるなら、どうぞご通報を」
「とんでもない!むしろ御大望を果たすための拠点として、この店を好きにお使いくだされ」
「大望?」
「兄やクロイス公を排除して、帝国の実権を握るのでしょう? 官僚派の巻き返しだ!」
アンナは背筋をこわばらせた。マルムゼと似たような事を言う。この方も、私が立ち上がることを期待しているのか!? では、マルムゼの背後にいるのは……
「そんな、考えもつかないことです。私が実権を握るなど……」
ダメだ、相手のペースに乗ってはいけない。距離感をもって接し、私が知りたい情報だけを引き出せ!
「そうかなぁ? 私はふさわしいと思いますよ」
リーンはテーブルに頬杖を付き、からかうような視線をアンナに向けてきた。どこまで本気かわからない。
「1階をご覧ください。表にこそ噴出してないが、今の帝都にはこういう声が渦巻いている。誰かがそれをすくい取らねば」
「……感心しませんね。皇弟ともあろう方が、革命思想に入れ込んでいるとは」
階下のテーブルでは議論が白熱している。彼らの話に耳を傾ければ、やはり物騒な言葉が多数混じっていた。中には皇族をひとり残らず追放してしまえ、なんて声もある。
「あなたの脱獄に目をつむる代わりに見逃してください。彼らの国を思う情熱は本物です。その芽を積みたくはない。」
「それが帝国を滅ぼすとしても?」
「いえ、そうはなりません。私がさせません。」
そう答えるリーンの声は力強かった。
「あなたがさせない……? では政界への進出をお考えで?」
「まさか。兄上が私を認めていないのはご存知でしょう? 政治に携わるなんて、生涯不可能ですよ」
リーンは力なく笑う。アンナの事を話すときの飄々とした雰囲気から打って変わり、自嘲のこもった笑みだった。
「だからせめて、この声と情熱を、国中に届けたい。それが私の望みです」
「……姉上には感謝しています」
少しの沈黙の後、リーンはそう言った。
「え?」
「亡き父や兄上に期待されず、酒と女とギャンブルだけの日々。そんな私に光を与えてくれたのは姉上です。」
確かに、皇弟殿下はこれでも更生しているのだ。かつてのこの方は荒みきっていた。このメティル宮の一部が民間に貸し出されているのも、放蕩による借金を返済するためだと言われている。
「初めて観たオペラに心が打ち震えたことを、今も覚えています」
「……ハイライトで殿下は涙を流しておいででした。あくびで出たものだと言い訳なさってましたが、あの涙で私はあなた様の感性が確かなものであると確信したのですよ?」
アルディス陛下に頼まれて、アンナは不良殿下の遊び相手となった時期があった。芸術に触れることを勧め、芝居やコンサートに連れ出し、劇団の主宰と引き合わせたりした。その頃から、リーンが付き合う人物の傾向が変わり、リーン自身の言動も明るくほがらかなものへと変わっていった。
「今でも、あの頃知り合った方々とは良き友人です。このカフェだって元は芸術談義をする場として建てたのです」
「そうだったのですか」
「兄上の改革の足が鈍る頃から、政治的な議論が増えて……見ての通り今では革命派の巣窟となってしまいましたがね」
そう言ってリーンは苦笑する。
「姉上には本当に感謝しています。貴女が立ち上がるのであれば、私は何だってします! 先程はからかうような物言いになってしまいましたが、私はあなたのお味方です!」
真っ直ぐ、アンナの瞳を見つめてきた。仲が悪くても兄弟なんだな、そんな事をつい考えてしまう。その眼差しは、アルディス帝にそっくりだ。つまりそれは恐らく……アンナに抱いている想いも兄君と同じなのだろう。直感的にそう確信した。
(だから違う。この方は、陛下を殺してはいない……)
この方の兄に対する複雑な想いは到底理解できない。けど、アンナに対する想いがある。ならば自動人形のシリンダーに「処刑命令にサイン」などとは書かないはずだ。
皇弟リーンは、容疑者リストから外れることとなった。
黒い飛竜にまたがり、監獄島へと帰還する。まるでこの島だけが昼の時間に取り残されているように、島全体が煌々と照らし出されている。夜に脱獄を手引きする船が近づかないよう、この島には無数の灯台が建てられているのだ。アンナが乗るこの飛竜も、先程からこの光の中にいた。地上から見れば、真っ白いシーツに垂らしたインクのように、この竜の影が浮かび上がっているはずだ。
(なぜ、看守の自動人形たちはこの竜に気づかないのかしら?)
そんな疑問が胸の奥にあった。今朝ここを出るときも……いや、そもそもマルムゼが初めてアンナの目の前に現れたときから、監獄全体が無反応なのだ。人員削減のため、看守の殆どがシリンダーに刻印された計算式通りに動く自動人形とはいえ、誰にも見つからないというのはおかしい。まるでこの黒鱗種の飛竜が見えてないかのようだった。
「お帰りなさいませ」
塔に着陸すると、出迎えのために屋上に出てきたマルムゼが一礼した。
「いかがでしたか、皇弟殿下は?」
「恐らく、彼ではありません」
「なるほど。そうですか」
マルムゼは、アンナそう考える理由を尋ねては来なかった。彼の自分に対する想いをどう説明するか考えあぐねていたため、マルムゼの反応にアンナは少しだけほっとした。
「では、明日は皇后陛下でしょうか?」
「…………」
そうするしかない。アンナもそう考えていたが、口には出さなかった。リーンが容疑者から外れたとなると、確かに最も怪しいのは貴族派となる。彼らの中心であるクロイス公爵家の周辺は調べなければならない。特に陛下と公爵家の橋渡しとなったルコット皇后は……。
けど、その一方で違和感もある。このままクロイス家を疑って良いのか? 何かを見落としてないか? そんな考えが、常に頭の片隅に引っかかっていた。
「フィルヴィーユ侯爵夫人?」
名前を呼ばれて、アンナははっとマルムゼの方を見た。相変わらず、感情の見えない視線を投げかけてくる。
「すみません、考えを整理してまして。……ええと、そうですね。皇后陛下については調べねばなりません」
「では、明日はオルシュード宮殿に行かれるのですか?」
「そういうことになりますね。問題はどうやって忍び込むか、ですが」
オルシュード宮殿。一年前までアンナも暮らしていた場所だ。皇帝の住まいであり、帝国の中枢部。市民が好き勝手に入れるメティル宮とは違い、中に入ることすら難しいだろう。
「それでしたら私におまかせを。鏡の前にお立ち下さい」
「え?」
言われた通り、アンナは姿見の前にたった。室内の灯りはささやかなものだったが、窓の外からは灯台の強い光が規則正しいタイミングで差し込んでくる。そのたびに室内で、影が伸びては消え伸びては消えを繰り返している。
「いきます。…………はい」
マルムゼがアンナに手をかざす。灯台の光が差し込み、アンナの姿が鏡にくっきりと映し出される。その次の瞬間光が強くなる。かと思えば影が伸びてきて鏡を覆い尽くし。そしてまたすぐに光が照らし出す。
「え?」
何度目かの光が差し込んだ時、鏡には壮年の男の姿が映し出されていた。鏡の前に立っているはずの自分の姿はどこにもない。大柄で、口ひげを生やし、やや頭の禿げ上がった男の姿だ。
「マルムゼ殿、あなた変化の術が使えるのですか!?」
「はい」
「もしかして……あなたは皇族なの?」
变化は皇族が使える十大秘術のひとつとされている。皇族や貴族などの支配階級と平民の決定的な差はなにか? それは魔術の才能や血に流れる強い魔力の有無だ。彼らの父祖は、かの魔王戦争で魔族と戦かった魔術師たちである。特に初代皇帝リュディスは、鉄壁の魔王城に竜に変身して乗り込んだと伝えられている。
もちろん、他にも变化を使える貴族はいるが、もっとも精巧に変身できるのは皇族とされていた。
「末席ではありますが、皇位継承権を持っております」
皇族と言ってもだれもがリーンのように大きな権威を持っているわけではない。四百年続いたヴルフニア皇帝の血は、数多の分家を生み出し、その多くは皇族とは名ばかりの生活を送っていた。
アンナと親しかった官僚派のメンバーにも、そういった末席の皇族たちが何人もいる。皆、貴族派の専横に対抗するために、アルディス陛下の呼びかけに応じた者だった。
(となると、マルムゼの背後にいるのは官僚派?)
シンプルに考えれば、アンナがクーデターを起こして最も得をするのは、同じ理想のもとに動いていた官僚派のメンバーとなる。その可能性は高い。
「この他に、人の認識をずらす幻惑の術も心得ております。これらを組み合わせれば、皇宮に入ることは可能かと」
なるほど。あの飛竜が誰に見つかることもなく、この塔に行き来できた理由もわかった。そして恐らく、アンナが留守のときはこの男がアンナに偽装して自動人形をやり過ごしているのだろう。
「……どういうおつもりです? 私には協力しないのではなかったかしら?」
「はい。ですが、あなたが納得するまで調べさせた方が、第六兵団へ連れて行きやすい、そう思い直しました」
マルムゼは言う。やはり抑揚のない口調で、本心は見えない。もしこの男が官僚派ならば、アンナに協力するのはクロイス家への敵対心から、とも考えられる。
「ただしお気をつけを、御存知の通り、クロイス家は破幻の術が得意な家系。王妃の邸内にも侵入者対策として術が施されているでしょう。皇族の術で寵姫が邸内に入ったことが露見すれば、水面下にあった皇家と公爵家の対立が表面化しかねません」
「わかりました。塀さえ越えればあとはなんとかします。そこで術が切れるようにして下さい」
そして翌日。皇帝アルディス3世の帝都凱旋まで、あと6日。
昨日と同じく、飛竜で帝都近郊まで近づく。手頃な森に着陸し、木々の間に竜を潜ませると、アンナは帝都から少し離れた郊外を目指した。
オルシュード宮殿は、先帝が建設した世界最大規模の宮殿だ。その総面積は、昨日訪れたメティル宮とは比較にならない。鹿狩りが可能なほど広大な森林庭園と、その各所に建つ無数の城館。その中の一つが、王妃の住む邸宅だ。
「よし、通れ」
宮殿内に通じる検問。事前にマルムゼがかけてくれた变化と幻惑の術で、アンナの姿は役人や兵士からは、食品納入業者に見えているはずだ。この辺りの区画は、警備の目もそこまで厳しくはない。まずは第一関門突破だ。
周囲の目を盗み、食品商人に化けたアンナは馬車の影に隠れた。すぐに術が解ける。事前の手はず通り、マルムゼがかけた術は宮殿敷地内に入った所で解けた。
(さて、次は第二関門ね)
アンナは、監獄内で働く女性型自動人形の服を拝借し、身につけていた。幸いにもその服は、宮殿内の侍女のものと色やデザインが似ている。遠目には区別がつかないだろう。ただし、近くで見れば明らかに違う。
だからアンナはまず、洗濯工場へと向かった。宮殿の使用人の制服はすべて支給品であり、この工場内で洗濯されている。その中の一枚を盗み出し、誰かに見つかる前に着替えるのだ。それが成功したら、いよいよ第三段階となる。
(よし、アンナ。ここからが勝負よ……)
首尾よく、侍女の制服を入手したアンナは、いよいよ王妃の居館へと足を向ける。森の中にある、自分の住まいだった居館を訪れたい気持ちもあったが、そんな時間はない。馬も使わずあそこまで行こうとすれば、それだけで日が暮れてしまう。それほどこの宮殿は広いのだ。皇后の居館に忍び込み、皇帝暗殺に関わる手がかりを探すことに集中しなくてはならない。
(大丈夫。あの頃と同じようにやれば、誰にも怪しまれない)
心の中でつぶやく。もともとアンナは侍女としてこの宮殿で働いていたのだ。アルディス陛下に見初められ、職人の娘が皇帝の寵姫となったあの夜まで。皇妃の館に出入りした事もある。侍女たちの仕事は一通り心得ているし、彼女たちが休息を取る時間帯、気を抜く場所、各部屋の誰もいなくなるタイミング、すべて覚えている。彼女たちに怪しまれずに調べ回ることが出来る自信はある。
木々の間から赤い屋根が見えてきた。あれが皇后の居館だ。そこに近づくごとに、魔術的な警備が厳しくなっているのがわかった。警備用の自動人形が歩き回り、各所に飾られた彫刻には、幻惑を解除する「破幻の魔術」が施されている。どちらもクロイス公爵家が用意したものだろう。やはり、マルムゼの術だけでここまで来なくてよかった。
「まぁ! 嫌ですわ伯爵夫人。ふふふっ」
軽やかな笑い声が、風に乗って流れてきた。アンナは足を止める。館の前庭にテーブルが広げられている。そこに十数人の貴婦人たちが座って談笑していた。中心にいるブロンドの女性……間違いない。ルコット皇后陛下だ。
「…………」
知った声を聞いたことで、このまま歩みを進めて良いのか、迷いが生じた。館の中に入るには前庭を通らねばならない。
(ううん、大丈夫よ)
言うなれば、正妻と愛人の関係である。彼女と直に話したことは一度もない。宮廷の公式行事でも、離れた席に座っていた。大丈夫。彼女たちは私の顔なんて殆ど覚えていないはずだ。それに宮殿いいるなんて思いもしないだろう。今の私は宮殿の侍女。貴族や皇族は、侍女の顔なんて一人覚えているわけがない。
そうだ。大丈夫だ。覚悟を決めて、庭に足を踏み入れる。
「あら、フィルヴィーユ侯爵夫人? そのような姿で何をしていますの?」
心臓が止まりかける。皇后は庭に入ってきた侍女を見て、まっ先に尋ねてきた。
「フィルヴィーユ……?」
「どういう事……?」
皇后の取り巻きの夫人たちがざわつき始める。扇で口元を隠し、こちらを見ながらひそひそと何かを話している。
「こ……皇后陛下。お言葉をおかけすることをお許し下さい」
まずは侍女の作法にのっとって頭を下げる。皇族に対しては、会話をすることの許可を求めねばならない。
「あら嫌ですわ。そのような庶民の真似事をなさって」
ルコット皇后は目を細めて笑う。冷や汗が首筋を伝った。
「失礼ですが、ど……どなたかとお間違えでは……?」
平静を装いながら話す。どうして? どうしてバレたの? それもこんなに早く! これも、クロイス家の破幻の術なのか? 高速で頭を回転させるが、答えは出てこない。
「陛下。フィルヴィーユ夫人がこんな所にいるはずがありませんわ」
「確か今は……監獄島ではありませんこと?」
「いいえ! 間違いありません!」
両脇に座っていた夫人たちの言葉を、皇后は否定する。
「私、人の顔を覚えるのが得意ですの。一度見た方の顔を間違えることなんて、絶対にございませんわ!」
取り巻きたちのざわめきが一層強くなった。
「……一体何しに来たの」
「ここがどこだか分かってるの?」
「下賎の娘が、初心に戻って侍女からやり直す気?」
「まさか私達のお茶会に参加したい、とかではないわよね?」
「大臣閣下はカフェで政治談義でもしていた方がお似合いでなくて」
「ていうか脱獄よね。帝国の秩序を乱す重罪じゃない!」
口さがない言葉が、アンナにめがけて次々と投げつけられる。終わった……警備の兵が来るのも時間の問題だ。
「おやめなさい、皆さん!! 私と侯爵夫人は親友なのですよ?」
………………は?
皇后の口から思いがけない言葉。何を言い出すのだ?
ルコット皇后は席から立ち上がると、何重にも折り重なって膨らんだスカートを持ち上げて、ゆっくりとアンナに近づいてきた。思いがけない言葉だったのは、取り巻きたちも同じようで、彼女らも凍りついたように固まって皇后の動きを見守っている。
「お部屋で、ゆっくりお話しましょう。侯爵夫人」
「へ……陛下。一体どうして……」
「どうしてって……私達、二人共アルディスを愛しているでしょう?」
不思議そうな表情でルコットは、アンナの顔を覗き込む。
「愛した殿方が同じ……これって二人の価値観がとても似ているという事だと思うの。お互いが独占欲を出さなければ、私達って良いお友達になるのではなくて?」
思ってもいない展開になっていた。クロイス家の総本山と言うべき、皇后の居館への侵入には成功した。しかし考えていた形とはあまりにもかけ離れている。ルコット皇后の正式な客人として、皇后の手ずからの歓迎を受けるなんて、どうして予測できる? どうやってこの応接室から動き、各部屋を一つずつ確認していく? まさか彼女に直接頼むわけにも行くまい。
「フフ~ン♪ フンフンフ~~ン♪」
皇后は呑気に鼻歌を歌いながら、もてなしの茶を入れていた。ガラスのポットにお湯を注ぐと、まるで花が咲くように茶葉が開き、豊かな香りが部屋中に広がる。
「どうぞ。東洋より取り寄せた最高級の茶葉ですの」
そう言ってニコニコしながら、湯気の立つガラスカップをアンナの前に差し出してきた。
「…………」
アンナがそれに手を付けないでいると、ルコット皇后は怪訝そうな顔をする。
「あら? 毒なんて入ってませんよ? それとも、お茶は苦手だったかしら。やはり殿方の集まりのように、珈琲をいれましょうか?」
入ってる可能性を考えないわけにいかないだろう。アンナは胸の奥でつぶやく。……しかし、それは権力闘争に明け暮れる男の世界にいた者の論理なのか? この方にはまったく縁のない考え方なのか? この笑顔を見ているとそんな気もしてきた。
「……本当に、私が憎くないのですか?」
「あら? どうして?」
きょとんとした顔。この方が本当に、官僚派が潜在的に敵と思い定め、出し抜こうと考え続けてきた、貴族派の最重要人物だというのか?
「私は……あなたからアルディス陛下を奪った人物なのですよ? 今でこそ、私の立場は変わりましたが、あなたから恨まれているという思いは常にございました……」
「怒りの感情を持ち続けて、それが何になります?」
ルコット皇后は、アンナの目の前においたばかりのカップを手に取り、一口その中身を含んだ。ほんの僅かでも毒の可能性を疑った自分を恥じずにはいられない。
「もしかしたら、政治や戦争で他者と戦わなければならない殿方には、その感情が必要なのかもしれません。けど妻の役割とは、そんな感情に振り回された最愛の人を笑って出迎えることではないですか? 私は政治に疎く、侯爵夫人のようなご活躍が出来る頭脳も持ち合わせておりません。けど、笑うことで陛下に協力できる。ずっとそう考えているんです」
「陛下……」
自らを卑下する言葉が含まれているにも関わらず、卑屈さや悲壮感は欠片ほどもなかった。心の底から夫である皇帝陛下の事を想い、彼のために自分ができることをなんて考え続けている女性の言葉だ。なんて美しい人だろう。かなわない。素直にそう思った。
「失礼しました。いただきます」
アンナは、皇后が手元に置いていたカップに手を伸ばし、それを飲んだ。お互いのカップを交換する形で喫茶の時間は始まった。
実際に話してみれば、皇后陛下は本当に天真爛漫な人だった。明るく気さくで、笑うことが何よりも好きな太陽のような女性。
「特にここの所、父の陛下に対する干渉が大きくなっています。それについて心を痛めておられるので、責任を感じているのです」
「そうでしたか……」
「もし父とアルディスが協力し、そこにあなたとリーンが力を合わせれば素晴らしい国になると思うのです。父が外交を、あなたが内政と戦争を、そしてリーンが文化芸術の奨励をになうの。いかがかしら、私の改革案は?」
政治には疎いと言いながら、父クロイス公爵と陛下の関係を的確に見抜き、心を痛めている。この国の主要人物を得意分野を肌で理解し、理想の未来を描ける。リーン皇弟は彼女の事を、聡明さのないつまらない女性と評したが、とんでもない誤解だ。
「そうだ! もしよろしければ、アルディス=レクスに会っていきません? まだアルディスの息子と会ったことはないでしょう?」
「…………」
悪意のまったくない言葉に、さすがに言葉が詰まった。まさか皇太子と会っていけ、とは……。天真爛漫は時に人を傷つける。聡明であっても、人の闇を知らない方なのだ。
アンナは子供を産む事ができない。それは陛下に見初められた後、すぐに分かった事だった。陛下はそれでも構わないと言ってくれたが、アンナは思い悩んだ。
結果、彼女が歩き始めたのは政治の道だ。もともと陛下が掲げる身分制度改革が、平民出身のアンナには好ましく思えたというのもあり、その理想に協力することにした。必死で勉強をし、必死でそれを実践してきた。
陛下との間に子がなせないのであれば、せめて国家を二人の子として慈しもう。そう決めたのだ。
「陛下……」
「あらマータ。良いところに来てくれたわ」
皇后の私室に、一人の女性が入ってきた。
「紹介します。アルディス=レクスの乳母、マータよ。もともと父の侍女だったのだけど、息子が生まれてからは彼の居館を任せているの」
「皇太子殿下の乳母、マータと申します。以後、お見知りおきを」
女性は、うやうやしくアンナに一礼した。貴族は赤子が生まれると、すぐに近しい女性に預けて親と別々に暮らすという習わしがある。実母と離れると、高い魔力が育つと信じられているのだ。
「殿下のことでご報告があって参ったのですが」
「それでしたら後で伺いますわ。ねぇ、それよりも今から二人でそちらにいってもいいかしら? 夫人と息子を会わせてあげたいの」
「フィルヴィーユ夫人を……ですか?」
マータも皇后陛下の提案に、さすがにとまどったようだ。どうしたら良いかわからないという顔で、アンナの方を見てくる。
「あまり彼女をいじめてあげますな。私は結構ですよ。いずれアルディス=レクス殿下とはお会いしとうございますが、またの機会……に……」
何気なく見た乳母の右手に、視線が釘付けになった。小指の付け根に大きめのタコが出来ている。あれは……。
「夫人? どうなさりました?」
ルコット皇后が、言葉をつまらせたアンナを見つめてきた。
「い、いえ……なんでも、ありません……」
間違いない。「職人の手」だ。自動人形を調整するときにシリンダーがぶつかる場所に出来るタコ。それに、薄っすらと機械油の色紙が沈着して黒ずんでいる指先。監獄島で作られたアンナの手と同じものが、マータの手にもあった。
「長居してしまいました。そろそろお暇いたします」
「あら、もっとゆっくりしていけばよろしいのに」
「懐かしさが募り、宮殿に来てしまいましたが、そろそろ監獄島に戻らないと、皇帝陛下に叱られてしまいます」
アンナはわざとおどけるように言った。
「フフ……そうですか。今日は本当に楽しかったわ。やっぱり、あなたとは親友になれそう。ぜひまた遊んで下さい」
「ええ、是非……」