「これで……いいかしら?」

 アンナは機械油にまみれた指先を繊細に動かす。歯車がカタカタと回り始める。よし、うまくいった。背中に取り付けられた蓋を閉じる。自動人形《オートマトン》は、アンナに一礼すると、朝食のスープが入った皿を下げて退室していった。
 ここに幽閉されて一年、自動人形(オートマトン)を大量に配備して、人員を減らしている監獄島では、看守の世話すら自分でやらなければならない。この一年で、人差し指の付け根には小さなタコが出来ていた。父みたいな職人の手に近づけた感じがして、悪い気はしない。けど、宮廷のお局様たちは「下賎な指」と嫌味を言うだろうな。ぼんやりとそんな事を考えた。

 窓から風が吹き込んできた。ブルネットの長い髪が、あおられて広がる。とっさに手で押さえようとしたが、流石に機械油を髪の毛に付けたくは無かったので、手を洗いに洗面台へ向かった。

(いい風。すっかり春ね……)

 その窓からは海を一望できた。外国から入ってくる商船、漁定置網を引き上げる小さな漁船。水の上は人の営みで溢れている。ここからは見えないが、更にその先には、帝都の赤レンガが広がっているはずだった。
 そろそろスズランの季節だ。スズランは帝都の紋章にもなっている花で人気が高い。毎年春になると花屋には白く愛らしい花が並び、菓子屋ではその形をイメージしたケーキやチョコレート菓子が売り出される。

(野鴨亭のケーキ、食べたいな。今年も無理かしらね……)

 野鴨亭は、アンナが生まれ育った職人街の外れにある、食堂兼菓子屋だ。子供の頃から、ここの素朴なケーキが好きで、宮廷に入った後も毎年取り寄せていた。

 しかし今の彼女は、皇帝の寵姫という立場を失っている。

 ヴルフニア帝国皇帝アルディス3世の寵愛(ちょうあい)を受け、内務大臣・戦争大臣を歴任し『ヴルフニアの白薔薇』の異名で知られた、フィルヴィーユ侯爵夫人アンナ。彼女は一年前、最愛の人である皇帝陛下の不興を買い、宮廷から追放された。そして今、この監獄の孤島に幽閉されている。

「もっとも……」

 アンナはため息混じりにつぶやく。

「下層地区に送られなかっただけマシかもしれないけど……ね」

 島の頂上部に建つこの塔は、監獄と言っても帝室ゆかりの者だけが入る特別室だ。塔から出ない限り自由な生活が保証されているし、看守の自動人形もそれなりの礼節を仕込まれている。
 これはアンナがまだ、皇帝の寵姫(ちょうき)という立場を失っていないことを意味していた。もし身分が剥奪されていたら、この島の下層地区、一度入ったら出ることは出来ない監獄島の闇の領域に落とされただろう。

(それに、これはこれで気はラクだし)

 悪い方に考えても仕方ない。手を洗って油を落とすと、読みかけの本を手にとって窓際の椅子に腰掛けた。政務に時間を取られて出来なかった読書を、この一年心ゆくまで楽しむことが出来た。

 アンナがしおりを外し、昨夜読んだ一文の続きに目を落とした、その時だった。

『キイィィ……ィィン!!』

 窓の外からだ。甲高い鳴き声が塔の上で聞こえた。

「何?」

 この鳴き声は……。アンナは思わず窓から乗り出す。塔の周囲を、影が旋回していた。翼を大きく広げ、長い尻尾を後方へ伸ばす黒い影。

「飛竜……黒鱗種(こくりんしゅ)がなぜここに?」

 飛竜は馬と並んで、古来より人と繋がりの深い動物だ。馬よりも飼育が難しく、数も少ないが、空を移動できるため重宝されている。文字通り漆黒の鱗を持つ黒鱗種は、帝国軍にも配備されている軍用竜だ。このような監獄島に来るのは非常に珍しい。

「フィルヴィーユ侯爵夫人!!」

 騎乗の男が、窓から顔を出すアンナに気がつき、叫んだ。黒尽くめに金の刺繍が入った軍服。親衛隊だ。

「直ちに、この塔よりお逃げ下さい! あなたは10日後、アルディス陛下の凱旋と同時に処刑されることとなりました!!」