君と見上げたい、たった一度の8月31日の夜空を。

 雪水冬花は昼休み、五時間目の授業の準備してくるという名目で一足早く音楽室に入ると中には誰もおらず、後ろの壁にはベートーベンやバッハ、ショパン等の有名な音楽の偉人の肖像画が飾られ、黒板の前にはグランドピアノが置かれていた。
「あの……こんにちは!」
 扉を閉めると音楽室は閉ざされた世界となる。
 外の校庭で遊んでる生徒たちの声がまるで遠い別世界のように聞こえ、一歩ずつ踏み締める冬花の足音が静かに響くと、隣の音楽準備室に通じるドアから一人の先生がゆっくりと柔和な笑顔で姿を見せた。
「はいこんにちは……えっとどちら様かな?」
「あっ、五時間目に授業を受ける二年三組の雪水冬花です。今日はちょっと柴谷先生にお訊きしたいことがあって早めに来ちゃいました!」
 吹部でもない生徒の訪問に柴谷先生は少し首を傾げてる様子だ。柴谷先生は背は低いけどイケメンで変わり者の先生で、音楽準備室を私物化してる噂だ。
「丁度お茶を淹れたところなんだ、飲みながらゆっくり話そう」
「あ、はい……お邪魔します」
 柴谷先生に招かれて準備室に入ると、楽しそうに談笑してる女子生徒が三人いた。
 制服のリボンを見ると一年生の紺色、二年生の赤色、三年生の青色と一学年に一人ずついて冬花と同じ二年生の子は確か一組の駒崎八千代さんだ。
「あれ? あなた確か……三組の雪水さん? 今日は如月君と一緒じゃないの?」
「あらあら可愛いお客さんが来ましたよ、先生ハーレムですね」
 背の高い抜群のスタイルで黒髪ショートにそばかす顔の知性的で大人っぽい風貌の三年生が「ニヒヒ」と茶化すと、柴谷先生も微笑みながら冗談に乗る。
「それは困った話しだね、家内に見られたら大変だ」
 一年生の子はおとなしそうな感じで、三つ編みお下げに黒縁眼鏡子をかけていて緊張した面持ちで「こんにちは」と挨拶した。
「えっと、皆さんはもしかして吹奏楽部?」
「そうよ、こちらは三年生でフルートの小坂(おさか)朱美(あけみ)先輩。そちらが一年生でトロンボーンの栢原(かやはら)美織(みおり)ちゃん、そしてあたしはオーボエの駒崎八千代よ!」
 駒崎さんは二人の先輩後輩を紹介して自己紹介する。
 その間、柴谷先生はガラスのティーポットから五人分のカップに注ぐ、それはとても優雅で思わず見惚れながら駒崎さんが用意してくれた椅子に座る。
「柴谷先生の淹れる紅茶……とても美味しいんですよ」
 栢原さんは視線を柴谷先生に向けて仄かに艶やかな笑みを浮かべる。
 この表情、淡い恋心を抱いてるかも? 冬花はなんとなく察する。
 周りには紅茶を淹れるためのカセットコンロにやかん、ガラスのティーポットや茶菓子、あと柴谷先生の愛読書なのかジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」や「動物農場」が置いてあって、どう見ても音楽準備室に置くような代物じゃない。
「あっ……美味しい」
 柴谷先生が淹れた紅茶を飲むと栢原さんの言う通りとても美味しい、音楽準備室を私物化してるのは本当のようだ。
 小坂先輩はうっとりした表情で言う。
「でしょう? 先生の紅茶を飲めば午後の授業は睡魔に悩まされずに済むわ!」
「朱美先輩、受験生ですよね?」
 駒崎さんに鋭く指摘されると、小坂先輩は「グハッ!!」と刃物で胸をぶっ刺されて吐血するようなリアクションを取り、両目を不等号にして嘆く。
「言わないでぇ~駒崎ちゃん! 高校最後の夏休み、いっそ八月三一日の夜に彗星が地球に衝突してくれたらと何度願ったことか!」
 それだとコンクールはどうするんだろう? こんなに楽しいと風間さんも――あっ! 吹奏楽部の人たちとティータイムを楽しんで目的を忘れたことに気付く。
「そうだ! 柴谷先生、風間さんのことなんですけど」
「!? 雪水さん、夏海のことどうして?」
 駒崎さんは戦慄した表情を見せて訊くと冬花は「昨日一緒に帰ったの」とだけ答える。柴谷先生はにこやかな笑みは鳴りを潜め、少し厳しい表情になる。
「駒崎さんや小坂さんから聞いたよ。僕の答えは……決めるのは風間さんだ。彼女の演奏を以前動画で見せてもらったけど、とても素晴らしいものだった。だけど、それとこれとはまた別問題だ」
「先生の言う通りよ……残念だけどフルート奏者の風間は……もういないわ、まあ戻ってくるなら歓迎するけどね」
 小坂先輩の表情は悲しさと寂しさが入り混じり、栢原さんは恐る恐る訊いた。
「あの……柴谷先生や私たちが来る前、吹部に何があったんですか?」
 小坂先輩は悲しげに唇を噛み締め、駒崎さんは徐々に顔を顰めてカップを持つ手を握り締め、怒気を放ち、血が出るんじゃないかと思うくらいギリギリと歯を噛み締めて忌々しげに憎悪に満ちた口調で言う。
「あの巨匠気取りの笹野……思い出すだけで虫酸が走るわ。高校生活を吹部だけにして結果を出しても褒めない、認めない、怒鳴る、頭っから否定する……何より才能溢れる夏海を……潰したのよ!」
 駒崎さんの瞳には全てを焼き滅ぼすような憤怒と憎悪の炎が宿り、栢原さんが「ひっ!」と怯えると隣に座っていた小坂先輩が優しい母親のように抱き締める。
「大丈夫よミオちゃん、怖くないわ。駒崎、気持ちはわかるけど落ち着きなさい……ミオちゃん怖がってるでしょ」
 小坂先輩は毅然と口調でした諭すと、駒崎さんはカップの紅茶をゆっくり飲んで落ち着かせると大きく息を吐く。
「すみません。でも、どうしても許せないんです……あたしたちの一年間、そして先輩の二年間をふいにしたあの顧問のことが……」
「駒崎さん、やっぱり……何かあったんだね」
 冬花は確信して言うと、小坂先輩が代わりに話し始めた。

 私が話すわ。いずれミオちゃんや柴谷先生にも話しておかないといけないことだったからね。
 柴谷先生が来る前、笹野が吹部の顧問をしていた頃は所謂ブラック部活だったのよ、聞いたことあるよね? ブラック企業とかブラックバイトとか、あれの部活バージョンよ。
 毎日始業前の朝練や遅くまでの練習、そのうえ土日祝日は自主練の強制参加。
 練習も笹野の罵声や怒号、理不尽な指導で何人も泣かされたわ……おまけに部活に支障が出るって、男女交際とかも色々禁止って入った後で知らされたわ。
 私もね、実は好きな人がいたの……中学の頃からのね。実を言うとその人と一緒になりたくてこの学校に入って、いい所まで行ったんだけど……話す機会もなくなって、その人も彼女作っちゃって失恋。
 そういう意味では私も笹野が憎いわ……今は二年の彼氏がいるけどね。
 ああそうだ、脱線したわ。雪水さんだったね? 風間のこと知りたいって?
 フルートの演奏……本当に素晴らしかったわ。
 才能溢れる天才と言っていいほどよ、あの子がうちの吹部に来た時はそりゃもう歓迎したわよ。一年のホープだったわ……今思えば入部を止めるべきだったわ、全力で……あの時の私たちは笹野のパワハラで洗脳され切ってた――いいえ、そうでないとやってけなかった。
 卒業した先輩たちの中には風間のことを快く思わない人もいたし、妬んで手段を問わず平気で嫌がらせや、憂さ晴らしにいじめて精神的にサンドバッグにする人もいた。
 笹野も笹野で風間に歪み切った形で期待して特に厳しくしていた……いいえ、厳しいなんてものじゃない、あんなの指導という名の悪質なパワハラ――いいえ最早虐待よ。
 笹野と先輩たちに板挟みにされたあの子は去年の七月、その日は台風が通り過ぎた暑い日だった。
 あの子は突然音を立てて壊れたわ。
 大会も近づいて笹野はいつも以上に罵声や暴言、指揮棒を飛ばして、私も怒鳴られたわ……午前中の練習が終わった時よ。
 あの子が突然吐いて倒れて保健室に運ばれたわ……熱中症だったと思う、幸い意識はあったけど笹野は気遣うどころか、練習が滞ったから滅茶苦茶に怒鳴ってお前には失望したとか今まで何やってたんだとか、そりゃもう人格否定のお手本と言えるほど酷かったわ。
 そして大会の前日の朝、あの子は音楽室に退部届けを置いて来なくなったわ……今にして思えば最初で最後の反抗だったと思うの、大会の結果も散々だったから。

「酷い話だな……そんなの顧問失格以前の問題だ……私が顧問になって最初にみんなの演奏を聞いた時、悪くはなかったけど……一番大切なことを忘れて、酷く怯え切っていて萎縮していた」
 小坂先輩の話しを聞いた柴谷先生の表情は険しかった。冬花はやっぱり部活入らなくてよかったかもと安堵してしまう自分が嫌いになりそうだった。
 すると、重苦しい空気を振り払うように駒崎さんは明るい笑顔で柴谷先生を見つめる。
「でも、あたしは柴谷先生が来てくれて本当によかった。練習は厳しいけど……決して怒鳴らず否定せず……音楽の楽しさを教え直してくれたから」
「私もよ! もうコンクールなんて行けなくていいから卒業までに吹奏楽を通じて音楽の楽しさを教え直して欲しいなってね!」
 小坂先輩は能天気に言うがまさか、小坂先輩も? 彼氏いるのに? その証拠に栢原さんはジッと絶対に負けないと、意志の強そうな眼差しで見つめてる。
 柴谷先生は知ってか知らずか爽やかな笑みで紅茶を口に運んでいた。
 二人とも左手の薬指に指輪が光ってるの忘れてない?
 放課後になり、朝霧光はいつものように席を立つと廊下に出て、望や冬花と合流する。
「冬花、昼休みはどこに行ってたの?」
「音楽準備室で柴谷先生や吹奏楽部の人達と紅茶を飲んでたの」
 冬花の笑みは曇りがちだ、何があったんだろう? 何か思い詰めてる表情で冬花は提案する。
「ねぇ、せっかくだからさ……風間さんと桜木さんも誘おう」
「そうだね、俺もそう思ってた」
 望が提案に乗るとなんとなく光は感じていた。冬花も風間さんのことを気にかけているんだと、それは光も同じだった。
「それなら行こうか」
 みんなで一緒に帰る。ありふれたものだが青春モノみたいだ。
 光はなにか引っ掛かるような気持ちで二組の教室に差し掛かると、二組のホームルームも終わったところで、春菜はクシャクシャと頭を掻きながら出てきて、冬花は声をかけた。
「桜木さんどうしたの? 一緒に帰ろう!」
「あっ、うん……昨日SNSで二組の誰かが煙草を吸ったってデマ情報が流れたんだけど、玲子(れいこ)先生が調べたら証拠写真の煙草の吸い殻は曰く、一部の専門店でないと買えないイギリスのヴィクトリー・シガレットっていう銘柄だったそうよ……誰かが玲子先生の吸い殻を拾ってそれで拡散させたみたい……最近誰かがうちのクラスを貶めようとしてるの」
 二組の担任――綾瀬(あやせ)玲子(れいこ)先生は柴谷先生と同い年の美人の先生で、みんなは玲子先生と呼んでいる喫煙者だ。
 世間の禁煙ムードもどこ吹く風と言わんばかりに、時々敷地の外や学校の野良喫煙所で恐ろしくキツい匂いの煙草を吸ってる。
「ええっ!? 酷いじゃない!」
 感受性豊かな冬花は当然の反応を示すと望は訊いた。
「ねぇ桜木さん、それ……いつ頃から?」
「確か部活辞めた後だから六月頃かな?」
 春菜は思い出しながら言う、それでハッとして確信した表情が徐々に怒りを露にするが、一組の教室から夏海が出てくるとブルブルと首を左右に振ってクールダウンさせて歩み寄る。
「夏海、今日もみんなで帰ろう」
「あっ、うんまた昨日みたいに街に――」
 夏海が安堵の表情を見せたかと思った瞬間、何の前触れもなく冬花は人目を憚らず夏海に抱きついた。
「雪水さん……どうしたの?」
 困惑する夏海に冬花の瞳から大粒の涙が溢れ出し、嗚咽を漏らす。
「うっ……辛かったんだよね夏海ちゃん……毎日辛くて苦しい日々を送って……吹奏楽部辞めた後も一人で心細くて耐えていたんだよね? 今日聞いたの、吹奏楽部の先輩や駒崎さんから……夏海ちゃんがフルート頑張ってたけど……壊れちゃったって」
 夏海はなんとも言えない曇った表情になる。光は周囲の生徒達の視線が集中してることに気付いて春菜と目が合うと、彼女は無言で頷いて望は優しく冬花と夏海を諭す。
「冬花……ちょっと場所を変えよう。風間さん、僕たちにも話しを聞かせてくれるかな?」
「うん、じゃあ屋上に」
 夏海は重く頷いた。みんなで屋上に上がって塔屋を出ると、厚い雲がかかってるとはいえ陽射しに加熱されたアスファルトの熱が、上履きを履いてもはっきり伝わる。
 真夏の湿った心地よい風が吹く中、夏海は静かに話し始めた。

 私が吹部でフルートを始めたのが中学の頃、入学式の日に仲良くなった八千代ちゃんに誘われて一緒に入ったの、八千代ちゃんはオーボエだったけどみんな仲良くしていたわ。
 コンクールとは無縁の弱小だったけど顧問の先生も先輩もみんな優しくて純粋に楽しくて……文化祭や体育祭、定期演奏会の時の方が晴れ舞台だったわ。
 細高は滑り止めで受けたんだけど、それでも八千代ちゃんと一緒だったのが嬉しかったし、同じクラスになった恵美ちゃんとも仲良くなって吹部に入った。
 けど、細高の吹部は中学の時とは悪い意味で正反対だった。
 顧問の言うことは絶対だったし、パートや楽器で派閥を作っていてピリピリしていて休みなんてなかった。
 休んだら次の日はみんなの前で頭下げないといけないって、最初の頃は練習中それこそ怒鳴られて何回も泣かされて……それでも、私と八千代ちゃんや恵美ちゃんとなんとか励まし合いながら頑張ってきた。
 でも……私には無理だった!
 コンクールが近づいた七月の凄く暑い日にね、暑くて気持ち悪くなって椅子から立ち上がった瞬間に吐いて倒れちゃったの……ボーッと気が遠くなる間……聞こえちゃったの。
 楽器は大丈夫? 壊れてない? って、保健室のベッドで休んで楽になったけど、顧問が来て……お前は今日まで何してたんだ、大事なフルートを壊して失望した、時間を無駄にしたって……幸い保健室の先生が止めに入ってくれたけど、あんなに自分自身を否定されたことはなかった。
 その時、私より楽器の方が大事ならもういいや……フルートなんてもうやりたくない……吹部はもう私の居場所じゃない……辞めた後はしばらくは陰口や噂を流されたけど、顧問に怒鳴られたり人格否定されるよりはよかった。
 六月に春菜ちゃんが声をかけてくれたのは本当に嬉しかった。

 夏海は悲しげな眼差しで春菜を見つめると、春菜も沈んだ表情になる。
「そんなに嬉しかったんならさ、もっと嬉しいって顔して笑えよ……もうすぐ夏休みなんだぜ、それも彗星の夏休みだ! いっぱいさ……青春しようよ!」
「うん、わかってる……私……夏は好きだったけど、今はもう嫌いなの……暑い日になるとあの日のことを思い出して頭から離れないの」
 だから夏海はあの時、夏なんて大嫌いだと叫んでいたのか。光は六月の晴れた日のことを思い出すと、望は言い当てるように訊く。
「だからもう……吹奏楽部には戻りたくない?」
「……恵美ちゃんや先輩たちが戻ってきて欲しいって言ってるのわかってるけど……私のことを快く思わない人たちも沢山いるの……せっかく柴谷先生が纏めてくれたのに、また私のことで争ってしまうかもしれないから……吹部はもう私の居場所じゃないと思うの」
 夏海やこの前春菜が言った通り一度裏切った部活にまた戻る。学校と言うのは恐ろしく狭くて息苦しい檻だ。それをみんな知識ではなく心で熟知してる、春菜は夏海の心を刺すように言った。
「部活どころか教室――学校そのものじゃない?」
「……うん、前はみんなで楽しくやってたんだけど……今は休み時間とか昼休み……特定の人以外、私に声をかけちゃ駄目って空気なの」
 夏海は重い口調で言う、特定の人とは恐らく吹部のクラスメイトだろう、周到な手だ。
 恐らくはスクールカースト上位グループに口添えでもしたに違いないと、光は眉を顰める。
 冬花は首を横に振り、嘆きながら憤る。
「酷いよ! これじゃ部活辞めてもどこにも居場所がないじゃない!」
「だからこうして桜木さんが風間さんに寄り添ってる?」
 望が言うと春菜は「大当たり」と頷いた。
「辞めた者同士でさ、気楽にやっていこうって……勿論、辞めて逃げた弱い者同士で傷の舐め合いをしてるって陰口言う奴もいるけどさ……あたしも居場所無くしちゃったからね」
 春菜の微笑みは寂しげで夏海は悲しげな眼差しで見つめる。
「ごめんなさい春菜ちゃん、私のせいで……一緒に辞めた友達も離れて――」
「気にするなよ! あいつらはあいつらで楽しくやってるさ! 距離を置くように言ったのあたしの方からなの……羨ましいと思うこともあるけどさ、それで……いいんじゃない?」
 後半の春菜の台詞は弱気に聞こえ、夏海は今にも涙が浮かび上がってきそうな表情で唇を噛んだ。
「でも……私のせいで居場所を無くしてしまって……」
「夏海ちゃん……春菜ちゃん……」
 冬花もどうしていいかわからないのか、ただ二人を見つめて呟く。
 望も歯痒そうな表情でジッと二人を見つめてる。
 光にとっての居場所とは? 少なくとも狭い教室でも、この屋上でもない。望と冬花と三人で放課後は気ままに街をブラブラしている。
 強いて言うなら望と冬花の二人と、どこにでも行ければそこが居場所だ。
 それならこの二人に自分ができることは? いや、自分一人ではできることは僅かだけど……光は自問自答し、ゆっくり呼吸を整えて腹を括り、突き抜けるような声を強く響かせた。

「じゃあ……みんなで作ろう!」

 みんな「えっ?」という顔で光に眼差しを向けると、夏の爽やかな風が吹きつけ、雲の隙間から陽光が射す。
「僕も自分のクラスが狭くて息苦しいから、望や雪水さんといる……でも、それは悪いことじゃないし弱さじゃないと思う。だから風間さん、もう一度夏休みを――夏を好きになろう!」
 光の言葉が、心が、果たして夏海に届いたのだろうか? 夏海は闇の中、微かな希望の光を目にしたような表情だ。夏海の唇が微かに動いた瞬間、春菜は瞳を輝かせて嬉しそうに飛び上がるような高い声を上げた。
「いいじゃない! 青春じゃない! 夏海、あたしは乗るわ!」
「それなら、俺たち今年の夏休み湘南に遊びに行く計画立ててるんだ。一緒に行こう!」
「えっ? 如月君いいの!? 本当にいいの!?」
 春菜は裏返った声で尋ねると、望は躊躇う様子もなく頷いた。
「うん、俺の親戚にホテルのオーナーをしてる人がいるから頼んでおくよ!」
「いやったぁぁぁあああっ! 湘南江ノ島! しらす丼! そうだ! まだ紹介してないけどもう一人の子も誘いたいの!」
「うん! 楽しみが増える!」
 望と春菜は元々明るい性格だからか意気投合し、光は思わず微笑む。
 冬花は夏海の目の前まで歩みより、両手をゆっくりと優しく握る。
「夏海ちゃん……光君の言う通り、居場所がないなら一緒に作ろう。怖いかもしれない、不安かもしれない、だけど大丈夫……一人じゃないよ、あたしたちがいるから」
「雪水さん……」
「冬花でいいよ」
 冬花は無邪気な笑顔で言うと夏海は声を震えさせた。
「うん……ありがとう……と……冬花ちゃ――ふっ……ふぇええええん!」
 夏海は抑えていたものが決壊し、両目から大粒の涙を溢れさせて小さな子供のように大声で泣きじゃくり、冬花は困惑しながらハンカチを取り出す。
「あわわわっ夏海ちゃん! 大丈夫?」
「大丈夫よ、嬉しくて泣いてるんだよね? 夏海」
 春菜は大粒の涙を拭う夏海の背中を優しく擦る。
 この子がもし満面の笑みを見せてくれたら、それはきっと真夏の太陽のように眩しく、素晴らしいものなんだろうと夏の空を仰ぐと気付いた。

 蝉が鳴いてる。

 僕たちの、夏の物語の始まりを告げるかのように。そういえば今朝のニュースで気象庁が梅雨明けを宣言したと報じたことを思い出した。
 第二章:彼女の抱えるもの

 終業式数日前の放課後、ホームルームが終わると彼女は鞄を持って席を立つ。
「守屋さん駒崎さん、部活前にちょっと一緒に来て下さい」 
 クラスメイトの守屋恵美と駒崎八千代が担任で現国の高森(たかもり)明子(あきこ)先生に呼び止められ、連れて行かれると、彼女は確信してこっそり後をつける。
 高森先生は六〇歳代にしては随分と若々しく生真面目を絵に描いたような先生で、生徒には勿論、同僚や保護者、そして自分にも厳しくて少々融通は利かないが、授業はわかりやすく丁寧で信頼の厚い先生だ。
 そして剣道部の顧問でもあり、指導は細高一厳しいと有名だ。
 階段の踊り場の影から覗くと、行き先は思った通り生徒指導室だ。
 二人が高森先生に中に入るよう促されると守屋さんは「なんで!?」と受け入れがたい顔をして、駒崎さんの方は逆に薄々気付いてたのか全てを諦め、受け入れてる様子だ。
 入って二分ほど経つと彼女は周囲を見回しながら音も立てず生徒指導室前に接近、ゆっくり引き戸に耳を当てて盗み聞きすると、吹奏楽部顧問である柴谷先生の声はいつもの柔和で爽やかな声は鳴りを潜め、厳しく毅然とした声が聞こえた。
「――理由はどうであれ、このようなことをして他のクラスを貶めるということはそのクラスの吹部の仲間を貶めることにもなる。顧問として、駒崎さんと守屋さんをコンクールの出場メンバーから外すことも視野に入れている」
「はい……そうして下さい……最初から覚悟してます」
 駒崎さんはどんな処罰も受け入れるような声色だ。すると二組の担任で細高の綾瀬玲子先生の声がした。
「駒崎さん、覚悟があるなら最初からしないはずよ……守屋さん、私の担任する二組の誰かに恨みでもあるの?」
「はい、でもただ……ただ……ホームルームが長引いてくれればよかっただけなんです」
 自白したわねあの女……人のこと言えないけど、やり方がいちいち陰湿なのよ。
 彼女は眉を顰めるがまあいい、高森先生が仇を取ってくれる。
「駒崎さん守屋さん、あなたたちが今回SNSでしたことは二組のクラスのみならず全校生徒や卒業生、更には社会に対する細高の信用を著しく傷つけ、裏切る行為です」
 期待通り高森先生は二人を厳しく追求する。
 今回の二年二組の生徒が校舎裏で煙草吸ってたというでっち上げ騒動の犯人は駒崎と守屋の二人だ、そして証拠を集めて高森先生に密告したのは彼女だ。
 一五分程で指導が終わり、守屋さんのすすり泣く声が聞こえる。
 まぁこれで反省して嫌がらせを辞めたならいいけど。さっきいた踊り場の影に戻るとドアが開いて駒崎さんはどこか安堵した表情で、守屋さんは悔しそうに腫れぼったい顔になっていた。
 続いて柴谷先生が出て来て二人に厳しく告げる。
「守屋さん駒崎さん。本日に限り部活動を禁止する。真っ直ぐ家に帰って頭を冷やして反省し、明日の練習に備えるように。吹部には私の方から説明するから、いいね」
 駒崎さんは重く受け止めたように「はい」と返事するが、守屋さんは力なく「はい」と頷いた。まぁ痛い目に遭ったから、春菜に伝えるのはまた今度やらかした時にしよう。


 終業式の日、いよいよ明日は夏休みだ。
 教室内は浮かれ気味で帰りのホームルームになると大神先生は釘を刺す。
「――聞いてると思うが夏休み中は補導員や先生たちが見て回ってる……多少のことは大目に見るがくれぐれもハメを外し過ぎて嫌な思い出を作らないようにな」
 ロングホームルームが終わり、朝霧光は教室を出て冬花や望と合流すると春菜も二組の教室から出てきた。
「みんな、お待たせ夏海はまだ来てない?」
「うん、一組も、もう終わったかな?」
 冬花は一組の教室の方に目をやると、既に終わったらしく六~七人程の女子グループが出てきて、ふと光は風間さんがクラス一人でいる時どうしてるんだろう? という疑問が浮かび、望も同じことを考えていたのか口に出す。
「そういえば桜木さんと風間さんクラス違うよね? もしさ、桜木さんの目の届かない所で吹部の人たちに連れて行かれそうになったらどうするの?」
「心配ないよ、一組であたしのファンだって人がSNSのDMで報せてくれるの……正体はわからないけど信頼できるわ。朝霧君覚えてる? あたしが二階から飛び降りて詰め寄った日、あれはその子が報せてくれたの」
 顔も名前もわからない人を信用して大丈夫なのかと、光は考えてる間に春菜は着信音が鳴ったスマホを取り出す。
「おっ、早速その子から――嘘ヤベッ!」
 春菜は画面を見た瞬間、目の色を変えて獲物に襲いかかるチーターのようにスタートダッシュ! 先ほど教室から出てきた女子グループ一団を大声で引き留める。
「待て! 夏海をどこに連れて行くつもり!?」
 グループ全員が春菜に向くと、囲われるように夏海は動揺に満ちた表情で瞳が「助けて!」と訴えていた。グループの中には守屋さんがいて、対峙するように春菜の正面に出る。
「決まってるじゃない、音楽室よ。今の吹部を見せて復帰するかどうか、ハッキリさせるのよ……見に行くって夏海も言ったのよ!」
「言ったんじゃなくて無理矢理言わせたんでしょ!? 気の弱い夏海に! 別のクラスからも吹部の仲間を呼んで集めて詰め寄って!」
 春菜の言う通り女子グループのメンバーには二組や三組の子もいる。要するに大人数で詰め寄って、日本人の悪しき必殺技である「同調圧力」で来ると言わせたのだろう。
「違うわよ、みんなでお願いしただけよ!」
 女子生徒の一人が反論すると春菜は断言する。
「こんなのお願いじゃなくて悪質な脅迫よ! 弱い子に群れてタカる卑怯ないじめっ子かチンピラと同じよ!」
 春菜は凛とした声と眼光で微かにグループのみんなを仰け反らせ、動揺させ、守屋さんは図星なのか「くっ……」と苦虫を噛み潰した表情で睨み返しながら否定する。
「違うわよ! 夏海は吹部に戻ってまたみんなで吹きたいのよ! あなたみたいに――」
「もういい恵美! やめて!」
 一人だけなんとも言えない表情をしていた駒崎さんは守屋さんの言葉を遮る、夏海の傍にいる彼女は寂しげな口調で諭した。
「恵美……桜木さんの言う通りよ、今日のやり方は無理があるわ!」
「八千代! 何言ってるの! 今は大事な時期なのよ!」
 守屋さんは必死で捲し立てるが、駒崎さんは達観した表情で首を横に振る。
「わかってるけど……こんな卑怯なやり方、柴谷先生だって認めないわ。夏海……もういいから行きな……怖い思いさせてごめんね」
 夏海は「うん」と頷いて小走りで光たちの所に駆け寄ると、春菜は「行こう」と言って夏海は渡さないと言わんばかりに右腕を背中に回し、その場を後にする。
 光は少し振り向くと守屋さんは悔しそうに睨み、駒崎さんは複雑な表情をしていた。
 昇降口まで行って靴を履き替える間、重苦しい空気が漂ってみんな無言で校門に出ると、春菜は一気に肩の力を抜いて息を大きく吐いた。
「はぁあああ……危なかった」
 それを合図にみんなも緊張状態を解いて冬花は春菜に称賛の眼差しを向ける。
「でも春菜ちゃんかっこよかったよ、夏海ちゃんはあたしが守るって!」
「そうよ! あたしは正義のヒーロー! なんてね!」
 春菜はポーズを決めてかっこつけ、望は言い当てる。
「桜木さんもしかして日曜朝の特撮とか見てるの?」
「うん、部活辞めて試しに見たら……嵌まっちゃってさ」
 春菜はちょっと照れ臭そうに言うと日曜朝にやってる特撮ヒーローの話しに花を咲かせる。すっかり仲良くなっちゃって微笑ましい気持ちになり、光は思わず口許が緩む。
 光も特撮――特に怪獣映画が好きでゴジラのフィギュアを何体か持っている。
 風間さんは何が好きなんだろうと思って横顔を覗くと夏海は後ろが気になってる様子だ。
「どうしたの風間さん、もしかして吹部の人たちに後をつけられてる?」
「ううん、吹部は練習だから……時々吹部じゃない誰かが私たちを見てるの、春菜ちゃんは気にするなって……」
 夏海は落ち着きがなく時折振り向いてる。確かに振り向くと、誰かが後をつけてくるような気がする。
 最初は気のせいかと思ったが、市電に乗ってる間や下通アーケードを歩いてる間にも、誰かが後をつけくるような気がして気味が悪い。
 光は試しに春菜に訊いた。
「ねぇ桜木さん、さっきから僕たちの後をつけてくる人がいるようだけど」
「ああ……そうだった、ついてきて」
 春菜は人通りの少ない下通アーケードの抜け道に入る。冬花も気付いたのか夏海に寄り添って後ろを警戒してる。
「大丈夫だよ夏海ちゃん……怖くないから、あたしたちが守るから」
 こういう時、冬花は本当に強くて優しい子だ。すると望は少し考え込んだかと思ったら春菜に訊いた。
「桜木さん、この前もう一人の子を誘いたいって言ってたよね? もしかしてその子?」
「そうよ……さて、そろそろ隠れてないで出てきたら! マーク・フェルトさん!」
 春菜はハッキリと突き抜ける声で呼び掛ける。マーク・フェルト? ウォーターゲート事件の内通者――ディープスロートの正体だった元FBI副長官のこと? 誰だろうと思いながら姿を見せたのは澄んだ声の女子生徒だった。
「初めまして春菜……私がマーク・フェルトよ」
 春菜に比べてほっそりして背は低いがそれでも一六七センチくらいはある。
 ショートポニーテールの黒髪に、切れ長で意志の強さが宿る凛々しい瞳に大人びた顔立ちで、アンニュイなクールビューティーという印象だが、不思議と近寄りがたいとは思わなかった。
「まさかあんただったなんてね……千秋(ちあき)
 春菜はまるで面倒な奴に出会っちまった、と言わんばかりに頭を抱えて望は訊いた。
花崎(はなさき)さん? 確か桜木さんがテニス部を辞めた後、すぐ退部した」
「そうよ。春菜に感化されて退部した人たちの一人よ」
 花崎(はなさき)千秋(ちあき)は無愛想に頷く、夏海は驚いた表情で千秋を見つめる。
「花崎さん、だったのね……クラスのみんなに知られたら大変じゃないの?」
「別に、私はただ春菜の手伝いをしてるだけよ」
 千秋は不機嫌そうに腕を組んで言うと、光は夏海に訊いた。
「もしかして風間さんと同じクラス?」
「うん、でもまさかずっと私たちを見ていたの?」
 夏海の問いに千秋は淡々とした口調で頷く。
「そうよ。朝霧君が風間さんの日記帳を返す時、場所を教えたのも私……風間さんに何かあればすぐ春菜に報せていたのよ」
「まさか千秋だったなんてね『ファンの一人だよ』っとか『お前のお姫様が危ないぞ』って散々かっこつけてたからね」
 春菜はにやけながら言うと、千秋は黒歴史をバラされたのかムッと頬を赤らめて裏返った声になる。
「あ、あれは身バレを防ぐためだったのよ!」
 すると冬花は無邪気な笑みで春菜に訊いた。
「春菜ちゃん、もしかして千秋ちゃんって結構面倒臭いタイプ?」
 春菜は苦笑しながらハッキリ頷く。
「うん! テニス部で時々ダブルス組んでたけど素直じゃないし愛想悪いし、その癖一方的にライバル視するしかなり――」
「誰が面倒臭いよ!! 私だってテニス部辞めてからは居場所もない! 狭苦しい教室で悪い噂流される! 残った奴らから裏切り者呼ばわりされる……だから……その……つまり……」
 千秋のアンニュイでクールビューティーな第一印象は既に無残にも音を立てて崩壊、最初は口調が荒かったのが次第に弱々しくなり、言葉が詰まる。
「だから……その……つまり……」
「つまり……なんだって?」
 春菜がジト目になってその先を促すが、千秋は顔を赤くしてブルブル震えながら涙目で春菜に喚く。
「つまりそういうことなんだよ!!」
 わかるかぁぁぁぁぁっ!! 確かに桜木さんの言う通り面倒臭い! 春菜は本当になのか、あるいはわざと知らない振りしてるのかわからない態度を見せる。
「ぜ~ん然わからな~い、あたしお馬鹿さんで空気読めないから~」
「あ・ん・た・ねぇ……」
 千秋はブルブル震えて春菜を睨む、すると夏海が躊躇いながら歩み寄ってぎこちないが強さと優しさを秘めた声で尋ねた。
「花崎さん、私たちと……一緒になりたい?」
 数秒間の長い沈黙が流れ、千秋は声を絞り出す。
「……そうよ」
「そ、それなら……私たちと一緒に……夏休みの終わり……彗星を見よう!」
 夏海は精一杯の言葉を絞り出す、千秋は「えっ?」と夏海を見つめて彼女はゆっくりと慎重に言葉を選ぶかのように告げる。
「花崎さん……居場所がないって言ってたよね? この間まで私も同じだったの……それで朝霧君や春菜ちゃんたちが、みんなで一緒に居場所を作ろうって……だから……だから……一緒に……居場所を作って――」
 夏海の最後の一言は凛とした声になる。

「――青春しよう!」

 さっきまで吹部に怯えていた大人しくて気弱な女の子とは思えない、芯の(かよ)った声で光は確信した。

 風間夏海は強い女の子だ。

 光は思わず確信してその横顔を見とれて心を奪われた時、春菜は腹を抱えて爆笑した。 
「ぷっ……ぷわあっはははははっはははは! なに夏海その台詞!! 超クサい!! 超ウケる!!」
「は、春菜ちゃん……笑わないでよ!」
 夏海は今しがた見せた凛々しい表情は一瞬で消え、恥ずかしがり屋で内気な女の子に戻る。春菜は笑いすぎて苦しそうに呼吸を整え、両目から出た涙を拭き取る。
「ごめんごめん……でも今の聞いた千秋? 一緒に青春しよって」
「ちゃんと聞いたわよ春菜、あんた笑い過ぎ」
 千秋は眉を顰めながらも、その眼差しは心を許したようにも見える。
「そうだよ春菜ちゃん、今の夏海ちゃん凄くかっこよかったよ! ねっ、千秋ちゃん!」
「うん、えっと……」
「あたし三組の雪水冬花、冬花でいいよ」
 冬花は早速千秋に歩み寄り、自己紹介する。この様子だとすぐに仲良くなれそうだと光は思わず口許を緩めると、望はニヤけながら耳打ちする。
「光、風間さんのこと……好きになっただろ?」
 確かに、あの芯の強い女の子として見せた表情が目に焼き付いて離れない、あれが夏海の本質なんだと確信したから否定はできない、それに望なら安心して頷く。
「うん……一目惚れだったと思う」
 それで自分自身の恋心に気付く、あの時の屋上で僕は一目で恋に落ちたんだと。
「幸運を祈る……俺もできる限りのことはするよ」
「それはお互い様だろ望……雪水さんのこと」
 光は思いきって踏み行ったことを言うと、望はゆっくり頷いた。
「うん……確かに君が察してる通り俺も冬花のこと好きだよ。でも俺には似合わないよ……俺は冬花の幼馴染みでしかない」
 いつもの飄々とした表情は鳴りを潜め、今まで聞いたことないほど重苦しい口調になる。
「そんな……どうしてだ?」
「中学の頃かな? 俺が冬花に好きだって言ったけどどうなったと思う? 泣きながらわからない、どうすればいいのって……おろおろさせて傷付けてしまったんだ。冬花のことは大切だし好きだけど、もしそれでまた傷つけてしまったらと思うと……怖いんだ、本当の冬花は傷付きやすくて壊れやすいんだ」
「でも今日までたくさん僕や望のことを良くしてくれた、嫌いだったらあんなに笑ってくれないさ」
「そうだね、でも……またあんな風に傷付けてしまうかと思うと……怖いんだ」
 傷ついてるのは望の方じゃないかと口を開こうとした時、冬花が呼びかけた。
「望君! 光君! 行こう!」
 冬花は満面の笑みで大きく手を振りながら急かした、もし望がその笑顔は嘘だと言うのなら、光は間違いなく望の頬を引っ叩いただろう。
 光にとって冬花も、安心して本音を話せる大切な友達だからだ。
 仲間に入れてもらった千秋はようやく安堵の表情を見せる。
「お腹が空いたわ、早速みんなで何か食べましょう」
「そうそう、何か食べながら夏休みの計画を話そう!」
 春菜は明日からの夏休みが楽しみで楽しみでしょうがない様子だ、すると夏海が恐る恐る提案した。
「それなら……良さそうなお店知ってるけど……みんな行ってみる?」
「賛成! 風間さん、どんなお店?」
 望はノリノリで一票投じると光も思わず「僕も」と頷く、好きな女の子の行きつけのお店ってどんなのだろう? すると春菜は思い出したように言う。
「もしかしてあのお店? 前に話してた!」
「うん、銀座通りの紅茶屋さん」
 夏海が少し照れ臭そうに頷くと行き先は決まった。
 下通アーケード街の通町筋(とおりちょうすじ)方面を歩くと、いつもは通り過ぎる途中の銀座通りとの交差点を渡った所で左に曲がり、少し歩くと見つけ辛い場所に案内板が置かれて、ホテルのフロントに通じるエレベーターの横にその紅茶の喫茶店があった。
「美味しい……このお店だったのね、前にお姉ちゃんが話してたわ」
 千秋は感慨深そうにアイスティーを一口飲むと、決して広いとは言えないがお洒落な店内を見回す。
 春菜は美味しそうにホットサンドを頬張って飲み込む。
「うまい! 夏海、このお店いいじゃん!」
「よかった……春菜ちゃんモスバーグとかマクミランとかよく行くから」
 夏海はホッと胸を撫で下ろし、光はここでデートとかに良さそうだと見回しながらアイスティーを飲む。ホットサンドを食べ終えると、冬花は鞄からノートを取り出す。
「それじゃあみんな、早速夏休みの予定決めよ!」
「うん、まず八月三一日の夜にみんなで彗星を見上げる。その前にみんなで湘南に行くのはお盆休みのシーズンが終わってから――」
 望はスマホで手早く飛行機とホテルの予約を済ませる。さすが金持ちの子だ、格安航空会社(LCC)ではなく大手航空会社の極東(きょくとう)空輸(くうゆ)――FEAの航空券を取る。
 曰く、羽田に国内線のLCCは飛んでないらしい。
「湘南旅行に、そこで海水浴、花火も見たいな……そうだ!」
 春菜は悪戯を思いついた小さな子供のようにふざけて夏休みの予定に混じって「夏休みの宿題」「テニス部復帰」「夏期講習」とノートに書いてその上で太い赤ペンで×印を付けると、スマホで撮ってにSNSにアップすると千秋は微かに微笑む。
「大丈夫なの? 大神に見られたら最悪よ」
「大丈夫大丈夫、あんなアナログ人間の大神がSNSなんか見ないって」
 春菜は根拠のない楽観的なことを言う、それ目茶苦茶危ない気がするんだけど。
「江ノ島の近くに水族館もあるからそこにも行こう!」
 冬花の意見で更に予定が加わる。
 光は八月に開催される火の国まつりに行こうと提案、勿論みんな賛成してくれて二時半を回ったところで水着とかを買いに行こうと言うが、夏海は不安を口にする。
「でも吹部のみんなや先生に見つかったりしないよね?」
「大丈夫大丈夫、あいつらはこの時間なら練習してるし……ないとしても、真面目に自主練してるさ」
 春菜は呑気に言う、確かにこの時間なら吹部は勿論、大抵の部も練習してるだろう。
 だが、千秋の表情は険しかった。
「でも町に出れば先生にだって鉢合わせする可能性もあるわ……希望的観測や根拠のない楽観は禁物よ」
「大丈夫よ。なにも深夜徘徊するわけじゃないし、吹部の人たちなら、あたしたちがなんとかすればいいよ」
 冬花の表情は頼もしくて具体的ではないが確かに言う通りだ、春菜も頷いて同調する。
「そうだよ! せっかくの夏休みなのに怯えていたら何もできないよ!」
「もし見つかったら人混みに紛れ込んで逃げればいいしね!」
 望は言うが光はもう一つの不安要素を口にする。
「だけど学校帰りとはいえ制服姿はあまりにも目立ち過ぎる。明日は平日だから大抵の部活は練習してると思う、念のため明日にした方がいいかも?」
「う~ん……それじゃあ今日のところはもう解散して、明日の午前一〇時くらいに辛島(からしま)公園に集合しよ!」
 春菜は少し考え込んで言うと席を立って思いっきり背伸びする、制服のボタンが弾け飛ぶんじゃないかと思うくらいの豊満な乳房が強調される。
 千秋は羨望と嫉妬が入り混じった眼差しで、冬花は「おおっ……」と言わんばかりに見つめていた。
 翌日、夏休み初日は快晴で光は容赦ない陽射しと湿度、それから絶え間なく蝉が鳴き続ける辛島公園で待つ、集合時刻一五分前に来たが既に全身から汗が滲み出ていた。
 光は普段からお洒落はあまり意識してなかったため、水色のジーンズに白シャツの上に半袖の青い上着を羽織り、アメリカの航空機メーカーのロゴキャップを被ってシンプルで清潔感ある服装にしていた。
「おはよう光君! お待たせ!」
 冬花が大きく手を振りながら望とやってきた。動きやすいようにオドントグロッサムの花が描かれたTシャツにグレーのハーフパンツ姿と遊びに行く時の馴染みの服装だ。
「おはよう光!」
 望もチューリップハットに水色のポロシャツにベージュのカーゴパンツを履いて、こちらも遊びに行く時の服装だ。あとの三人はいつも制服姿だから私服だと印象がガラリと変わるだろう。
「おはよう、みんな!」
 しばらくすると春菜が来た。ボーイッシュな女の子らしくサンバイザーを被り、七分袖の上着を着て両手首にはブレスレット、灰色のホットパンツにスニーカーを履き、テニスで鍛えた強靭でしなやかな美脚を惜しげもなく見せていた。
「おはよう、間に合ったかな?」
 続いて千秋が到着。ショートポニーテールを解いてセミロングにし、薄緑色のオフショルダーのワンピースにピンクのミュールを履いてきた。普段のクールビューティーな印象はガラリと変わり、柔和な印象で思わず見惚れる程だ。
 早速春菜は笑みを浮かべながら歩み寄って褒める。
「千秋、あんた結構可愛いじゃん」
「あ、ありがとう」
 千秋は目を逸らしながらも素直に言うと、春菜は意地の悪い笑みに変わる。
「その素直じゃないところを直せば完璧よ!」
「う、うるさい!」
 上げて落とされた千秋は頬を赤くしながら言い返す。
「おはようみんな」
 そこへ夏海が到着した。彼女はカンカン帽を被り、白い半袖フリルのブラウスに青のロングスカート、薄緑のミュールで、カンカン帽を除けば服装の組み合わせがなんとなく「ローマの休日」に出てくるオードリー・ヘップバーンみたいだった。
「お……おはよう風間さん」
 光は思わず目が眩みそうだった。
 綺麗だ……僕の好きな女の子はこんなにも美しく、それはまるで夏に咲く高嶺の花だ。ヒマワリでもアサガオでもない、なんだろう? 思い当たる花がない。それほど輝いて見えて、冬花は瞳と表情を輝かせていた。
「夏海ちゃん超可愛い! すごく綺麗!」
「あ、ありがとう冬花ちゃん……今日はいっぱい――いいえ、今日からいっぱい遊ぼうね」
 夏海は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、強く頷いた。
「うん! みんなでいっぱい遊ぼう!」
 冬花は無邪気で幼い子どものように大きく頷き、みんなを見回す。
 そう、楽しい日々はこれから始まるのだ。 一行は辛島公園からすぐそこにある大型複合商業施設――サクラマチクマモトの方へと足を向ける。
 そこはショッピングモール、コンサートホール、バスターミナル、ホテル、会議場、映画館もあってよく望や光と三人で遊びに来ていた。


 今日から夏休みということあってか、買い物客に混じって周辺の学校の制服を着た者もいる。
 みんな今日からの夏休みに心を踊らせてる表情で、雪水冬花は自分達もその中にいるんだと思うと、自然とテンションが上がってみんなに訊く。
「ねぇどこから行こうか? 水着買いに行く? それとも浴衣?」
 すると一斉に示し合わせたかのうように、それぞれの表情で違う方向に指を差す。
 春菜はドヤ顔で下、千秋は無表情で前、夏海は愛らしい笑みで上、望は不敵な笑みで左、光は遠慮がちに右、見事にバラバラで千秋は呆れながらスマホで案内図を見る。
「……先に水着を買いに行きましょう、ここからなら一番近いわ」
 千秋の提案で向かうことになった、光と望は既に持ってるので一旦別行動を取る。
 ファッションショップに入ると千秋は楽しそうに品定めする夏海と春菜から距離を置き、なんとなく羨んでるようにも、妬んでるように見つめてる気がした。
「千秋ちゃん」
「冬花? 冬花は水着買わないの?」
「うん、夏休み前に買っちゃったから……千秋ちゃんは?」
「去年買ったけど……結局着る機会なかったから」
 千秋は春菜と同じ元テニス部だ、毎日部活の練習漬けで日焼けした肌はすっかり白くなって憂いの美人だと羨ましく思うくらいだ。
「冬花はいいわね……春菜や風間さんとすぐに打ち解けて」
 逆に自分が羨ましがられるとモジモジと照れ臭い気分になる。
「そんなことないよ、望君は幼馴染みで光君も大切な友達。それに春菜ちゃんや夏海ちゃんも優しいし、千秋ちゃんだって影ながら夏海ちゃんや春菜ちゃんを見守ってくれたんだよね?」
「……私はただ春菜と仲良くなりたかっただけよ、でも伝えたいことってなかなか上手く伝えらないのよ」
 千秋は唇を噛んで本音を苦しそうに吐き出す。伝えたいけど上手く伝えられない、もどかしいよね千秋ちゃん、あたしも伝えたいけど上手く言葉にできないことってあるよね。
 でも、千秋ちゃんは春菜ちゃんと絶対仲良くなれるとあたし信じてるから。
「千秋ちゃんって春菜ちゃんとダブルスで組んだり、部活で競い合ってたりしたんだよね?」
「うん、周りからは私は春菜のライバルだって、でもそうじゃないの……本当は一緒に遊んで、一緒に笑ったり、泣いたりしたい」
 千秋の表情は少しずつ苦悩を見せ始める。
「部活やめたのに……どうして私じゃなくて風間さんなの? それを妬ましく思ってる自分が嫌い、これじゃ春菜の友達に一番相応しくないのに……どうすればいいかわからないのよ」
 千秋の表情が震えている、今にも泣き出しそうだった。このなんとも言えない気持ちをどうしたらいいのか、わからないよね。だから冬花はつま先を立てて千秋を優しくギュっと抱き締めた。
「冬花……」 
「わからないよね……あたしね、中学の頃望君に告白されたの。あたしもどうしていいかわからなくて、おどおどしちゃって……結局有耶無耶なまま望君を傷つけちゃった」
「冬花は……如月君のこと……今はどう思ってるの?」
「望君のこと大好き、胸を張って言いたいけど……それ今まで積み上げてきたものが壊れちゃいそうで怖いの……素直な気持ちを伝えるのって一番難しいもんね」
「うん……わかる、なんか……冬花となら……いい友達になれそう」
「もうとっくに友達だよ、あたしたち」
 冬花は優しく微笑む。
「……うん」
 千秋も安心したかのように微笑んで頷いた。
「どうしたの二人とも、抱き合ったりなんかしてさ」
 水着を買い終えた春菜が歩み寄り、夏海も心配した表情を見せてる。
 冬花は春菜と夏海の方を向き、無邪気で素直な笑顔で首を横に振る。
「ううん大丈夫……ただね、お互いに勇気を出して素直になろうねって励まし合っただけ」
「そうか……青春だね!」
 春菜は少し考えると納得した様子で微笑むと、冬花は「うん!」と誇らしげに頷いた時だった。
 光と望が深刻な表情で駆けつけ、望が肩で呼吸しながら言った。
「みんな……さっき吹部のクラスメイトとすれ違って訊いたら……吹部の奴らが来てる!」
 穏やかな空気が一瞬で動揺と緊張したものに変わり、千秋が平静を装いながらも全方向に神経を張り巡らせているのをなんとなく感じた。
「私が前を歩いて吹部がいないか見張るから、みんなは風間さんを隠しながら進んで……ここを出ましょう」
「OK水着は買ったし浴衣とランチは……ここを出てから考えよう」
 春菜は周囲に視線を配りながら言うと、夏海は申し訳なさそうにみんなに言う。
「ごめんねみんな、あたしのために」
「大丈夫だよ風間さん、もしなにかあっても……僕たちがなんとかするから」
 光は滅多に見せない強さと優しさのこもった眼差しと柔らかい口調で諭す。
 あんな顔を見せるなんて光君やっぱり夏海ちゃんのこと好きなんだね、冬花は微笑んで望と目を合わせると、望も同じこと考えてるのかニヤけて頷いた。


 数分前。
 
 上の階で朝霧光は望のクラスメイトで、吹部の男子――梶田(かじた)君と鉢合わせした時は思わず心臓が止まりそうだった。
 望がいなかったら確実にテンパっていただろう、望が応対して彼には不釣り合いな程同じ吹部の知性的なそばかす美人の小坂先輩とデート中だったという。
 曰く今日は練習休みで自主練しようにも柴谷先生が音楽室を閉めてしまったらしい。
 光は思い切って訊いてみた。
「吹部の一部の人たちが風間さんを復帰させようって動いてるけど、どう思う?」
 梶田君は両腕を組みながら意見を述べる。
「俺は風間が無理して復帰しなくていいと思う、復帰するなら尊重するけど……復帰させようって動いてる連中は寧ろ笹野の洗脳が解けてない奴らだと思う」
「私は笹野派って呼んでるけど、そいつらは練習中毒――いいえ、練習依存症よ……それに一度部活に入ったからには卒業までには続けるべきって主張して、あろうことか笹野の復帰を望んでる者もいる……素晴らしい模範的な社会人の素質があるわ」
 小坂先輩はそう皮肉を言っていた。特に守屋恵美は笹野派二年生の急先鋒だという、梶田君は周囲を見回して小声で言う。
「如月……最近、風間たちと仲良くしてるんだよな。あいつら快く思ってないうえに今日ここに来てるぜ」
「それ本当!? だったらすぐに知らせないと!」
 望はすぐに光と目を合わせてすぐに頷くと、小坂先輩が一言告げる。
「如月君、確か二年三組だったよね? この前の昼休みにクラスメイトの雪水ちゃん、遊びに来てたからよろしく伝えておいてね」
「冬花が? わかりました! ありがとうございました!」
 望は驚きながらも頷き、梶田君と小坂先輩のいる三階から降りて夏海たちのいる二階のファッションショップへと急いだ。
 合流してすぐみんなに伝え、ここを出ることにする。
 夏海には大丈夫だと言ったがいつ遭遇してもおかしくない、店を出ると千秋が斥候(せっこう)を勤めてハンドシグナルとアイコンタクト、スマホのLINEをフルに駆使して春菜に状況を伝える。
「いいよ、進んで!」
 春菜がみんなに言うと怪しまれないよう、夏海の周囲を四人で囲む。
「ストップ……一五秒待って」
 春菜はみんなに指示を飛ばす。千秋とはテレパシーで意思疎通し合ってるかのように目を合わせるとハンドシグナルして頷き合い、笑みを交わす。
 さすが元テニス部で組んでただけあって息がピッタリだ。
「千秋ちゃん……やっぱり仲良しじゃない」
 冬花は嬉しそうに笑みを向けると視線の先は千秋で、目を合わせると精悍な笑みで頷く。僕たちが上に出かけてる間に、きっと二人の間にいいことがあったんだろうと光は望と目を合わせて言う。
「花崎さんと雪水さん、なにかいいことあったのかな?」
「うん……花崎さん冬花に心を開いたみたい」
 感慨深そうに言う望、確かに終業式の日に初めて会った時に比べ、ほんの少しだけ千秋の表情が柔らかくなったような気がする。もしかすると僕や風間さんとは違うベクトルで内向的な性格なのかもしれない。
 そう思った瞬間だった。
「夏海、ここで何してるの?」
 温かい気持ちになろうとした一瞬、後ろから聞き覚えのある声が響いて一瞬で張り詰めた空気に変わると夏海は振り向いて静かに動揺し、かつての仲間の名前を呟く。
「恵美ちゃん……」
 よりにもよって守屋恵美だ! 今日は一人だからストッパー役の駒崎さんがいない、ハブったか!? 光は身構え、守屋さんは買ったばかりの水着が入った紙袋を見つめて訊く。
「その手に下げてるのは何? 私たちを置いてどこかへ遊びに行くつもり?」
「これは……その……」
 夏海は視線を逸らし、口ごもった。言えるわけないが夏海をここで渡すわけにはいかない、光はゆっくり深く吸って夏海の前に出る。
「悪いけど守屋さん、風間さんはもう……僕達と夏休みを過ごすって約束したんだ」
 光は躊躇いを振り払って言い切ると、守屋さんは忌々しげに見つめた。
「……四組の朝霧君ね。夏海……もうすぐコンクールなのに大事な時期に男を作って、吹部のみんなになんて言うつもりなの? 八千代だって――」
「悪りぃけど朝霧君の言う通り、夏海はあたしたちと最っ高に楽しくて夏休みをちゃんと夏休みするって約束したんだ」
 春菜が夏海と守屋さんの間を塞ぐように立つ、後半は望の受け売りだが。
 守屋さんは敵意を露にした眼差しで睨みながら、捲し立てる。
「何よあなたたち! 吹部のみんなが夏海を必要としてるのよ! わからないの!? もうすぐ大事なコンクールの予選なのよ! 夏海だって去年やめたこと、本当はみんなに申し訳ないと思ってるでしょ? 去年のコンクールだって――」
「そんな言い方やめろ! 夏海、吹部が去年予選落ちしたのは絶対にお前のせいじゃないからな! 絶対に自分を責めるなよ!」
 春菜は強く言葉を遮り、夏海に強く言い聞かせる。夏海は今にも泣き出しそうな表情で「うん……」と頷く、その間に千秋が守屋さんに歩み寄ると毅然とした声で訊いた。
「去年コンクールで予選落ちしたの、風間さんが辞めたからって言いたいんでしょ?」
 守屋さんは図星なのか、目を逸らして苦しそうに言う。
「確かに夏海がいれば通ったのかもしれない……だけど……現実は落ちた、もしかしたら卒業した先輩たちに申し訳ないと、夏海も悔やんでるのかもしれないのよ」
「……もし仮に、大事な試合で私と春菜がダブルス組んで……お互いに致命的なミスして負けたとしても……私は絶対春菜のせいにしないし、春菜も絶対に私のせいにしないわ……コンクールの予選落ちを人のせいにする……そんな吹部、辞めて正解よ!」 
 千秋の凛とした声が響く、もし光が夏海と出会わなかったら確実に惚れるほどだった。
 周囲を見回すと行き交う人たちは足を止めたり、連れの人とヒソヒソ話しをしたり、スマホで撮影してる者さえいた。細高の生徒もいるのかもしれない。
「去年と今年じゃ違うわ!」
 守屋さんはハッキリと断言すると望が反論した。
「いいや、さっき吹部のクラスメイトと会って話したけど……風間さんの復帰を望んでるのは笹野先生の洗脳が解けてない、君はその一派の急先鋒だって話してたよ」
「誰なのよそんなこと言ったの! 酷い陰口を言うなんて!」
 守屋さんの振る舞いはだんだん落ち着きが失われていく、それでも千秋は容赦しない。
「陰口ならあんたも散々言ったじゃない、春菜や風間さんのことも……駒崎さんがいない間に、聞いてドン引きするほどだったわ」
「盗み聞き? 花崎さん、二学期にはもう学校にいられないと思った方がいいわよ」
「あんなうわべだけで仲良しごっこして、裏ではマウント取り合って、陰口叩き合って、蹴落とし合うクラスなんて、とっくの昔に見限ったわ。春菜のクラスにも迷惑かけるし」
「!? まさか……」
 春菜は勘づいたのか、呟いて守屋さんを見つめる。
「知ってるわ、春菜のクラスの子が喫煙したって嘘の情報、流したのあんたたちでしょ?」
 千秋は飄々とした微笑みを見せると、春菜は千秋と守屋さんを交互に見る。
「まさか、玲子先生が吸った煙草の吸い殻を使って嫌がらせしたのは……」
「ええそうよ。大丈夫よ春菜、高森先生にチクってお灸を据えてもらったから……今は気丈に振る舞ってるけど、生徒指導室に呼び出された時は柴谷先生や玲子先生に怒られて、笑えるほど情けない顔でメソメソ泣いてたわ」
 千秋は鼻で笑って挑発した。光は決めた、花崎さんと口喧嘩するのは絶対にやめよう。夏海は春菜の後ろに隠れるのをやめて、守屋さんに歩みながらハッキリと問う。
「それ本当なの恵美ちゃん?」
「……そうよ、夏海を連れ戻すためにホームルームを長引かせるだけでよかったのよ」
 守屋さんは苦いものを吐き出すように呟くと、春菜は驚愕して怒気を放ちながら一歩詰め寄る。
「たったそれだけのために……お前! 二組にも吹部の仲間がいるだろ!」
「そうよ! 二組の吹部の子たちになんて言うつもりなの?」
 千秋も同調すると、守屋さんも一歩詰め寄って言い返す。
「夏海を連れ戻すために仕方なかったのよ! 部活やめてなんの目標もなく、ただ寄り集まって傷の舐め合いをしてる人達なんかと一緒にいて、なにが楽しいのよ!」
「……もう一度言ってみろ!! その――」
 春菜は怒りを露にし、千秋もキッと睨んで手を振り上げて平手打ちするより速く、夏海が涙を浮かべながら守屋さんの頬を引っ叩いた。
 乾いた音が響き、守屋さんは呆然と夏海を見つめる。
「夏海……」
 守屋さんは呆然とした表情で、引っ叩かれた頬を指先で触れながら夏海を見つめる。
 光は数秒間の沈黙が長く引き延ばされたかのように感じた。
「どうして……どうしてあんなことしたの!? 私のことはいくら言っても構わないわ! でも、そんな私に手を差し伸べてくれた友達のみんなを傷つけるなんて……絶対許さないから!」
 涙を溢しながら啖呵を切る夏海、周囲を見回すと野次馬が集まって光が思ってる以上に騒ぎが大きくなってる。
 光はすぐにここを出た方がいいと判断した。
「みんな、ここを離れよう! 風間さん行こう!」
「夏海、厄介事になる前に逃げるわよ!」
 春菜も半ば強引に夏海の肩を掴んで外に出た。

 辛島公園を通って下通アーケード街を足早に抜け、熊本では有名な老舗の鶴屋(つるや)百貨店の裏にある小泉(こいずみ)八雲(やくも)熊本旧居横の公園まで行く間、殆ど言葉を交わさなかった。
 体力があるとは言い難い冬花は息切れしながらベンチに座る。
「みんな……ここまで来れれば大丈夫だよ……多分」
「ああ、少なくとも追ってこないと思う」
 さすがの望も汗だくだ。光は俯いてベンチに座る夏海に声をかけようと、一歩踏み出すがそこで止まる。夏海はボロボロと涙を流してすすり泣いていた。
「みんな……ごめんね……私のせいで、私がしっかりしなかったばかりに」
 重苦しい空気が流れる、永遠に続くと思った沈黙を破ったのは春菜だ。
「……なぁに弱気になってんだよ夏海! さっきのお前、すごくかっこよかったぜ!」
 春菜は険しい表情から満面の笑みになって夏海の肩をポンと叩くと、夏海は「えっ?」とすすり泣きながら顔を上げた。千秋も精悍さと慈しみを併せ持った笑みで優しく言い聞かせる。
「そうよ……だから夏海、自分を責めないで」
 千秋は名前で呼ぶ、そして冬花もギュッと抱き締めた。
「夏海ちゃん、ありがとう……あたしたちの名誉を守ってくれて」
「春菜ちゃん……冬花ちゃん……千秋ちゃん……」
 そして夏海は冬花の胸の中で声を上げて泣いた。まるで、地上に出てこの夏を精一杯生きようと鳴く蝉たちのように。
 この子には心から笑って欲しい、果たして僕にできるのだろうかと光は唇を噛んだ。
 第三章:お祭りランナウェイ!

 彗星の最接近が三〇日を切った八月の登校日、午後はみんなで火の国まつりだ。
 火の国まつりとは毎年八月第一週の金曜日から三日間、熊本市中心部で行われるお祭りで、特にメインイベントである「おてもやん総おどり」は六〇以上の企業や団体、総勢五〇〇〇人以上が熊本の民謡「おてもやん」や軽快な「サンバおてもやん」を、市電が通るメインストリートで踊る。
 その光景は夏の熊本の風物詩だ。
 花崎千秋は少し早く登校し、中庭のベンチに座って野菜ジュースを飲みながら同じく朝練前の空いた時間に来た駒崎八千代にこの前のことや、高森先生に告げ口したことを話す。
 八千代は寂しそうだが、同時に羨ましそうな表情で耳を傾けていた。
「――でも、あの一件で駒崎さんたちが夏海に拘るのがわかったわ。大人しくて気弱で泣き虫な子かと思ってたけど……本当は芯の強い子なんだって、春菜が気にかけたのもわかる気がする」
「うん、夏海は我慢強くて人一倍悩むから……だからこそ、壊れちゃったのかもね」
 八千代は千秋にぎこちないが、どこか晴れやかな笑みを見せる。
「……私のこと、憎いとは思わないの? 守屋さんから聞いたはずよ」
「うん聞いたよ、あの時さ……恵美には悪いけどホッとしたんだ。誰かが暴走を止めてくれたって、二組の子達も怒ってないしさ、むしろ……止めてくれてありがとう」
 八千代の悲しくも晴れやかな瞳に千秋は言葉を返す気が出ず、見つめたままでいると無理矢理明るく振る舞ってるのも見え見えだった。
「ところでこの前さ! コンクールの予選突破して九州大会の出場が決まったの……火の国まつりが終わったら合宿だって……柴谷先生ったら楽しい合宿にしましょうね! って、夏海がいないのは寂しいけどね」
「なんだ風間さんがいなくても行けるじゃない」
「柴谷先生のおかげよ! あの人は……吹奏楽――いいえ、音楽の楽しさや素晴らしさを思い出させてくれたの……だから厳しくても楽しく生まれ変わった吹奏楽部に戻ってきて欲しい、でも無理強いするわけにもいかないから」
 八千代も諦めきれてないんだろう、すると彼女はスマホを取り出して見せる。
「これさ、桜木さんでしょ? 今朝ネットのニュースになってたわ」
「ええ、私もやったわ。フォロワーさん達も早速真似してる」
 千秋もスマホを取り出して自分のアカウントを見せる。この前の夏休みに春菜が何気なくやった悪ふざけがちょっとしたブームになってるらしい。
 やり方は非常に簡単だ。まずノートにいくつかの夏休みの予定を書く、千秋の場合は今日行く「火の国まつり」とか「海水浴」「湘南旅行」「彗星観測」とかの間に「夏休みの宿題」「夏期講習」「テニス部復帰」とか夏休みを過ごす学生がやりたくないものを書いて、それを赤ペンで×印を付け、それをスマホで撮ってSNSにアップするという。
 中には社会人も上げていて「就職内定」「実家に帰省」「仕事」に×印を付けてる人もいた。
 千秋は八千代にアカウントを教えるとクスクスと笑いながら言う。
「テニス部復帰に×なんて大神先生が見たら卒倒するわよ」
「まっ、これも復帰しないっていう意思表示よ」
「夏海も上げたかな……楽しいこといっぱい書いてあるといいな。あっ、でも吹部復帰に×印されたら凹むかも」
 苦笑する八千代の言葉に千秋はまるで何か諦めるきっかけを求めてるようにも感じると、八千代はベンチを立って背を伸ばした。
「さて! 今日も練習頑張らなきゃ! 火の国まつり、みんなと回るんだよね? 夏海のことよろしく頼むよ! 恵美みたいに諦めの悪い奴ら、まだいるから気をつけてね」
「うん……わかった」
 千秋は野菜ジュース飲み干すと気を引き締める。守屋恵美のようにまだ諦めてない奴がいるのなら、このことをみんなにも伝えておかないといけない、吹部の人たちも火の国まつりに遊びに来るだろう。


 夏海が守屋恵美をビンタした事件は既に学校の隅々まで広まっていた。朝霧光のクラスでも早速、クラスメイト――特に吹部に所属してる男子や女子は勿論、上位グループに属する人からも質問攻めを受け、光はゆっくり思い出しながら話してる間、みんな耳を傾けて聞いてくれた。
「――それで怒った風間さんは守屋さんを引っ叩いたんだ。自分のことはいくらでも言っていい、だけどみんなを傷つけるのなら許さないって、その後はみんなで逃げたさ」
 光は一通り話した。あの後は千秋が家に案内して帰省していた姉が美味しいソーメンを作ってくれた。
 ソーメンは美味しかったが、その時に見せた千秋の優しい表情がとても印象的だった。
「……そうか、友達のために……これも青春だな」
 聞いている生徒の中にいつの間にか大神先生が紛れ込んでいて、気付いたみんなは「うわぁあああ!」と天地がひっくり返らんばかりに驚き、仰け反り、尻餅つく者もいて最前列で聞いてた倉田は呆れた口調で言う。
「先生いつの間にいたんすか」
「脅かさないで下さい、ビックリしましたよぉ……」
 竹岡も肝を冷やしたらしく、同感だと言う生徒たちの声が次々と飛ぶと大神先生は「すまんすまん」とみんなに謝る。いい歳して所帯持ちなのに、まるでみんなの兄貴みたいな人がそのまま歳を取ったような先生だ。
「朝霧、最近桜木や花崎と仲良くしているなら伝えてくれないか? 早くテニス部に戻ってこい! 先生や部活のみんな、そして他校のライバルたちが待ってるぞ! ってな!」
「先生クサいし自分で言ってください。それ……僕が言っても首を横に振るだけだと思いますよ」
 大袈裟にポーズを取る大神先生に光は呆れるしかなかった。
 確かに春菜と千秋は一年の頃からテニス部のレギュラーでインターハイでも派手に大活躍したらしい、だからこそ突然二人が退部したことは細高は勿論、他校のテニス部でも衝撃だったのかもしれない。
「そんじゃお前ら、ロングホームルーム始めるぞ」
 大神先生が席に着くように促すと、竹岡は手短に誘った。
「朝霧、倉田、今日の火の国まつりは俺たち――」
「悪いが俺はもう先約が入ってる」
 倉田はそう言って席に着くと、光もハッキリ言う。
「ごめん、僕も風間さんたちと行くから」
 光は石のように固まった表情の竹岡を置き去りにして席に着いた。

 登校日が終わるとそのまま火の国まつりに行く、小泉八雲熊本旧居前に集合して早速みんなで町を回りながら、光は大神先生からの伝言を春菜と千秋に伝えた。
「無理無理無理無理無理! 絶対無理だし絶っ対復帰しない! せっかく自由を謳歌してるのに! あんな練習漬けの日々なんて絶っ対戻りたくない!」
「大神先生ことあるごとに理由をつけて私たちを復帰させようとするのよ」
 案の定春菜は激しく拒絶し、千秋は溜め息吐いて言うと望は一定の理解を示した。
「テニス部のレギュラーでインターハイに出るほどの優秀な二人が、ある日突然やめてしまったんだ……優秀な人間ほど替えがきかないからね」
「それでもあたしは絶対に戻らないわ。そうだ夏海、あれちゃんと持ってきたよね?」
 春菜は断固とした意志を見せると、話題を変えて夏海に訊いた。
「うん、ちゃんと持ってきたわ」
 夏海は鞄に引っかけてる水色の防犯ブザーを見せると、冬花も白い同じ物を見せた。
「ああ、これあたしも持ってる! 望君が誕生日に買ってくれたの!」
「……鳴らすと一二〇デシベルになる、使う時は躊躇わずにね」
 望は少し照れながら言うと春菜は「よろしい」と言わんばかりに頷き、千秋も表情を少し険しくさせながら注意を促す。
「まだ守屋さんみたいに諦めてない子もいるから気を付けてね。特に男子に絡まれた時には遠慮なく使っていいわ」
「うん、ありがとう」
 夏海は笑顔で頷く、その笑顔を僕に向けてくれたらどんなに素晴らしいものだろう。
 光は夏海と手を繋いで歩きたいと思いながら、その綺麗な横顔に見とれる、近づきたい、手を繋ぎたい、抱き締めたい、キスしたい、一緒に彗星を見上げたい。
 光は悶々としながら屋台を回っていろんなものを食べたり、熊本出身のお笑い芸人やローカルタレントが出演する特設ステージを見て一緒に笑ったりしてるうちに、メインイベントのおてもやん総おどりが始まる。
 熊本県民の間ではお馴染みの軽快な「サンバおてもやん」が流れ、市電が走る電車通りは踊る人達、下通アーケードも見物客で埋め尽くされ、望が隙間をすり抜けながら手招きする。
「みんな、始まったよ! こっちこっち!」
 みんなが後に続く。人が多くて気を付けないとはぐれそうだ。
「あっ……みんな待って」
 いつの間にか夏海は光の後ろにいる。行き交う人で分断されそうになり、はぐれそうになった時、光は手を伸ばす。
「風間さん! 手を伸ばして!」
 夏海は一瞬戸惑うような表情を見せた後、強い意志を秘めた眼差しとなって光の手を掴む、そして引き寄せると勢い余って懐に飛び込んでしまうが光はよろめきながらもしっかりと受け止め、夏海の心地好い感触と匂いで思わず頬を赤らめた。
「だ……大丈夫? 風間さん」
「うん……ありがとう朝霧君」
 夏海も頬を赤らめながら愛らしい艶やかな笑みで頷くと、光の全身の血液が緩やかに熱くなって流れる時間が引き延ばされ、周りの行き交う人たちがスローモーションに見えた。
「い、行こう……離れないようにね」
 光は照れ隠しに表情を強張らせて前に向き直って一歩を踏みしめると、目と鼻の先に春菜の背中が立ち塞がってぶつかりそうになった。
「うわっ! 桜木さん、いきなり――」
 春菜に一言言おうとして横顔を覗くと戦慄した表情を見せていてまさか吹部!? と、視線の先を辿ると一歩引いた。担任の大神先生が腕を組み、怖い笑顔で仁王立ちしていた。
「よぉ朝霧、ちゃんと桜木と花崎に伝えたかい?」
「夏祭りに不純異性交遊なんて、褒めらたものじゃないわね」
 しかももう一人、玲子先生が瞳に大人げない嫉妬の炎を燃やしながら大神先生とは別の意味で怖い笑顔を見せていた。因みに玲子先生は三〇代後半の独身で嫉妬深く、特に生徒の色恋沙汰には敏感だという噂だがどうやら本当らしい、その証拠に夏海と繋いだ手に視線を注いでいた。
 望は「こんばんは」と気楽に挨拶してるが冬花は「あわわわわ」と動揺し、夏海は気まずい表情になっていて、千秋はキッとした眼差しで構えて凛とした声を響かせる。
「逃げて」
 その一言で光を含めてみんな「えっ?」と反応すると千秋は叫んだ。
逃げて(R u n)!」
 反転して千秋はダッシュ! ゼロコンマ数秒後に反応したのは春菜で次に冬花と望、そして光は夏海の手を引っ張って走り出し、来た道を逆走した。
「ぐぅううううおぉおおおるぅうううううああああああ!! 待ちなさい!」
 玲子先生のドスの利いた声が後ろから響き、振り向くと大神先生も一緒に追いかけてきた。ヤバイ! 光はみんなに叫んだ。
「みんな散らばれ! 合流はLINEで!」
 光は叫ぶと千秋は春菜を連れてTSUTAYA書店のある三年坂方面へ逃げると、大神先生が追いかける。二人の無事を祈りつつ、光は玲子先生から振り切るためアーケードを抜けて熊本市役所方面へと走った。
 さすが大神先生だ、テニス部顧問で体育担当だから体力も凄い。
 花崎千秋は走りながら横目で見ると、既に春菜は息苦しそうにスピードを落とし始めていた。
「ぜぇ……ぜぇ……もう無理……走れない」
「ちょっと春菜! あんた息上がるの早い!」
「だって……こんなに……長く……速く……走り続けるの……無理!」
 そうだ忘れてた! 春菜はスピードとパワーを活かした短期決戦タイプで持久戦が苦手な方だった。対する千秋は長時間のラリー戦で相手を負かすのが得意だからスタミナは春菜より遥かに上だ。
「ハハハハハハどうした花崎、桜木! 苦しそうじゃないか! そうだ! 俺がテニス部で鍛え直してやろう! それがいい!」
 追いかけてくる大神は余裕の暑苦しい笑み、二月の寒い持久走大会の時にタンクトップで先導してたほど走るのも好きな先生だ。人混みに突っ込んで逃げたいところだが、千秋も春菜も背が高い方から目立つ――そうだ!
 目立つなら逆に利用すればいい! 千秋は一緒に人混みに突っ込んで掻き分けながら手短に言う。
「春菜! ここから二手に分かれよう! 私が注意を引く!」
「どうするつもり!?」
二兎(にと)追う者は?」
 春菜ならきっとわかるはず、期待を込めた眼差しで先を促すと春菜は手を合わせて謝る。
「ごめん! あたし現国苦手なの! この前も赤点ギリギリだったし!」
 それで千秋は派手にずっこけてクラッシュしそうになる。
「二兎追う者は一兎(いっと)も得ず! 今の私たちは追われてる二匹の(うさぎ)よ! 私が囮になって回るわ!」
 そうだ! 春菜は勉強が壊滅的に苦手で期末テストの時もひぃひぃ言っていた。
「わかった、捕まるなよ!」
 狭い路地の角を曲がると、路上に止めてあるSUVの下にスライディングで潜り込む、ほんの数秒間が長い。大神先生の走る足音が通り過ぎる瞬間、素早く這い出て立ち上がりながら叫んだ。
「大神先生! こっちですよ!」
 自分でもドン引きするほどの猫撫で声で大きく手を振ってアピールすると、大神先生は振り向きながら立ち止まる。
「花崎、捕まえて欲しいのか? 捕まったらテニス部復帰だぞ!」
「捕まってから考えます!」
 千秋は来た道を戻って逃げる、大神先生のノリのいいところに感謝しながら走る。いざ追いかけられると、肺も心臓もテニスの試合の時みたいに悲鳴を上げる。
 だけど絶対に負けられない追いかけっこだ!
 千秋は狭い路地を右に曲がり、また右に曲がり、また右に曲がるとさっきの場所に戻って交代だ。
「大神先生! あたしを忘れてないですか!」
 隠れていた春菜が挑発しながら大胆にも先生の背中にタッチすると、そのまま離脱する。大神先生は春菜を追いかけながら恥ずかしくて、熱苦しくて、クサい台詞を叫ぶ。
「忘れる訳ないだろ! お前たちがテニス部をやめたあの日から、お前たちのことを一日たりとも忘れたことなんてない! お前達! なにもSNSでテニス部復帰に×印つけることはないだろ!」
 いやそういう意味じゃねぇから! 聞いてるこっちが恥ずかしい! やっぱりバレてたじゃない! 千秋は思わず吹き出しながらドン引きする、まぁクサい台詞は今に始まったことではないが。
 追跡対象を春菜に変更した大神先生は思惑通り千秋から離れ、そして春菜は千秋が走ったルートをトレースしてまた交代してハイタッチ! 千秋はまた挑発して注意を引く。
「大神先生! 私は追わないんですか?」
「はぁ……はぁ……桜木……花崎……お前たち……まだ諦めたわけじゃないぞ……」
 大神先生もさすがに息が上がり、足取りも重くなる。千秋は春菜と目を合わせて頷き合い、一緒に走ってぐいぐいと引き離していき、振り向くと大神先生はもう追ってこなかった。
 
 気が付くと辛島公園まで来ていて、春菜は全身から汗が噴き出して肩で呼吸していた。
「はぁ……はぁ……なんとか……逃げ切ったかな?」
「これで大神も諦めてくれるといいけど」
 千秋も肺、心臓、筋肉を酷使してキンキンに冷えたスポーツドリンクをがぶ飲みしたい気分だったが、一言文句言わないといけない。
「っていうか春菜! やっぱりバレてたじゃない! ×印の写真SNSに上げたの!」
「あららやっぱりね、でもまあ意思表示はできたし伝わったからいいじゃない?」
「よくないわよ! この分だと他の先生にもバレてるわよ……高森先生に見られたら最悪よ!」
 千秋は頭を抱えると同時に心の底から楽しくて楽しくてしょうがない、千秋は自然と笑いが込み上げてきた。
「ぷっ……ふふふふふふっ! でも私さ……今、凄く楽しい……春菜の言う青春って……こういうの?」
「そうね、あたしの求めてたのって案外こういうものだったのかも……千秋はさ……どうしてテニス部辞めたの? 今更訊くのもなんだけどさ」
 春菜から唐突に訊かれると千秋は言葉に出すのが面映ゆい。だけど話さなければいけない、伝えなければいけない。
 千秋はゆっくりと段差に腰を下ろした。
「春菜がいないなら……もうテニス部にいる意味がないから」
「えっ? あたしに感化されたんじゃなくて、あたしがいないから?」
 春菜はそう言って両足を曲げて隣に腰を下ろすと、千秋は重い口を開いた。
「私さ……昔から勉強も運動も苦手で、思ったことをハッキリ言えない子だったの覚えてる?」
「確かに……中学で出会ったばかりの頃の千秋、結構大人しい子だったね」
 春菜は懐かしそうに夜空を見上げながら言うと、千秋は頷いた。
「うん、あの頃から春菜は春菜だった。みんなに好かれて、気さくで明るくてかっこよくて、自分の考えはハッキリと口にして、一度決めたことは最後まで貫いて、私には凄く眩しかった……だからテニス部に入ったの」
「中学で中体連に出場して、高校でもダブルス組んで時には競い合って……あたしのライバルと呼ばれるくらいになって、千秋本当に成長したね」
 春菜は感慨深そうに見つめるが、千秋は俯いて両手を握りしめる。
「違う……そんなのじゃない」
「千秋?」
「……私は春菜のライバルじゃない……本当はこうやって……一緒に遊んで馬鹿やったりしたかった!」
「遊んだり馬鹿やったり……ライバルじゃなくて……友達?」
 春菜は察して言葉にすると、千秋は唇を噛んで頷いた。
「そうよ! 春菜が部活辞めて夏海と一緒になったと聞いた時私、夏海に嫉妬してた! どうして私じゃなくてあの子なのって! そう思う自分が凄く嫌いで、春菜の友達になる資格なんかないって……それでも私、春菜になにかできることをしようって……だから、マーク・フェルトを名乗ったの!」
 目頭が熱くなる、ここで泣いては駄目だ。春菜を困らせては駄目だ!
「あの日……私に手を指し伸べてくれた夏海が守屋さんを引っ叩いた時、春菜が気にかけていたのがよくわかったわ……夏海は本当は強くて、とても優しい子なんだって……でもそれと同時に自分がいかに器が小さいか思い知らされたの……」
 沈黙が流れる、もしかすると嫌われたのかもしれない。それでも千秋には構わなかった、このまま後ろめたさを背負って接して生きるくらいなら、いっそのこと――唇を噛むと春菜は大きく溜め息吐いた。
「はぁ……千秋……そんなに自分を卑下するなよ。それにお前、難しく考え過ぎ――」
 春菜は面倒臭そうな表情で言った次の瞬間、爽やかな眩しい笑顔に変わった。

「――あたしたちさ……もうとっくの昔に、友達じゃん!」

 春菜の口から「友達」という言葉に千秋の心の器に嬉しさが溢れ、大粒の涙が溢れさせる。
「うっ……冬花も言ってた……でも……やっと……やっと……わかった……私はただ……春菜に……友達だって言って欲しかった……ただ、それだけだった……」
 千秋は堪えきれずに声を上げて泣き、春菜は柔らかな笑みで背中を優しく叩く。
「泣くなよ……大事な試合で負けても泣かなかったくせに!」
「だって……だって……うう……凄く……嬉しかったのよ……嬉しくて……止まらないのよ」
 千秋は溢れ出る涙を拭いながら、冬花の言葉を脳裏に浮かべる。

――素直な気持ちを伝えるのって一番難しいもんね

 冬花、素直な気持ちを伝えるのは難しい……だけど、伝えなきゃ何も始まらない、だから! 千秋は春菜の両手を握って改めて思いを言葉にした。
「春菜、改めて言うわ! 私は春菜と――いいえ、みんなと夏休みをちゃんと夏休みしたい! そしてみんなで一緒に……彗星の夜空を見上げたい!」
「うん、勿論!」
 春菜は頷く、私たち六人でたった一度の八月三一日の夜空を見上げるんだ!
「花崎、お前も悩んでたんだな。桜木、本当に素晴らしい友達を持ったな……先生凄く嬉しいぞ!」
 大神先生はいつの間にか二人のすぐそばで、人目を憚らず豪快に男泣きしていた。
「「えっ!?」」
「花崎、桜木、今のお前たち二人なら……どんな強豪校のライバル達にも勝てるぞ!」
 千秋は一瞬で寒気で背筋が凍り、次の瞬間には春菜と一緒に仲良く男子が聞いたらドン引きする程の汚い声で絶叫しながら全速力で逃走した。