朝霧光は細高の制服に着替えた夏海を連れてマンションを降りる、みんなで自転車に乗って迎えに来たが、ここで想定外の問題が発生した。
「わ……私……自転車、持ってないの」
 夏海は市電で通学していて自転車を持っていなかった。
「大丈夫よ! 夏海ちゃん専用のリムジンがあるから!」
 機転を利かせた冬花の視線の先には光の自転車だ。待て待て待て! 自転車の二人乗りは禁止だぞ! 光は反論しようとした時、春菜は見透かしたかのように発破をかける。
「朝霧光! 法律と夏海どっちが大事だ! どっちもなんて言う男は優柔不断な奴よ! 見ろ! この青い夏の空を! 入道雲が聳え立つ夏の空を背景に、女の子後ろに乗せて自転車を漕ぐなんて、青春の代名詞だぞ!」
「春菜……あんたクサ過ぎ、今回だけだからね。朝霧君、絶対に夏海に怪我させないでよ!」
 千秋も渋々同調する。おもしれぇ……上等だ! やってやる! 夏海ちゃんのために! 光は自転車に跨がって覚悟を決めた。
「夏海ちゃん、しっかり掴まって……ヤバイと思ったら俺に構わずすぐに飛び降りろ! 一緒に転ぶよりはマシだ!」
「う……うん」
 夏海は躊躇いがちに頷くと光の後ろに横座りになる、よりにもよってクソバランスの悪い横座りだが夏海にはそっちが似合う、夏海の細く白い腕が光の腰に回ると冬花がからかう。
「えへへへ……光君の背中と、夏海ちゃんのお胸がごっちんこ!」
「黙っててくれ冬花、気が散る!」
 光は重くなった自転車のペダルを漕いで走り出す。スピードはいつもより遅く、止まる時は早めにブレーキをかけて交通量の少ないコースを走れ! 光は遠回りだが白川の河川敷に沿って走るコースを選んだ。
「ナイス判断よ朝霧君! 夏海、今のお前は青春映画のヒロインよ!」
 自転車で追従する春菜は夏の空を見上げる。
 容赦ない陽射しと照り返すように暑い地面、全身から噴き出る汗、酷使して悲鳴を上げる肺と心臓、吊ってしまいそうな足の筋肉、湿った風を切って走る疾走感、夏休みの終わりを告げるかのように鳴く蝉たち、そして背中には大好きな夏海ちゃんの柔らかおっぱい!
 むにゅっとしてて、もにゅっと柔らかくて、温かくて、気持ちよくて、ああ触りたい! 
 うん……台無しにしてしまったけど、後ろに座ってる夏海は果たしてどんな顔をしてるんだろう?
 ああ、夏休みなんて終わらなければいいのに……。

 細高の正門前で夏海は吹奏楽部に会うのが怖いのか、あるいは周囲の視線を気にしてるのか、生徒たちで賑わう校内に入っても時折落ち着かない様子で見回してる。
 今までの経験側からか春菜は夏海の後ろを歩いて千秋は前を歩いてる、すると二年一組の教室前で守屋恵美が待っていた。
「待ってたよ夏海、来てくれてよかった。考えは決まった?」
「……恵美ちゃん」
 夏海は立ち止まると千秋は全身から警戒のオーラを放ちながらジッと見つめ、春菜も同じように見つめる。
「今日こそ戻るかどうかハッキリしてもらうわ。夏海が戻って来れれば……みんなに迷惑がかからなくなるし全て元通り――いいえ、前よりよくなるわ……私はもう一度、夏海とフルートを吹きたいの」
「全て……元通りに?」
 夏海は俯いて呟き、瞳から見て揺れ動いてみんな微かに動揺する。
 駄目だ夏海ちゃん! 壊れたものが元通りになるなんて、死んだ人間が生き返るのと同じくらいあり得ない! 守屋さんはみんなの動揺を見透かしたのか取引を持ちかけた。
「夏海の日記帳……探してるんでしょ? 教える代わりに夏海、一人で私と来て」
「あんたに頼らなくてもあたし達で探すわ!」
 春菜はチューバで殴られたことを根に持ってるのか、敵意に満ちた眼差しで睨む。情報を握ってるから教える代わりに夏海一人で来いと言うことか、ということは夏海の日記は守屋さんが拾って誰かに届けたことになる。
 光は守屋さんに訊いた。
「それじゃあ日記は守屋さんが拾ったってこと?」
「そうよ。安心して、中は見てないから……桜木さんも花崎さんも、もう十分夏休みを楽しんだでしょ? 戻るべき場所に戻ってやるべきことをやるべきよ」
 守屋さんは春菜と千秋をテニス部に戻れと諭すような眼差しで言うと、二人は表情が引き攣って望は動揺を露にした。
「まさか、大神先生に!? どうして!?」
「そこからは夏海次第よ……夏海、大事な宝物でしょ? 友達がちゃんと届けてくれるの夏海がよく知ってるはずよ……来るの? 来ないの? 夏休み中に見つからなかったら捨てるように言ってるから」
 守屋さんは夏海に揺さぶりをかける、そこまでして夏海を吹部に戻したいのか? 光は唇を噛むと夏海は苦渋に満ちた表情で頷く。
「……わかった。わかったから……今日こそ……ハッキリさせるから……教えて」
「それじゃ行こう、日記は大神先生が持ってるわ。桜木さんか花崎さん以外には見せないでって言っておいたから」
 千秋は守屋さんを殺気で睨み殺しそうな眼差しだ、当然だろう。友達の春菜を傷つけ、弱味を知った上で天敵である大神先生に向き合わせる。つくづく頭のキレる奴だ、守屋さんに連れて行かれる夏海の背中に冬花は叫んだ。
「夏海ちゃん!」
 夏海は足を止めて振り向く、その表情は悲しげでもう諦めてる表情だ。それでも諦めない冬花は必死で夏海の心に声を届ける。
「夏海ちゃん、何があっても絶対に自分を誤魔化したり……嘘吐いちゃ駄目だよ!」
「……冬花ちゃん」
 微かに動いた花弁のような唇、守屋さんは夏海の背中に手をやって急かした。
「行くよ夏海、もう夏休みは終わりなんだから」
 楽しい時間はもう終わりだと言わんばかりに、夏海を音楽室へと連れて行ったが呆然としてる暇はない。光は望と冬花に目を合わせ、二人は意を決した表情で頷いた。

 大神先生のいる場所はテニスコートだ。
 春菜と千秋によればいつもそこで汗を流してるという。すぐに走り出し、光を先頭に望と冬花、その後ろに千秋そして諦めの表情を見せ始めた春菜が続く。
「大神の説得なんて無茶だよ! あの人、一度決めたことは無理にでも通すから!」
「わからないよ!」
 冬花は突っぱねるように言うと春菜は首を横に振る。
「いいよ! あたしがテニス部に戻るって言うから!」
「馬鹿を言え! 冬花がさっき言ってたの、聞いてなかったのか? 絶対自分に嘘吐くなって、そうだよね花崎さん!」
 望も珍しく熱くなってる。千秋は表情に出してないがその瞳には強い意思が宿って燃えるものがあった。
「そうよ、夏海は吹部に戻らなくていい! 私たちもテニス部に戻らない!」
 汗だくになってテニスコートに入ると夏休み最後の日も練習に励み、テニス部の指導する大神先生はすぐに見つかった。千秋が先陣を切って躊躇う様子もなかった。
「大神先生!」
「おっ、花崎! それに桜木もようやく戻る気になったか?」
 大神先生は振り向いていつもと変わらない笑みで迎えると、千秋は改まった口調で訊いた。
「大神先生、一組で吹奏楽部の守屋さんから水色の日記帳預かってませんか?」
「ああ、あれか? ちょっと待っててくれ」
 大神先生はコートの隅に置いてある鞄から水色の日記帳を取り出して見せた。
「ほら、これだ……大事な友達のものだろ?」
「ありがとうございます」
 大神先生が差し出した日記を千秋は両手で取ろうとすると、大神先生は離さなかった。
「なぁ花崎、桜木もだが……もう夏休みは十分楽しんだだろ? 夏休みは終わりだ。戻ってまた一緒に汗を流そう! 君達の先輩はもう引退したが仲間や後輩、他校のライバル達がお前たちを待ってるぞ!」
 本当に熱くてクサいことを平気で言う先生だ。だが千秋は一度目を閉じて大神先生に毅然と向き合って言い放った。
「大神先生……私と春菜は、もうテニス部に戻りません!」
「……理由を聞こうか」
「私と春菜は部活やめて……同じように吹奏楽部をやめて心ない噂や陰口を必死で耐え忍んでる夏海……冬花や、如月君、朝霧君と友達になって……背中を押してくれたり、時には背中を押したり、喧嘩したり、笑ったり、泣いたりして……決めたんです……私はこの人たちと、一緒に前を向いて……一緒に歩いていきたいんです!」
 千秋の凛とした声がテニスコートに響き、春菜はジッと千秋を見つめる。
「私たちはもう、新しい道を見つけて前を向いて歩き始めたんです! だから……私達のことは、もう諦めてください! 私達のことはもう放っておいてください!」
 言い切った千秋は一歩も引かない表情で大神先生を見つめる。数秒間の沈黙。蝉の鳴き声、生徒たちの掛け声や話し声、ゆっくりと穏やかに湿った夏の風が静かに重なって、やがて大神先生はゆっくりと手を離した。
「花崎……試合の時でも熱くならなかったのに、お前こんなに熱い奴だったのか?」
「みんながいてくれたからです」
 千秋は精悍な笑みで春菜や冬花、光と望に視線を行き渡らせる。大神先生は豪快に高笑いをテニスコートに響かせた。
「ぐっははははははははっ! 俺の負けだ花崎! 桜木! それに朝霧! 素晴らしい友達を持ったな! 青春じゃないか! 先生嬉しいぞ!」
「はい、あたしの友達は……みんな最高ですから!」
 安堵した春菜はようやく爽やかで誇らしげな笑みで頷く、それでも大神先生は少し寂しそうで光はこの担任の先生が不憫に思いながら感謝の気持ちを伝える。
「ありがとうございます大神先生、これで胸を張って二学期を迎えられます!」
「はははははははっ! でも朝霧お前もやるな! 一組の風間に海に向かって叫んで告白するなんてな! しかも湘南の砂浜で! 先生そういうの大好きだぞ! がっははははははっ!」
 あれ? どうして知ってるんだ? SNS? 真っ先に冬花が気付いたのかドス黒い無邪気な笑みで鎌をかけた。
「大神先生、日記にはなんて書いてあったんですか?」
「ああ、屋上で思い思いの気持ちを叫んでたってよ! それが朝霧との出会いだったんだな!」
 あっ、終わった……光は自分のことでもないのに青褪めて、望は狂った笑みを浮かべる。一方、千秋は蔑む眼差しに、春菜は本気で気持ち悪そうにドン引きした表情、冬花は満面の黒い笑みになる。
 ドMの竹岡だったら狂喜乱舞するだろう。
 冬花は一瞬で笑みが消え、歪み切った表情で詰め寄った。
「夏海ちゃんの日記……見たんですね?」
「ははははっは……は……あれ? 先生何かマズイことした?」
「見たんですね!」
 冬花は鬼のような形相に豹変して詰め寄ると、大神先生は豪快に笑った表情のまま固まって引き攣らせる。
「ま、まあ少し……な! はっはっはっはっ!」
 ああ、終わった……今日中に情報がSNSを通じて女子のネットワークを使って学校中に拡散されるだろう。
 冬花は望が言ってた通り腹黒い。そして冬花、千秋、春菜は恐ろしい程のピッタリに声を揃え、テニスコートに響かせた。

「「「最っ低!!」」」

 大神先生は笑った表情のまま呆然と立ち尽くしていた。