第一章:彗星の夏休み
梅雨明けが近づいた七月のある日、いよいよ彗星接近が二ヶ月を切った熊本市内の私立細川学院高校――通称:細高二年四組の教室では夏休みの計画や、彗星接近の夜は誰とどう過ごすかで話題になっていた。
「夏休みさ、どこかみんなで遊びに行こうよ!」「いいね海? 山? どっちにする?」「そりゃ両方に決まってるじゃねぇか! 海は天草、山は阿蘇で!」「ええどうせなら海は沖縄か湘南で、山は箱根か軽井沢だろ!」「ちょっ……そんな金ねぇよ」「彗星が接近する八月三一日は学校を開放するらしいぜ! 既に実行委員会が活動開始してるって噂だぞ!」
休み時間や昼休みのたびにクラス上位のリア充グループが話してるのを、竹岡は嫉妬に満ちた眼差しで相変わらず妬み、嫉み、恨み、辛み、嫌味を言ってる。
「けっ、学生の本文は勉強だろ……あいつら期末テストの時に陰キャの俺に頼りまくって、終わったらそれっきりでよ、なぁ朝霧」
「う、うん……そういえば倉田君は?」
「やらない夫なら中庭辺りでスマホで別の学校にいる奴と話してるんじゃね?」
どうやら竹岡は倉田にも見捨てられたようだ。まぁ僕も裏切ることになるが、こんな卑屈に構えてる奴と絶対に彗星の夜は過ごしたくない。しかも上位グループの一人に誘われると態度が一変する。
「なぁやる夫! 放課後暇ならさ、一緒にカラオケ行こうぜ!」
「うん! もちろん行く行く!」
このように卑屈に構えてた表情が一変、媚びへつらうような口調になって手のひら返し! あまりにもの荒唐無稽ぶりに朝霧光は表情に出さず、内心呆れるしかなかった。
放課後の帰り道、光は今日のことを如月望と雪水冬花に話す。
「へぇ……やっぱり面白い人だねやる夫君」
雪水冬花は小柄でスレンダーなシルエット、紺色の癖っ毛ショートヘアにチワワを思わせるような愛らしい顔立ち、とにかく表情と感情が豊かで笑う時はよく笑い、泣く時はよく泣く、天真爛漫な女の子だ。
「それってキョロ充じゃない? でも自分で自分のことを陰キャって言うのは捻くれてるし、そりゃあ光も疲れるよ」
如月望は男子にしては小柄で華奢なことと引き換えに、中性的な童顔で髪も冬花より少し長く特に長い睫毛が目を引き、美少女と見紛うほどの容姿と顔立ちから所謂男の娘こと言われる美少年だ。
冬花とは幼馴染みだという。光は溜め息吐いて頷く。
「うん、正直言って疲れる……竹岡君には悪いけど、彗星の夜はちょっと……」
「じゃあさ光、俺と冬花の三人で見上げようよ!」
望は無邪気に言うと冬花は「うん、そうしよう!」と快く頷くが、光はいいのだろうかと心に引っ掛かる。
「えっ? いいの雪水さん?」
「勿論だよ光君、あたしと望君と三人で彗星見よう!」
冬花は何も考えてないのか快く頷く。
冬花は光のことを名前で呼んでるが、光は気を遣って雪水さんと呼んでいる。付き合ってるわけでもないのに名前で呼ぶのはどこか面映ゆい。
この二人とは中学の頃は顔見知りで望の方は中一の時に同じクラスだった。高校入学の時にたまたま帰る方向が一緒だったから、こうして毎日一緒に帰ってるのだが、望と冬花の関係は謎だ。
付き合ってるようにも見えるし、だからと言ってそうとは言えない。二人曰く「似た者同士の幼馴染み」だという、おかげでそれなりに楽しい日々を過ごせてるから感謝してる。
光が二人を見つめて考えてるのをよそに、望は提案する。
「ねぇねぇ、去年は冷夏で長梅雨だったからやりたいこと殆どできなかったじゃん! 今年は思いっきり夏休みをちゃんと夏休みしよう!」
「おおっ! 彗星観測の他に火の国まつりに花火、海かプール! あと湘南旅行もいいじゃない!」
冬花は瞳を輝かせて提案に乗る。
犬だったら間違いなく嬉しそうに尻尾を振ってるに違いない。因みに望の一族は金持ちで、湘南に江ノ島が一望できるホテルのオーナーをしてる親戚がいるらしい。
「賛成だけど望、夏休みをちゃんと夏休みするって?」
光は思ったことをそのまま口にする。夏休みをちゃんと夏休みするという意味がわからず冬花が答える。
「そのままの意味だよ。中三の頃を思い出してみて……受験勉強ばっかりで夏休みが夏休みじゃなかったよね?」
「まぁ確かに……夏休みの宿題に加えて夏期講習とか、受験合宿とか、親が勝手に申し込んで……嫌な思い出しかないな」
光は中三の頃の苦い思い出が甦ってくる。阿蘇山近くの保養施設で自然を満喫することも許されず、エアコンの利いた快適な牢獄で勉強漬けの日々で――思い出すのはやめよう。
「だからさ! 今年の夏休みは一度っきりだから、楽しいことで埋め尽くそう! せっかくの夏休みなのに先生や親が勝手に『やるべきこと』とか言って宿題や課題を押しつけられて夏休みなのに、夏休みじゃない何かにされるのって嫌じゃない?」
望の言葉はどこまでも純粋で真っ直ぐだ。
少なくとも光には正論に聞こえる、親や先生たちが聞いたら顔を真っ赤にして怒鳴り、頭っから否定して反論も一切聞かないだろう。
ふと光は六月の晴れの日、屋上の塔屋で叫んだ女の子の言葉を思い出して口にする。
「でも……もしさ、夏休みが嫌いな人がいるとしたら、どう思う?」
光は二人に疑問を投げかけると最初に望が首を傾げながら答える。
「夏休みが嫌いな人、俺にはちょっとわからないな……楽しいことが沢山あるのに、もったいないと思うよ。夏休みの楽しみ方を知らないんじゃない?」
楽しみ方を知らない。それは自分達が思ってる以上に悲しく不幸なことかもしれない、冬花も口元をへの字にして言う。
「う~ん、その人はきっと夏休みが好きだったけど何かのきっかけで嫌いになったとか? 夏休みに忘れたい嫌なことがあって、それで嫌いになっちゃったかも!」
好きだったことが嫌いになる。もし自分がそうなるとしたら、多分とても悲しい出来事なんだろう。あの女の子は今日も、屋上で何かを叫んでるのだろうか? 光は明日確かめてるみることにした。
翌日の放課後、望と冬花には先に帰るように言って屋上に上がる。
人気の少ない放課後の校舎の廊下、グラウンドにはサッカー部や野球部の掛け声が響き、時折練習してる吹奏楽部の心地よいメロディが響く。
何となく今年の吹奏楽部は去年に比べて音色が伸びやかで柔らかく、とても優しくなったように感じながら歩くと、屋上に続く階段の踊り場に背の高い女子生徒が立ち塞がるかのようにスマホを弄っていた。
「ん? 君、屋上に何か用?」
光より少し高い一七三センチはある女子生徒――少し前にテニス部を突然退部して話題になった桜木春菜だ。
外はねのショートヘアーに望とは逆の意味で中性的だ。女の子にしてはかっこよくてボーイッシュな顔立ち、制服からでも分かるほどの豊満な乳房の持ち主で、それでいてテニス部で鍛えた長い四肢は敏捷性と脚力が自慢の中型肉食動物のように引き締まっている。
光は春菜に真っ直ぐな瞳で見つめられて顔を近づけられる。ドキドキするのは次の瞬間には喉笛を噛みつかれ、一瞬で殺されるかもしれないという恐怖で、眼差しだけでも心臓を貫かれそうだった。
光はぎこちない口調で表情を引き攣らせて言う。
「ああ……えっと、ちょっと屋上の空気でも吸いに行こうかな? っと思って」
「ふぅ~ん少なくとも嘘は言ってないようね、悪いけど少し待ってくれない?」
春菜は更に顔を近づける。表面上は微笑んでるが、目は笑っておらず有無を言わさない威圧感が滲み出てる。
ヤバイヤバイヤバイ! 今にも噛み殺されそうだと全身から脂汗が滲み出る。
「ごめん春菜ちゃん、お待たせ!」
すると六月に見たあの女の子が屋上へと続く階段を降りてきた。
あの子だ! 光は思わず高揚する、上品に一歩一歩階段をゆっくり降りる姿がスローモーションで再生され、上履きの足音さえエコーがかかってるように聞こえる。
長い黒髪の女の子は一瞬だけ光に視線を向けると、春菜に訊いた。
「春菜ちゃん……その人は?」
「ああ、屋上が空くの待ってただけ。ごめんね君、行こう!」
春菜は女の子を待ってたようで光に一言謝って下の階へと降りて行った。
光はホッと全身の力が抜けてその場で崩れてしまいそうだった。
名前も知らないけどあの女の子に間違いない、光は一息置いて屋上に続く階段に上がる。
扉を開けると塔屋の裏に回り、給水タンクのある屋根に続く梯子を上った。
見晴らしが良く、ほんの少しだけ太陽に近づいたせいか汗ばむほど暑い、光はもうすぐやってくる一年で一番特別な時期に未知の期待に胸を膨らませるが、同時にそうなるわけないとネガティブに考える自分と板挟みになる。
熊本市内の真ん中にある細高の周りには校舎と同じかそれより少し高いビルが立ち並び、下を見下ろすとグラウンドを走り回るサッカー部や野球部が小さく見えた。
「あの子……こんな景色を見ていたのか」
ここでいったい何を叫んでいたんだろう?
吹き付ける爽やかな夏の風、それがとても気持ちよくて自分の声を世界の果てまで届けてくれそうだ。光は思いっきり息を吸い込んで胸を膨らませ、今の思いを大声で叫んだ。
「今年の夏休みを大切な思い出にしたぁぁぁぁぁあい!! 恋をしたり、泣いたり、笑ったり、かけがえのない宝物にしたぁあああい!!」
光の思いが詰まった声は空の彼方に消えていく、誰かに聞かれてないだろうか? だけど、あの子も叫びたくなるわけだ、光は思わず微笑んで空を見上げる。
八月三一日の夜空、晴れてよく見えるといいな。
光は踵を返して梯子を降りると、塔屋の影に何かが落ちていた。なんだ? 降りてしゃがむと、可愛らしい水色を基調として熊本のゆるキャラ「くまモン」のシールが貼られた日記帳だった。
「えっ!?」
光は思わず手を伸ばして名前が書いてないか確かめる。まさかさっきの女の子の!? 名前は……書いてない! これって中身を見たら駄目なやつじゃないか!? 光は明日すぐ冬花に相談しようと鞄に入れた。
梅雨明けが近づいた七月のある日、いよいよ彗星接近が二ヶ月を切った熊本市内の私立細川学院高校――通称:細高二年四組の教室では夏休みの計画や、彗星接近の夜は誰とどう過ごすかで話題になっていた。
「夏休みさ、どこかみんなで遊びに行こうよ!」「いいね海? 山? どっちにする?」「そりゃ両方に決まってるじゃねぇか! 海は天草、山は阿蘇で!」「ええどうせなら海は沖縄か湘南で、山は箱根か軽井沢だろ!」「ちょっ……そんな金ねぇよ」「彗星が接近する八月三一日は学校を開放するらしいぜ! 既に実行委員会が活動開始してるって噂だぞ!」
休み時間や昼休みのたびにクラス上位のリア充グループが話してるのを、竹岡は嫉妬に満ちた眼差しで相変わらず妬み、嫉み、恨み、辛み、嫌味を言ってる。
「けっ、学生の本文は勉強だろ……あいつら期末テストの時に陰キャの俺に頼りまくって、終わったらそれっきりでよ、なぁ朝霧」
「う、うん……そういえば倉田君は?」
「やらない夫なら中庭辺りでスマホで別の学校にいる奴と話してるんじゃね?」
どうやら竹岡は倉田にも見捨てられたようだ。まぁ僕も裏切ることになるが、こんな卑屈に構えてる奴と絶対に彗星の夜は過ごしたくない。しかも上位グループの一人に誘われると態度が一変する。
「なぁやる夫! 放課後暇ならさ、一緒にカラオケ行こうぜ!」
「うん! もちろん行く行く!」
このように卑屈に構えてた表情が一変、媚びへつらうような口調になって手のひら返し! あまりにもの荒唐無稽ぶりに朝霧光は表情に出さず、内心呆れるしかなかった。
放課後の帰り道、光は今日のことを如月望と雪水冬花に話す。
「へぇ……やっぱり面白い人だねやる夫君」
雪水冬花は小柄でスレンダーなシルエット、紺色の癖っ毛ショートヘアにチワワを思わせるような愛らしい顔立ち、とにかく表情と感情が豊かで笑う時はよく笑い、泣く時はよく泣く、天真爛漫な女の子だ。
「それってキョロ充じゃない? でも自分で自分のことを陰キャって言うのは捻くれてるし、そりゃあ光も疲れるよ」
如月望は男子にしては小柄で華奢なことと引き換えに、中性的な童顔で髪も冬花より少し長く特に長い睫毛が目を引き、美少女と見紛うほどの容姿と顔立ちから所謂男の娘こと言われる美少年だ。
冬花とは幼馴染みだという。光は溜め息吐いて頷く。
「うん、正直言って疲れる……竹岡君には悪いけど、彗星の夜はちょっと……」
「じゃあさ光、俺と冬花の三人で見上げようよ!」
望は無邪気に言うと冬花は「うん、そうしよう!」と快く頷くが、光はいいのだろうかと心に引っ掛かる。
「えっ? いいの雪水さん?」
「勿論だよ光君、あたしと望君と三人で彗星見よう!」
冬花は何も考えてないのか快く頷く。
冬花は光のことを名前で呼んでるが、光は気を遣って雪水さんと呼んでいる。付き合ってるわけでもないのに名前で呼ぶのはどこか面映ゆい。
この二人とは中学の頃は顔見知りで望の方は中一の時に同じクラスだった。高校入学の時にたまたま帰る方向が一緒だったから、こうして毎日一緒に帰ってるのだが、望と冬花の関係は謎だ。
付き合ってるようにも見えるし、だからと言ってそうとは言えない。二人曰く「似た者同士の幼馴染み」だという、おかげでそれなりに楽しい日々を過ごせてるから感謝してる。
光が二人を見つめて考えてるのをよそに、望は提案する。
「ねぇねぇ、去年は冷夏で長梅雨だったからやりたいこと殆どできなかったじゃん! 今年は思いっきり夏休みをちゃんと夏休みしよう!」
「おおっ! 彗星観測の他に火の国まつりに花火、海かプール! あと湘南旅行もいいじゃない!」
冬花は瞳を輝かせて提案に乗る。
犬だったら間違いなく嬉しそうに尻尾を振ってるに違いない。因みに望の一族は金持ちで、湘南に江ノ島が一望できるホテルのオーナーをしてる親戚がいるらしい。
「賛成だけど望、夏休みをちゃんと夏休みするって?」
光は思ったことをそのまま口にする。夏休みをちゃんと夏休みするという意味がわからず冬花が答える。
「そのままの意味だよ。中三の頃を思い出してみて……受験勉強ばっかりで夏休みが夏休みじゃなかったよね?」
「まぁ確かに……夏休みの宿題に加えて夏期講習とか、受験合宿とか、親が勝手に申し込んで……嫌な思い出しかないな」
光は中三の頃の苦い思い出が甦ってくる。阿蘇山近くの保養施設で自然を満喫することも許されず、エアコンの利いた快適な牢獄で勉強漬けの日々で――思い出すのはやめよう。
「だからさ! 今年の夏休みは一度っきりだから、楽しいことで埋め尽くそう! せっかくの夏休みなのに先生や親が勝手に『やるべきこと』とか言って宿題や課題を押しつけられて夏休みなのに、夏休みじゃない何かにされるのって嫌じゃない?」
望の言葉はどこまでも純粋で真っ直ぐだ。
少なくとも光には正論に聞こえる、親や先生たちが聞いたら顔を真っ赤にして怒鳴り、頭っから否定して反論も一切聞かないだろう。
ふと光は六月の晴れの日、屋上の塔屋で叫んだ女の子の言葉を思い出して口にする。
「でも……もしさ、夏休みが嫌いな人がいるとしたら、どう思う?」
光は二人に疑問を投げかけると最初に望が首を傾げながら答える。
「夏休みが嫌いな人、俺にはちょっとわからないな……楽しいことが沢山あるのに、もったいないと思うよ。夏休みの楽しみ方を知らないんじゃない?」
楽しみ方を知らない。それは自分達が思ってる以上に悲しく不幸なことかもしれない、冬花も口元をへの字にして言う。
「う~ん、その人はきっと夏休みが好きだったけど何かのきっかけで嫌いになったとか? 夏休みに忘れたい嫌なことがあって、それで嫌いになっちゃったかも!」
好きだったことが嫌いになる。もし自分がそうなるとしたら、多分とても悲しい出来事なんだろう。あの女の子は今日も、屋上で何かを叫んでるのだろうか? 光は明日確かめてるみることにした。
翌日の放課後、望と冬花には先に帰るように言って屋上に上がる。
人気の少ない放課後の校舎の廊下、グラウンドにはサッカー部や野球部の掛け声が響き、時折練習してる吹奏楽部の心地よいメロディが響く。
何となく今年の吹奏楽部は去年に比べて音色が伸びやかで柔らかく、とても優しくなったように感じながら歩くと、屋上に続く階段の踊り場に背の高い女子生徒が立ち塞がるかのようにスマホを弄っていた。
「ん? 君、屋上に何か用?」
光より少し高い一七三センチはある女子生徒――少し前にテニス部を突然退部して話題になった桜木春菜だ。
外はねのショートヘアーに望とは逆の意味で中性的だ。女の子にしてはかっこよくてボーイッシュな顔立ち、制服からでも分かるほどの豊満な乳房の持ち主で、それでいてテニス部で鍛えた長い四肢は敏捷性と脚力が自慢の中型肉食動物のように引き締まっている。
光は春菜に真っ直ぐな瞳で見つめられて顔を近づけられる。ドキドキするのは次の瞬間には喉笛を噛みつかれ、一瞬で殺されるかもしれないという恐怖で、眼差しだけでも心臓を貫かれそうだった。
光はぎこちない口調で表情を引き攣らせて言う。
「ああ……えっと、ちょっと屋上の空気でも吸いに行こうかな? っと思って」
「ふぅ~ん少なくとも嘘は言ってないようね、悪いけど少し待ってくれない?」
春菜は更に顔を近づける。表面上は微笑んでるが、目は笑っておらず有無を言わさない威圧感が滲み出てる。
ヤバイヤバイヤバイ! 今にも噛み殺されそうだと全身から脂汗が滲み出る。
「ごめん春菜ちゃん、お待たせ!」
すると六月に見たあの女の子が屋上へと続く階段を降りてきた。
あの子だ! 光は思わず高揚する、上品に一歩一歩階段をゆっくり降りる姿がスローモーションで再生され、上履きの足音さえエコーがかかってるように聞こえる。
長い黒髪の女の子は一瞬だけ光に視線を向けると、春菜に訊いた。
「春菜ちゃん……その人は?」
「ああ、屋上が空くの待ってただけ。ごめんね君、行こう!」
春菜は女の子を待ってたようで光に一言謝って下の階へと降りて行った。
光はホッと全身の力が抜けてその場で崩れてしまいそうだった。
名前も知らないけどあの女の子に間違いない、光は一息置いて屋上に続く階段に上がる。
扉を開けると塔屋の裏に回り、給水タンクのある屋根に続く梯子を上った。
見晴らしが良く、ほんの少しだけ太陽に近づいたせいか汗ばむほど暑い、光はもうすぐやってくる一年で一番特別な時期に未知の期待に胸を膨らませるが、同時にそうなるわけないとネガティブに考える自分と板挟みになる。
熊本市内の真ん中にある細高の周りには校舎と同じかそれより少し高いビルが立ち並び、下を見下ろすとグラウンドを走り回るサッカー部や野球部が小さく見えた。
「あの子……こんな景色を見ていたのか」
ここでいったい何を叫んでいたんだろう?
吹き付ける爽やかな夏の風、それがとても気持ちよくて自分の声を世界の果てまで届けてくれそうだ。光は思いっきり息を吸い込んで胸を膨らませ、今の思いを大声で叫んだ。
「今年の夏休みを大切な思い出にしたぁぁぁぁぁあい!! 恋をしたり、泣いたり、笑ったり、かけがえのない宝物にしたぁあああい!!」
光の思いが詰まった声は空の彼方に消えていく、誰かに聞かれてないだろうか? だけど、あの子も叫びたくなるわけだ、光は思わず微笑んで空を見上げる。
八月三一日の夜空、晴れてよく見えるといいな。
光は踵を返して梯子を降りると、塔屋の影に何かが落ちていた。なんだ? 降りてしゃがむと、可愛らしい水色を基調として熊本のゆるキャラ「くまモン」のシールが貼られた日記帳だった。
「えっ!?」
光は思わず手を伸ばして名前が書いてないか確かめる。まさかさっきの女の子の!? 名前は……書いてない! これって中身を見たら駄目なやつじゃないか!? 光は明日すぐ冬花に相談しようと鞄に入れた。