君と見上げたい、たった一度の8月31日の夜空を。

 さすが大神先生だ、テニス部顧問で体育担当だから体力も凄い。
 花崎千秋は走りながら横目で見ると、既に春菜は息苦しそうにスピードを落とし始めていた。
「ぜぇ……ぜぇ……もう無理……走れない」
「ちょっと春菜! あんた息上がるの早い!」
「だって……こんなに……長く……速く……走り続けるの……無理!」
 そうだ忘れてた! 春菜はスピードとパワーを活かした短期決戦タイプで持久戦が苦手な方だった。対する千秋は長時間のラリー戦で相手を負かすのが得意だからスタミナは春菜より遥かに上だ。
「ハハハハハハどうした花崎、桜木! 苦しそうじゃないか! そうだ! 俺がテニス部で鍛え直してやろう! それがいい!」
 追いかけてくる大神は余裕の暑苦しい笑み、二月の寒い持久走大会の時にタンクトップで先導してたほど走るのも好きな先生だ。人混みに突っ込んで逃げたいところだが、千秋も春菜も背が高い方から目立つ――そうだ!
 目立つなら逆に利用すればいい! 千秋は一緒に人混みに突っ込んで掻き分けながら手短に言う。
「春菜! ここから二手に分かれよう! 私が注意を引く!」
「どうするつもり!?」
二兎(にと)追う者は?」
 春菜ならきっとわかるはず、期待を込めた眼差しで先を促すと春菜は手を合わせて謝る。
「ごめん! あたし現国苦手なの! この前も赤点ギリギリだったし!」
 それで千秋は派手にずっこけてクラッシュしそうになる。
「二兎追う者は一兎(いっと)も得ず! 今の私たちは追われてる二匹の(うさぎ)よ! 私が囮になって回るわ!」
 そうだ! 春菜は勉強が壊滅的に苦手で期末テストの時もひぃひぃ言っていた。
「わかった、捕まるなよ!」
 狭い路地の角を曲がると、路上に止めてあるSUVの下にスライディングで潜り込む、ほんの数秒間が長い。大神先生の走る足音が通り過ぎる瞬間、素早く這い出て立ち上がりながら叫んだ。
「大神先生! こっちですよ!」
 自分でもドン引きするほどの猫撫で声で大きく手を振ってアピールすると、大神先生は振り向きながら立ち止まる。
「花崎、捕まえて欲しいのか? 捕まったらテニス部復帰だぞ!」
「捕まってから考えます!」
 千秋は来た道を戻って逃げる、大神先生のノリのいいところに感謝しながら走る。いざ追いかけられると、肺も心臓もテニスの試合の時みたいに悲鳴を上げる。
 だけど絶対に負けられない追いかけっこだ!
 千秋は狭い路地を右に曲がり、また右に曲がり、また右に曲がるとさっきの場所に戻って交代だ。
「大神先生! あたしを忘れてないですか!」
 隠れていた春菜が挑発しながら大胆にも先生の背中にタッチすると、そのまま離脱する。大神先生は春菜を追いかけながら恥ずかしくて、熱苦しくて、クサい台詞を叫ぶ。
「忘れる訳ないだろ! お前たちがテニス部をやめたあの日から、お前たちのことを一日たりとも忘れたことなんてない! お前達! なにもSNSでテニス部復帰に×印つけることはないだろ!」
 いやそういう意味じゃねぇから! 聞いてるこっちが恥ずかしい! やっぱりバレてたじゃない! 千秋は思わず吹き出しながらドン引きする、まぁクサい台詞は今に始まったことではないが。
 追跡対象を春菜に変更した大神先生は思惑通り千秋から離れ、そして春菜は千秋が走ったルートをトレースしてまた交代してハイタッチ! 千秋はまた挑発して注意を引く。
「大神先生! 私は追わないんですか?」
「はぁ……はぁ……桜木……花崎……お前たち……まだ諦めたわけじゃないぞ……」
 大神先生もさすがに息が上がり、足取りも重くなる。千秋は春菜と目を合わせて頷き合い、一緒に走ってぐいぐいと引き離していき、振り向くと大神先生はもう追ってこなかった。
 
 気が付くと辛島公園まで来ていて、春菜は全身から汗が噴き出して肩で呼吸していた。
「はぁ……はぁ……なんとか……逃げ切ったかな?」
「これで大神も諦めてくれるといいけど」
 千秋も肺、心臓、筋肉を酷使してキンキンに冷えたスポーツドリンクをがぶ飲みしたい気分だったが、一言文句言わないといけない。
「っていうか春菜! やっぱりバレてたじゃない! ×印の写真SNSに上げたの!」
「あららやっぱりね、でもまあ意思表示はできたし伝わったからいいじゃない?」
「よくないわよ! この分だと他の先生にもバレてるわよ……高森先生に見られたら最悪よ!」
 千秋は頭を抱えると同時に心の底から楽しくて楽しくてしょうがない、千秋は自然と笑いが込み上げてきた。
「ぷっ……ふふふふふふっ! でも私さ……今、凄く楽しい……春菜の言う青春って……こういうの?」
「そうね、あたしの求めてたのって案外こういうものだったのかも……千秋はさ……どうしてテニス部辞めたの? 今更訊くのもなんだけどさ」
 春菜から唐突に訊かれると千秋は言葉に出すのが面映ゆい。だけど話さなければいけない、伝えなければいけない。
 千秋はゆっくりと段差に腰を下ろした。
「春菜がいないなら……もうテニス部にいる意味がないから」
「えっ? あたしに感化されたんじゃなくて、あたしがいないから?」
 春菜はそう言って両足を曲げて隣に腰を下ろすと、千秋は重い口を開いた。
「私さ……昔から勉強も運動も苦手で、思ったことをハッキリ言えない子だったの覚えてる?」
「確かに……中学で出会ったばかりの頃の千秋、結構大人しい子だったね」
 春菜は懐かしそうに夜空を見上げながら言うと、千秋は頷いた。
「うん、あの頃から春菜は春菜だった。みんなに好かれて、気さくで明るくてかっこよくて、自分の考えはハッキリと口にして、一度決めたことは最後まで貫いて、私には凄く眩しかった……だからテニス部に入ったの」
「中学で中体連に出場して、高校でもダブルス組んで時には競い合って……あたしのライバルと呼ばれるくらいになって、千秋本当に成長したね」
 春菜は感慨深そうに見つめるが、千秋は俯いて両手を握りしめる。
「違う……そんなのじゃない」
「千秋?」
「……私は春菜のライバルじゃない……本当はこうやって……一緒に遊んで馬鹿やったりしたかった!」
「遊んだり馬鹿やったり……ライバルじゃなくて……友達?」
 春菜は察して言葉にすると、千秋は唇を噛んで頷いた。
「そうよ! 春菜が部活辞めて夏海と一緒になったと聞いた時私、夏海に嫉妬してた! どうして私じゃなくてあの子なのって! そう思う自分が凄く嫌いで、春菜の友達になる資格なんかないって……それでも私、春菜になにかできることをしようって……だから、マーク・フェルトを名乗ったの!」
 目頭が熱くなる、ここで泣いては駄目だ。春菜を困らせては駄目だ!
「あの日……私に手を指し伸べてくれた夏海が守屋さんを引っ叩いた時、春菜が気にかけていたのがよくわかったわ……夏海は本当は強くて、とても優しい子なんだって……でもそれと同時に自分がいかに器が小さいか思い知らされたの……」
 沈黙が流れる、もしかすると嫌われたのかもしれない。それでも千秋には構わなかった、このまま後ろめたさを背負って接して生きるくらいなら、いっそのこと――唇を噛むと春菜は大きく溜め息吐いた。
「はぁ……千秋……そんなに自分を卑下するなよ。それにお前、難しく考え過ぎ――」
 春菜は面倒臭そうな表情で言った次の瞬間、爽やかな眩しい笑顔に変わった。

「――あたしたちさ……もうとっくの昔に、友達じゃん!」

 春菜の口から「友達」という言葉に千秋の心の器に嬉しさが溢れ、大粒の涙が溢れさせる。
「うっ……冬花も言ってた……でも……やっと……やっと……わかった……私はただ……春菜に……友達だって言って欲しかった……ただ、それだけだった……」
 千秋は堪えきれずに声を上げて泣き、春菜は柔らかな笑みで背中を優しく叩く。
「泣くなよ……大事な試合で負けても泣かなかったくせに!」
「だって……だって……うう……凄く……嬉しかったのよ……嬉しくて……止まらないのよ」
 千秋は溢れ出る涙を拭いながら、冬花の言葉を脳裏に浮かべる。

――素直な気持ちを伝えるのって一番難しいもんね

 冬花、素直な気持ちを伝えるのは難しい……だけど、伝えなきゃ何も始まらない、だから! 千秋は春菜の両手を握って改めて思いを言葉にした。
「春菜、改めて言うわ! 私は春菜と――いいえ、みんなと夏休みをちゃんと夏休みしたい! そしてみんなで一緒に……彗星の夜空を見上げたい!」
「うん、勿論!」
 春菜は頷く、私たち六人でたった一度の八月三一日の夜空を見上げるんだ!
「花崎、お前も悩んでたんだな。桜木、本当に素晴らしい友達を持ったな……先生凄く嬉しいぞ!」
 大神先生はいつの間にか二人のすぐそばで、人目を憚らず豪快に男泣きしていた。
「「えっ!?」」
「花崎、桜木、今のお前たち二人なら……どんな強豪校のライバル達にも勝てるぞ!」
 千秋は一瞬で寒気で背筋が凍り、次の瞬間には春菜と一緒に仲良く男子が聞いたらドン引きする程の汚い声で絶叫しながら全速力で逃走した。
 その頃、雪水冬花は望と小柄な体格を活かし、人混みの隙間という隙間を縫うように玲子先生から逃げていた。
「雪水さん! 如月君! おとなしく捕まりなさい!」
 玲子先生は人混みを強引に掻き分けて追いかけてくる、そうだ追いかけてこい! 玲子先生は当初、光と夏海を追いかけていたが、望が玲子先生を煽って注意を引いたのだ。
 捕まった時のことを考えると怖いけど、望君と一緒に逃げてるのが本当に楽しくて楽しくて、望君と目を合わせると同じ気持ちなのか微笑んでくれる。
「なんとか逃げられそうだね!」
 冬花は「うん!」と頷く。今が楽しくて楽しくてしょうがない。ああ、これが春菜ちゃんの言う青春なんだと思った瞬間、鉢合わせした人とぶつかりそうになる。
「うあっ! ごめんな――柴谷先生!?」
「やぁ雪水さんに、如月君だねこんばんは。そんなに慌ててどうしたの?」
 柴谷先生だ! どうしよう! 完全に挟み撃ちにされて冬花は動揺を露にする。
「ああ、あの……あたしたち……その――」
「柴谷先生! 玲子先生ったら酷いんですよ! 僕達がみんなで仲良くお祭りを楽しんで青春を謳歌してたら、言い掛りつけて追いかけてくるんですよ!」
 望の言うことは確かに間違ってないが言うのはマズイ! ちょっと望君! 柴谷先生首を傾げてるけど相手も先生だよ! 冬花は交互に柴谷先生と迫ってくる玲子先生の二人に顔を向ける間、玲子先生が息を切らしながら勝利を確信した表情で追い付いてきた。
「そこまでよ如月君に雪水さん、もう逃げられないわ!」
「綾瀬先生、この二人は私が捕まえましたので責任持って指導しておきますね」
 柴谷先生はにこやかな表情で言うと、玲子先生の表情は一変して呆然とした表情となって立ち尽くして柴谷先生を見つめていた。

 柴谷先生に連れられ、下通にあるコーヒーチェーン店でジュースを御馳走してもらった。
「すまないな、玲子先生は丁度君たちくらいの頃に大失恋してずっと引きずってるみたいなんだ」
「柴谷先生……なんかお説教というか……指導する様子じゃない……みたいですね」
 望はお洒落なコーヒーチェーン店に連れて行かれ、おまけにジュースを奢ってもらう状況に困惑してる様子だ。一方冬花は以前、音楽準備室で紅茶を御馳走してもらったことがあるからすっかり柴谷先生を信頼していた。
「柴谷先生はこのお店よく来るんですか?」
「本当は銀座通りのホテル横にある紅茶の喫茶店に招待したかったんだけど……あいにく夜は営業してなくてね」
「えっ? もしかして風間さんが教えてくれたあの銀座通りの紅茶屋さんですか?」
 望は食いついたかのように訊くと、柴谷先生も少し嬉しそうに頷く。
「そう、僕も今の君たちくらいの頃……家内の親友が教えてくれたんだ」
「柴谷先生の奥さんって、高校時代に知り合ったんですか?」
 冬花は結婚相手が高校の頃から同級生というのもロマンチックだと思いながら訊くと、柴谷先生は感慨深そうに首を横に振って言う。
「ううん、小さい頃からの幼馴染みでね……喧嘩したりぶつかり合ったこともあったけど、いつも一緒だった……今までも、そしてこれからも」
「幼馴染み……」
 冬花は思わず呟いて隣に座ってる望と意図せず目が合う。柴谷先生はコーヒーカップに視線を落とした。
「僕と家内に二人の友達がいなかったら……結ばれなかった。ああそうだ、惚気話するためじゃなかったね。雪水さん、風間さんはどうしてる? 守屋さんたちに戻ってくるように迫られてない?」
「実はさっきまで一緒だったんですけど……玲子先生と大神先生から逃げる時に散り散りになりましたので……でも今日まで夏休みをちゃんと夏休みして楽しんでました」
「それならよかった……吹奏楽部も夕方から練習を切り上げたからね」
 柴谷先生は安堵した表情でコーヒーを口に運ぶ、すると望は意を決した表情で訊いた。
「ということは吹奏楽部の人たち来てるんですね」
「うん、でも大丈夫……僕の方からも無理に引き戻さないように言ってる……それに、風間さんは一人じゃない……そうだよね? 雪水さん」
 柴谷先生は確信した眼差しと笑顔で冬花を見つめると、胸を張って頷いた。
「はい! 夏海ちゃんはあたしたちの友達ですから!」
 そう言って冬花は望と目を合わせて微笑むを交わす、だけどいつもより――微かに陰りのようなものが見え隠れしていてこんなことを訊いた。
「あの……柴谷先生って高校の頃、どうだったんですか?」
 もしかすると望君は柴谷先生の奥さん――幼馴染みのことが聞きたいのかもしれない、柴谷先生はカップを持ち、半分になったコーヒーを見下ろしながら懐かしそうに話し始める。
「そうだね、知っていると思うけど僕も細高の卒業生でね。僕がいた頃は今では信じられないくらい、厳しい――いや、歪で時代に取り残された学校で、今で言うなら自称進学校でブラック校則が蔓延していたよ」
「なんか先生の言うことじゃないですね」
 望は苦笑いすると柴谷先生も同じように頷いた。
「それで僕たちは先生達を出し抜いて、大人たちの手の届かない外に居場所を探して、欺いたり、時には一歩間違えれば退学になるようなことに手を染めていた……君たちの言う夏休みをちゃんと夏休みするように、僕たちは青春時代をちゃんと青春時代するってね」
「あたしたちと同じですね」
 冬花は親近感を感じながら微笑み、柴谷先生は柔和な笑みを見せると次の瞬間にスマホの着信音が鳴って冬花はそれを取り出す。春菜からで千秋と一緒に振り切ったという。
 柴谷先生は憂い気な表情で言う。
「スマホか……生き辛い世の中になったものだな」
「えっ? とても便利なのに?」
 冬花は首を傾げる、柴谷先生は徐々に険しい表情に変わる。
「便利だからこそ恐ろしい、だから僕は未だに携帯を使い続けてる」
 柴谷先生はポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出して見せる、所々塗装が剥げ、細かい傷だらけだ。柴谷先生は視線を冬花のスマホに向けながら呟く。
「僕が吹奏楽部の顧問になって一つみんなにルールを与えた。大事な話をする時はネットやSNSではなく直接会って話すようにってね。確かに便利だが、言葉は伝わっても心は伝えられない……それに見られたくないものを、見て欲しくない人に見られてる可能性が大きい……この前桜木さんがSNSに上げた夏休みの宿題やテニス部復帰に×印を付けた投稿もね」
「やっぱりバレてたんですね」
 実際あの時、冬花も喫茶店で夏休みの宿題に×印つけてそれが親にバレて小一時間ウダウダ言われたのを思い出す。
「そういえばうちのクラスの女子や、冬花も話してたんですけど……親や先生に自分のアカウントを見られてて気持ち悪いって話してました」
 望の言う通りだ。冬花も何気ないことをSNSに投稿したら両親に見られてたことを知った時、想像以上に身の毛もよだつ寒気を感じた。柴谷先生は小さく首を縦に振る。
「そう、元来SNSというのはそういうものだ。極端な話、今はお互いがお互いを監視し合う……相互監視社会――ジョージ・オーウェルもきっと驚くだろう」
「ジョージ・オーウェル?」
 望は首を傾げながらスマホを取り出す、ググって調べてるのだろう。
 ショージ・オーウェル? どこかで……あっ! 音楽準備室で見た! 記憶を辿ると夏休み前に音楽準備に置いてあったのを思い出して訊く。
「もしかして先生の好きな作家さん?」
「うん、僕の敬愛するイギリスの小説家だ。この夏休みに監視社会の恐怖を描いたディストピア小説『1984年』を読んでみるといい……それと如月君、電子書籍ではなく紙の本で読むことをおすすめするよ」
 柴谷先生がにこやかな黒い笑みで言うと、望は気まずそうにスマホを動かす手を止めた。まだTSUTAYA書店開いてるかな? 
 なんとか逃げ切った朝霧光は夏海と日本三大名城の一つ――熊本城を流れる坪井(つぼい)川沿いにある屋台で焼きそばを食べ、次にやきとりを食べた辺りで満腹になったが、夏海は更にお好み焼き、フランクフルト、たこ焼きを幸せそうに食べていた。
「美味しかった……次何食べようかな?」
 なんだか凄く可愛いと幸せそうに食べる夏海に光はときめいてしまう。
 いや目覚めてしまったというべきか、光は胸をキュンとさせて仄かに赤らめながら歩く。何を話そうかと熊本城入り口に続く橋の前にある加藤(かとう)清正(きよまさ)公像の前で立ち止まる。
「風間さんは知ってるかな? まだ平成だった頃、この熊本城で花火大会やってたんだって」
「うん知ってる。私の家、呉服町のマンションなんだけど隣に住んでる奥さんがね、細高出身で高三の夏休みに彼氏だった旦那さんとこっそりデートして、当時コーラのCMで人気のアーティストのライブやってて凄く楽しかったって話してた」
 旦那さんは高校時代からの彼氏――光はふと恋が実って夏海と付き合えたとしても、卒業して離れ離れになるとしたら恋人であり続けられるのだろうか? そういう不安が込み上げてくるが、それを振り払って今の気持ちを口にした。
「楽しかった……か……風間さん、僕たちも……負けてられないね!」
「うん、そうね」
 夏海の学校では見せなかったはにかんだ笑顔で頷くと光の心臓の鼓動が加速し、高温に加熱され、沸騰する血液が全身の隅々にまで行き渡って熱くなる。
 夏海を抱き締めたい、唇に触れたい、誰にも渡したくない! 抑えきれない衝動がマグマのように地の底から込み上げてきて噴火寸前だった。
 伝えよう、俺があの日君を見た時の気持ちを!
「風間さん……俺、あの日君を見た時――」
「おい朝霧テメェ! そこでなにリア充してるんだ!」
 怒りに満ちた竹岡の声で全身が溶岩のように熱を帯びた体が一気に冷え固まるように感じた。
 この野郎……邪魔しやがってと顔を向けると何人かで群れている。いつも行動してるリア充グループに加えて同じクラス、吹部の男子でトロンボーンの久保田(くぼた)もいる。
「朝霧、お前風間と一緒なのか?」
 マズイ! 久保田は大柄で肩幅の広い、厳ついが顔立ちのいい吹部部員で光は力では勝ち目がないと悟る。
 夏海は咄嗟に光の背中に隠れた。まさか例の笹野派じゃないよな? 歩み寄ってくる竹岡達、光は夏海を背中に隠しながら訊いた。
「そうだけど……久保田君はその……風間さんに戻ってきて欲しいと思ってる?」
 ほんの一~二秒程度の時間が長く感じ、光は神経を研ぎ澄ます。
「ああ勿論だ……何がなんでもな」
 久保田が頷くと光は最悪のシナリオを覚悟して微かに顔を顰める。
 だけど風間さんをここで渡したりするものか! 光はゆっくり深呼吸すると背中に隠れて怯える夏海にズカズカと歩み寄ってくる久保田を腕で遮った。
「おい朝霧……そこをどけよ、なんのつもりだ?」
 竹岡が冷や汗を流しながら代わりに言う、久保田はジロリと睨み下ろした。
「朝霧……お前まさか、風間と付き合ってるのか?」
 久保田の殺気に満ちた視線が光に突き刺さる。いつ手が出てもおかしくないが今から桜木さんを呼んでも間に合わない、風間さんを守れるのは俺だけだ!
「悪いけど、風間さんはもう俺たちと新しい道を見つけて、一緒に前を向いて歩いてるんだ」
「お前の言うことなんかどうでもいい! 風間は吹部に返してもらうぞ!」
 久保田は怯える夏海に手を伸ばそうとすると、光は躊躇うことなく払い除けた!
「風間さん逃げるよ!」
 夏海の手を握って走り出した。一瞬だけ後ろを向くと逃がさないと言う形相の久保田とノリで後を追うリア充グループ、そして遥か後ろに竹岡が苦しそうに必死で追っている。
 久保田は大柄な見た目から想像もつかないほどのスピードで追いかけて来て、光は驚きの声を上げた。
「速い!」
「吹奏楽部は……文化部という名の……運動部だから!」
 夏海は走りながら言う。確かに夏海もさっき玲子先生から逃げた後も、息を切らした様子はなかった。帰宅部の光には体力はそこそこ程度しかなく、すぐに息が上がり始める。
「はぁ……はぁ……このままじゃ……追いつかれる……追いつかれてたまるか!」
 悲鳴を上げる肺、心臓、筋肉に鞭を打って加速させる。体力で勝てないなら頭を使え! こういう時、機転の利く望や冬花なら……雑踏に紛れ込む!
「風間さん、絶対に手を離さないで!」
「うん!」
 夏海は頷いて雑踏の中に紛れ込み、道行く人の隙間という隙間をすり抜けようと思うが夏海と手を繋いだままだ。思うようにいかない、徐々に距離を詰められていく。
「そこまでだぜ朝霧!」
 人混みを掻き分けた先に竹岡が立ち塞がっていた、いつの間に回り込んでいたのだろう? いや、この町は勝手知ったる我が家だ。体力があるとは言い難い竹岡でも頭を使えば先回りできてもおかしくない、竹岡は深刻な表情で問い詰める。
「朝霧、お前自分が何やってるのかわかってるのか? 吹部の連中、風間さんの復帰を望んでるって」
「知ってる。一部の部員がね」
「久保田もその一人だよ、わかってるのか? 二学期になったらお前クラス――いや、学校に居場所なくなるぞ!」
 竹岡の言うことに光は無言で頷く、久保田はクラスの男子達でも発言権のある方だ。そんな彼を――吹部を敵に回すことはすなわち、クラスどころか学校内で孤立することになる。
「そんなことはわかってる! でも、ここで風間さんを渡したら僕は望や雪水さんに軽蔑されるし、桜木さんや花崎さんだったら罵倒されるに決まってる!」
「朝霧……羨ましいじゃねぇかよ! 特に花崎さんや桜木さんに罵倒されるなんて!」
 ドMかよこいつ! だけど問題はそこじゃないと光は啖呵を切る。
「自分の立場が――自分の保身が大事だからって思い悩んでる風間さんを見捨てる。そんな薄情な人間になりたくない!! 狭い場所に納まって人の顔色を窺って何もせず口だけ立派な奴なんかに俺はなりたくない!!」
 竹岡、お前のことだよ。図星なのか竹岡は胸を打たれたのか、苦悶に満ちた表情になる。
「朝霧、風間そこにいるんだな!」 
 光の声を聞いたのか久保田の声が近づき、光は竹岡を見つめる。さあどうする? 竹岡は気に入らないのか「ふんっ!」と鼻を鳴らして夏海の鞄に指差す。
「風間さんの鞄にある防犯ブザー、それは飾りかい?」
 光は視線を夏海の鞄にやって竹岡を見ると、恨めしそうに呟いた。
「花火みたいに綺麗に爆発しちまえクソリア充!」
 そう言い捨てて雑踏の中に消えるがそれを見送ることなく、久保田から逃げながら光は夏海と目を合わせる。
「風間さん、これ……あいつの注意を引けるかも」
「これ?」
 夏海は鞄に付けた防犯ブザーを取ると、やがて怯えていた瞳が強い決意に満ちたものに変わって頷く。
「……うん、やってみる!」
 夏海は光の手を離れ、雑踏の中を捕まるか捕まらない距離まで近づく。
「久保田君! これ!」
 そう言って夏海は久保田の懐に飛び込み、胸ポケットに入れる瞬間に防犯ブザーの紐を片手で器用に引いた! 雑踏の中で甲高い電子音が鳴り響き、夏海は即座に離脱! 飛行機のジェットエンジンと同じくらいの一二〇デシベルの電子音は、大混雑の人々の注意を引くのに十分過ぎた。
「ええっ!? ちょっと風間! 待て! 待ってくれ!」
 狼狽する久保田に背を向けて戻ってくる夏海。
「風間さん! こっち!」
 光は手を伸ばすと夏海はその手を繋いでそのまま一緒に走って逃げる。その間に交わす言葉はなくただ一緒に、時折振り向くと仄かに赤くしながらも微笑んでいた。咄嗟に夢中でやった光は我に返って、息を切らしながら心臓の鼓動を急加速させる。
 ヤバイ! このままじゃ心臓が破裂しておかしくなりそうだ! 辛島公園の隣にある花畑広場まで逃げると久保田たちがもう追いかけてこないと確信して、ホッと胸を撫で下ろす。
「ここまで来れれば……もう大丈夫かも?」
「うん……でも楽しかった! なんか春菜ちゃんの言う青春モノみたい! 春菜ちゃんが青春したいって言ってた気持ち、今ならわかる!」
 夏海の言う通り、ドラマかアニメか映画かはともかくとして、今年の夏休みどころか青春真っ只中って感じだ。
 サクラマチクマモト前の広場は飲食ブースがあり、ビア&ハイボールガーデンになっていてお祭りを楽しんでる若者達や家族連れに混じって会社帰りのサラリーマンやOL、年配のグループの人たちが即席の飲み会を開いて楽しんでいた。
 その中を夏海と素通りしようとした時、夏海は突然立ち止まった。
「どうしたの? 風間さん」
 光は怯える夏海の視線の先を見ると、テーブル席に大学生らしき男女数人と車椅子の老婆の隣に中年の男が談笑してる……中年の男は吹部の前顧問、笹野先生だ! 光は思わず驚愕する。
「あれまさか、笹野先生?」
「うん……卒業した先輩たちもいる」
 四月に母親の介護に専念するために学校を去った時は太っちょだったのに、たった四ヶ月程で痩せ細って頬も削げ落ち、体重も半分近く落ちたようにも見える。
 すると談笑していた女性が夏海に気付いて大きく手を振った。
「おっ! 風間じゃん! おーい風間!」
「あ……本渡(ほんど)先輩、お久しぶりです」
 夏海はどこか余所余所しい口調で恐る恐る歩み寄って一礼する。
「皆さんも……お久しぶりです。彼は友達の朝霧光君です」
 光は「こんばんは」と一礼する、夏海は挨拶もそこそこ済ませてこの場から離れたいようだ。

「久し振りじゃん! 卒業以来かな?」「連れの子ってもしかして彼氏? 付き合ってるの?」「吹部辞めてから心配してたんだよ」「今の吹部どうなってるかわかる?」

 テーブル席に座る笹野先生が人生にお疲れ気味の笑みで二人に座るよう促す。
「風間に朝霧君、こっちに座りなさい。ここで会ったのも何かの縁だ、ゆっくり話そう」
「は……はい」
 夏海は平静を装ってるが瞳の奥底では怯えてる、僕にできることは? 夏海の隣に座ってすぐに実行に移した。光は先輩や笹野先生たちが見えない、テーブルの下で夏海の左手を優しく包むように握った。
 夏海は驚愕の眼差しを向けるが、光は夏海に目で励ます。
 大丈夫、僕がいるから。はたして通じたかどうかは怪しいが何もしないよりはマシだ。すると男の先輩の一人が訊いた。
「あれ? もしかして風間、この朝霧君って子と付き合ってるの?」
「いいえ、今日は友達と六人で来たんですけど訳あってはぐれてしまったんです」
 光が代わりに答えると別の男の先輩が俯いてる夏海に馴れ馴れしく訊く。
「本当かい? はぐれたのはわざとじゃないの?」
「いいえ、綾瀬玲子先生を覚えてますか? あの人に見つかって逃げたんです、友達が囮になってくれました」
 光が毅然とした態度で言うと、笹野先生は酔ってるのか苦笑しながら説教するかのように振る舞う。
「いかんぞ! 先生と部活から逃げちゃ、風間お前聞いてるぞ! まだ部活に戻ってないなんて! いいか、一度入ったらどんなに厳しくても辛くても苦しくても、卒業まで頑張らないと! 卒業してからやってけないぞ! そうだよな母ちゃん!」
 笹野先生の母親はコクコクと微笑みながら首を二回縦に振る。
 光は唇を噛んで握る手に力が入らないように堪える。そんな古臭い精神論でこの子を壊したのが許せないという気持ちが滲み出て、いつ怒りが爆発してもおかしくなかった。
 偉そうに説教する笹野先生、俯いたままの夏海、光は顔を白くして見つめながら聞き流してるうちに笹野先生は眠そうな母親に気付いて腕時計を見る。
「さて、それじゃ俺はそろそろ帰って母ちゃんを寝かせないといかん。それじゃみんな、ゆっくり楽しめよ!」
 先輩たちが「はい」と控えめな返事すると笹野先生は立ち上がって、車椅子を押して雑踏の中に消えていった。
 笹野先生が席を外して一分前後は沈黙は流れたが、それを破ったのは本渡先輩で表情と肩の力を抜くと、表情が一変してかつての顧問を嘲笑する。
「みんな見た? あの笹野のガリガリに痩せてやつれた顔に精一杯見えを張ったお説教、あの巨匠気取りのパワハラ顧問の面影なんて一つも残ってなかったよね?」
 突然の手の平返しに光は驚き、夏海も同じなのか俯いた顔をようやく上げる。

「見た見た! あれ絶対介護疲れしてるって顔よ! ヤケクソ気味にビール四杯も飲んでたし!」「あれ絶対やけ酒よ! 帰りに無理心中するか首絞めて殺しちゃうんじゃない?」「うわぁ……絶対あり得るかも? もっと早く階段から転げ落ちてついでにボケてくれればよかったのに!」

 先輩たちは笹野先生を尊敬してる恩師だと思ってる様子もない。呆気に取られた夏海の代わりに、光は試しに訊いてみた。
「あの、皆さんは今、吹奏楽部や音楽のことどう思ってます?」
「どうって? 二度と楽器なんか触らねぇよ。コンクールの曲しか吹かせてくれなかったし! 音楽なんてもうくそ食らえだ!」
 少しワルっぽい男の先輩が忌々しげにジュースをイッキ飲みすると、もう一人の凛々しい感じの男の先輩が悲しげに首を縦に振る。
「そうそう馬鹿みたいだったよ。あの三年間のことはもうみんなで忘れようって……だいたいさ、一の喜びのために九九の苦しみを味わうなんて馬鹿らしいよね?」
 そう言って溜息吐くと、大人しそうな女の先輩が俯いて忌々しげに声を震えさせる。
「そうよ、あいつのせいで未だに吹奏楽のメロディを聞くと……あいつの罵声が蘇って体が震えるの……そしていつも思うの、もし吹奏楽部なんて入ってなかったら……あの時、風間さんと一緒にやめてたらと思うと」
市ノ瀬(いちのせ)さん、もう高校の頃を思い出すのはやめよう。今日ここで会ったのは初対面でたまたま同い年で意気投合したっことにね……一つ教えてくれる? 今の吹奏楽部――新しい顧問の先生どう?」
 本渡先輩が訊くと夏海はゆっくりと口を開いた。
「新任の柴谷先生……八千代ちゃんが言ってました。音楽の素晴らしさと楽しさを教え直してくれたって、吹奏楽部も明るくなってみんな心から笑ってるって……そう話していました」
「そうか、柴谷先生……もっと早く来て欲しかったな」 
 市之瀬先輩は声を震えさせながら頬に雫が流れた。

 広場を後にすると重苦しい雰囲気で二人っきりになる。さっきの先輩たちの話しで夏海は光に背中を見せ、俯いたままで訊いた。
「ねぇ……朝霧君、笹野先生が学校辞めた理由知ってるよね?」
「うん、お母さんが階段から転げ落ちて、足を骨折して介護が必要になったって」
「こんな噂聞いたことある? 誰かが笹野先生のお母さんを階段から突き落としたって」
「うん、確かアパートの階段から滑り落ちて骨折したって去年の丁度今頃――」
 確か転げ落ちたのは八月のちょうど今頃だった、まさか――光はふいに全身の毛が逆立つような感じがして、夏海が立ち止まった。
「そうよ、階段から突き落としたの実は……私なの」
 振り向いた夏海の表情は冷たい笑みに満ちていた。光はゾッと戦慄した瞬間、夏海は「ハッ!」と気付いたのか、首を横に振って悲しそうに微笑む。
「なんてね! ごめんなさい、一番言ってはいけない冗談だったね」
「……今のは聞かなかったことにするし、忘れるよ」
「ごめんね朝霧君……笹野先生のことはもう忘れるよ」
「それがいい」
 そうだ、みんなは大丈夫かな? 光は望や春菜にLINEメッセージを送ると、すぐに返事が来てみんな逃げ切ったという。
「風間さん、みんな大丈夫だって! 辛島公園で合流しようって!」
「うん」
 夏海は愛らしい微笑みで頷く、それだけで今日のお祭りは意義があった気がした。


 大神先生からなんとか逃げ切った花崎千秋は春菜に気持ちを伝えた辛島公園に戻る。
 光からLINEで合流しようとメッセージが来て夏海や望、冬花も無事に逃げ切ったらしい。
「無理……もう、走れない」
 春菜は汗だくになってよろよろと息を切らしながら重い足取りだ、千秋は周囲を見回しながら合流してみんなに訊く。
「みんな、あいつはもう追ってこない?」
「うん、もう大丈夫……こっちは柴谷先生が助けてくれたから」
 望が頷く。柴谷先生も来てたのか、千秋は浮世離れした音楽の先生の顔を思い浮かべる。
 春菜は「もう走りたくない」と半ベソかきながらついに力尽きたのか、その場で尻餅つくと光は近くの駐車場の自販機から買ってきたスポーツドリンクを手渡した。
「桜木さん、これ」
「ありがとう」
 春菜は礼を言って五〇〇ミリのスポーツドリンクを飲んで休む、冬花は楽しそうに夏海とお喋りしていて、千秋に気付くと大きく手を振る。
「――それでね、柴谷先生は……あっ、千秋ちゃん!」
「よかった、大丈夫だった?」
 夏海も安堵した表情で歩み寄ってくる。千秋はこの二人には感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだ。淀みも、陰りも、偽りのない澄み切った微笑みで頷く二人を、力一杯抱き締めた。
「ええっ!? どうしたの千秋ちゃん!?」
 冬花は困惑し、夏海は唐突な出来事に飲み込めずに言葉が出ないようだ。だけど、この二人には本当に救われた、千秋は嬉しさと感謝の気持ちのあまり震えた声になる。
「冬花、背中を押してくれて本当にありがとう。素直な気持ち……ちゃんと伝えられたよ」
「……うん、よかった」
 千秋の気持ちを汲んだ冬花は片腕を背中に回して抱き締める。
「夏海……あの時一緒に青春しようって手を差し伸べて、友達になってくれて……本当にありがとう」
「あ、う……うん」
 ようやく気付いた夏海は温かい笑みで片腕を背中に回して千秋を抱き締めた。
 こんなにも温かい。ああこれが友情なのかもしれない、これが春菜の言う青春なんだ。春奈と友達になるどころか、それぞれ違った意味で強くて優しく、温かい心を持った二人の女の子とも友達になれたのだから。


「全く千秋は変なところで大胆でクサいんだから、でも好きよ」
 スポーツドリンクを一気飲みし。一息吐いた春奈は微笑みながら三人を見守る。
 望も安堵した表情で三人を見つめていた。
「冬花も俺たち以外の奴と仲良くなれてよかった……あいつも随分変わったよ」
「うん……なぁ望」
「ん? どうしたんだい光、そんな険しい顔して」
 別に深刻なことじゃない、花崎さんが勇気を見せたんだ。だから今度は――朝霧光は望を見つめて言い放った。
「今度は僕たちが勇気を見せる番だ」
「光……」
 望の表情は微かに動揺の表情を見せていた。
 第四章:こんなに楽しい夏休みがずっと続きますように。

 今年も忘れてはならない八月一五日を迎えると、やがてお盆休みのシーズンが終わる。
 夏休みも後半に入ったその日、朝霧光達は数年前に民営化されてリニューアルした熊本空港のターミナルに集まっていた。今日から三泊四日で湘南旅行だ、合流場所は利用する航空会社のカウンター前で既に五人集まり、あとは夏海が来るのを待つだけだ。
「みんなおはよう! 遅くなってごめんね!」
 集合時刻の五分前、重いキャリーカートを引いて夏海がターミナルに入ってきた。
「おはよう風間さん……!?」
 光は思わず言葉を失う。麦わら帽子に夏の空に浮かぶ雲のように白いワンピース、白のヘップサンダル姿とシンプルだが、それだけストレートかつダイレクトに光の心を虜にした。
「おはよう夏海! 随分気合い入ってるじゃない!」
 最初に声をかけたのは千秋でだいぶ表情も柔らかくなり、よく笑うようになり、そして夏海を見つめる眼差しはとても優しくなっていた。
「うん……せっかく旅行に行くから」
 夏海は頬を赤くしながらも誇らしい笑みで頷く。
「そうそう! 先生や大人たち、吹部の奴らの手の届かない所に行くんだから! だいぶわかってきたじゃない!」
 春菜はいつもと変わらない調子で、冬花は大袈裟に瞳を輝かせながら歩み寄る。
「夏海ちゃん綺麗! なんだか夏の空から舞い降りた女神様みたい!」
「お、大袈裟だよ冬花ちゃん」
 夏海は首を横に振って謙遜するが、光から見れば目が眩み、誰にも渡したくないという独占欲に突き動かされそうだった。すると望が微笑みながら横目で見つめて小声で伝える。
「光、俺は応援してるぜ」
「望もな……僕も人のこと言えないけど、お互い頑張ろう」
 光は火の国まつり以来告白の機会を窺っていたが、なかなか踏み出せないままでいた。もし言葉にしてしまったら、これまで築き上げてきたものが一瞬で崩れてしまい、二度と戻らない気がすると考えると、怖いと感じる。
 望と冬花が恐れてるのはこのことかもしれない。
 搭乗手続きと荷物を預け、保安検査場を通ると乗る飛行機は五番搭乗口だ。
「わあっ見て、飛行機!」
 冬花は瞳を輝かせて両手をガラス張りにくっつける。ガラスの向こう側、四番搭乗口に駐機されてるのは日本(ひのもと)航空(こうくう)通称:HALのエアバスA350‐900だ。
 光たちが乗るのは隣の五番搭乗口に駐機されてるライバル会社の極東(きょくとう)空輸(くうゆ)通称:FEAのボーイング787‐8だ。
 二機ともライバル同士でよく似ているが、細かい所をよく見れば違いがわかる。
 光は飛行機のことになると饒舌になるが喋りたいという衝動を抑え、静かに心を高ぶらせながら787を見つめると、望がわざとらしく口にする。
「そういえば光ってさ、実は飛行機に詳しいんだよ。そこのA350と787の違いとか共通点とかわかるんだよね?」
「ま、まあね……少しだけど」
 光は無難にやり過ごそうとするが望はにやけてる、なにわざとらしく言ってるんだよ望! ドン引きされたらどうするんだよ! すると冬花も望に乗って煽る。
「光君ってさ、飛行機の話を始めると止まらないんだよ! 同じ飛行機でも航空会社によってエンジンのメーカーが違うとか」
「へぇ、朝霧君って飛行機好きなんだ。そこの飛行機って同じように見えるけど、見分け方とかあるの?」
 春菜が質問すると、光は抑えきれずに饒舌に話す。
「うん、同じように見えるのはコンセプトが同じ双発の中型機でA350の方が少し大きい、翼端やキャノピーの形をよく見ると違いがわかるんだ。共通点を上げるならエンジンだね。同じイギリスのロールスロイス・トレントシリーズを使ってるんだ、ただ787はアメリカのゼネラル()エレクトリック()・アビエーション社製のも使って選択でき――」
 光はふと「ハッ」としてみんなが熱い視線を注ぎながら聞いている、ヤバイ……ドン引きされたかな? 表情が固まると、千秋は柔和な笑みで諭す。
「大丈夫よ、ここは教室なんかじゃない。ありのまま自分でいていいのよ」
「あ……ありがとう、そうだよね」
 そうだ。恥ずがったり包み隠す必要はない、僕は僕だ。搭乗時刻を待つ間、自分でも引くほど飛行機のことを饒舌に、熱心にみんなに話した。

 787の機内に入ると朗らかな笑顔の客室乗務員(C A)に迎えられ、穏やかなBGMが流れる。光は鞄からパイロットもかけてるサングラス――レイバンのアビエイターを取り出してかける。
「風間さん……窓側に座っていいよ、僕が真ん中に座るから」
「えっ? いいの?」
「うん、窓側は外の景色を楽しめるし、通路側はトイレに言ったりCAさんに頼み事する時に何かと便利だ。それに比べて真ん中ってトイレに行く時に大変だし窓の外も楽しめない、これをミドルマンの悲劇っていうんだ」
 航空券では光は窓側、夏海は真ん中、春菜は通路側席だ。
「おおっ! 光君やっさしーい!」
「う……うるさいよ桜木さん」
 光は照れ隠しに春菜に尖った口調で目を背け、慣れた手付きでシートベルトを締めた。
『皆様、ステラアライアンス・メンバー、FEA東京行き六四三便を御利用いただきましてありがとうございます。この飛行機はFEAとステラアライアンス・パートナーとのコードシェア便でございます。機長は堀川、チーフパーサーは永谷でございます、御用がありましたら遠慮なく客室乗務員にお知らせください――』
 扉が閉まって787がプッシュバックすると天井からモニターが下向きに開き、離陸前の機内安全ビデオが流れる。光は安全のしおりを確認しながら万が一の場合に備えての説明を聞いた。
 光たちを乗せた787は誘導路を経て滑走路のランウェイ07から入ると、ポーンポーンとベルト着用サインが点滅してCAの声が機内に柔らかく響く。

『皆様離陸いたします、シートベルトをもう一度お確かめ下さい』

 いよいよ離陸だ! 787が滑走路に進入すると一時停止。スタンディング・テイクオフだなと光は静かに確信する。
 やがてロールスロイス・トレント1000エンジンが低く唸り、出力が上がって吼える。
 全長五六・七メートル、全幅六〇・一メートルの巨体が押し出され、徐々に加速すると後ろに引っ張られる感覚になる。人によっては座席に押し込まれるような、普段は味わえないGを感じながら機体は滑走路を駆け抜けてスピードに乗る。

 離陸決心速度(V 1)――これを超えるともうブレーキをかけても止まれず、何があっても離陸しなければならない。

 機首上げ(V R)――機首が空に向き、やがて地上を離れてどんどん高度を上げる。

 上昇開始(V 2)――空に向かって上昇すると地上の景色が更に離れていく、平成二八年の熊本地震直後、空からはブルーシートで覆われた屋根がたくさん見えたという。

 787は旋回しながら高度を上げて阿蘇山上空を通過する。夏海は窓の外を夢中で眺めてる、どんな表情だろう? もう風間さんは僕たちと一緒に誰の手にも届かない所にいる。
 やがて雲海の上空で水平飛行に入ると、ポーンポーンという電子音とともにベルト着用サインが消える。
 隣に座ってる夏海は待っていたかのように前の座席下に置いてある鞄から、あの時拾った水色の日記帳とボールペンを取り出し、テーブルを開いてページを開いて書き始めた。
 光の視線を意識してるのか、夏海は恥ずかしそうに頬を赤らめて目線を逸らしながら言う。
「あ……朝霧くん、ちょっと……見ないでね。記憶が鮮明なうちに書き残したいから」
「風間さんて……スマホの日記アプリとかで書かないの?」
「うん、春菜ちゃんが奨めてくれたの……スマホってデータが消える時は簡単に消えちゃうから、それに手書きだとね」
 夏海は前の日のページを開いて書かれた文章にそっと白い手を置き、目を閉じる。
「書いた時の気持ちや、その日の光景や思い出が鮮明に甦ってくるの……この前のお祭りの時、先生や久保田君達に追いかけられた時は怖かったけど……朝霧君に手を引っ張られてドキドキして……今思えば……とても楽しかったって!」
 夏海の眩しくも温かい笑みは心を開き、近づこうとしてると強く感じた。ならば僕も、心を伝えないといけない、光は微笑んで頷く。
「うん、そうだよね! 桜木さんの言う青春だよね!」
 光は通路側に座ってる春菜の方を向くと、今にも派手に吹き出しそうな顔を真っ赤にして堪えていた。
「うぷぷぷぷぷぷ……夏海、確かに朝霧君の言う通りだけど……スッゲェ眩しい笑顔で言うから……クサイ」
「もう春菜ちゃん酷い! 春菜ちゃんだって人のこと言えないでしょ!」
 夏海は頬を赤らめて言うと、ついに堪えきれずに腹を抱える。
「ぷーふふふふふっ……ごめんごめん……でもさ、凄くいい顔してたよ夏海」
 春菜は爽やかな笑顔でサムズアップすると、夏海は恥ずかしそうに閉口した。
 光たちを乗せたボーイング787は一時間半で羽田空港のA滑走路の34Lから着陸。
 第二ターミナルの駐機場に到着すると飛行機を降りて預けていた手荷物を受け取り、京浜急行に乗って横浜駅で仲良く迷子になり、重い荷物を抱え、引き摺りながら駅にある百貨店のレストランで昼食を食べた。
 一休みしてJR東海道線に乗り、藤沢駅で江ノ島電鉄――通称:江ノ電に乗り換えると地元住民よりも観光客の方が多い、しかも一二分に一回しか来ない電車に、乗り切れないだろ! と思うほど人が多かった。
 七里ヶ浜駅で降りて登り坂を歩くと、やっと望の親族が経営するホテルに到着した。
 
 オーナーである親戚のおじさんに挨拶を済ませ、割り当てられた部屋に入ると一気に疲労が押し寄せ、汗だくになった光はベッドにバタンキューと倒れそうになる。
「やっとついた……江ノ電人多過ぎ、地元住民の足なのにあれじゃもう観光列車だよ」
 部屋の割り当ては光と望の二人で、隣にそれぞれ冬花と夏海、春菜と千秋だ。
「おじさん、僕たちのために一番いい部屋を取ってくれたんだよ」
 望は誇らしげな笑みでカーテンを一気に開けると、窓の外には入道雲を背景に江ノ島が浮かぶ湘南の美しい景色が広がっていた。
「ああ……確かに、この景色……いいよな」
 光は広縁の椅子に座ってスポーツドリンクと溶けて柔らかくなったチョコを口にする、この景色を風間さんと一緒に見たい。
「さあ明日は江ノ島で明後日は海水浴でその夜は花火大会……三泊四日の旅はあっという間だ! ここには五月蝿い先生も親も邪魔してくる吹部もいないから!」
「うん、まだ明るいし外に出てみようか!」
 望の言う通りだ。荷物を下ろして軽くなったからか、少し休むといつの間にか旅の疲れも取れて到着から一時間足らずでホテルの外に出ると、冬花が提案する。
「みんな、あの踏切に行こうよ! ここからだと歩いて行けそうじゃない?」
 確かにスマホの地図アプリで見ると歩いて行けそうな距離で、真っ先に春菜が気付いて興奮する。
「もしかしてあの高校前駅の踏切!? 行きたい行きたい!!」
「江ノ電の高校前駅……そうか! あの踏切のことね! 行こう!」
 千秋も気付いて快く頷くと夏海は首を傾げる、光はそれを見逃さず説明する。
「風間さん、あの踏切だよ……アニメや映画のロケ地にもなるあの踏切!」
「う~んちょっとわかんないな……ずっとテレビとか映画とか見る暇なかったから」
 夏海は困ったように微笑むと光の胸にチクリとした。そうだ、去年までずっと吹部の練習で流行とか楽しいことを知らず、辞めてからも怯える日々が続いてたから……。
 光は静かに息を深く吸って堂々と言った。
「じゃあこれからたくさん、僕たちと一緒に知っていこう!」
「……うん!」
 困り顔だった夏海は嬉しそうに微笑んで頷いた。
「みんな……テンション上がるのはわかってるけど、過度な期待しない方がいいよ」
 前向きな望にして珍しく後ろ向きな発言で冬花はなんとなく察して、光を含めて他のみんなは首を傾げていた。
 地図を辿って江ノ電の高校前駅手前にある踏切があり、国道134号線を挟んですぐ七里ヶ浜の海岸だ。遠くには伊豆大島が薄っすらと見え、美しい湘南の海を背景にクラシックな電車が踏切を通過するシーンはあまりにも有名だ。
 一二分おきに通過するクラシックな電車だが、そのノスタルジックな光景に冬花と望はなんとも言えない表情で、千秋は蔑む目で見つめ、春菜は口元を引き攣らせ、夏海は苦笑し、光はようやく望の言ってた意味がわかった。
 千秋は一生懸命スマホやカメラを構えてる人達に白けたような低い声になる。
「なにこれ……人群がり過ぎ」
「うん、なんかここの踏切凄くいいけど、有名になり過ぎた故の弊害ね」
 春菜は頷く。そう踏切としてはあまりにも有名になり過ぎて夕暮れ時なのに観光客が多く集まり、実際マナーの悪い観光客も問題になってるらしい。
「人間考えることって案外同じかもね」
 光も藤沢方面に向かう電車が通過する動画を撮ろうと近づく、観光客の中には外国人も多く、明らかに英語ではない言葉で喋ってる人も多くいた。

 高校前駅から鎌倉行きの電車に乗り、長谷駅で降りると由比ヶ浜海水浴場まで歩く。砂浜に出ると海の家が立ち並び、既に遊泳時間は終了して夕暮れ時だがそれでもそれなりに人はいた。
 犬を連れて散歩する人、家族連れの人、カップルで二人の時間を過ごしてる人、光達のように友達と遊んでる人と様々で、冬花はみんなの前に出てクルリと振り返る。
「ねぇみんな! ここってさ、今の気持ちとか言いたいことを叫んでみると気持ち良さそうじゃない? 特に夏海ちゃん!」
「えっ? ええっと……うん、確かに良さそうね」
 夏海が戸惑ってると春菜が波打ち際まで走り、大きく息を吸い込んでブラウスのボタンが弾けるくらいに胸を張って大声で叫んだ。

「大神いい加減に諦めろぉぉぉおおおおっ!! もう練習漬けの日々は嫌だぁあああああ!!」

 光が呆気に取られてると春菜は爽やかな汗を夕陽に反射させながら笑顔で振り向いた。
「こんな感じ?」
「うん! それそれ!」
 冬花は嬉しそうに頷くと千秋もゆっくり波打ち際まで歩き、春菜に負けないくらい程の大声で叫んだ。

「夏休みくらい好きに過ごさせろぉおおおおおっ!! 宿題とか夏期講習とか部活とかうざいんだよぉおおおおおっ!!」
「そうだそうだ!! 今年の夏休みは二度と来ないんだぁああああああ!! 邪魔をするなぁああああっ!!」

 冬花も便乗して叫ぶと千秋と他愛ない笑みを交わす。
「それなら僕も」
 望も冬花の隣に立ち、気持ちを包み隠さず叫ぶ。

「俺もだぁああああああっ!! この時は今しかないんだぁあああああっ!! 俺たちの夏休みは、俺たちのものだぁあああああああああっ!!」

 見ているこっちが恥ずかしいと苦笑するが、今の叫びたい気持ちは……と思ってると春菜がニカッと白い歯を見せて手招きする。
「夏海も叫んでみなよ、恥ずかしいけど気持ちいいぜ!」
「えっ!? わ、私は……その――ううん、じゃあ」
 一瞬耳まで赤くして動揺したがすぐに首を横に振った。躊躇いを振り払ったのだろう、恐る恐る春菜の隣に立つと深呼吸して落ち着かせ、顔を真っ赤にしながら裏返った声で叫んだ。

「こんなに楽しい夏休み!! 初めてぇえええええええっ!!」

 他のみんなに比べて控えめだったがそれでも光は同感だった。
 今までこんなに楽しい夏休みはおそらくないだろう。出来ることなら来年も――いや、今は考えるのはやめよう、今を精一杯楽しむんだ。
 あとは光だけで案の定、望が期待の眼差しで言う。
「光もなんか叫びなよ!」
「そ……それじゃあみんな……飛びっきり恥ずかしいこと、みんながドン引きするくらい叫ぶから」
 そう言うと何を叫ぶかはもう心に決めて夏海の隣に立つ、みんなに視線をやると望と冬花は期待した眼差しで、千秋は気付いたのか「あっ」と微かに察した表情になったが、次の瞬間にはゆっくり背中を押すかのように強く頷くと、春菜は興味津々の眼差しだ。
「ねぇねぇ何を叫ぶの? 何を叫ぶの?」
「春菜、急かさない!」
 千秋は以前吹部に啖呵を切った時のように凛とした声で黙らせる。
「……はいはい」
 春菜も気持ちを汲んだのか急かすのをやめる。光は夏海と一瞬目を合わせると怖がらせたのか、静かに驚いた様子で視線を逸らす。怖がらせてしまったか、でももう引き返せない、覚悟を決めて息を深く吸い込んで水平線の彼方に向かって光は叫んだ。

「俺は、風間さんのことが好きだぁあああああっ!!」

 一瞬世界が波の音だけになり、砂浜にいる人の視線が光に集中して夏海は「えっ?」と目を丸くし、次の瞬間には顔を赤熱させて裏返った声で動揺する。
「ええええっ!?」
 夏海は恥ずかしさのあまり両手を口元に当てるが、光は構わず叫ぶ。

「好きだ好きだ好きだ! 大っ好きだぁああああっ!! 六月のあの日、一目見たときから、俺は風間さんのことが好きだぁあああっ!! 俺は、この夏を、風間さんと一緒に駆け抜けたいっ!!」

 叫びたいことは叫んだ、全身から汗が噴き出してくる。喉がガラガラだ、みんなの反応はというと望は「あーあやっちまった」と言いたげで、冬花は夜空に輝く星のように瞳を輝かせ、千秋は「よくやった」と精悍な笑みで頷く、逆に春菜は飲み込めず開いた口が塞がらない様子だ。
「風間さん! これが、俺の気持ち!」
 光は真っ直ぐ夏海の瞳を貫かんばかりに見つめる。
 夏海は顔を真っ赤にして口許を両手に当てたままだ。辺りは沈黙して波のせせらぎだけになり、ほんの数秒程度とも数分とも言える時間が流れる。
 夏海はゆっくりと花弁のような唇をゆっくり動かした。
「……知ってた、朝霧君……たまに僕じゃなくて……俺になるよね?」
「うん! 一目惚れだったんだ!」
 光は頷くと頬を赤らめていた夏海は「ぷっ!」と噴き出して無邪気に笑う。
「ふふふふふふっ……朝霧君単純過ぎ! 聞いてるこっちが恥ずかしいよ!」
 夏海の言う通り単純かつ盛大な恥ずかしい告白をして、たった今したことを思い返せば思い返すほど恥ずかしい黒歴史がまた一つできてしまった。
 恥ずかしすぎて目の前の海に入水(じゅすい)自殺したくなるほどだ。
 すると夏海は息を大きく深呼吸したと思った瞬間。

「私も、朝霧君に好きって言ってくれて、嬉しいいいいぃいいいいいいっ!!」

 夏海は大海原に向かって叫ぶ、確かに見てるこっちが恥ずかしくて光は赤くなり心臓の鼓動が速まる。

「私も、朝霧君のことが、好きになりましたぁああああ!!」

 夏海の叫び声が海の向こう、水平線の彼方に消えていく。
 一目惚れした女の子に好きと叫ばれて光は嬉しさのあまり、溢れてくるものが抑えきれず大粒の涙が温かく頬を伝い、思わず両手を口許に当てて望はツッコミを入れる。
「っておい! 泣くなよ光! お前は女の子か!」
「お前に言われたくないよ……ぐずっ……だって……嬉し過ぎて」
 光は拭っても拭っても溢れ続ける涙を流し、冬花はまるで長年疑問に思ってたことの答えを見つけたかのように、静かに首を縦に降る。
「そうか、嬉しすぎて泣いちゃうこと……あるもんね」
 春菜は貰い泣きしていた。
「わかる! わかるよ!」
 千秋は苦笑しながらハンカチを春菜に差し出す。
「あんたは感受性強すぎ、まぁ……それもいいところだけどね。夏海、早く拭ってあげて」
「うん、朝霧君……笑って」
 夏海は鞄からハンカチを取り出して優しく涙を拭き、キスできそうなほど顔が近くなる。
 内向的だけど、本当はとても優しくて芯の強い女の子――風間夏海。
「ありがとう風間さん……あの時、出会えてよかった」
「私も、あの時見つけてくれて……お祭りの時に一緒に逃げてくれて、好きになってくれてありがとう」
 光に向けた夏海の笑顔に、笑顔で頷くと改めて伝えた。
「風間さん、僕は一目見た時から君のことが好きです。付き合って下さい」
「はい、よろしくお願いします!」
 夏海は照れながらも嬉しそうに頷き、晴れて恋人同士となった。
 誰の手にも届かない、遠い湘南の海で。
 そして僕は望に目で望に伝えた。望、今度は君が勇気を見せる番だと、気付いたのか望は複雑な表情を見せた。
 その夜、光は浴衣姿でテーブルの椅子に座り、夜の江ノ島を眺めながら少し温くなったペットボトルのお茶を飲んでいると望は向かいに座って文庫本を読んでる。
「光、風間さんとLINEでおしゃべりしなくていいの?」
「うん、すぐ隣だから話したくなったら直接行けばいい……望……いつも背中を押してくれてありがとう」
 光は今日までのお礼を言うと、望は恥ずかしそうに首を横に振る。
「よせよ光、俺は特に何もしていない……でも冬花のこと、ちゃんと気持ち伝えようと思う……でも、もう少し時間が欲しい……明日は江ノ島だろ?」
「ああ、風間さんと話し合ったけどみんなで行って、その後どこかでデートしようって」
「そっか、楽しんでこい……明後日はお待ちかねの海水浴に花火大会だ」
 望はニヤニヤしながら文庫本を閉じ、ジロジロ見つめて言うと光は目を逸らす。
「な、なんだい望、そんなにニヤニヤして」
「光、風間さん着痩せするタイプらしいぜ」
「……何が言いたいんだ?」
「隠さなくていいんだぜ、水着姿や浴衣姿に期待してるんだろ?」
 望の言う通りだ。どんな水着姿か気になるし、海水浴の夜には花火大会もやる。
 光は思わず照れ隠しでお茶を一気飲みして誤魔化す。
「きょ、今日はもう寝よう! 明日も早い!」
 光は立ち上がってさっさと寝る準備をして布団に入ったが、望の言葉が頭にこびり付いて離れず思春期の男の子特有の妄想で眠りにつくのに少し時間が必要だった。

 翌朝になると起きて着替え、朝食のご飯と味噌汁に焼き魚を食べる。
 今日はみんなで江ノ島観光だ。
 集合場所はホテルのロビーだが、そこで光と望は立ち止まって目を疑った。
「望君、光君、こっちだよ!」
 冬花が手を振る、女子組は全員揃ってるし準備万端で問題なさそうだ。
「ねぇ、みんな何で制服なの?」
 望は単刀直入に訊く。どういうわけか女子四人は細高の制服姿で、ご丁寧に学校指定のローファーまで履いていて春菜が自慢げに自分を指差した。
「提案したのはあたし! 湘南の高校生って青春モノみたいで憧れてたの!」
「全く馬鹿みたいよ本当に、夏休みの旅行先で制服だなんて修学旅行じゃないんだから」
 千秋は呆れながら腕を組むと、冬花はニッコリ笑顔で指摘する。
「ええでもさっき自撮り棒出してみんなで撮ろうって言ったの千秋ちゃんじゃない」
「そ、それとこれとは別よ!」
 千秋は頬を赤らめて声を尖らせる。光は昨日告白して恋人同士になった夏海の所にドキドキさせながら歩み寄る。
「風間さん、今日はこれで行くの?」
「うん、大丈夫……ここなら誰の手にも届かないから」
 夏海も仄かに頬を赤くして頷きながら、光が抱いた微かな不安を取り除く。
 そう、ここは湘南だ。何も不安に思うことはない。
「そうだね。じゃあ……行こうか!」
 光は頷いて外に出ると、猛烈な湿気と陽射しに加えて喧しいほど鳴く蝉、今日は晴れで絶好のお出掛け日和の猛暑日だ。容赦ない太陽の洗礼に数秒で春菜は後悔を口にする。
「やっぱ私服にしとけばよかった、暑い……帽子かぶれない」
「誰のせいでこうなったと思ってるのよ」
 千秋は顔を顰めて言うと冬花は呑気に「ねーっ」と頷いた。

 江ノ電七里ヶ浜駅から藤沢方面に向かう電車に乗り、江ノ島駅で降りて観光客に混じって海の方へと歩いて行くと、ネットやテレビで見たことがある江ノ島の情景が広がっていた。
「見えてきたよ、風間さん」
「うん、なんか……写真や動画で見るより……やっぱり実際に来て、見て、感じるものなんだね」
 夏海の言う通りだ。縦横無尽に行き交う人々、鳴きながら飛び回るカモメやトンビ、心地よく吹き付ける潮風に、絶え間なく寄せては返す波の音、ここにいる者でしか得られないものだ。
「みんな、ちょっとここで写真撮ろう」
 本土と江ノ島を繋ぐ弁天橋の入り口にある石碑で千秋は自撮り棒を取り出し、スマホをセットする間、春菜はニヤけながらからかう。
「思ったんだけど千秋に自撮り棒なんて似合わないよね」
「何が言いたいわけ? 今回のために買ったのよ!」
 千秋は春菜を睨みながらスマホをセットして四人で撮ると、望はスマホを取り出す。
「そうだ! 俺が撮ってLINEで送るからさ、光も入りなよ」
「いや、さすがに――」
「あっ! そうかわかった! 風間さんと二人っきりのがいいんだ。ちょっと待ってね!」
 望がスマホを構えると、江ノ島を背景に四人の女の子達は身を寄せ合ってそれぞれ微笑んで、ピースサインしたりして何枚か撮る。
「風間さんはそのまま! 光、いいよ!」
「う、うん!」
 夏海を除いた三人はそそくさと望の後ろまで行き、光は頬を赤らめながら夏海の隣に立つと光は思いきって肩を寄せた。
「あ……朝霧君!?」
 夏海は困惑して耳まで赤熱させるが、光も同じくらいに耳まで赤くしている。
「風間さん……手……繋ごうか」
「……うん」
 夏海は儚げな声で微かに頷くと互いに顔を向き合わずにそっと指先が触れ、恐る恐る指を絡めると、千秋は柔らかく穏やかな口調で声援を送る。
「二人とも、今はぎこちなくても……後で振り返ったら素晴らしい思い出だったって言える日が来るから」
 思い出。そう僕たちは今、素晴らしい思い出の真っ只中にいるんだ。光はゆっくり深く息を吸って静かに吐き、ガチガチに緊張してる夏海を見つめて笑みを見せる。
「大丈夫だよ風間さん、僕も緊張してるから……一緒に笑おう!」
「ええ……ぷっ! うふふふふふふ!」
 オドオドする夏海はカメラの方を見ると突然笑い出した。望の後ろで春菜と冬花が緊張を和らげようとしてるのか変顔――というよりも顔芸を披露して、光も思わず吹いてしまう。
「ぷっ! 二人とも変だよ!」
 だけど二人は構わず続ける、学校のみんなが見たら確実にドン引きするだろう。でも、自然と夏海と目が合って微笑み合い、その瞬間を望は見逃さなかった。
「そうそう今の! 光、風間さん、今の笑顔!」
 光は緊張の解れた笑みを向けると望はシャッターを押す、すぐにLINEで送られてくる。望は手を繋ぐ直前や冬花と春菜の顔芸で和んで笑みを見せた写真、手を繋いで微笑む写真まで送ってきた。
「こんな顔してたんだね、僕たち」
「うん、おかしいけど……日記に書かなきゃ」
 夏海はほっこりした笑みを見せてくれた。
 弁天橋を渡りきると観光客で賑わう弁財天仲見世通りに入る。
 江ノ島神社の参道で青銅の鳥居から朱の鳥居まで二〇〇メートルほどの緩やかな坂道だ。午前一一時になり、そこにある一件のしらす丼屋さんで少し早めにお昼のしらす丼を食べる。
 食べ終えた後はタコ煎餅だが、仲見世通りのお店は長蛇の列で望によれば登りきった所にもあるらしい。長く急な江ノ島神社の石段を息を切らしながら登って参拝し、辺津宮(へつみや)境内の銭洗池でみんなで「せーの!」と声を揃えて小銭を一斉に投げ入れたが全弾外れ。
「ああーっ! 五〇円も課金したのに!」
「冬花、スマホゲーじゃないんだから」
 大金を投げ入れて失敗し、嘆く冬花に望は苦笑する。
「風間さん、あれ僕たちも書こうか」
「う……うん」
 光は夏海とピンクの絵馬に名前を書き、縁結びの樹にかける。
「ぜぇ……ぜぇ……やっぱりここ登るのキツイって聞いてたけど、もう無理……」
 頂上に続く険しい石段を登り切ると一番後ろを歩いていた冬花はヘトヘトで、望も気にかけていたのか駆け寄る。
「大丈夫冬花? 少し休もうか?」
「うん、ここでタコ煎餅食べようか」
 冬花は汗だくになりながらも健気に微笑む。休憩も兼ねてみんなで広場の大道芸を見ながらタコ煎餅を食べてサムエル・コッキング苑に寄り道し、苑内にあるシーキャンドルの展望台にも上がった。
 夏海は屋外展望台で吹き付ける風にも負けず、鎌倉の方を指差して光に訊く。
「ねぇ、あそこからゴジラが上陸したんだよね?」
「うん、鎌倉を通って横浜から武蔵小杉駅まで来て――」
 光は好きなゴジラ映画のことを話し、饒舌になる。
 サムエル・コッキング苑を出ると江ノ島の裏側である稚児ヶ淵(ちごがふち)の岩屋橋を通って岩屋洞窟に入り、背の高い千秋には狭くて屈んで進み、後ろにいる春菜に注意を促す。
「気を付けてよ春菜、私もあなたも背高いから頭打ったり――」
「いたっ!」
「もう、言ってるそばからぶつけてどうするのよ」
 暗い洞窟の中、蝋燭(ろうそく)の明かりを持った千秋は楽しそうにクスクス笑った。


 岩屋洞窟を後にすると雪水冬花はみんなと稚児ヶ淵の岩場に降りる。望によると今日、海は時化(しけ)てるという。
 事実、激しい飛沫を上げながら海水が勢い良く岩場の奥まで流れ込んでくる。
 稚児ヶ淵~弁天橋まで一〇分足らずで行ける遊覧船「べんてん丸」も今日はお休みだ。それでも潮風は心地よく、太陽は眩しく、夏の空は青く、遠くには薄っすらと富士山が見える。
「わぁ……綺麗な眺め、いいなここ!」
 春菜はローファーと靴下を脱いで素足になると、千秋は微笑んで同じように素足になって夏海も後に続いて冬花に手を振りながら促す。
「冬花ちゃん! 早く早く!」
「うん! 待って夏海ちゃん!」
 冬花もローファーと靴下を脱いで岩場に置き、海水で濡れた岩肌を直に感じながら駆け寄る。しゃがんでみると足下の岩場の水溜まりには小さな魚が泳ぎ、隙間には小指の爪くらいのカニやフナムシ等の小さな生き物が顔を出している。
 冬花はフナムシを捕まえ、潰さないよう優しく手で包むとイタズラしようと微笑む。
「みんな、捕まえたよ!」
「えっ? なになに、魚?」
 春菜が歩み寄ってしゃがむと、冬花は春菜の足下でパッと手を開いてフナムシを逃がした。
「いやぁぁあああああ!!」
 目にも止まらぬ速さで激走すると春菜は絶叫、冬花は面白くてたまらず指差して爆笑し、千秋も愉快だと言わんばかりに大笑いして夏海も声を上げて笑い、春菜は堪らず文句を言う。
「笑うな! みんなだってゴキブリとかクモとか嫌いでしょ!」
「夏海、今の見た? 超面白かったでしょ?」
 千秋は春菜の文句もどこ吹く風と言わんばかりに言うと、夏海も頷く。
「うん、だってあんなに驚くんだもの」
「夏海も酷い!」
 春菜が半べそかきながら言うと大きな波が飛沫を上げて押し寄せ、岩場に海水が流れ込んで足首辺りまで浸かり、みんな高い声で叫ぶ。
「きゃあああ冷たい!」
 冬花は叫びながら慌てて立つがスカートの裾が濡れる。幸い裾の端だけだったが、一番波飛沫に近かった夏海はスカートの四分の一近くを濡らしてしまった。
「あっはははははは! 冷たい! ずぶ濡れ!」
 夏海は心の底から楽しそうに笑い、裾を絞る。あんないい顔、夏休み前には見せなかったね。冬花は自然と笑みが浮かぶ、もし光君にあんな笑顔を見せてるとしたらきっと世界で一番の幸せ者だ。
 千秋も同じ気持ちだったのか、スカートの裾が濡れてるのに気にもとめず楽しそうに笑う。
「ホント、でも夏海、今凄くいい顔してるよ」
「……みんながいてくれたから、みんなのおかげだから!」
 夏海は恥じる様子もなくみんなに微笑んで言うと、春菜は両手を腰にやって「うんうん」と感慨深そうに首を縦に降った。
「あたしは今の夏海が羨ましいよ。かっこよくて真っ直ぐな彼氏に、ちょっぴり変で、面倒で、駄目だけど、優しい友達に囲まれてね」
「誰が変で面倒で駄目な人よ! 春菜も人のこと言えないでしょ!」
「うん、あたしだってそうよ千秋、だから寄り添い合って生きてるんだって」
 千秋にジト目で言われても春菜は素直に受け止め、千秋や冬花と笑い合った。

 持参したタオルで足を拭いて稚児ヶ淵を後にし、急な石段を登りきった所にある甘味処で休憩する。江ノ島はアップダウンが激しく石段を登り切ってヘトヘトになる、ここで生活してる人たち大変だろうと甘味処の女将さんに訊いたが、曰く「この辺に住んでる人たちはみんな足腰が丈夫なのよ」だと言う。
 冬花はコケモモ・フロートを注文すると望がトイレに行ってる間、隣に座ってる夏海に提案する。
「ねぇねぇ夏海ちゃん、この後光君と恋人の丘に行ったら?」
「うん、冬花ちゃんもね」
「えっ? あたしも」
「うん大丈夫! ずっと仲良くしてるんだもの、如月君だってきっと同じ気持ちよ」
「……知ってたんだね」
「なんとなく……だけど」
 夏海は優しく冬花に諭す。答えを有耶無耶にしたままではいけないのはわかる。
 だけど、いざ伝えようとなると自分はともかく、望君を傷つけてしまいそうで怖い。夏海の向かいに座ってる光もジッと見つめながら背中を押す。
「僕も望から聞いたよ。だけど伝えた後でも無理に変わらなくていいと思う……少しずつ歩み寄っていけばいい……だから冬花、勇気を出して」
 光が初めて名前で呼んでくれた。冬花は嬉しくて勇気をくれた友達に頷く。
「ズルいよ光君、こんな時に名前で呼ぶなんて」
「どうしたの冬花、なにかいいことでもあったの?」
 そして折よくトイレから戻ってきた望は冬花の向かいに座る、冬花は少し見つめると微笑みながら頷く。
「うん! 光君と夏海ちゃんがね、背中を押してくれたの!」
 望は首を傾げながら向かいに座った。

 そして甘味処を出るとすぐ(りゅう)(れん)の鐘がある恋人の丘に続く森の道へと入る、少し歩くと先客のカップルが一緒に紐を握って鳴らしている。
「風間さん、僕たちも鳴らそうか」
「うん、鳴らそう!」
 光と夏海も幸せそうに笑みを交わす。この時間を満喫してる冬花は望の横顔を覗くと、羨ましそうとも寂しそうとも言えるような眼差しで二人を見つめていた。
「ねぇ望君、あたしたちも鳴らそうか」
「冬花……でも俺たち……付き合ってるわけじゃないし」
 望はあの時のことを思い出してるのか、その表情は複雑だ。
「望君、あの時は……ごめんね。傷つけちゃって」
「……何言ってるんだよ、冬花はなにも悪くない」
「どうしてあの時泣いちゃったのか? 昨日光君が嬉しすぎて泣いちゃった時、やっとわかったの……あの時嬉しすぎて嬉しすぎて、どうすればいいかわからなかったの。だからごめんね、好きって言ってくれたの本当は凄く嬉しかった!」
 呆気に取られた表情の望だが、次の瞬間には長年の荷が降りたかのように安堵の表情になる。
「冬花……謝らなくていいんだ、俺も冬花のことが好き。今までも……そしてこれからも、ずっと君と一緒に歩いていきたい」
「うん! あたしも、これからも望君と前を向いて歩いて行きたい!」
 冬花は望と晴れやかな笑みを交わすと、光と夏海が見守るような眼差しで見つめている。
 光は「お先にどうぞ」と視線で示すと冬花は望と手を取り合い、そして一緒に鐘を鳴らす。
 新しい一歩を踏み出したことを告げるかのように。
 恋人の丘、龍恋の鐘は相模湾を見渡せる見晴らしのいい場所にあり、伊豆大島が微かに見える。
 相模湾を背景に龍恋の鐘を二人で鳴らして金網に二人の名前を書いた南京錠をつけると、永遠の愛が叶うという。冬花と望が鐘を鳴らして、どうやら上手く行ったらしいと朝霧光は胸を撫で下ろした。
「僕たちの番だよ、風間さん」
「うん、鳴らそう」
 順番が回ってくると夏海と龍恋の鐘を鳴らすため、一緒に紐を握る手が重なる。お互い赤くなりながら笑顔で呼吸を合わせ、思いっきり振りかぶって叩くと、甲高い鐘の音がどこまでも響き渡り、そしていつまでも耳に残った。
「次は私たちよ春菜」
「ええっ!? あ、あたしたちで!?」
 さりげなく紐を握る千秋、女の子同士で!? 春菜は勿論、光も困惑すると千秋は精悍な笑みで見つめる。
「もしかして意識した?」
「そ、そういうわけじゃないけど、嫌じゃないけど……その」
「わかってるわ。これは……愛と友情と青春の誓いなの」
「愛と友情と青春の……いいわね、そうだ! みんなも来て! どうせならみんなで鳴らそう!」
 瞳を輝かせた春菜の誘いに光は夏海とアイコンタクト、夏海も意図を感じ取ったのか満面の笑みで「うん」と無邪気に頷く。愛と友情と青春、それはこの夏休みに千秋と春菜が追い求めていたもの、それは二人だけでは手にできなかった。
 そしてたった今、新しい一歩を踏み出した冬花と望が駆け寄ってきた。
「なになに? これをみんなで鳴らすの?」
「いいじゃない? 弁天様もびっくりするよきっと」
 千秋は少し驚いた表情になるが、すぐに微笑みに変わってみんなで握る。

「「「「「「せーの!」」」」」」

 声を揃えて思いっきり振りかぶって鳴らす。なんとなくだが、同じように聞こえても二人で鳴らす時とはまた違う響きを感じた。

 夕暮れ時、高校前駅の道路を渡って降りた所にある砂浜で光は江ノ島の方に向けて夏海と歩く。
 みんなとは別行動を取り、光は何を話せばいいかわからず夏海はまたローファーと靴下を脱いで裸足になり、足首辺りまで波が浸かる。
 江ノ島を照らす夕日は眩しく、光は穏やかな気持ちで口にする。
「夕日が綺麗だね……風間さん」
「うん、朝霧君は……今、何を考えてた?」
「えっ? なにを話そうかなと思って考えてながら江ノ島の方を見たら……夕日が綺麗だなって」
 光は正直に言うと夏海は立ち止まり、勢いよく振り向いて長い黒髪が潮風になびく。
「私もね、何を話そうかな? って考えてた!」
 夏海は照れ臭そうにはにかんだ表情で微笑んで言う。
「わからないことだらけだよね、付き合うのって」
「うん、わからなくったって僕は風間さんが好きだから」
「うふふふふ! 朝霧君って夏は好き?」
 夏海は晴れやかな笑顔で訊いてくると、光はゆっくり強く頷いた。
「うん勿論! 太陽は暑くて眩しいし、ジメジメして汗まみれになるし、蝉は五月蝿いほど鳴くけど、僕にとって一年で一番特別な季節なんだ!」
「それ春菜ちゃんが聞いたら絶対笑うよ。クサい台詞だって!」
 夏海は江ノ島の太陽のように眩しい笑顔で言う、構うものか! 笑われたっていい、あるがままの自分を誤魔化すなんてできるものか! 夏海は「気持ちいい!」と二・三歩足を動かし、スカートの丈が濡れそうな所まで歩んで光に向き直った。

「けど、それが朝霧君のいいところだから!」

 美しく幻想的な夕暮れの江ノ島を背景に夏海は真夏の眩しい太陽のような笑みで叫んだ。光は頬を赤らめて見惚れてると、一際大きい波が派手に押し寄せて来て夏海をスカートどころか長い髪まで濡らした。
「きゃああっ!」
「風間さん! 大丈夫!?」
 光は水浸しになるのを構わず夏海のところに駆け寄ると、嘆く様子もなくおかしく笑う。
「あっはははははまた濡れちゃった! しょっぱい!」
 長い黒髪はしっとり濡れて肌やブラウスに引っ付き、水が滴り落ち、艶かしくも健康的で白い肌も透け、意外と豊満な乳房を包む水色のブラジャーがくっきり――マズイ! 光はすぐに前開きの上着を脱いでそれを夏海の肩から包むように羽織らせる。
「あ……朝霧君……どうしたの?」
「いや、その……下着」
「!? ヤダッ! 透けちゃってる……ありがとう」
 夏海はようやく気付き、顔をちょうど今の茜色の夕焼けのように赤くして両腕で胸を隠し、恥ずかしさを露にしながらも、か細い声で言った。
 光は全身の血がマグマのように煮え滾り、衝動が突き上げられて抑えきれず両腕で夏海を包むようのに抱き締めた。
「あ、朝霧君?」
 夏海は困惑しながらも細い両腕を背中に回す、この子はもう誰にも渡したくない。
 この夏が終わっても、秋が来ても、将来を考えないといけない冬も、受験に向けて勉強しなきゃいけない春も、そしてまたやってきた夏も、ずっとこの子と一緒にいたい。
「ごめん、風間さん……しばらくこうしてていい?」
「うん、朝霧君って……お日様みたいに温かいんだね」
 夏海は顔を上げ、宝石のように吸い込まれそうな瞳に真っ直ぐ見つめる。濡れた唇は妖しくも柔らかそうに潤んでる。その唇も、誰にも渡したくない……。
「二人とも! こんなところで海水浴はまだ早いよ!」
 二人だけの時間は終わりだと言わんばかりに春菜の声が響く、一緒に向くと道路に続く階段の上から叫んだ、よくもまぁ目もいいし声も通る。
 夏海はクスリと微笑み、光も苦笑する。
「今日はもう帰ろうか……楽しかったね」
「うん、明日も楽しい日にしよう」
 そして二人は手を繋いで旅館へ戻る。帰る間に春菜にいろいろと質問されたが明日は海水浴で夜は花火大会だ。夏海の水着姿や浴衣姿が今から楽しみだった。

君と見上げたい、たった一度の8月31日の夜空を。

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