サクラマチクマモト前の広場は飲食ブースがあり、ビア&ハイボールガーデンになっていてお祭りを楽しんでる若者達や家族連れに混じって会社帰りのサラリーマンやOL、年配のグループの人たちが即席の飲み会を開いて楽しんでいた。
 その中を夏海と素通りしようとした時、夏海は突然立ち止まった。
「どうしたの? 風間さん」
 光は怯える夏海の視線の先を見ると、テーブル席に大学生らしき男女数人と車椅子の老婆の隣に中年の男が談笑してる……中年の男は吹部の前顧問、笹野先生だ! 光は思わず驚愕する。
「あれまさか、笹野先生?」
「うん……卒業した先輩たちもいる」
 四月に母親の介護に専念するために学校を去った時は太っちょだったのに、たった四ヶ月程で痩せ細って頬も削げ落ち、体重も半分近く落ちたようにも見える。
 すると談笑していた女性が夏海に気付いて大きく手を振った。
「おっ! 風間じゃん! おーい風間!」
「あ……本渡(ほんど)先輩、お久しぶりです」
 夏海はどこか余所余所しい口調で恐る恐る歩み寄って一礼する。
「皆さんも……お久しぶりです。彼は友達の朝霧光君です」
 光は「こんばんは」と一礼する、夏海は挨拶もそこそこ済ませてこの場から離れたいようだ。

「久し振りじゃん! 卒業以来かな?」「連れの子ってもしかして彼氏? 付き合ってるの?」「吹部辞めてから心配してたんだよ」「今の吹部どうなってるかわかる?」

 テーブル席に座る笹野先生が人生にお疲れ気味の笑みで二人に座るよう促す。
「風間に朝霧君、こっちに座りなさい。ここで会ったのも何かの縁だ、ゆっくり話そう」
「は……はい」
 夏海は平静を装ってるが瞳の奥底では怯えてる、僕にできることは? 夏海の隣に座ってすぐに実行に移した。光は先輩や笹野先生たちが見えない、テーブルの下で夏海の左手を優しく包むように握った。
 夏海は驚愕の眼差しを向けるが、光は夏海に目で励ます。
 大丈夫、僕がいるから。はたして通じたかどうかは怪しいが何もしないよりはマシだ。すると男の先輩の一人が訊いた。
「あれ? もしかして風間、この朝霧君って子と付き合ってるの?」
「いいえ、今日は友達と六人で来たんですけど訳あってはぐれてしまったんです」
 光が代わりに答えると別の男の先輩が俯いてる夏海に馴れ馴れしく訊く。
「本当かい? はぐれたのはわざとじゃないの?」
「いいえ、綾瀬玲子先生を覚えてますか? あの人に見つかって逃げたんです、友達が囮になってくれました」
 光が毅然とした態度で言うと、笹野先生は酔ってるのか苦笑しながら説教するかのように振る舞う。
「いかんぞ! 先生と部活から逃げちゃ、風間お前聞いてるぞ! まだ部活に戻ってないなんて! いいか、一度入ったらどんなに厳しくても辛くても苦しくても、卒業まで頑張らないと! 卒業してからやってけないぞ! そうだよな母ちゃん!」
 笹野先生の母親はコクコクと微笑みながら首を二回縦に振る。
 光は唇を噛んで握る手に力が入らないように堪える。そんな古臭い精神論でこの子を壊したのが許せないという気持ちが滲み出て、いつ怒りが爆発してもおかしくなかった。
 偉そうに説教する笹野先生、俯いたままの夏海、光は顔を白くして見つめながら聞き流してるうちに笹野先生は眠そうな母親に気付いて腕時計を見る。
「さて、それじゃ俺はそろそろ帰って母ちゃんを寝かせないといかん。それじゃみんな、ゆっくり楽しめよ!」
 先輩たちが「はい」と控えめな返事すると笹野先生は立ち上がって、車椅子を押して雑踏の中に消えていった。
 笹野先生が席を外して一分前後は沈黙は流れたが、それを破ったのは本渡先輩で表情と肩の力を抜くと、表情が一変してかつての顧問を嘲笑する。
「みんな見た? あの笹野のガリガリに痩せてやつれた顔に精一杯見えを張ったお説教、あの巨匠気取りのパワハラ顧問の面影なんて一つも残ってなかったよね?」
 突然の手の平返しに光は驚き、夏海も同じなのか俯いた顔をようやく上げる。

「見た見た! あれ絶対介護疲れしてるって顔よ! ヤケクソ気味にビール四杯も飲んでたし!」「あれ絶対やけ酒よ! 帰りに無理心中するか首絞めて殺しちゃうんじゃない?」「うわぁ……絶対あり得るかも? もっと早く階段から転げ落ちてついでにボケてくれればよかったのに!」

 先輩たちは笹野先生を尊敬してる恩師だと思ってる様子もない。呆気に取られた夏海の代わりに、光は試しに訊いてみた。
「あの、皆さんは今、吹奏楽部や音楽のことどう思ってます?」
「どうって? 二度と楽器なんか触らねぇよ。コンクールの曲しか吹かせてくれなかったし! 音楽なんてもうくそ食らえだ!」
 少しワルっぽい男の先輩が忌々しげにジュースをイッキ飲みすると、もう一人の凛々しい感じの男の先輩が悲しげに首を縦に振る。
「そうそう馬鹿みたいだったよ。あの三年間のことはもうみんなで忘れようって……だいたいさ、一の喜びのために九九の苦しみを味わうなんて馬鹿らしいよね?」
 そう言って溜息吐くと、大人しそうな女の先輩が俯いて忌々しげに声を震えさせる。
「そうよ、あいつのせいで未だに吹奏楽のメロディを聞くと……あいつの罵声が蘇って体が震えるの……そしていつも思うの、もし吹奏楽部なんて入ってなかったら……あの時、風間さんと一緒にやめてたらと思うと」
市ノ瀬(いちのせ)さん、もう高校の頃を思い出すのはやめよう。今日ここで会ったのは初対面でたまたま同い年で意気投合したっことにね……一つ教えてくれる? 今の吹奏楽部――新しい顧問の先生どう?」
 本渡先輩が訊くと夏海はゆっくりと口を開いた。
「新任の柴谷先生……八千代ちゃんが言ってました。音楽の素晴らしさと楽しさを教え直してくれたって、吹奏楽部も明るくなってみんな心から笑ってるって……そう話していました」
「そうか、柴谷先生……もっと早く来て欲しかったな」 
 市之瀬先輩は声を震えさせながら頬に雫が流れた。

 広場を後にすると重苦しい雰囲気で二人っきりになる。さっきの先輩たちの話しで夏海は光に背中を見せ、俯いたままで訊いた。
「ねぇ……朝霧君、笹野先生が学校辞めた理由知ってるよね?」
「うん、お母さんが階段から転げ落ちて、足を骨折して介護が必要になったって」
「こんな噂聞いたことある? 誰かが笹野先生のお母さんを階段から突き落としたって」
「うん、確かアパートの階段から滑り落ちて骨折したって去年の丁度今頃――」
 確か転げ落ちたのは八月のちょうど今頃だった、まさか――光はふいに全身の毛が逆立つような感じがして、夏海が立ち止まった。
「そうよ、階段から突き落としたの実は……私なの」
 振り向いた夏海の表情は冷たい笑みに満ちていた。光はゾッと戦慄した瞬間、夏海は「ハッ!」と気付いたのか、首を横に振って悲しそうに微笑む。
「なんてね! ごめんなさい、一番言ってはいけない冗談だったね」
「……今のは聞かなかったことにするし、忘れるよ」
「ごめんね朝霧君……笹野先生のことはもう忘れるよ」
「それがいい」
 そうだ、みんなは大丈夫かな? 光は望や春菜にLINEメッセージを送ると、すぐに返事が来てみんな逃げ切ったという。
「風間さん、みんな大丈夫だって! 辛島公園で合流しようって!」
「うん」
 夏海は愛らしい微笑みで頷く、それだけで今日のお祭りは意義があった気がした。


 大神先生からなんとか逃げ切った花崎千秋は春菜に気持ちを伝えた辛島公園に戻る。
 光からLINEで合流しようとメッセージが来て夏海や望、冬花も無事に逃げ切ったらしい。
「無理……もう、走れない」
 春菜は汗だくになってよろよろと息を切らしながら重い足取りだ、千秋は周囲を見回しながら合流してみんなに訊く。
「みんな、あいつはもう追ってこない?」
「うん、もう大丈夫……こっちは柴谷先生が助けてくれたから」
 望が頷く。柴谷先生も来てたのか、千秋は浮世離れした音楽の先生の顔を思い浮かべる。
 春菜は「もう走りたくない」と半ベソかきながらついに力尽きたのか、その場で尻餅つくと光は近くの駐車場の自販機から買ってきたスポーツドリンクを手渡した。
「桜木さん、これ」
「ありがとう」
 春菜は礼を言って五〇〇ミリのスポーツドリンクを飲んで休む、冬花は楽しそうに夏海とお喋りしていて、千秋に気付くと大きく手を振る。
「――それでね、柴谷先生は……あっ、千秋ちゃん!」
「よかった、大丈夫だった?」
 夏海も安堵した表情で歩み寄ってくる。千秋はこの二人には感謝してもしきれない気持ちでいっぱいだ。淀みも、陰りも、偽りのない澄み切った微笑みで頷く二人を、力一杯抱き締めた。
「ええっ!? どうしたの千秋ちゃん!?」
 冬花は困惑し、夏海は唐突な出来事に飲み込めずに言葉が出ないようだ。だけど、この二人には本当に救われた、千秋は嬉しさと感謝の気持ちのあまり震えた声になる。
「冬花、背中を押してくれて本当にありがとう。素直な気持ち……ちゃんと伝えられたよ」
「……うん、よかった」
 千秋の気持ちを汲んだ冬花は片腕を背中に回して抱き締める。
「夏海……あの時一緒に青春しようって手を差し伸べて、友達になってくれて……本当にありがとう」
「あ、う……うん」
 ようやく気付いた夏海は温かい笑みで片腕を背中に回して千秋を抱き締めた。
 こんなにも温かい。ああこれが友情なのかもしれない、これが春菜の言う青春なんだ。春奈と友達になるどころか、それぞれ違った意味で強くて優しく、温かい心を持った二人の女の子とも友達になれたのだから。


「全く千秋は変なところで大胆でクサいんだから、でも好きよ」
 スポーツドリンクを一気飲みし。一息吐いた春奈は微笑みながら三人を見守る。
 望も安堵した表情で三人を見つめていた。
「冬花も俺たち以外の奴と仲良くなれてよかった……あいつも随分変わったよ」
「うん……なぁ望」
「ん? どうしたんだい光、そんな険しい顔して」
 別に深刻なことじゃない、花崎さんが勇気を見せたんだ。だから今度は――朝霧光は望を見つめて言い放った。
「今度は僕たちが勇気を見せる番だ」
「光……」
 望の表情は微かに動揺の表情を見せていた。