その頃、雪水冬花は望と小柄な体格を活かし、人混みの隙間という隙間を縫うように玲子先生から逃げていた。
「雪水さん! 如月君! おとなしく捕まりなさい!」
 玲子先生は人混みを強引に掻き分けて追いかけてくる、そうだ追いかけてこい! 玲子先生は当初、光と夏海を追いかけていたが、望が玲子先生を煽って注意を引いたのだ。
 捕まった時のことを考えると怖いけど、望君と一緒に逃げてるのが本当に楽しくて楽しくて、望君と目を合わせると同じ気持ちなのか微笑んでくれる。
「なんとか逃げられそうだね!」
 冬花は「うん!」と頷く。今が楽しくて楽しくてしょうがない。ああ、これが春菜ちゃんの言う青春なんだと思った瞬間、鉢合わせした人とぶつかりそうになる。
「うあっ! ごめんな――柴谷先生!?」
「やぁ雪水さんに、如月君だねこんばんは。そんなに慌ててどうしたの?」
 柴谷先生だ! どうしよう! 完全に挟み撃ちにされて冬花は動揺を露にする。
「ああ、あの……あたしたち……その――」
「柴谷先生! 玲子先生ったら酷いんですよ! 僕達がみんなで仲良くお祭りを楽しんで青春を謳歌してたら、言い掛りつけて追いかけてくるんですよ!」
 望の言うことは確かに間違ってないが言うのはマズイ! ちょっと望君! 柴谷先生首を傾げてるけど相手も先生だよ! 冬花は交互に柴谷先生と迫ってくる玲子先生の二人に顔を向ける間、玲子先生が息を切らしながら勝利を確信した表情で追い付いてきた。
「そこまでよ如月君に雪水さん、もう逃げられないわ!」
「綾瀬先生、この二人は私が捕まえましたので責任持って指導しておきますね」
 柴谷先生はにこやかな表情で言うと、玲子先生の表情は一変して呆然とした表情となって立ち尽くして柴谷先生を見つめていた。

 柴谷先生に連れられ、下通にあるコーヒーチェーン店でジュースを御馳走してもらった。
「すまないな、玲子先生は丁度君たちくらいの頃に大失恋してずっと引きずってるみたいなんだ」
「柴谷先生……なんかお説教というか……指導する様子じゃない……みたいですね」
 望はお洒落なコーヒーチェーン店に連れて行かれ、おまけにジュースを奢ってもらう状況に困惑してる様子だ。一方冬花は以前、音楽準備室で紅茶を御馳走してもらったことがあるからすっかり柴谷先生を信頼していた。
「柴谷先生はこのお店よく来るんですか?」
「本当は銀座通りのホテル横にある紅茶の喫茶店に招待したかったんだけど……あいにく夜は営業してなくてね」
「えっ? もしかして風間さんが教えてくれたあの銀座通りの紅茶屋さんですか?」
 望は食いついたかのように訊くと、柴谷先生も少し嬉しそうに頷く。
「そう、僕も今の君たちくらいの頃……家内の親友が教えてくれたんだ」
「柴谷先生の奥さんって、高校時代に知り合ったんですか?」
 冬花は結婚相手が高校の頃から同級生というのもロマンチックだと思いながら訊くと、柴谷先生は感慨深そうに首を横に振って言う。
「ううん、小さい頃からの幼馴染みでね……喧嘩したりぶつかり合ったこともあったけど、いつも一緒だった……今までも、そしてこれからも」
「幼馴染み……」
 冬花は思わず呟いて隣に座ってる望と意図せず目が合う。柴谷先生はコーヒーカップに視線を落とした。
「僕と家内に二人の友達がいなかったら……結ばれなかった。ああそうだ、惚気話するためじゃなかったね。雪水さん、風間さんはどうしてる? 守屋さんたちに戻ってくるように迫られてない?」
「実はさっきまで一緒だったんですけど……玲子先生と大神先生から逃げる時に散り散りになりましたので……でも今日まで夏休みをちゃんと夏休みして楽しんでました」
「それならよかった……吹奏楽部も夕方から練習を切り上げたからね」
 柴谷先生は安堵した表情でコーヒーを口に運ぶ、すると望は意を決した表情で訊いた。
「ということは吹奏楽部の人たち来てるんですね」
「うん、でも大丈夫……僕の方からも無理に引き戻さないように言ってる……それに、風間さんは一人じゃない……そうだよね? 雪水さん」
 柴谷先生は確信した眼差しと笑顔で冬花を見つめると、胸を張って頷いた。
「はい! 夏海ちゃんはあたしたちの友達ですから!」
 そう言って冬花は望と目を合わせて微笑むを交わす、だけどいつもより――微かに陰りのようなものが見え隠れしていてこんなことを訊いた。
「あの……柴谷先生って高校の頃、どうだったんですか?」
 もしかすると望君は柴谷先生の奥さん――幼馴染みのことが聞きたいのかもしれない、柴谷先生はカップを持ち、半分になったコーヒーを見下ろしながら懐かしそうに話し始める。
「そうだね、知っていると思うけど僕も細高の卒業生でね。僕がいた頃は今では信じられないくらい、厳しい――いや、歪で時代に取り残された学校で、今で言うなら自称進学校でブラック校則が蔓延していたよ」
「なんか先生の言うことじゃないですね」
 望は苦笑いすると柴谷先生も同じように頷いた。
「それで僕たちは先生達を出し抜いて、大人たちの手の届かない外に居場所を探して、欺いたり、時には一歩間違えれば退学になるようなことに手を染めていた……君たちの言う夏休みをちゃんと夏休みするように、僕たちは青春時代をちゃんと青春時代するってね」
「あたしたちと同じですね」
 冬花は親近感を感じながら微笑み、柴谷先生は柔和な笑みを見せると次の瞬間にスマホの着信音が鳴って冬花はそれを取り出す。春菜からで千秋と一緒に振り切ったという。
 柴谷先生は憂い気な表情で言う。
「スマホか……生き辛い世の中になったものだな」
「えっ? とても便利なのに?」
 冬花は首を傾げる、柴谷先生は徐々に険しい表情に変わる。
「便利だからこそ恐ろしい、だから僕は未だに携帯を使い続けてる」
 柴谷先生はポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出して見せる、所々塗装が剥げ、細かい傷だらけだ。柴谷先生は視線を冬花のスマホに向けながら呟く。
「僕が吹奏楽部の顧問になって一つみんなにルールを与えた。大事な話をする時はネットやSNSではなく直接会って話すようにってね。確かに便利だが、言葉は伝わっても心は伝えられない……それに見られたくないものを、見て欲しくない人に見られてる可能性が大きい……この前桜木さんがSNSに上げた夏休みの宿題やテニス部復帰に×印を付けた投稿もね」
「やっぱりバレてたんですね」
 実際あの時、冬花も喫茶店で夏休みの宿題に×印つけてそれが親にバレて小一時間ウダウダ言われたのを思い出す。
「そういえばうちのクラスの女子や、冬花も話してたんですけど……親や先生に自分のアカウントを見られてて気持ち悪いって話してました」
 望の言う通りだ。冬花も何気ないことをSNSに投稿したら両親に見られてたことを知った時、想像以上に身の毛もよだつ寒気を感じた。柴谷先生は小さく首を縦に振る。
「そう、元来SNSというのはそういうものだ。極端な話、今はお互いがお互いを監視し合う……相互監視社会――ジョージ・オーウェルもきっと驚くだろう」
「ジョージ・オーウェル?」
 望は首を傾げながらスマホを取り出す、ググって調べてるのだろう。
 ショージ・オーウェル? どこかで……あっ! 音楽準備室で見た! 記憶を辿ると夏休み前に音楽準備に置いてあったのを思い出して訊く。
「もしかして先生の好きな作家さん?」
「うん、僕の敬愛するイギリスの小説家だ。この夏休みに監視社会の恐怖を描いたディストピア小説『1984年』を読んでみるといい……それと如月君、電子書籍ではなく紙の本で読むことをおすすめするよ」
 柴谷先生がにこやかな黒い笑みで言うと、望は気まずそうにスマホを動かす手を止めた。まだTSUTAYA書店開いてるかな?