ある日、僕は清美と街へ出た。腕を組んで街に出た。
「風は流れる…」
「えっ?」
「見たい?」
清美は止まっている一台のバスを指した。
それはバスの側面に描かれた芝居の広告だった。
「風は流れ、海は漂う。どこかで聞いたな、こんな詩」
ふと思う。僕はただ眠っているだけなのかも、と。目をつぶり、あの地蔵に少し似たような顔をして…。あの荒い砂でできたような地蔵。清美に似た地蔵。悟りながらもどこかに希望を捨てずにいる、そんな表情…。
あの日に戻りたい…。そんな陳腐なこと思っていたわけじゃない。海に膝までつかり、ダイチって何だろって思ったあの頃まで戻れたら、回し過ぎて弾け跳んだバネが元に戻るかも、なんてそんな甘いことを思ってたわけじゃない。
なぜなら…僕は「洒落た」ってのが好きなんだ。日常の中の軽さ。楽と快。隠しストライプの絹入りスーツ。タイのブランドだって決めている。あくせくすることはない。比較的楽な仕事で楽に金も手に入る。
いつかクレイジーな男が、片手で僕を指し、片手で天を指し、おまえらがのさばってるからこの世が駄目になるんだ、緊張感がないんだ、と怒鳴った。まあまあそんなに怒らずに、僕は思った。今の世界で傷つかずに生きること、それは傍観者に徹すること。それが出来れば生きられる。ダメージ受けず、生きられる。ビージー養殖能力は傍観者に組み込まれた優れ物なのかもしれない。
「リュウ」
「ん?」
「さよならだ」
「仕事に行くのかい?」
「ちがう。さよならなんだ」
僕は驚いた。それはあまりに突然だった。
「リュウはね、ナルシストだっていいんだけど、自分にも人にもイメージだけ転がし、楽しんでる。人と人が一緒にいるってそんなもんじゃないはずだよね。でも何を言ってもわからない」
僕は清美を見た。真実か、事実か…。どちらにしても僕は認めたくなかった。
「いつリュウの前から消えようかってずっと考えてた。覚えてる? あの日、リュウが声をかけてきた日。ハンサムな男がどうしようもなく醜い女に声をかけた、そんなイメージを持ってたよね。でも違う。確かにリュウはそれなりの風情で歩いてきた。でも私には見えたんだ。雨に濡れた拠り所のないちっぽけな動物が小さな尻尾を垂れて足元にやってきたのがね。リュウは救いを求めてた。自分でガチガチに作り上げたイメージから抜け出る救いをね。でもね、救済者にはなれないよ。子犬でも抱き上げると、その鼓動が聞こえる。自分以外の存在を愛することを知ってる。でもリュウは知らない。だからあたし、救済者にはなれない。私は海に立ってたお地蔵さんでもなけりゃ、ビージーをやっつけるつわものでもない。でも、今まで離れられなかった。だって雨の日に拾った仔犬、震えている仔犬捨てられないよ」
僕はうなだれた。まさに仔犬のようにうなだれた。清美は軽く僕の手を握り、僕を少しの間見つめた後、背を向け、ゆっくり歩き始めた。僕には止める言葉もない。
清美! 叫びたいが叫べない。去っていく清美の四角い後ろ姿。
その時ふっと空気が揺らいだ……? そして清美の後ろ姿のちょうど耳の高さのあたりをすっと何かが横切ったように思った。
涙か、と思ったが、涙は出ていなかった。
今までも清美といるときに何度か揺らいでいたその存在。それは小さな半透明の輪だった。目をこすってみたり、メガネのときはメガネを拭いてみたりした。清美に言うたび、清美の肩に少しだけ力が入るのがわかった。見えるんだ、リュウに見えるんだね、一度だけ、彼女は小さい目を見開き、そう言った。
もしも私がいなくなって、またそんな輪が見えたとしたら、触ってごらん。リュウの心が静かだったら、触ってごらん。危険じゃないから。少し前に清美が言った言葉だった。
見えたよ、どうすればいい? そう言って清美を引きとめたかった。けれど、清美の何一つ飾り気のない潔い後ろ姿に、僕は何も言えなかった。
僕はただただ駆けていって尻尾を振りたかった。
どれだけ時が過ぎただろう。街でいつも清美を探した。道路工事があるところでは胸が高鳴った。建築現場のヘルメットの中にも清美を探した。駐車場でもだ。
ネットに埋もれた情報もくまなく探した。もともと僕は情報のプロだ。得れない情報なんてないはずだ。
けれど、清美は消えてしまった。
いつか小説家になってテレビにでも出てくれないか、と願った。ほんの少しだけ洗練された清美が相変わらずの無表情で、けれど質問には答えていく。新刊の本について答えていく。
けれども現実は、よくあるドラマの脚本のように最後に主人公の一人が有名になってもう一人を語る、という結末にはならなかった。
清美は消えた。
清美は小説が書けたのだろうか。清美は今、どこで、どんな仕事をしているのだろう。僕には想像できない。僕が清美といたときは、自分の気持ちの分析に忙しく、清美のことを知ろうとしなかった。
あるとき立ち寄った本屋で何気なく新刊の帯が目に入った。タイトルはアンディ183号。帯に書かれたのは
『全く183号には手をやいた。アンドロイドの特徴をうまく隠していたからだ。183号は極々普通に生活し、人間と同じようにセックスもした。海にノスタルジックな思いをはせたりもしたが、そんなのはほんのたまのこと、たいては洒落のめして街を歩いた。』
どきりとした。僕はひどくどきりとした。
裏の作者の言葉のところにはこうあった。
この作品に特にモデルはいません。そうは思わない人がいるかもしれませんが、決してその人がモデルではないのです。けれど、もしいるとしたら、その人は少し変わっていて、自分がひどくルックスいいと思いこんでいるでしょう。そしてそれゆえ、自分は中身が空っぽで血が薄く、やる気がないのだ、と思っているでしょう。つまり、少し愚かで哀しい人なのです。
作者は山路兼三郎とあった。
カバーの裏に写真があった。顎鬚を生やした男だ。長い間、僕は本を手に動かけなかった。店のアルバイトの子が、声をかけた。「確か、日曜日に、4丁目の書店でサイン会があるはずですよ」
購入したばかりの「アンディ183号」を近くのカフェで読んだ。内容は心理描写が細かいSFものとでも言おうか、一体のアンドロイドの冒険談だ。風変わりだが、さほど目新しくはない。本の帯以上に清美と作品のつながり、僕と作品のつながりは感じられなかった。
その夜、帯に書いてあった文章がどうにも頭を離れなかった。
日曜日、僕はサイン会場へ向かった。実物の山路兼三郎はやはり清美とは似ても似つかない男だった。髭を生していて、男としては美形の部類だった。
僕の番が来た時、男は営業用の微笑みを浮かべ、名前は?と言ったので、清美に、と僕は答えた。どんな字ですか?と男は聞いた。
僕は、山路さんは清美という女性を知ってますか? 山路さんの本が清美という女性を思い出させたので、と言うと、名字は?と聞く。僕は清美の名字を告げた。山路は首を傾げたが、僕をしばらく見つめ、ははん、というようにうなづいた。
「あなたで28人目ですよ」
「えっ?」
「自分がモデルじゃないかって思った人が」
「はあ」
「多分、その清美さん、とかがあなたの秘密を知っているのですね」
「秘密ですか?」
「この本の主人公とあなたの共通点をですよ」
「実を言うと…中身より、特にこの帯の文章が気になりました」
山路は、口を少し歪めて微笑み、サインした本を僕に渡して言った。「あなただけじゃないですよ」
「お次の方どうぞ」 横に立っているアシスタントの女性が甲高い声を出した。
28人目か…。
僕のような男は結構多いのだ。彼らはこの帯を読んで、自分がモデルなのではと思い、内心、驚きと興奮を感じるのだろう。
そしてまた時は過ぎていった。
僕は悟った。清美は本当に消えたのだ。その頃になると、なぜか奇妙な安らぎすら感じるようになっていた。決して戻らない日々のことを写真を見ながら思い返す、そんな気分になれた。
雨の中で誘導棒を振っていた清美。僕と真逆の存在だった清美。短い間にしても、僕はその存在を間近で見て、触れることができた。そのことに感謝しよう。そうだ、そのことに感謝しよう。愚かで哀しい人間に、愚かで哀しい人間だと気づかせてくれた、そのことを感謝しよう。
あれ以来、輪は時々見えるような気もしたが、心の揺れに目を閉じると見えなくなった。
大丈夫か…。僕は思った。心の迷いが輪となって具現化して見えるのか。自分は病んでいるのだろうか。
ある日、混みあったカフェに入った。空いているテーブルは見当たらなかった。
「ここ、空いてますよ」声がした。
それは隅のテーブルで、スカーフを髪に巻いた人物が手で自分の前の席を指していた。普段は相席は好まないが、その日はひどく疲れていたし、一時も早くコーヒーをすすりたかった。
「あ、すみません。ありがとうございます」 僕はひどく丁寧に言い、背中をかがめるようにして小さな椅子に座った。
スカーフの人物は軽い微笑みを浮かべてすわっていた。スカーフは小さな動物の柄が規則性なくプリントされていた。熊か、ウォンバットか…。
「ここはね、オージーサンドがおいしいんですよ」
メニューを差し出す仕草が限りなく静かで優しかった。
そのあとはどちらも話さなかった。僕は少し口を開けて焦点のずれた目をしてぼんやりすわっていたと思う。コーヒーを2杯をかなりのスピードで飲み干し、それについてきた小さなスコーンらしきものを一口で飲み込んだ。
深くため息をつき、目をつぶっていると、スカーフの人物が言った。
「あなたね、気が向いたら、このお店に行ってみるといいわ。おいしいコーヒーが飲めるわ。それとひょっとしたら、あなたが求めてるものが見つけられるかも」
その声は深いテナーだった。
「僕はずっとある人を探しているんです」
「そうね。きっとそうでしょう」
僕は男性に見えるが優し気で女の服をまとったその人物を見つめた。顔立ちは全く違うが清美と重なって見えた。彼女は僕の心が読める、そう感じた。
「相席ありがとうございました」お礼をいい外へ出た僕はカードを見た。
カフェ ハーヴィ
オフホワイトの紙に珈琲色の文字で印刷されていた。
場所は僕が降りたことのない、確か各停しか止まらぬ駅のそばだった。