どこにでもありそうなウッディな雰囲気で統一された店だった。荘介は奥まったテーブルを選んですわった。かなり大きな金魚鉢が角のテーブルに置いてあった。中には水草しか見えない。

 真由子のマンションに初めて泊まった夜、暗い部屋で熱帯魚の水槽だけが輝いていた。

 明るく透明感のある水槽がひどく輝いて見えた。それは真由子との関係を象徴しているように思えた。良美とのマンションの玄関脇に置かれた餌のこびりついた水槽の中で、どこか不格好に泳ぐ金魚に比べ、真由子の熱帯魚はキラキラと尾を揺らめかせ、美しかった。

 けれど真由子は育てていたのではなく、飾っていたのだ。サービス期間だけ水槽ごとレンタルしていたと後で知った。
 
 飾っていた…か。育てるのではなく飾る…。

 自分だ。真由子を責める資格はない。自分もそうだ。愛情を持って家庭を育てる。子供を育てる。妻との愛情を育てる。真由子との生活を育てる。自分は全てに失敗した。飾り物に目がくらみ、育てるのに失敗した。

 荘介がぼんやり金魚鉢を見つめていると、カランカランとドアが開いた。

 逆光を受け、譲二が入ってきた。譲二はすぐに荘介を見つけ、少し頭を下げ、荘介の前にすわった。

「ほんとにいい天気だったなあ」

 譲二がすわるなり、荘介は言った。沈黙が恐かった。

「うん。天気予報が違ってよかった」

 譲二は答えたが、笑顔ではなかった。緊張したようなどこか顔の一部が痺れているかのような不自然な表情だった。

「何にする?」

「コーヒー…かな」

「コーヒー飲むのか」

「飲むよ」

 譲二は小声で言った。目は伏せたままで、首を傾け肩を上げてすとんと下ろした。小さい頃から緊張するとよくやっていた仕草だ。

「今日は呼んでくれてありがとう。父さん、嬉しかったぞ」

「うん…」

 譲二は少し顎を上げ、荘介と目を合わせた。

 体重が増え、顔がふっくらしたからか、以前より目が寄って見えた。睫毛の濃い目を神経質そうにパチパチさせる譲二を見ていると、どことなく狸に似ていると思った。以前、良美と行ったペンションの山道でとび出してきてライトにあたってびっくりした狸に。

 久しぶりに息子に会って思うことか…。荘介も気がつくと肩を上げてはすとんと下ろしていた。それにしてもあの時一瞬見えたウォンバットのような顔…。あれはなんだったのか…。深い焦げ茶色の毛に埋まった小さな黒豆のような目。自分の心の揺らぎが見せた一瞬の幻だったのか。

 譲二はそんな荘介をしばらく見ていたが、「この席さ、よく来るんだ。友達と」と視線を合わせず言った。

「ふーん。そうなのか」

「その子といつ来てもなんとなくここにすわるんだ」

「いつ来ても…って、そんなに何度も来てるのか」

 まだ、中学生だろ、出かけた言葉をのみこんだ。

「うん。塾のある日はさ、母さん、ここで食べなさいって」

 そうか。そういうわけか。

 譲二と顔なじみらしきマスターがやってきたが、コーヒーお願いします、と言う譲二に続いて同じものをと荘介が言うと、わかりました、と譲二に微笑んで、荘助をチラリと見た。視線の鋭い男だった。半分ほど白髪になっているが、まだ若いだろう。少なくとも自分よりは。荘助は思った。

「普段は自分で作って食べるんだけどさ、塾の日は時間がないから。ここのドリアうまいんだ」

「自分で作るって、料理好きなのか、譲二は?」

「ま…まあね」

「母さんが作ってくれるだろ」

 譲二はそれには答えなかった。

「で、その一緒に来る子ってガールフレンドかい?」

 荘介は真面目すぎず、茶化しすぎず、聞いた。

「うん…まあね。水泳部なんだ。いつまででも潜ってられる。だから、人魚って言われてる。ほんとはアルパカに似てるんだけどね」

 譲二は笑った。あたたかい笑い声だった。そして荘助を見た。僕がウォンバットに似てるみたいにね、そんな譲二の声が聞こえた気がした。

「二人三脚組んだ子かい?」

「えっ? ああ、あの子は違うよ」

 そう言って、譲二は額を掻いた。そのまま髪に手を入れ、しゃりしゃりと頭も掻く。その音に、荘介は少し苛立った。一体何のために譲二は自分を呼んだんだ。

「高校決めたのか?」

「うん、まあね」

 譲二はそう言い、受験校の中でも難易度の高い高校の名をあげた。入れるのか?驚きの声をあげそうになったが、「すごいな。譲二は父さんよりずっと頭がいいんだな」と、嬉しそうに声を出し、それ以上は聞かなかった。

「父さん、今日はありがとう。父さんにいつ会ったらいいかなって思ったとき、やっぱ運動会だろって思ったんだ」

「そうか…」

「僕さ、ずっと父さんに会わなきゃって思ってたんだ」

 譲二の真剣な眼差しに、荘介はできるだけ軽く、どうしてかな?というように視線を返した。

「…でも…会ったら、もっとにこやかにすらすら言おうって、何度も頭の中でシュミレートしてたのにうまくいかない…」

 譲二は自分に対してつぶやくように言い、小さく頭を振った。

「どんなことでも言ってごらん」

「ルーザーにはならない」

「えっ?」

「父さん、僕が小さい頃、何かあると言ってただろ。ルーザーにはなっちゃだめだって」
                        
 ルーザーか…。そういえば、そんなことを言っていた…。

「Don't be a loser」 英語弁論大会での荘介のスピーチのタイトルだった。何を書いたのか、はっきりは覚えていないが、人間には二種類ある、ルーザーかファイターかで、ファイターであることを止めたとき、ルーザーになる、だからじっとしていては駄目なんだ、努力を続けるべきなんだ、ルーザーであってはいけない、努力をストップしてはいけない、そんな内容だった。ちと観念的すぎるな、英会話部の教師が言った。

「そう言えば言ってたかもしれないな」

「うん、しょっちゅうね。運動会のときも、譲二、ルーザーになっちゃだめだぞ、頑張れ!頑張ればいいんだ。だめだと思って立ち止まる、そしたらルーザーだぞ、ビリでもいい、最後まで走れ、そしたら勝ちだ。自分に勝つんだ。相手なんかどうでもいい。自分に勝てって…。あの頃はよくわからなかったよ、父さんの言うことが。でも今ではわかる。わかるようになったよ」

 譲二は今はしっかりと荘介を見ていた。目の形は荘介に似ているが、瞳のもつ陽気さは母親似だ。パッと見には母親の目とは似ていないが、荘介を見つめる瞳の陰りのない明るさは、まぎれもなく良美のものだった。

「譲二、大きくなったんだな。そんなにしっかり考えるようになったのか…」

「うん…。でも…父さんがいなくなって、僕さ、少しぐれたんだよ。小学六年でどうぐれるんだって思うだろ。でも十分、りっぱにぐれたよ。…タバコも吸ったし、行っちゃいけないって言われるとこにもいっぱい行った。毎日毎日さ。自分でもどうでもよくなってさ、なんだか、何をしても駄目だ…みたいなそんな気がして…。でも、ある時さ、父さんの声が聞こえてきたんだ。Don't be a loser っていうあれだよ。日本語では「負け犬になるな」だろ。でも Don't be a loser ってのはすごくカッコイイんだよな。変だろ。父さんがいなくなってぐれてんのに、父さんの声が聞こえて立ち直るってのもさ」

 真摯な真剣さで譲二は続けた。

「そうなんだよ。父さんのその言葉思い出して、止めたんだ。ぐれてみるってのをね。それから、どうしたらルーザーにならなくてすむか考えた。僕なりにね。父さんの言ってた自分に勝つって何かなって…。それでさ、まず自分を責めるのをやめるって決めたんだ」

「自分を責めるって…何責めるんだ?」

「…僕のせいだ…って思ったんだ」

「何が?」

「母さん、いい母さんだったろ。父さんに対してもいつもすごく優しい母さんだったよね。だから、父さんが家を出る、家に魅力がなくなるってのは僕のせいだって思った。もちろん理屈ではわかるさ、父さんは女の人のために家を出たんだって。直接の理由はそうでもさ、僕小さい頃からずっと感じてたんだ。僕は父さんをがっかりさせてるんじゃないかって」

 荘介は息をのんだ。譲二に見破られていたのだ。今日だって、荘介は久々に見た譲二に自分勝手にがっかりしたのだ。譲二は気づいていた。小さい頃からずっと気づいていたのだ。荘介の気持ちを見抜いていたのだ。

「だけどやめたんだ。どうしたらルーザーにならなくてすむかって考えて止めたんだ。父さんが英語なら僕も英語だ。僕はまずポジティヴにって思った。もっと前向きに気楽にって。そしたら、ほんとに気が楽になった。しばらくかかったけどね。嫌なことの中にもポジティヴなこと、いいこと探そうって思った」

 マスターがコーヒーを二つ持ってきて置いた。譲二の前にはクッキーが数枚のった皿も置いた。

「僕、思ったんだ。父さんが出ていった…。嫌われるのを怖れてた父さんがいないってことだ。それならそれでいいじゃないか。父さんが出てったとしてもそれは僕のせいじゃない。僕は僕らしくいればいい」

 うん…。

「ほんとうに、僕までぐれたら、母さん、可哀相だ。母さんは無条件なんだ。父さんがいなくなっても母さん優しくてさ。母さんは無条件に…」

 無条件に自分を愛してくれる。自分を受け入れてくれる。譲二はそう言いたいのだ。父さんと違ってさ、と。

「元気かい、母さんは?」

「うん、元気だよ」

 譲二はそれだけ言い、しばらくどうしようかと考えているようだった。

「ある晩、ふと起きてキッチンのぞくと、母さんがテーブルの一点見つめて坐ってたんだ。テーブルには一本、ビンに入ったカクテルがあってさ。ほら、カクテルバーとかってシリーズのあれさ。メロン色だったから、何なのかな。酒に弱い母さんだから、半分しか飲んでないのにもうかなり酔ってるんだ。その母さんが僕の手をとって言うんだ。ジョウジィ、細かいこと気にしちゃ駄目、図太く生きるのよ。そう、図太く、ってそう母さん言ったんだ。ずぶとく。母さんはその言葉、ずっと自分に言い聞かせて頑張ってきたんじゃないかな。いい言葉だって思った。すごくいい言葉だって」

「図太く…か」

「うん…。父さんのDon't be a loser ってスマートさはないけど、すごくいい言葉だって思った。その日から父さんのDon't be a loserって言葉を思い出すたび、「ずぶとく」って言った母さんを思ってさ。母さんの「ずぶとく」にはなんだか凄いパワーがあるんだ。……祈りかな」

「祈り…か…」

「うん、僕の中にも母さんへの無条件の何かがあるって感じて、そしたら、僕の中からこだわりが消えた。父さんの「ルーザーになるな」にはないパワーってのにそのとき気づいたんだ。そしたら、僕の中で重要なことの順番が変った。父さんに気に入られなくたっていいじゃないか。父さんが気に入ってくれなかったって大した問題じゃない、って心から思えるようになった。だから、ここ数年はね、何でも一生懸命にやってきたよ。びくびくせず思いっきり。図太くね。結構きつかったし、何度もやめようかと思ったけど。でも…少しずつだけど、毎日が少しずつ素敵になった」 

 そこまで言うと譲二は大きく息を吐いた。緊張していたのか、肩を小さく上げ下げした。   
                                 
 荘介は譲二を見つめ、微笑もうとした。しかし顔の表面がぴくぴくしただけだった。

 中学三年、十五才の子がこんなにも必死に自分の心を語らなけれぱならないのは自分のせいなのだ。自分を責めながらも荘介は息子の成長に目を見張った。早く話だけ聞いて帰りたいと思っていた自分の横っつらを張り倒したくなった。

「そうなんだ、父さん。少しずつだけど素敵なことが起きてきた。すごくゆっくりだったけど…。人魚とも友達になれたし、盆踊り大会で優勝したり、アイデアコンクールで一等とったり、くだんないことだろうけど、僕にとっては快挙なんだ。母さんのずぶとくって言葉を聞く前の僕だったら、考えもしないことだよ。今日の運動会だって、前の僕だったらチビだし、一等取れないから格好悪いって、父さんに来てもらうなんて考えもしなかったと思うよ。でもだからこそ今日は父さんに来てもらいたかったんだ。どうしてもね。以前なら、格好悪い自分見せるの嫌だったよ。今日の運動会での僕、前だったらきっとかっこ悪い、恥ずかしいって父さんに見てもらいたくなかったと思うよ」

「かっこ悪くなんかなかったぞ。二人三脚なんかなかなかのもんだったぞ」

 口ごもったように言う荘介を譲二は静かな目をして見ていた。もうさほど緊張しているようにも見えなかった。ただその目は少しだけ潤んで見えた。

「いいんだよ。父さん、無理しなくても。もう父さんの知ってる僕じゃないんだ。だから今日は父さんに来て話を聞いてもらいたかった。来てもらって、僕は今の自分をちっともかっこ悪いと思ってないってこと、父さんが僕のこと気に入らなくても仕方がないってこと、はっきり言っておきたかったんだ。…父さん、僕はね、父さんの前ではいつも父さんの理想の子でいたかったよ。父さんかっこよくて、自慢のパパだったからね。だから父さんの前ではいつもびくついて本心を言ったことがなかった気がする。だから一度でいいから、父さんに本当に思っていることを自分の言葉で言いたいって思った。そうすることが僕にとっては父さんのいうルーザーにならないことだって思ったんだ。もしそれが、父さんのいうルーザーになるな、と意味が違っても仕方がないよ。僕は僕なりにルーザーにならないことで、応援してくれた父さんに返すしかない」 

 うん、うん、荘介は声に出さずに頷いた。

「だから、言うよ。父さん言うよ。僕は僕なりに一生懸命生きてるんだ。だから父さんが僕のこと気に入らなくても僕のせいじゃない。僕がかっこよく一等取れなくっても、そんなの問題じゃない。僕は僕なんだから。体裁なんか気にして努力やめたら、それってルーザーだ。僕はルーザーにはならないよ。父さんが出ていったって、ルーザーにはならないよ」

「すまない…すまない…」

 荘介は涙が出そうになるのを抑え、下を向いた。

「父さん、僕、ちょっと前までは父さんに感謝してたんだ」

 感謝?
 
「大人のことはまだ僕にはわからないよ。ただ、母さんは、父さんが譲二の父さんであることは変わりない、だから譲二が困らないようにって、それはきっちり考えてくれてるのよって、いつも言うんだ」

「母さんが…そう言うのかい?」

「うん。母さん働き出したときもさ、母さんが働くのはね、自分に甘えちゃいけないからなのって。父さんがちゃんと困らないようにしてくれてる。でも、父さんには父さんの生活があるし、いつまでも甘えてちゃいられないわねって。おじいちゃんのスーパーが倒産してからは母さん、危機感っての持っててさ」

「倒産…したのかい?」

「うん。父さんが出てった翌年だよ」

 荘介は言葉を失った。良美は…どうやって生活して来たのだ。

「父さんがお給料ほとんど全額送ってくれるのって、母さん、ずっと言ってきた。だから、父さんが出ていったの最初つらかったけど、父さんも出来る限りやってくれてるんだろうって思ってた」

「……」

「でも、父さん。最近では僕もさすがにわかるよ。父さんがお給料のほとんど送ってくれてるんなら、母さん、あんなに朝から晩まで働くことないだろうって。父さんが…僕のこと、考えてくれるんなら、会いに来なくても、手紙でも電話でも、何でもいいから、忘れてないぞって言う方法はあるだろうって。母さんは僕のために、父さんのために嘘をついてたんだなって今ならわかるよ」

 …すまない……。

 荘介はどうにも顔を上げられなかったが、出来るだけ譲二を見ようとして、譲二と自分の間の空間を見た。

「僕も母さんもしっかり前に進むには、とにかく会って自分の気持ちを父さんに伝えなきゃって思ったんだ」

「…うん、わかった。譲二の言うことよくわかった。父さんは譲二のことプラウドだよ。すごく成長したんだな。父さんが知らないうちに」

 荘介は早口でうなづきながら言ったが、自分の言葉がどうにも虚しかった。ライトに当たって逃げ出さなければいけない狸は自分なのだ。

 言うべきことを言い終えた譲二は、コーヒーカップに手を伸ばした。

 話し終わるのを待っていたのか、マスターが空になったグラスに水を入れに来た。

「マスター、おいしいね、このコーヒー。マスターが仕入れた何とか農園のコーヒーってやつ?」

 そう言う譲二にマスターはにこやかに頷いたが、荘介を見る視線は鋭かった。

 そのあと、二人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。どちらも、ほとんど話さなかった。ただただ、コーヒーをゆっくり飲んだ。

 カップが空になると、譲二は真っ直ぐに荘介を見た。

「父さん。今までかっこいいことだけ言ったけど、今からはちょっと違うことも言うね。父さん、僕はアル中になりかけてるんだ。母さんの買ったアルコール飲料、母さんの代わりに全部飲まなきゃって気になって。母さん、飲めないのに無理して飲んで、ベッドにいく前に倒れてたりするから。捨てればいいんだろうけど、母さんの代わりに自分が全部飲んでやるって気になってさ。そしたら、どんどん飲めて、顔も赤くならなくって。自分はアルコール飲める体質なんだって知った。母さん、もう買ってこないけど、自分で買って飲んでしまう。あと…さ…父さん…今日見えたよね」

「えっ?」

「僕が見えたよね。僕が一瞬、見えたよね。人ってさ、時々、いつもは見えないものが見えるんだ」

「じゃ…父さんが…狂ってたわけじゃないんだ」

「違うよ。ただ、父さんの感覚がとても研ぎ澄まされてる状態だったんじゃないかな」

「譲二みたいな子は結構いるのかい?」

「子だけじゃないくて大人もいるよ」

 荘助の頭にいくつもの疑問がボール球のように弾け合い、ぶつかり合いった。

「じゃ!」

 そう言い、譲二は立ち上がった。荘介も立ち上がった。

 荘介より二十センチは低いだろう譲二が大きく見えた。いや、自分が小さくなったのだ。

「今日は来てくれてありがとう」

 譲二は言った。

 立場が逆転していた。譲二の方が人間が大きい。のんびり者で愚鈍ですらあると思ってきた譲二の方が、ずっと大きい。のんびり者じゃなかったんだ。愚鈍じゃなかったんだ。器が大きいんだ。これから、大きな大きな人間になっていく強さを持っている。幼くして愛情の意味を知っている。良美のずぶとくの言葉を受けとめ、自分を強くさせる心の厚みを持っている。そして譲二は何か不思議な力と形で存在しているのだ。

 わけがわからない。わけが…。

 もう何がなんだかわからなかった。

 荘介は泣けてきた。泣けてきたが、涙は出すまいと必死でこらえた。

 薄っぺらな父親だ。本質よりイメージに躍らされた愚か者だ。

 ごめん。譲二。ごめん。荘介は心の中でつぶやいた。

「じゃ、人魚って彼女によろしくな。今日は父さん嬉しかったぞ。お酒はやめられそうかい?」

「やめてみせるよ。僕、まだ15歳なんだから」

「そうだな。15歳だ。まだ15歳だ…」

 そういい、荘介は少しすすりあげて泣いた。自分でも止められなかった。みっともないと思ったがどうにも止められなかった。

 それでも力の限り明るい声で言ってみた。

「近いうちに会おうな。父さん、もう少しまとまな人間になる努力するよ。母さんにも会うよ。ごめんな。ごめん…」

 譲二は少し青ざめていて、笑顔はなかった。荘介も微笑むことが出来なかった。

 譲二は出て行き、荘介は深く椅子に体を静めた。顔がこわばっていた。体がこわばっていた。心がこわばっていた。ぼんやり藻のような水草だけが頼りなげにゆらゆら揺れている大きな金魚鉢を見つめた。そうか、人魚というガールフレンドが出来たのか…。

 譲二を連れていった祭りでの金魚すくいを思った。小さな手で恐る恐る金魚をすくう。紙はすぐに破れ、譲二は泣きべそだ。一匹だけもらった色の悪い金魚を、良美と譲二はザリガニ用の水槽で大切に飼い始めた。金魚は次第に大きくなり色つやもよくなって時々ぴしゃりと跳ねて、水面に顔をのぞかせたりした。淋しいでしょうね、良美はペットショップで三匹百五十円で友達を買ってきた。一匹は死んだが残りの三匹で仲良く泳ぎ、そのうち卵も産み、小さな金魚が生まれた。譲二が友達に金魚を分けるのに忙しかった時期もある。「いやー、金魚が増えましてね」荘介も会社で満面笑みで言ったものだ。金魚と良美と幼い譲二…。あの頃幸せだった。今、思っても幸せだった。なのに、いつの日からか、水槽にこびりついた金魚の餌の放つ臭いのように、荘介の心ににおいが充満し始め、それを振り払おうと必死になった。

 あの金魚、まだ生きているのかな。一番最初に家に来たあいつだ。今度会えたなら譲二に聞いてみよう。

 荘介は額に手をあてた。泣けた。芯から泣けてきた。自分の馬鹿さ加減に泣けてきた。

 馬鹿者だ。愚か者だ。哀れなやつだ。想像の中の真由子が吐き捨てたように、馬鹿男だ。一番のルーザーは自分自身だ。

 僕は僕だから、譲二が言った。

 私は私なの。違うものにはなれないわ、良美が言った。

 じゃ、荘介、おまえは何だ。何者だ。いったい何者なんだ。

 ビッグルーザー、大馬鹿者か…。

 虚無感の中、目をつぶる。運動会の喧騒が蘇ってくる。頑張れ! 走るんだ!譲二! 頑張れ~!抜かれんなあぁ!

 頑張れ!頑張れ!頑張れ!頑張れぇぇぇ!!!

 エールはいつしか対象を変えていく。一人断トツに速い少年、胸でゴールを切る少年。両手を広げ歓声に答える顔がスローモーに頭をよぎる。

 あったんだ。自分にもあんな頃があったんだ。

 もう一度、あの栄光には遠いかもしれないが、一歩ずつ人生やり直すしかない。

「サービスですよ」

 目をあげると目の鋭い小柄なマスターがモンブランのケーキとフレッシュなコーヒーをトレイにのせたまま置いた。

「譲二君が父さんはモンブランには目がないって言ってたんですよ」

「ありがとうございます」

 荘介は頭を下げたが、堪えきれずに、ぼろぼろと涙がテーブルの上に落ちていった。