商店街に入るといつもホッとする。古き良き街という、それこそ古くさい形容がよく似合う石畳の商店街。各停しかとまらぬ駅から南北に続くその商店街に入ると、夕暮れどき、人通りが多い時でも、自然に歩調がゆったりとなるのは不思議だ。この商店街の魅力だと思う。

 この店も閉店か。以前は梅干し専門店があった。間口が2.5メートルほどの小さな店だった。一粒千円の梅干しもあった。上に金箔がのっていてどっしりとした柔らかそうな梅干しだった。深みのある色をしていた。

 店員は愛想がなかったが、桂は2個セットを2000円で買って、アサミに渡した。アサミは微笑み、これなあに?というように四角い小さな包みをくるくる回してみた。

 桂アキトにはフォトグラフィックメモリーがあった。一度見たものはその気になれば細部まで思い返すことができた。いつだったか自閉症のサバン症候群でフォトグラフィックメモリーを持っている青年のドキュメンタリーを見た。本の内容を一字一句違わず瞬時に覚えられるものもいれば、難解な式を一瞬で計算できるものもいる。見たものそっくりに細部まで絵を描けるものもいる。

 アキトの記憶力はそれには及ばないが、その気になれば細部までかなり正確に思い起こすことができた。数学、化学、統計、物理、これらの理系科目において瞬時にて理解できるという特殊能力を持っていた。

 ただ入試では失敗した。科目による差が大きすぎた。結果、中の中の国立に入った。大学だけは出て欲しいという母の願いにしたがった。アキトはすぐに自力で稼ぎたいと思っていたし、また稼ぐアイデアも湧いてきていた。そしてハッカー仲間では名が通っていた。しかし、母の手前、大学だけは卒業し、就職もした。

 商店街が大きな基幹道路とぶつかる手前にあるペットショップ、そこでアサミと出会った。アキトは犬が好きだった。無口な店長は買う気がないアキトを好きなだけ居させてくれた。

 アサミは銀行勤めだったが、土曜日だけ数時間、ペットショップを手伝っていた。あらゆる動物が好きだったのだ。

 そのペットショップだった場所は今ではブランドもの買取の店に変わっている。そして「ペットショップのんた」はルネビルに移った。


 アキトはルネビルのインテグリティグループの一員となった。

 インテグリティに入るきっかけは刑務官の山岸だった。アキトと同じくレイヤー族だった山岸とは刑務官と受刑者の間柄だった。出所の日、彼は言った。「桂さんなら、お金には困らないでしょう。でも人間、道標なしではどんな賢者でも迷子になります。ここを訪れてみてください。あなたが住んでいた街にあります」

 彼が差し出した紙に書かれていたのは

 カフェ ハーヴィ



 アキトがカフェ ハーヴィの鐘を鳴らしたのは、今から6年ほど前のことだった。銀髪の目の鋭い女性が5、6歳の女の子とスパゲティを食べていた。カウンターの向こうには緑色のエプロンをつけた、銀色の毛並みが美しいウルフ系レイヤー族がいた。

「いらっしゃい」

 ソフトなテナーだった。



 ルネビルのブルースカイ調査事務所。アキトは今ここのIT顧問として働いている。一般的調査案件も取り扱うが、インテグリティへのリクルーターも担っている。今はとにかく人材が必要だった。

 ここ数年、人の意識下の差別と憎悪感情が増幅している。民族問題、宗教問題だけをとっても世界中のあらゆる地域で爆弾を抱えている。そこに今まで静かに内在していたレイヤー族の存在の顕在化が進んだら、どうなるのだろう。急に件数が増え出したメタモルフォーシス。メタ族への対応も急がれる。

 刑務所でただ一人だけ友人になった男、冨岡はフィーラーだった。彼も山岸からカフェ ハーヴィのことを聞き、インテグリティの一員となった。ルネビルのテナントと必要に応じ個人事業主として契約を結び、いわば何でも屋的に動く。器用な男だ。自分の中に押し込めていたフィーラーとしての感性も鋭くなり、リクルーターとしても尽力している。人生において絶望感を味わった冨岡だが、今は男として、いや、人間として、いい顔をしているとアキトは思う。

 冨岡とはしょっちゅう会うわけではないが、たまに見かけるとお互い敬礼するかのように額に手をあてる。その瞬間、ふっとほんの一瞬お互い口元が緩む。

 アキトは今、アサミと雑種のジャスパーと暮らしている。彼らのためにも、世の中はより公平でより寛容でより優しくあってほしい。アキトは時折突き動かされるように祈る。祈る。そしてまた祈る。