やがて賑々しいシーフードプレートが運ばれてきた。ありがとう、とウエイトレスに目で言ったとき、手洗いのサインの方へ入っていく一人の女が目に入った。

 あの女。

 確かにあの女だ。

 祥平は混乱した。どうしてあの女がここにいるのだ。偶然にしてはあまりにおかしい。

 そうか…。そうなんだ。

 数分後、再び女は戻ってきた。

 視界の端で見るともなく女の様子を探ると、女もときおり視界の端で祥平の方を見ている。

 祥平は急いで料理を平らげ、女がスパゲティらしい料理を食べ終わるのを待った。女は半分ほど食べたところでフォークを置いて皿を押しやり、見つめられているのを知っているかのように、ゆっくりを顔を上げ、祥平を見た。

 拝平は立ち上がり、女のテーブルの方へ歩いていった。

 女はそんな祥平から目を逸らさなかった。

「すわってもよろしいですか?」

 女は頷いた。腰かけると祥平はできるだけ心を落ち着けようとした。

「三度目です、私が今日あなたに気がついたのは。まずは、ある駅前の歩道橋の上でお会いしました。私が歩道橋の上でひどくぼんやりしていると、やはりぼんやりしているあなたがいましてね、大丈夫かなと心配したほどです。でも、近くのカフェで再びあなたを見かけ少し安心しました。ここまででしたら、単なる偶然、さほど不自然でもないでしょう。けれど、またここにあなたがいるとあっては、考えられることは一つです。あなたは私をご存知ですよね」

「富岡さんですね」

 女は慌てるふうでもなく言った。

「あなたは?」

「三原といいます」

「三原さんですか。無駄足をさせては悪いから言いますよ。私は場所なんか知りませんよ」

「は?」

「あなた、私が友達からある物の場所を聞いたと思っているんでしょう。無駄な時間を取らせては申し訳ないですからね、言っときますが、神に誓って私は知りませんよ」

 三原は祥平を見つめた。

「それにあなた、テールが下手すぎますよ」

「はい?」

「ずっとつけてたんでしょ。ここまでついて入ってきちゃ、誰だって気づきますよ。この仕事始めて間もないんですか?」

「い…いえ」

「私の友人の調査の一環ですよね。それとも私のような人間にはしばらく見張りがつくってわけですか? なんせ初めてのことでよくわからないんですがね」

 祥平はだんだん皮肉っぽくなっていった。

「まあ。いいか。とにかく私は知りませんよ。私をつけてたってドラマみたいに地面を堀りおこしたりはしませんよ」

「あの…桂から…何も聞いてないのでしょうか」

 桂、と言う女の目が鋭くなった。

「ええ、事件のことはね。いくら私たちが親しく見えてもそんなことは話しませんよ。あなたもプロだったら、それぐらいわかるでしょう。ま、上からの命令なら仕方ありませんがね」

 三原はしばらく黙っていたが「今日、誕生日ですね」と言った。

「そうか、それも知ってるわけですね。出所の日が誕生日っていう馬鹿げた偶然です。…あなた、私のことどれほど知ってますか。…離婚した妻のことも知ってますか?」

 そう言ってから祥平は馬鹿馬鹿しくなった。この女が知りたいのは桂に関することだ。自分の別れた妻のことなど知るはずもない。

「狩野遥子さんですね」

 祥平は思わず目を見開いた。体が一瞬動かなくなった。思ってもみない答だった。

「元気にしてらっしやいます」

「元気…ですか。遥子のことを知ってるんですね」

 祥平は混乱した。と同時に怖くなった。遥子が今どうしているか、何よりも知りたかったが、知るのはどうしようもなく恐かった。

「遥子は…一人ですか」

「一人…というか…。あの…お子さんがいらっしゃいます。一才になったばかりの」

 えっ…。

 祥平は耳を疑った。いろんなことを想像していたが、なぜかそれだけは思わなかった。七年間の結婚生活で子供は出来なかった。どちらからも検査しようという話は出ず、祥平は遥子には子供が出来ないのだ、と漠然と思っていた。自分に欠陥があるとは思わなかった。

 1才か…。あの男の子供だ。祥平の子である可能性はない。

「未婚の母ですか」

「ええ」
 
 三原は頷いた。祥平の中で激しく感情が渦巻いた。遥子への想い、この二年間ずっと抑えてきたやり場のない遥子への想いが渦巻いて、一つの決心となってストンと落ちた。

 誰の子でもかまわない。俺が守る。幸せにする。表立って出来ないのなら、陰で見守る。遥子が許してくれるまでずっと。

 そうだ、懇願して面倒を見させてもらおう。あまり体が強いとはいえぬ遥子が一人で子供を育てるのは大変だ。自分がどれだけ後悔し、遥子のことを思い続けていたか、正直に話そう。自分自身に正直になれるとき、遥子に対して正直になれるときがあるとしたら、今しかない。遥子の子なら自分の子のように愛そう。愛せると思う。いや、必ず愛せる。あの男の子だってかまやしない。七年近く自分のことを愛してくれた遥子じゃないか、あの男の出現まで。
                         
 けれど……。祥平は肩を落とした。子供の父親にあんなことをした男を遥子は許せるだろうか。予供が大きくなり事情を知ったとき、父親気取りだった自分を憎みはしないだろうか。

 無理な話か…。

 あの日、祥平は男の横っつらを張りとばした。遥子を泣かせた男の横っつらを。

「遥子さん、やっぱり君の言うとおり彼ってデリカシーのない野蛮人だね」

 嘲るように男が言った。我に返った瞬間、祥平は男の首ねっこを捕まえ、壁に叩き付けていた。

「やめて!やめてよ!」

 遥子が叫んだ。が、祥平の手は止まらなかった。通子の声に重なって自分の声とは思えぬ声が聞こえた。

「殺してやる!」

 男はパニックで飛び出し、マンションの螺旋階段で足がもつれ、転がり落ちた。後頭部を打ち、意識不明。

 長期に渡るリハビリが必要な怪我を負った。実際祥平が殴って与えた怪我はそれほど大きくなかった。しかし祥平の暴力が原因で階段を転げ落ち、生死に関わる大怪我をしたこと、殺してやる!という凄みのある声を聞いていた者がいた、などの点が重なり、一年半の実刑になった。

 遥子は客観的に証言してくれた。涙を浮かべ、決して祥平の顔を見ようとはしなかったにしても。

 北田に対しすまないと思っているだろうか、自虐的な気分の時など、ことさら問ってみた。が、答えはいつも同じだった。殺してたら後悔しただろう、すまないと思っただろう。だが、祥平が男に与えたくらいの肉体的痛みは当然だ。大怪我は自分でしたんだぞ。自分で転げ落ちたんだぞ。それを何だ。殺されると思って夢中だった、逃げなかったら殺されたに違いない、とは。肝の坐ってないやつだ。ばちだよ。ばちがあたったんだよ。

 あんな北田の子でも本当に可愛がれるのか。まだ、心に痛みがある。いつになっても消えない傷がある。傷は乾くことを知らない。けれど、出来るはずだ。出来なければ…。

 それが男気ってもんだろう。桂の言った男気ってもんだろう。

 遥子を愛している。別れてからの時間は遥子に対する愛情の再確認の時間だった。愛情は植物を育てるように育まなければいけないとも悟った。遥子が淋しそうな顔をしたとき、興味の違いから会話がなくなったとき、祥平は何もしなかった。

 男気だけでは駄目だったんだ。自分には繊細さが欠けていた。

 遥子…。子供を生み、育てているというのなら、親戚に恵まれぬ遥子のこと、自分が助けなくて誰が助ける。自分ほど彼女を愛しているものはない。遥子に会うきっかけを作ってくれるのなら、あの男の子でも感謝しよう。遥子と自分を再び引き合わせる口実を作ってくれるなら、それだけでまだ会わぬ幼い命に感謝しよう。
 
 祥平は涙ぐんでいた。

「今、どこにいるんですか、彼女は」

「知ってどうするんです?」

 三原という女は聞いた。

「会いたいと思います。でもご心配なく。彼女に迷感かけるようなことはしませんから」

「あの…お会いにならない方がいいと思います」

「どうしてですか?」

「今度、結婚されるんです」

 結婚…。結婚…か…。…そんなこともある…わけか…。 
 
 どこか淋しげな目をした遥子。可憐な遥子。子供がいたって彼女なら好きになる男がいても不思議はない。

「そうですか…」

 祥平は大きく溜息をついた。体中からエネルギーが抜け出て、小さく小さくひからびてパリンと割れてしまいそうだった。

 三原が祥平を見つめていた。女の前で泣くなんて…。けれど、泣けてきた。急に出現した可能性、希望に有頂天になっていたときだけに、一旦、流れ出すと涙はとまらなかった。一年半、思い出の中に生きてきた。そんな毎日の中、心だけが妙にもろくなっていった。遥か昔、大人の体型に達したとき、自分の中の感傷的部分を捨てた。そうすることで大人になったつもりだった。しかしもともとは泣き虫だったのだ。

「そうですか。相手は? どんな男ですか? そこまでは三原さんもご存知ないですよね。それに…どんな男か聞いても意味ないですね」

 三原が見つめていた。何とも気の毒そうに見つめていた。

「キタダです」

 キタダ…。

「北田…ですか」

 祥平は一瞬にして憔悴した。塀の中では誰も遥子のことを教えてくれなかった。面会に来てくれたものもいない。遥子と同じ世界に出ても彼女には近づくまい、そう決心していた。ただ、幸せかどうかは確かめたい、それだけは思っていた。

 遥子が北田の子を産み、北田と結婚する…。

 祥平は呆然と宙を見ていた。

「富岡さん」

 三原の穏やかな目が見つめている。その瞳が何か言いたげだ。

「私、あなたが思っているようなものではありません」

「え?」

「私、以前は林と言いました。林あさみです」

「桂の…アサミさん…ですか?」

「はい」

「でも三原と言いましたよね。…ああ、結婚なさったんですね」

「いいえ」

「違いますか?」

「離婚したんです」

 離婚…。

「前の夫の姓が林でした」

 桂はアサミが結婚していたことなど言わなかった。

「少し前、桂から手紙をもらいました。最初で最後の手紙だろう、と書いてありました」

 アサミは封筒を差し出した。差出人は高坂真由美となっている。

「高坂?」

「ええ、彼、私か離婚していること知らないので女の名前の方がいいと思ったんでしょう。私は字からすぐ桂からだとわかりましたけど…。どうぞ、読んで下さい」

「いいんですか?」

「ええ、富岡さんなら構わないと思います」

 アサミは封筒から手紙を取り出し、最初の一枚だけ渡した。達筆だった。

 お元気ですか。
 変な書き出しですが、他にどう書いていいのかわかりません。
 迷感だと思い、今まで連絡しませんでした。あなたの方も事情があることですから、連絡がなくても不思議はありません。
 ただ、こんな生活だと同じことを繰り返し繰り返し思ってしまいます。そしてあなたがどういうふうに毎日を過ごしているのか、何より幸せなのか、気になります。
 私がこうなったあと、あなたは一度だけ会いに来てくれました。そして、もう一度ご主人と頑張ってみると言いました。
 でも最近時々、あなたが幸せではないのではないか、そんな気がするのです。私はあの時、ひどいことを言いました。君のためにやったのに、君はご主人の元に帰るというのか。もう二度と僕の前に顔を出さないでほしい、と。
 でも今の私にはわかります。あれは自分のためにやったのです。誰のためでもありません。そして失敗し人を傷つけました。あなたには心から謝りたいと思っています。
 今の私はあなたにひどい言葉を吐いた男と同じ人間ではありません。もちろん、あなたのことを恨んでもいません。ただあなたの幸せを心から祈っています。それだけ知ってもらいたくてこの手紙を書きました。
 あなたが今、幸せに結婚生活を送っているなら、この手紙はすぐ破って捨てて下さい。
 万が一あなたが今幸福でなく、私のことを知りたいと思っているならば、富岡祥平という男をたずねて下さい。11月14日にフリーになる男です。彼に私のことを聞いて下さい。私の様子を聞いて下さい。彼は私がここで唯一信頼した男です。
 ただ、私に会いには来ないで下さい。もし会える時があれば、私があなたのいる世界に出れたときです。私は普通の人間として会いたいのです。

 読み終わった祥平は顔を上げた。

「二枚目に富岡さんのことが書いてありました。だから…」

「それで、私のことも知ったわけですか…」

「ええ…。富岡さん、私は卑怯な人間です。彼があんなことになったとき、私は無関係でいたかったのです。何があっても一緒にいたいと思ったはずの人でしたのに…。私は自分を偽りました。彼とのことはちょっとした不倫だったのだと…。そして主人との生活を続けようと決心しました。でも世間の目はごまかせても自分はごまかせません。結局一年前に離婚しました。今はなんとか自活しています。慰謝料ももちろん貰いませんでした。私の方に非がありますから」

 アサミはうつむいたが、気を取り直したように顔を上げた。

「それで、桂が言うとおり、富岡さんに会いたいと思いました。桂は富岡さんもこれから本当に幸せになってほしいと思っています。手紙からでも、その気持ちがわかります。で、私、富岡さんにお会いするからには、私の方からも富岡さんのためになる何かをお知らせすることができないか、と思って…。勝手に調べたりして、すみませんでした」

「いいんです。感謝したいくらいです。あなたから聞かなければ、遥子のことも知ることが出来なかったでしようし…」

「知らなかった方がよかったってことありませんか」

「いいえ」

 祥平はきっぱり言った。

「落ち着かれてから、桂が書いてきた住所にお尋ねするっていうことも考えました。でも、できるだけ早く桂のことを聞きたかったんです。だから、今朝起きると心は決まってました。で、富岡さんのことずっとつけていました。いつ声をおかけしようかと思いながら、ずっと後をつけて…。機会を見つけられず尾行みたいになってしまって…でもここで食事が終わったとき、声をおかけするつもりでした」

「このレストランでやっと気づくなんて、こっちも鈍いですよね」

 二人は顔を見合わせ、微笑んだが、祥平はすぐに真面目な顔になった。
       
「あの…遥子に実際会われましたか?」

「面と向かって話したわけではないんです。でも、それこそ調査員のように調べました」
 
「元気そうでしたか」

「とても。それと…可愛らしい、健康そうな赤ちゃんでした」

「そうですか…」

 北田は心を入れ替えていい人間になったと思いますか、聞いてみたかったがやめておいた。人間そんなに本質が変われるものじゃない、それにこの人とは関係ない話なのだ。

「桂は幸せです。ついてない愚か者にしても幸せな男です。待ってくれる人がいるんですから」

 アサミは少し淋しそうに微笑んだ。

「桂は馬鹿です。大馬鹿者です。運動神経あまりよくないのに…。車の運転だっていつも慎重にって私、口を酸っぱくして言ってましたのに…。その彼がバイクですから。バイクなんですから」

 一匹狼で、あるところから金を盗んだ。かなりの金額だった。念入りに計画を練った甲斐あって金を手に入れるところまではうまくいったが、バイクで逃げる途中、人をはねた。そのまま逃げたが、そのことから足がついた。三日後、捕まったとき既に金は手元になく、逃げる途中落としたと言い張った。

「愚かですよね、人間って」

「いや、賢い人間もいます。愚かな人間もいますが、損をする人間もいれば得をする人間もいて、何でも両方向あるもんですね」

 話しながら、これは桂の話し方だと思った。普通ならこんな話し方はしない。祥平はアサミを前に、桂の話し方をしている自分に気づいて可笑しくなった。

「富岡さん」

 アサミが見つめた。

「彼、お金どうしたか、言いました?」

「いや、それだけは言いませんでしたよ。まだどっかに隠しているのかな。それともほんとに落としたのかな。誰もそんなこと信じちゃいないみたいですが」

「…彼のこと、もっと知ってもらうためにはこれだけは言わなければなりませんね。桂は逃げる途中落としたと言い張りましたよね。でも、そうではないんです。だけど、もう持っていません。しかるべきところに匿名で寄付したんです。もともと盗んだ金はそこにあるべきではないお金で、盗るのは義賊としての役目だって言ってました。金を返すのはしゃくだったんでしょう。捕まるまでに三日ありました。その間、彼なりに考えて役立つところに寄付したって言ってました」

「じゃ、手元には少しも残してないんですか」

「ええ、一銭も。全く何のためにやったのか…。あ、こんな言い方不謹慎ですよね」

「アサミさん、あなたはそれを信じてますか」

「ええ」

 アサミは静寂ともいえる目を向けた。人生を知りつくしたようで、それでいて世間知らずのような不思議な目をしていた。

「彼は一体何のために事件を起こしたんですか?」

「最初はやはり、私と一緒になるためだったのかもしれません。夫が資産家でしたから、自分もある程度の金がなければ私と一緒になる資格がないとでも思ったようでした。桂は銀行員っていっても地方銀行の中途採用で、雑用のようなことしかしてないしお給料もエリートコースとは雲泥の差だと言ってました。誰も傷つけることなく、もちろん私にも知られず完全犯罪を決行するつもりでいたんです。私の踏ん切りの悪さがそうさせたわけですけど…。けれどそれだけの理由で人間あんな大それたことしないと思います。桂には危うい何かがあるって感じることがありました。計画が狂い、捕まるのは時間の問題になったとき、金を戻すよりどうせなら有効に…変な言い方でしょうか、有効に使いたいと思ったようです」

「それで寄付ですか…」

「ええ」
 
 アサミはそれを信じている。

 祥平は桂の少し語尾を引く癖のある話し方を思い出した。

 トミさん、馬鹿とはさみは使いようっていうけど、違うね。馬鹿と金は使いようさ。ある馬鹿が金を盗って隠した。その金はちょっと曰くのある金でね。馬鹿は捕まって檻に閉じ込められるが、その間に馬鹿は考えるのさ。どうやって金を使おうか、どうやったら有意義に使えるか。もし、その金を意味ある使い方できたら、馬鹿は馬鹿でなくなるのさ。

 桂はまだ金を持っている。どこかに隠している。祥平を信じて、馬鹿と金の話をした。

 その話をした時、桂はそれまで見せたことのない顔をしていた。その時はカラカルには変身していなかった。その瞳が僅かに揺れて光っていた。あれが何だったのか祥平にはわからない。ただ、このアサミも知らないだろう桂の影の部分が揺らめいていたのかもしれない。
                                
  トミさんが出たら、きっと尾行がつくよ。僕がトミさんにしゃべったと思ってるのさ。身内でちょっと金が必要な事情があるのも事実だからね、家族への金渡しを誰かに頼むと思ってるのさ。ま、適当にエンジョイしてくれよ。いきなり地面を掘ったりしてみるのも面白いかもしれないな。そう言い、彼にしては珍しくむせるように笑った。

「あの、アサミさんはカラカルって知っていますか?」

「カラカル? 何ですか、それ」

 アサミは知らないのだ。やはり自分は特殊か…。

「ちょっとすみません」

 アサミが席を立った。その後ろ姿に思う。桂、おまえの方が幸せだぞ。出れるまでにしばらくあるとしてもさ。

「あちらからお移りになったんですね。コーヒーカップ新しいのお持ちいたしました」

 さっきのアルバイトの子が、持ってきたコーヒーカップに新しくコーヒーをなみなみと注いでくれた。
 
 しばらくしてアサミが戻ってきた。
 
 祥平は目を見開いた。

 アサミが両手で大きなケーキを持っている。デザートメニューに載っていたちっぽけなサービスケーキではなく、大きな見事な丸いケーキだ。祥平の体が硬くなる。いや心が硬くなる。硬くしなければ、自分の中で渦巻いた爆発寸前の感情が溢れ出る、そんな気がした。

 アサミはゆっくりとケーキを祥平の前に置き、祥平の目を覗き込んだ。

「富岡さん、お誕生日おめでとうございます」

 温かく静かな声だった。

「あ…」

 ありがとう、は声にならなかった。

「お誕生日ならお店の人たち全員で歌を歌いましょうかって言われたんですけど、お断りしましたよ」

 アサミはにっこりすると、マッチを擦りろうそくに火をつけた。大きめのろうそく四本、小さなろうそく二本、一本ずつ灯していく。

 そして、祥平にだけ聞こえる小さな声で歌い始めた。

 ハツピーバースデイ ツゥーユー
 ハッピーバースデイ ツゥーユー
 ハッピーバースデイ ディア しょうへいサン
 ハッピーバースデイ ツゥーユー

 少し音程の外れた、けれども優しい歌声だった。

 祥平はおそるおそる火を消した。

 大きいろうそくが一本だけしぶとく揺らめいていたが、それもなんとか消えた。

「願いを唱えましたか?」

「あ…」

「もう一度つけましょうか?」

 アサミが再びマッチを擦ろうとする。

「い、いいですから…」

 祥平はかすれた声で言った。いいですから、ほんとに…。

「はい」

 アサミは手をとめた。

 願いったってなんて言っていいかわからない…。

「さあ、食べましようか。ケーキなんて久しぶりだ」

 祥平は陽気を装った声を出しながら、キャンドルを抜いた。大きいキャンドル四本、小さいキャンドル二本…。

 最後の一本を抜きながら、祥平は心でつぶやいた。

 ハッピーバースディ ツゥー........ミー......