とりたてて当てはなかった。

 空は青かった。サングラスをとって見上げる空は、目にしみるほどの青さだった。

 祥平は歩道橋の真ん中というのも忘れ、立って見上げていた。

 これ買わない? 振り返ると籠にキャラクターグッズをいっぱい入れた子が笑いかけている。

「ああ」

 ちらりと見て、ポケットに手を入れる。祥平が「煙草ない…か…」とつぶやくのを聞き、財布を取り出すのだと思っていたその子、腹立ち顔で、「何だ、このおっさん」と言い、背を向けた。

 煙草、ないか…。

 久しぶりに手を通した背広だった。肘のところに革が丸くあててあるカジュアル系。ポケットには必ず煙草が入っていた。かなりマイナーなブランドの煙草だった。物にはこだわらぬ祥平の唯一のこだわりだった。以前よく買っていた自販機がちらりと頭をかすめたが、ここからは遠すぎる。

 やっぱやめとくか。祥平はポケットの中で、煙草の箱を握りつぶすように、ぎゅっと手を握りしめた。 
 
 下を見る。外車が増えたなあ。祥平が以前欲しがっていた車も通る。車か…。もう興味はない。再びポケットの煙草をまさぐろうとする自分に苦笑しながら思う。吸いたいと。

 長らく禁煙していた。いや、禁煙せざるを得なかった。特に吸いたいとも思わなかった。なのにこの背広を着ると気分はやはり愛煙家だ。

 さて、何をするか。腹は空いているか…。久しぶりの休日か…。いざそうなるってみると何をしていいかわからなかった。

 ふっと横を見ると探していた銀行はすぐ目と鼻の先にあった。さっきは見つからなかったがこうやって見ると、すぐそこだ。桂が勧めていたのはこの支店だ。

 近くへ行くことがあったら寄ってみてくれないかな、こっちはしばらく行けそうにないから。彼はいかにも銀行員風の銀縁メガネの奥で祥平を見て言った。

 祥平はその目に弱かった。その目で頼まれると断れなかった。男の自分が言うのも変だが、桂はいい目をしていた。自分自身悪くはないルックスだと思っていたが、桂にはその目だけで負けたと思った。

 それに…桂は時々姿を変えた。姿を変える人間に会ったのは久しぶりだった。また出たのだろうか、あの症状が…。少しだけ手足が震えるような感覚を持ったが、自分がそれほど動揺していないのに驚いた。以前はひどく悩んだものだった。最後に出たのは思春期を脱するちょっと前くらいだっただろうか。思春期を脱してから出なくなった。大人になる、落ち着く、とはこういうことなのだ、自分に言い聞かせた。統合失調症、以前は精神分裂病と言われていた病…。自分がそうではないかと恐れ、どれだけ調べたことだろう。けれど、自分にはほんのたまに人の姿が変わってみえる以外症状らしい症状はなかった。結局誰にも言わなかった。
 

 支店の看板を見ながら思う。アサミとやらはまだ働いているのだろうか。最後まで完全には自分のものにならなかった、そう桂は言った。完全にはとはどういう意味なのか、思いはしたが聞かなかった。桂だったら大抵の女は夢中になっただろうに…。祥平は再び煙草を探る仕草をしながら、人間ってのは資産の活用下手だと、つくづく思った。桂はルックス、祥平は運動神経を無駄にした。
 
 高校では陸上のエースだった。こんな記録はなかなか出るもんじゃねえぞ。五分刈り、まん丸メガネの田崎コーチがストップウォッチを握り締めて言った。その笑顔を今でも忘れない。しかし、大きな競技会ではとんと記録に縁がなかった。

 自分は頑張り時を知らない、あれ以来そんな気はしていた。野兎なのだ。野でぴょんぴょん自由奔放に駆け回っているときが花、人間社会の制約の中、何かを達成するというのには全く長けていない。やるスポーツ、やるスポーツ、どれもかなりの成績をあげたが、仕事とは相性が悪く、金にはつながらなかった。

 祥平は何気なく周りを見回した。どうやら歩道橋の上でぼんやりしている人間は自分だけではなさそうだ。ショートヘアのグレイのスーツ姿の女が立っていた。保険勧誘か何かの仕事の合間だろうか、寒くなりそうなのにかなりの薄着だ。ぼんやりと下を見ている。まさか、家のローンにいき詰ったかなんかで飛び降りようってんじゃないだろうな。下ばっか見ずに上を見てごらん、どうだ、青いだろう。そんな映画ごときの台詞を思い、気恥ずかしくなった。

 そういえば、遥子も以前こんな髪型をしていた。

 遥子って言うんだ、と告げたとき、僕のはアサミだ、と桂は言った。遥子のことで気持ちのバランスを崩しそうになるのを振り切るように、祥平はあの時の桂の表情を無理に思い出そうとした。

 約束だしな。祥平は見えない煙草の煙を吐き出すように、口をすぼめて息を叶いた。



 その銀行の支店は入口は小ぶりだったが、一旦入ると奥に向かってかなり広かった。入らなきゃよかったな、祥平は委縮した。
 
 サングラスは外すか。別にやましいことがあるわけじゃないが…。

 いらっしゃいませ。入り口付近でにこやかにお辞儀をするのが仕事らしい男が、サングラスを外した祥平に声をかけた。口もとは笑っているが、目は笑っていない。祥平は軽く会釈し、通り過ぎた。

 全く馬鹿な話だ。何しに来たというのだ。送金するわけでもカードで現金引き落としに来たわけでもない。

「今日のご用件は何でいらっしゃいますか?」

 後ろから近づき、男がにこやかに声をかけてきた。やっぱりきたか。ほっといてくれよ、と言いたいが、気をとりなおし、「口座を開こうか、と思いましてね」と老けた口調で言ってみる。

「それでは番号札をお取りになって、お持ち下さい」

 祥平は、黙って頷き、機械から出てきた番号札を引っ張った。049。八番目だ。

 ソファに腰を下ろし、ゆっくりと視線を動かす。昼時とあり、混んでいる。おいおい、ほんとに口座を開くつもりかい。ま、金はないわけではないが、印鑑は持ち合わせていない。

 印鑑か…。

 祥平は二年ほど前のことを思った。
               
 あの日、判を押すつもりだった。だからこそ実印を持って家を出た。遥子が新婚当時作ってくれた印鑑を持ってだ。「男なら実印持たなきゃ、立派なのをね」 遥子が黒光りする水牛の角で注文してくれた実印。「なんだい、こりゃ、読めないじゃないか」 出来上がった入り組んだ文字を見て、祥平はふざけてくるくる回したが、正直、嬉しくもあり照れてもいた。初めての本格的印鑑だった。何だか自分が偉くなった気がした。遥子はにこにこ笑っていた。清々しい笑顔だった。

 その判をつかみ、あの日、祥平は出ていった。ポケットの中で何度も判を握り締めながら。

 つい昨日のようでも遥か昔のようでもある。そんな風に思う自分を月並みだと切り捨てたいが、出来ない。出来るわけがない。

 会いに行くのは桂の相手なんかじゃなくって遥子じゃないのか…。

 だめだ。どの面下げて会いに行くっていうんだ。遥子は決して許しちゃいない。許してくれるはずがない。

 まさかもうあいつとは一緒にいまい。あいつのことは残らず遥子の前でぶちまけてやった。何十万もの調査費用も高いとは思わなかったが、大金はたいて手に入れた情報で、自分は一体何を手に入れたのか。

 手に入れたものなんか何もない。分かっているのは失ったものだけだ。

 ものに憑かれていたんだ。ものに…。

 あの日、遥子の顔を見た祥平は出来るだけ冷静にふるまおうとした。だから判ぐらいいくらでも押してやるよ、わざと穏やかに緩慢に言った。たださ、選んだ男がどんな男かだけは知っておけよ、そう言い、おもむろに茶封筒から写真を取り出した。

 日付入りの男の写真。全部で16枚。それも相手は一人ではない。 

 馬鹿だなあ、祥平はわざと優しげに微笑んだあと、だまされるなんて遥子らしくないぞ、もっと潔くなれ、と今度は後輩を励ますような語調に切り替えた。
 
 遥子は呆然として祥平を見た。事態を把握してないような視線だった。
 
 そこへ男が帰ってきた。写真で見るより体格も見栄えもよかった。その点だけは北田という男より自分の方が上だと信じていた祥平は妙な動揺を覚えた。

「主人よ」
    
 遥子が男に言った。

 なるほど、大丈夫だよ、そんな視線を遥子に返した後、男は祥平に軽く会釈した。

「彼ね、離婚届に判を押しにきてくれたの」

 遥子の言葉に「写真も持ってね」と図らずも脅すような低い声で祥平は言った。

「写真?」

 怪訝そうに北田は祥平を見た。

 祥平は遥子の手から写真をむしり取り、男に叩き付けた。

 男はむっとしたようだったが、一枚一枚丁寧にゆっくりと見た。とりわけ驚く様子もなかった。

「こんな手をを使わなくてもいいじゃないですか。この女たち、知ってますよ。昔付き合ってた人ですからね。でも日付が間違ってますよ。遥子さんと付き合いだした時はきれいな身でした」

 男は真っ直ぐに祥平を見た。興信所がでっちあげたのか、と僅かばかりの疑問を起こさせるほど堂々たる態度に見えた。焦るでもない男に、祥平は自分がとんだ間抜けに思えてきた。

「でも…」

 通子が聞こえるか聞こえないかの声で言った。

「この写ってるセーター、私がプレゼントしたものよ。半年ほど前に」

 通子は一枚の写真を北田に差し出した。

 えっ? 北田の目が微かに動いた。が、すぐにまた自信たっぷりな表情になった。

「そりゃ、貰ったときは言わなかったんだけど、同じものだったんだよ。どこかで見たなって気がしたけど、そうか、前に持ってたのと一緒だったんだな」
 
 どうしようもない大嘘つきだ。まさか信じやしないだろ、祥平は遥子を見た。

 遥子の瞳が揺れている。男の言葉を信じたい。が、信じるのは彼女の理性が許さない。

「じゃ、俺はもう用ないから、判押すよ。どこだい、離婚届ってのは」

 遥子は動かなかった。茫然としたまま動けない様子だった。

 三人無言のまま、時間が流れた。

「いいよ。別に押してもらわなくたって」

 男は憮然と言った。

「僕を信頼できないなら何の意味もない」

 どうやら信頼を回復するのは不可能だと、北田はゲームを投げたようだった。

 遥子の目から涙がこぼれた。そして頬を伝っていった。

 貴様、遥子を泣かすのか。俺だって一度も泣かしたことのない遥子を。祥平は立ち上がり、男を睨み付けた。

 今になって思えば、あのとき泣かしたのは自分なのだ。原因を作ったのは自分なのだ。かといって、あのまま女たらしに騙されるままにしておいた方がよかったというのか、何度も祥平は自問した。

 いや、そうじゃない。でも調べたのは男のしっぽをつかむことで遥子に仕返しをしてやりたかったからだ。遥子を思ってやったわけじゃない。遥子に仕返しをしてやりたかっただけなのだ。

 047…。自分の番号まであと二人になっていた。

 祥平は窓口にすわる女たちを見ながら、この中にアサミはいるだろうか、と思った。確率低しか…。名字は何だったか…。確かありふれた名たった。覚えてくれたかい? 桂は言い、ああ、と祥平は答えた。何だったか…。林…。そうだ林だ。

 しかし、どうやって聞くというのだ。あの、林アサミさんはいますか? 友人から伝言を頼まれたものですから。あ、今日はお休みですか。は、伝言ですか。あ、友人が言いますには、つまり…すまなかった、と…。それだけなんですが…。

「49番の方、3番窓口にどうぞ」

 祥平の番だ。印鑑を忘れた、と芝居でもうって帰るか…。

「お待たせいたしました」

 新入社員だろうか、ひどく幼い顔の行員が微笑んでいる。

「口座を開こうと思ったんですがね、あいにく印鑑を忘れちゃったもんですから…」

「そうですか。せっかくお待ちいただきましたのに…。もし、今日すぐ戻られるようでしたら、こちらの窓口までいらして下さい。お待たせすることなく応対させていただきますので。わたくし、米倉と申します」

 気のよさそうな子だと思った。この子になら、林アサミさんって方いますか? と気さくに聞けそうな気がした。道でも聞く感覚で。

「あの…」

「はい?」

「こちらに、林アサミさんという方勤めていらっしゃいますか?」

「林アサミ…ですか?」

 女の子は首を傾げた。

「しばらくお待ちください」

 そう言うと奥に入っていき、事務をしている少し年季の入った行員に聞いている。おいおい、そんな奥まで行って聞くことないだろ。知らないなら働いてないってわけだし、そんな難しい質問じゃないだろ。イエスかノーか、それだけでいいんだ。

 が、今さら駆け足で逃げ去るわけにもいかない。そこで余裕を見せ、脚を組み、顎を引いた。

 聞かれた方の行員は少し怪訝そうな目をして祥平を見たが、二言三言、新人に答えていた。

 戻ってきた新人は笑顔を作り直すと、祥平に言った。

「申し訳ございません。少し前まで林という行員がおりましたが、今は退職しております」

「あ、そうですか。どうもすみませんでした」

 祥平は軽い感じで言い、立ち上がった。



 カウンター式のコーヒーショップでコーヒーをすすった。

 もし、林アサミがいたら、どう言ったのだろう。

 桂という男に頼まれたんです。ご存知ですね。一言すみませんでしたって伝えてくれって頼まれたものですから。事情はよくわかりませんが、彼がそう言ったんです。はい、一言すみませんって伝えてくれ、です。桂は手紙も何枚も書いては破って捨てていました。こんな手紙が来たら、迷惑だよなって。ただ、私にはこう言ったんです。もしあの支店の近くに行くことがあったら、林アサミという行員がいるかちょっと見てほしい、もし、もしもいたら、一言伝えててほしいんだ。すみませんでしたと。

 全くあいつも要領が悪い。

 最初見たとき、嫌なやつだと思った。似ていたからだ。あの男に。遥子がたぶらかされた北田という男に。体つき、顔、祥平を見る視線まで似て思えた。実際、遠目に見たら、同じ男だと思ったかもしれない。しかし、どうしたわけか気が合った。次第に互いの事情を話すようになった。桂は最初から祥平のことを気に入ったのか、無口な彼が祥平にだけは口を開いた。その理由はなかなか言わなかったが、ある日、ぽつりと桂は言った。トミさんには、男気があるからだよ、初めっからそれを感じたんだ、と。

 男気か…。

 祥平には彼の言う「男気」が何をさしているのかわからなかったが、漠然と男気からは自分がほど違いと感じた。もし、男気があれば、あんなことはしなかった。

 しかし、桂に言われたとき、祥平は嬉しかった。桂のためなら、かなりのことはしてやろう、そんな気にもなった。別に褒められたからじゃない。自分にまだ残されていると信じたいその何かを男気と呼ぶなら、その存在を自分より先にみつけてくれた桂に感謝したかったのだ。自己嫌悪に陥っていた祥平は、自分を肯定してくれる何か、それもおべっかなどではない誠実な何かを求めていた。桂はいつもほとんど無表情だったが、「トミさんには男気がある」と言ったときの彼の目はひどく雄弁だった。

 その日以来、二人はさらに親しくなった。奇妙な兄弟感情が生れた。年も知らないから、どっちか兄か弟かも定かでないが、ただ、兄弟間でしか味わえないような信頼関係が生れた。だから、桂も今まで誰にも言ったことがない秘密を祥平に打ち明けたし、祥平も自分の気持ちの自己分析などおよそ彼らしくないことまで桂の前では口にした。

 桂はどこかもろい内面をもっている、祥平は感じた。その桂がアサミという女に惚れている。が、事情が事情で一言謝りたいが謝れない。本気で祥平にアサミに会いに行けといったわけではないだろう。ただ、言わずにいられない何かが桂の心に常に存在していたのだ。

 あのスクランブル歩道橋の横さ、わからなかったら歩道橋をのぼってみてくれよ。すぐわかるからさ、そう言ったときの真剣な眼差しの桂に「行けるときがきたら一番にいくよ。他に目的もないからさ」祥平は答えた。

 カフェのレジで金を払う際に、店内の奥にいる女が目に入った。どこかで見た女だ。そうか、歩道橋の女だ。よかった、少なくとも歩道橘は下りたのだ。相変わらず疲れて見えるが、疲れた女、疲れた男、そんなのを数えたら、きりがない。

 祥平は街を歩いた。どこに行くあてもなかった。ただ、何とか林アサミに会えないものかと思いながら歩いた。ジャケットのポケットに手を入れて歩いているうちに、いつのまにか陽射しは傾き、影は異様に長くなっていた。

 こんな夕暮れ時、遥子と歩いたものだった。自分の影の横に遥子の影があった週末の買い物どき。大切にしていたつもりだった。遥子の望むままにさせてやりたい、そう思ってきた。だから、ことある度に言った。君が決めろよ、と。君が好きにしてれば俺は満足さ、そんな愛情表現のつもりだった。

「あたしね、これからの人生どうしたらいいかって時々思うの。何が価値あるものか、何を目標にするのかって」

 遥子が物思いに浸った様子で言ったときも、祥平の答えは同じだった。君が決めろよ。

 遥子の心はあの日を境に少しずつ離れていったのかもしれない。遥子はひどく淋しげな目で祥平を見ていた。

 電車に乗った。遥子と暮した街へ行ってみようと思った。あの事件当時に住んでいた街に戻る勇気はなかったが、新婚当時住んでいたあの街なら、行けそうな気がした。

 おまえ、傷つきたいのか、自嘲してみる。感傷に浸るって柄でもないだろう。

 いや、そういうわけでもないさ。気を取り直す。他にないじゃないか、行くところが。

 取りあえず、好きだった街だ。都会の片隅にありながら、時間がゆったりと流れる街。

 そうだ、それがいい。あの街をゆっくり歩いて食事でもして、街のはずれにあったビジネスホテルにでも泊まろう。

 目的らしいものができ、祥平の気持ちが和らいだ。感傷に浸るのは今日で終わり。明日からは新しい日だ。

 電車の窓。ビルの間に夕陽が見えた。夕陽は夕陽色ではなく真っ赤で妙に大きかった。その妙に大きく真っ赤な夕陽を眺めているうちに現実離れした感覚に陥っていく。危ないな。今ほど、現実を見つめていかなければならない時はないってのにさ。



 駅前はさほど変わっているようにも見えなかった。もともとタクシー乗り場もないような小さな駅だ。

 細い商店街を歩く。魚屋と惣菜屋から流れる匂いも以前のままだ。よく入った中華料理店が目に入り、急に空腹感におそわれてのぞいてみた。しかし店内はすっかり変わっていて以前の面影はない。

 再び通りを歩き出す。右に曲がってすぐ左へ。商店街を一本ずれた道を北へ歩く。ニ十分ばかり歩くと大きな自動車道にぶちあたった。角のとこにファミリーレストランができていた。そこら中にある大手のファミレスとは違い、少し格が上、というかシックに華やいだ雰囲気で、家族連れより恋人どうしに向いていそうな趣だった。

 わたしね、なぜかね、ファミレスが好きなの。広くて安くてコーヒーのおかわりができるところ。お腹なんか空いてなくてもついふらりと入っちゃうの。コーヒーのおかわりいかがですか?なんて聞かれると、ええ、じゃお願いします、なんて、まだ半分以上残ってるコーヒーぐいっと飲んで差し出しちゃうの。どうしてかしらね。ファミレスって食事をしたりコーヒーのおかわりしてる間は時間が止まっててくれそうな気がするのよね。ゆっくり雑誌かなんか読んでてもそんなに嫌みな目向けられることもないし…。だからね、ファミレスにいる時間は猶予の時間に思えるの。何していいのかわからない私にとって何か意義あることをするまでのね。

 遥子はそう言った。もちろん、結婚したら無駄なお金は使わないようにするわ、と付け足す彼女に、いいさ、行きたいだけ行けよ、一日何回でもさ、笑いながら言うと、遥子は唐突なほど嬉しげに笑った。

 一緒になってから、遥子は空いた時間をどのように過ごしていたのだろう。祥平がいない一日の大半の時間…。時々は、やはりファミレスに来て、ぼんやりコーヒーを何杯も飲んでいたのだろうか。遥子の夢ってなんだい? 一度も聞いてやらなかった。遥子の挫折感を理解しようと努力したこともない。そんな自分と比べて北田はよき聞き手だったのだろうか。

 祥平は何かにひかれるように店内に入った。遥子がいる、そんな気がしたわけではない。ただ、猶予の時問が欲しいのはまさに自分だった。

 適当に食事を注文しよう。何よりコーヒーをお代わりしよう。コーヒーお代わりいかがですかと聞かれたら、やあ、お願いしますよ、とにこやかに答えよう。

 いらっしゃいませ! 店長らしき女性が明るい声をかけ、続いてアルバイトらしき子がメニューを抱き抱えるようにして近づいてきた。

 案内された隅のテーブル。窓を背にして祥平はすわった。

 メニューを開く。写真つきの分厚いメニュー。コンビネーション、というのがやけに多い。ロブスターとステーキのコンビネーション。ハンバーグとエビフライのコンビネーション。照焼きチキンにカキフライのコンビネーション。

「じゃあ、このシーフードプレートでお願いします。コーヒーをつけて」

 コーヒーを先に、とつけ加えるのも忘れなかった。

 外はすっかり暗くなっていた。一つ間をおいたテーブルではすでにデザートが始まっていた。どでかいアイスクリームの盛り合わせ。祥平はテーブルに立ててあった写真付きのデザートメニューを手に取った。この写真の実物があれってわけか。裏返すと、ショートケーキにろうそくが3本たった写真がある。お誕生日の方には当店から心ばかりのバースディケーキをプレゼントいたしますとある。

 バースディケーキ…か。

 昨日が遥子の誕生日だった。そして今日11月14日が祥平の誕生日。いつも13日の夜、ワインを飲みながら一緒に祝った。12時を回ると、さあ、今からは祥平のパーティね、とケーキにろうそくを立て直した。

 三年前までは一緒に祝った。三年前となると既に北田と付き合いはじめていた頃だ。遥子の変化に気づいていただろうか。気づいていたと思う。でも、目をつぶった。女は気まぐれだから、情緒不安定だから、と。

 いけない。また遥子のことを考えている。

 今日はいい旅立ちの日じゃないですか。今朝の山岸の言葉を思い出す。顔中、皺で埋め尽くされたような疲労感漂う男だったが、その目はいつも澄んでいた。いかつい顔立ちにもかかわらず、清らかな印象を与える不思議な男だった。目は充血し、腫れぼったい瞼のこともあったが、いつも澄んでいた。魔力はその視線だった。その視線はひどくストレートで影がなかった。裏がなかった。じっと見つめてぼそりと一言、二言、言う。桂以外に言葉を交わした数少ない人物だ。そして、彼も二度ほど姿を変えた。思春期にも似通った姿に変わった友人がいたが、毛の長い猿科の動物に近かった。決して人間より劣って見えたわけじゃない。猿の惑星の映画のシーザーに似た強く知的な視線をしていた。どの人間よりも知的で堂々としていた。

 桂が姿を変えたのは、明らかに猫科の何かだった。猫でもヒョウでも虎でもピューマでもチータでもない。耳が大きくて長く、目が青みがかっていた。最初に桂と心がつながったと思った瞬間、桂は姿を変えていた。祥平の視線は泳いだ。

 なんだ、何に近いんだ。今までこんな変身は見たことがない…。

 カラカルだよ。

 桂は言った。

 カラフル?

 いやカラカルだ。

 カラカル…。

 後で図書館で調べてみた。スマホだったら一発でわかるのだろうが、不便なことだ。

 カラカルってこれか…。

 それは確かに姿を変えた桂に似ていた。

 妄想ではないと思ったが、100%確信はできなかった。幻視だけではなく、幻聴もあるのか…。桂自体が存在しているのか…。

 いや桂は確かに存在しているのだ。アサミだっているはずだ。

 

 いい旅立ちの日じゃないですか、そうだ、そう山岸は言ったのだ。今日が祥平の誕生日だと知っていたわけでもないだろう。祥平は笑おうとしたがこわばったままの顔で、うなづいた。