風の少し和らいだ日だった。私はいつになく軽やか気分で二十五ドル出して買ったばかりのオールウールのマフラーを首に巻きつけながらカフェに入り、アーモンドクロワッサンとコーヒーをオーダーした。手にひらの二倍はありそうな大きなクロワッサンを掴みあげ、勢いよく噛み始めた。こんがり焼けたアーモンドのかけらが歯茎の裏をチクチク刺すのが心地よかった。熱いコーヒーを大きなカップでゴクゴク飲み、目をつぶる。甘いアーモンドの香り、コーヒーの香り…。肩の力が抜け、眠気すら感じてきた。
それこそ至福のハピネスだった。カフェの中は暖かく、客層もよく、アーモンドクロワッサンはほどよい甘さで、コーヒーは濃すぎも薄すぎもせず、高級とはいえぬまでも私は趣味よく装っている…。
顔を上げたのは、頬に冷たい風があたったからだ。入ってきた私と同年代の二人の女が斜め前のテーブルに坐ろうとしていた。一人は黒い髪、黒い目、はっきりした顔だちをしていた。スパニッシュかアラブの血が入ってるような風貌だった。一人はブロンドの髪を二つのピンできりりととめていた。二人ともキャリア志向の女独特の話し方をしていた。
ブロンドが今話題の上院議員の政策は好きだけど中絶に関しては気に入らないと言い、ブラックヘアもそれに賛成し、あんな考えの主がのさばるから女性のフリーダムはいつになっても得られないのよ、と言った。
女のフリーダム…か…。
ブロンドはハム&チーズクロワッサン、ブラックヘアはブルーベリーマフィンを注文し、二人とも時々顔をしかめたり、手でノーノー違うわよ、とジェスチャーしながら食べ始めたが、とてもとても幸福そうだった。ブロンドがママはあたしのことを無神論考だって言うのよ、と言い、そう?あたしのママは盲信者だって言うわ、ともう一人が言い、やがて無神論者と盲信者はボーイフレンドの話題に移り、ブロンドヘアはケニーについて、ブラックヘアはジェイクについて、誇らしげに話し始めた。ケニーはとても寝起きが悪いの、男の子ってまったくしょうがないんだから、と言うブロンドヘアも、それに頷くブラックヘアも数分前よりもっと幸福そうに見えた。
私は肘をついて額に手をあてた。ジェラシーに似た羨ましさが体に走った。
女のフリーダム…か…。
二人の女の子のガールズトーク…。どこでも見かける光景のはずだった。私は自分と彼女たちとの違いを思った。正道を堂々と歩き、誇らしげに悩みなさそうに笑う彼女たち。頭の表層のみ動かし、蝕む倦怠感に何の抵抗もせず、自分で自分を少しずつ破壊していく私。
女のフリーダム…か…。それはこげたアーモンドのかけらのように、私には意味がなかった。
カッシャーン!
はっとした。肘に当たったスプーンが驚くほどの音をたててフロアに転げ落ちた。
二人の女は同時にこちらを見た。あたしはソーリーと早口でつぶやいた。ブロンドヘアが微笑み、気にしないでと言い、ブラックヘアが、あら、あなたプロフェッサースコーフのクラス取ってなかった?と聞いてきた。
プロフェッサースコーフ? ああ…先学期三週間ほどでドロップした社会人向けのクラスだった。クラスで一人の東洋人だったから目立ったのだろう。クラスヘはいつも黒いワンピースを着てスカーフだけ換えて行った。長い髪、白いメッシュ、大きなイアリング、いつも黒いワンピースといういでたちのオリエンタルの女は目をひいたのかもしれない。小作りな顔は日本でより付加価値がつくようだった。
イエス。覚えているわ。どうだった、あのクラス?
最低よ。あなた正解だったわ、途中で落として。
そう?
ブロンドはテリー、ブラックヘアはスーザンと名乗った。あたしはカオルよ、と言った。
私は落ち着かなかった。黒いセーターを着て気取って脚を組んでるにもかかわらず、表面をサァーつと漂白され、地の色が見えてるような、そんな感じがして何回も脚を組み直した。
どこから?
日本から。
長いの?
うん、結構になるわね。
ここの住み心地どう?
素敵よ。とっても素敵だわ。でも…。
うん…?
二人は穏やかな目を私に向けている。
でも…。
いろいろ大変なんでしょうね。
そうね…。
私はとても素直な気持ちになっていた。
何だか道に迷っちゃったみたいよ。最初、とっても素敵だと思ったわ。それから、軽いカルチャーショックってのを経験して、それからね…全く自分がわかんなくなったみたい。不思議なことにね、ちょっと前までそれにすら気づいてなかったの。
そう言い、ふふふふ…私は笑った。
全く違った文化ですものね、スーザンが頷き、知らない国じゃ大変よね、テリーが言った。さらに私の言葉を待つ二人に、私は中途半端な笑いを浮かべていた。グラスの水をゴクリと飲むのが精一杯だった。もっと会話に加わりたいと思ったが、それ以上どうにも言葉が出てこなかった。
テリーは自分のルームメートが中国へ行ったときの経験談を二、三、面白おかしく話した。私はすっかり心打ち解けたように笑ってみせた。
けれど私にはわかっていた。道に迷ったのは別に異国にいるからじゃないってこと。どこにいたって同じなのだ。小さな罠はそこら中にある。小さなエスケープのつもりが小さな罠になるのだ。罠が潜むは自分自身…。罠も私なら、獲物も私…。
彼女たちが自分たちの会話に戻り、私はプレー卜に残ってるクロワッサンのかわを人差し指でつぶし始めた。カップの中のコーヒーは薄いミルクの膜を作り始めている。
斜め前の二人…ほんの手が届きそうなところに掛けている二人…。脚を組んで…ほんの手が届きそうなところに…。なのに彼女たちは、私にはとても遠い存在に思えた。無神論者とか盲信者と自分たちを茶化して呼ぶ彼女たちが、私にはとても遠くに思えた。私は盲信者でも無神論者でもない。私は何者でもないのだ。匿名の仮面をかぶったまま、長い間、呼吸さえしていなかったのかもしれない。
でも…でも…あたしハッピーのはずじゃない。誰にもしばられてないはずじゃない。精神的にも空間的にも私はフリー…。ショーンも、ちょっとした百ドル札も、罪の意識からも、面倒なこと全てひっくるめて私はフリーのはずじゃない。
スプーンでカップをかき混ぜながら、ほんの数分前との気分の違いは何だろう、と考えた。二人の女の子がトリガーなのだろうが、もっともっと根は深く地中を這っていた。彼女たちと一緒に、私は無神論者でも盲信者でもなく、偉大なる彷徨い人だと自分を茶化して笑うためにはどれくらい時間をさかのぼればいいのだろう。
ショーンのアパートメントに足を向けたのは、別に彼に会いたかったからじゃなかった。私は払い忘れた勘定を清算にいくような気持ちだった。
ドアをあけたショーンは一瞬無表情に私を見た。それは間違って配達された箱でも見るかのようだった。
車ある?あるならドライブにでもいかない?
優しく言おうとしたが、有無を言わせぬような、教師が生徒に詰問するようなトーンになってしまった。予期せぬ誘いにショーンは何かの容疑でもかけられたかのような顔をした。そして片方の眉をぴくりと上げて、イエスと答えた。
数ブロック走ったあとショーンは聞いた。
ちょっと行ったところに、時々行く店があるんだ。ジャズでも聞く?
いいわね。
裏通りに車をとめ、入ったのは狭い店だった。案内されたのはステージに近い壁際のテーブルだ。
ドラムがカリスマティクな黒人で、ベース、ピアノ、ギターは白人だった。ピアノは大学教授にも見えそうな雰囲気をまとっていた。
どう思う?
演奏が始まりしばらくすると、ショーンは聞いた。
私は言葉を探した。
バワーフルでもなく、ソウルフルでも…ノスタルジックでもない。スキルフルっていうのかしらね、そう思ったが、いいわね、と答えた。
ショーンに感じ始めているこの感情は何だろう? 好奇心でも悲しみでもなく…愛などであるはずもなく、苛々でもない。優しさなんて偽善は趣味じゃなく…無視されてる痛手なんて繊細さからもほど遠い。じゃ、淋しさ…だろうか。
私はショーンを改めて見つめた。居心地悪そうにほとんど空になったグラスを何度も口に運んでいるショーンを。
最初のセッションが終わり、店内は明るくなった。
ヘーイ!ショーンじゃないか。
大声とともに髭を生やした体格のいい男がやってきた。
ハーイ、ジョージ。
ショーンは立ち上がり、男の肩を二、三度叩いた。ジョージの連れの女もやってきた。ルイーズだという。ショーンは、こっちはミミと私を紹介した。
私はニッコリ笑い、手を差し伸ばした。
ミミはニックネームでほんとはカオルなの。
本当の名を言う…何日も閉じこもって隠れ家を出るような緊張…しかしちょっとした快感でもあった。自分の名を言ったことで、僅かに残っている自己愛がチャリンと音をたてた。
いい名前ね。意味があるの?
ルイーズが聞いた。
大してないわ。
でも、いい名前だ。
ジョージが言った。
ねえ、二人ともジョインしない?
ルイーズが誘い、彼らのテーブルに加わる羽目になった。これでダブルデートの形が整った。
どこでショーンと知り合ったの?
ピーナッツを二粒、三粒摘みながら、ルイーズが聞いた。
以前、同じアパートメントに住んでいたのよ。
あら、そう、よかったわ、ショーンがいい人見つけて。あたしたち心配していたのよ。離婚後のショーンってきたら・・・
やめろよ。
ショーンは笑いながらも目は真剣だった。
会話は進まなかった。三十分ばかりの会話から私が得たのは、ジョージが三匹の犬を飼っていることと、ルイーズが最近、髪を赤く染めたということ。そしてジョージとショーンは以前職場が一緒だったということだ。
次のセッションが始まったのをきっかけに、失礼するよ、と私の腕を取り、ショーンは立ちあがった。
また会いましょうね。ルイーズがレッドヘアを揺らした。
車の中で私は適当にハミングした。別にそんなことしたくはなかったが無理して歌った。そうでもなければ、窒息しそうだった。
カオルか…。
うん…。
いい名だ。
そうね。
彼は今夜の進展にひどく当惑しているようだった。そこそこの機能だと満足していた製品が思ったより早く壊れたような気分なのだろう、と思った。
今日で彼に会うのも最後だろうと確信した。すると急にリラックスしてきた。そこで私はショーンの神経質そうな横顔を見ながら聞いてみた。
ねえ。仕事、何してんの?
セールスさ。
何の?
オフィス小物とかの…。
仕事変えようかって考えたことある?
毎日だよ。
そう? でも昇格したんでしょ。
うん、でもマネージャーじゃない。
いつかなれるんでしょ?
無理だろうな。僕の場合、セールスマンはいつまでもセールスマンでセールスマネージャーにはなれないんだ。
なぜ?
ショーンはしばらく黙っていたが、なぜ?と繰り返す私に、小さな声で言った。
時々、4と7の区別がつかなくなるんだ。…ときどき4を足したつもりでも7を足してしまってる。カリキュレータを使っても同じなんだ。理屈では分かっていても焦るとだめなんだ。
数字なんか大したことないわよ。会計士にでもなる気がない限りね。
私は陽気に言ってみた。
ははっ。
ショーンは少し笑った。
私たちは初めてしっかりと顔を見合わせ、声を出して笑った。
少しの沈黙のあとショーンは聞いた。
がっかりした?
どうして?
金持ちじゃなくってさ。
金持ちだなんて最初から思ってないわよ。
うん…。
紳士らしくなくって悪かったって思ってる。でもさ、ちょっとした贅沢をした気分になれたんだ。
何が?
ああ…。
そのあとは、ショーンも、ミミとしての私も、カオルとしての私も口をきかなかった。
カオルとなった私と、時々4と7の区別のつかないセールスマンになったショーン。私たちの間のイリュージョンは消えた。けれど、もともとそんなものは必用なかったし、存在すらしてなかったのかもしれない。
ショーンに対して異性としてではなく、一人の人間として、真摯な思いが流れ始めるのを感じた。
ショーンは私のアパートの前で車を止め、グッドナイトをグッバイの顔で言った。私は別に悲しくはなかったが、少し淋しかった。
車を出ようとしながら、ショーンの方を振り返った。
するとあの感覚がおそってきた。私の心と頭の触覚が動き出す…そんな感覚。背中、胸、そしてこめかみのあたりまで、濃度の変わった空気が大きな手になって触っているような感じだ。
振り返った私は、運転席にいたショーンの横顔に一瞬呼吸が止まった。
それは限りなくキツネに近い横顔だった。
ショーン… 私はつぶれた声を発した。
こちらを向いたショーン。その顔には金色と銀色のミックスしたような毛が密集して生えている。目はグリーンがかった金色で、大きくなった耳の先の毛は白かった。
でも表情は確かにショーンだった。
怖くないといえば嘘だった。異邦の谷に落ち込んだように、体が少し震えていた。決して逃げ出したいような怖さではなく、大切な何かが指の間から逃げて行ってしまうのでは、という焦りに似た怖さだった。
美しい、と思った。美しい人間。美しいキツネに似た顔をもつ人間。
ショーンは静かに私を見ていた。
今、見えるね。
ええ、見える。あなたで二人目。前にあった人はアナグマに似てたわ。
ショーンは何も言わない。
その人がフィーラーって言葉を口にしたの。ねえ、フィーラーって何?
フィーラーか。うん、そうだな、時々レイヤー族…僕たちみたいな人間が見える人だよ。何か凝縮された瞬間に見える人が多いっていうけど、ただゆったりしているときに見え始めたって人もいるらしい。
レイヤー族って何?
普通の人々のことをコモン族って言うとしたら、コモン族には入り込むことのできないレイヤーに存在するものたちだよ。
そのレイヤーってどこにあるの?
この現実世界の同じところさ。もし僕らのレイヤーが見えるメガネがあったとしたら、そう、3Dのメガネのようにね、それをかけたら、僕らレイヤー族の姿やその他いろんなものたちの姿が見えるのさ。もっともそんな便利なメガネはないけどね。でも一瞬、そのメガネをかけた状態になれるものがフィーラーなんだ。今の君に僕が見えるようにね。
ねえ、フィーラーって触覚って意味だよね。
そうだね。層を分けているベールのような存在をまるで触覚を伸ばして触って一部だけ透明にするがごとく見ることのできる人がフィーラーなのさ。コモン族の中に時折現れるみたいだね。触覚のような感性で見ようと思えば見える人……。それとは違ってそのベールをくぐれるコモン族もいる。彼らはベールのところどころに存在する揺らぎのような輪を見つけてくぐるんだ。そうすると僕たちの世界をいっぺんにみることが可能になるらしい。
触ってもいい? ショーンの顔に手を伸ばした。怖さはすっかり消えていた。
いいよ。でも触れないよ。
私はショーンの耳先を触ろうとした。でも触れることができなかった。そこには何もないのだ。確かに見えているのに。頬の横の方を触ると、そこには見えないけれど普通の耳に触れた。
耳や、ふさふさした毛も、さわれないだろ。そう、さわれない着ぐるみみたいなものさ。それが僕たちのレイヤーでは形になって見えるんだ。
ショーンは手を見せた。キツネの手を知らないが、まさにキツネの手の要素を人間の手に足したらこんな感じになるんじゃないかと思った。触ってみると、感覚的にはごくごく普通の人の手だった。光る毛に触ろうとしてみたが、何も触れなかった。
ねえ、私がまだ二人しか見てないってことは、いつでも見えるわけじゃないよね、レイヤー族の人たちを。
そうだね。どんどん見れるようになる人もいれば、まったく見えなくなる人もいる。
レイヤー族ってどれくらいいるの?
かなり珍しいと思うよ。でもまったくへんてつない暮らしをしているよ。映画のスーパーヒーローみたいなのを想像してもらっても困るよ。
じゃ、フィーラーってどれくらいいるの?
決して多くはないね。
ショーンってキツネ系だよね。
うん、ま、そうだな。
何かキツネに備わってる能力もあるの?
あんまり現実社会では約に立たないことが多いね。ははっ、計算もろくにできないしね。けれど、確かにキツネの持つ優れた点を持っているかもな。
それを生かした業種って考えなかった?
ハハッ。穴掘り業? 野ねずみとり業? とくにないな。僕はまったく平凡な人間だよ。
みんな何かの動物系なの?
そうとばかりも限らないかな。僕だってたまたまキツネに近いけれど、完全なるキツネ人間ってわけじゃない。一人一人個性がある。ただ共通しているのは僕たちみたいなのはレイヤー族の一形態にすぎないってことさ。
そうなの? よくわからないけれど、私はうなづいた。
僕たちの仲間は静かな人が多いかな。内向的で静かで穏やかな人。
私は何となく感じていたのかな。ショーンの何かを。どうなんだろう。
少し微笑んで、ショーンを見つめた。不思議で美しい、と心から思った。
車を降りると、車が見えなくなるまで手を振った。ショーンにではなく、自分の中の何かに手を振った。別れを告げているのか、新しい何かに手を振っているのかわからないまま手を振り続けた。
真夜中まで開いているスーパーに足を向けた。ダイエッコーク2缶とスナックを買って店を出るころには、私は長い間失っていたものを少し取り戻せたと感じていた。けれどそれが何なのかはわからなかった。
強い風に向かい、泳ぐようにして歩くと、息切れがしてきた。
芽生え始めた陽の気配に抵抗するように、私の悪い癖、ネガティブな抑うつ感、倦怠感が襲ってきそうな気がした。そんなときは自分が干し魚になったような気がする。
干し魚…。小さいころ、店先で吊るされていた、目の離れた魚、ポロッと開けた口に小さな歯が並んでいる魚…。限りなく死んでいるのに生臭さも残している不思議な物体。
いや。そんなものにはならない。
私は決心した。
目を固く閉じると、突然の静けさに涙が流れてきた。