ザワザワと騒つくテスト返しの教室内。教卓の目の前、つまりクラスメイトたちの真ん前に、世界史担当兼このクラスの担任である坂口先生が私を呼んだ。


「よし。片桐、今回も素晴らしいな。先生は鼻が高いぞ」


少し小太りの坂口先生は、まるで自分がエライみたいに鼻高々に成績表を差し出した。ニコリと笑ってそれを受け取ると、背筋を伸ばして先生に背を向ける。表情は決して崩さない。

 自分の席に着いた瞬間、机の下で渡された紙切れを開いてにサッと目を通す。

手の中にあるその紙切れには、数学から古典まで、文理関係なくすべての教科の下に『 1 』という数字が並んでいた。


———すべて1位だ。


もちろん、クラス順位も、学年順位も。

 その結果にほっと胸をなでおろすと同時に、緊張感が抜けたからか周りの声が妙にハッキリ聞こえ始める。


「すっげぇー」
「また1位? 頭どうなってんの」
「天才は違うよなあ」


 そんなクラスメイトの声が耳に入った途端、私の胸はドキリと音をたてる。まだ教壇の上で偉そうに笑っている担任も、わざわざみんなの前で言う必要なんてないのに、と思う。

 結果を見てしまった成績表はもう必要ない。机の下でそれをクシャッと丸めてから、私はまた背筋を目一杯伸ばした。


 まだだ。
まだ、全然すごくなんかない。


 だって、完璧じゃないから。


「あーもうテスト悪すぎー」
「てかアタシ、今回赤点確実だわ」
「それはヤバイって」


 派手なメイクをした、喋り方もこれまた派手な女の子たちの集団の声が耳の横を通り過ぎていく。

───うるさい。

 ただでさえ1時間目から音楽という最悪の授業日程に嫌気がさしているというのに、わざわざ大きな声の愚痴を聞きたくない。

 ガタリ、とわざと大きな音を立てて席を立った。私がそんなことをしたって何の影響力もないことはわかっているのだけれど。

 移動教室ほど面倒なモノはないと思う。移動が面倒くさいのもあるけれど、一緒に行く友達とやらが存在しない私にとっては尚更だ。それに、校舎の3階、いちばん端にある音楽室に行くのはムダな時間にしか思えない。


「……はあ」


 思わずためいきをつく。ひとりで歩くのにはもう慣れた。けれど、ひとりきりの廊下だからこそ、こんな盛大にため息を吐いたって聞いている人は誰もいないだろう。

 音楽が苦手教科だからっていうのもあるけれど、こんなに憂鬱な気分になっている原因は自分でわかりきってる。


───また、完璧じゃなかった。


 ポケットの中でぐちゃぐちゃに丸めた成績表を取り出して、親指でそれを軽く広げて見直してみる。

満点と90点台、加えて並ぶ順位は『1』ばかりの中、ひとつだけポツリと89点。順位は『2』。


……やっぱり、コイツが原因だ。


───音楽。私の最大の苦手教科。


 せっかく広げた成績表をまた丸めて、ポケットへとつっこんだ。喉元に広がった詰まったような悔しさと不安と情けなさ、そして怒りも一緒に飲み込んで。







「ハイ、じゃあ日直号令かけてー」


 チャイムが鳴った瞬間、騒がしい生徒たちの声を遮って音楽担当の野村先生が手をパンパンと二回叩いた。若くて端正な顔立ちの野村先生は女子からも男子からも人気がある。手をたたくのは野村先生お馴染みの授業が始まる合図だ。


「ハイハイー! きりーつ! ……ってオイ! おまえら立てよー!」


 ハハハッて、一旦時間を置いてから立ち上がったクラスメイト達に一瞬にして笑いが生まれた。

 号令をかけたのは、今日日直の高城(たかしろ)くん。彼が号令をかけるとき、大抵このやりとりが毎回行われる。何が面白いのか私には理解し難いけれど、人気者の彼だからこそ生まれる笑いだってことは容易にわかる。

……まあ、私は興味ないけれど。

たまに目に入る茶髪な毛が、どうしようもなく鬱陶しいと思うことだけは確かだ。


「さ、みんなテスト返ってきたな? 出来はどうだった?」


野村先生が成績表らしきものを見ながら話し出す。さっき見た『2』という数字が頭の中にチラついて胸の奥がモヤっと曇る。思い出したくないけれど、その数字をとってしまったのは自分の努力不足だってこと、ちゃんとわかっているからこそ余計に苦しくなる。


「おれ、音楽はできたー!」


 勢いよく手を上げてそう叫んだのは、またもや高城くんだった。これまたみんな高城くんの方を向いて笑顔になる。彼の声はどこにいてもよく通る。


「オマエは音楽だけだろ!」

「ウルサイ、体育も出来るし!」


 高城くんのトナリの男子が「勉強できねーくせになー」なんてツッコミをいれると、クラス中にまたどっと笑いがおきる。こういうやり取りは音楽の授業中だけじゃない。先生達も彼らみたいな人種が好きなのはもうわかってる。

 彼らみたいな能天気で何も考えてない人種が、私は心底キライだ。努力も何もしないくせに、楽しそうに笑うことが出来ることがどれだけ恵まれたことなのか、きっと一生かかってもわからないであろう人たち。


「はいはい、いつも元気だなーおまえらは。俺、今回のテスト難しく作ったつもりなんだけどねー」


 野村先生が笑って、冗談交じりで話す。『つもり』ってどういうことだろう。『音楽はできた』という高城くんに対しての言葉だろうか。




「おれには簡単すぎたよ先生ー」

「んーそうみたいだなー。高城はホント音楽だけ出来るみたいだからまいるよ」


 高城くんは嬉しそうに笑った。その会話を聞いていたクラスメイトが、「おまえ何点だったの?」と高城くんに尋ねると、彼は笑顔で「94点!」と返す。


「ちなみに高城が学年最高得点なー」


 クラス中にどよめきが起きる。私だってビックリだ。音楽と体育は出来るって豪語していた高城くんだけれど、まさか私より上の———『1位』をとっているだなんて思ってもみなかった。


「もー先生、そんな俺のこと褒めないでよっ」

「おまえ授業態度がよければ言う事ないんだけどなー」


 クラス中に笑いが起きる中、私は上手く笑うことができないでいた。いつもなら、周りが笑うタイミングに合わせてきちんと笑顔を作ることができるのに。


 笑えない。


だって、私よりずっとずっと努力なんてしていない彼に、私が欲しくてたまらないものを取られたんだもの。何でも簡単に手に入れてしまうような、そんな人のくせに、どうしてそんなところまで奪っていくの、って。

黒い感情が溢れて止まらない。




「えーっと、じゃあテストの話はここまでとして。
11月にある合唱コンのパート決めを今日はしようと思うんだけど」


 先生の声にみんなからブーイングの嵐が起こる。その声で我にかえってきちんと前を向く。

 合唱コン。ブーイングが起きるのも無理はない。

 間違いなくうちの高校の馬鹿げた行事ナンバーワン。中学生でも今時真面目になんてやりたがらない。みんなで心を一つに!なんてのがお決まり文句の合唱コンクール。正直アホかとも思ってしまう。誰が好んでそんなことをやりたいだなんて言うだろう。高校生のこんな時期に、クラスで合唱だなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。



「ホラホラ、そんなに文句言わないの。ウチの学校の伝統なんだから。じゃあ、女子はアルトとソプラノで希望取るから」


 先生が忙しそうにプリントを配りだす。たぶん課題曲の楽譜だろう。うちの学校が馬鹿みたいに伝統として続けてきた合唱コンだけれど、毎年どのクラスも適当ソコソコに終わらせるだけ。意味なんて全然ない。

 だいたい、今時高校生で合唱ってどうなの。

 11月に行われる文化祭の前日が合唱コン。元々、クラスの団結を目的に始まったらしいけれど、正直高校生にとってのメインイベントは合唱コンよりも断然文化祭のクラス別出し物だし、そっちの方がより仲も深まる。少し考えればわかることだ。

 それに、今はまだ夏休みにも入っていない、期末テストが終わったばかりの7月。準備が早すぎると思う。


「じゃあ、ソプラノやりたい人こっち集まってー」


 課題のCDを聴いたあと、野村先生の指示に従ってパート決めをする。ソプラノっていう声に私も足を動かそうと思ったけれど、その足をピタリと止めた。
 
 どうしてかって、ソプラノ希望の人たちが、私とは真逆の、派手でクラスの中心的人物な人たちだったから。

 濃いメイクに短いスカート。いつも無駄にうるさくて、会話の内容を盗み聞きしているかぎり頭の出来もよろしくない。可愛くてキラキラして、———例えば高城くんの隣にいても問題ないような、そんな女の子たち。


 しぶしぶと、私は反対方向のアルトに足を動かした。




「うーん……アルト多いねぇ」


野村先生が悩んだ口調で首をかしげた。

 それもそのはずだ。ソプラノに集まったのは、あの派手な子たちだけ。クラスの中にある見えない階級を、自分が位置している場所を、きちんと理解して生きてる証拠。


「誰か移動する人いない? って、……いるわけないか。困ったなあ。うーん、しょうがないけど簡単なオーディションするしかないね。」


 オーディション。その言葉に怪訝そうな顔を浮かべるクラスメイト達。私だってだ。

 そういえば、去年もアルトが多くてオーディションになったんだっけ。私は幸い少数派だったから、受けなくて済んだんだけれど。

オーデイションは正直嫌だけど、あの派手組みに混ざるのはそれこそ絶対に嫌。

 受けるしかないか。

そう思って、自分の順番を待った。
音楽のテストは嫌いでも、こう見えて歌うのは別に嫌いじゃない。というか、音楽の成績は実技も評価点に入るから、気を抜けないっていうのもある。歌を歌うのも楽譜を読むのも、もちろんリコーダーだって。小学生の時からひとりできちんと練習してきた。体育のマラソンだって一緒だ。

元々才能なんてない私は、練習しないと何もできなかったから。





「えっと、オーディションの結果、相川さん、堀池さん…」


 野村先生がザッと6人ほど名前を呼んだ。呼ばれた人たちは顔色を曇らせて何かコソコソ話し出す。


「は、ソプラノにうつってもらいます」


 そこに、私の名前はなかった。希望通りのアルトになれたことに安堵して、ほっと胸をなでおろす。

 オーディションは、主に先生のピアノの前で歌う。ひとりずつ、簡単な音階をピアノと共に歌うだけのもの。それでも、後ろにはパートがすでにきまって練習しているクラスメイトがいたから、すこし緊張した。

 まあ、誰も私のことなんて気にしてないとは思うけれど。


「じゃあ、今日の授業終わりなー」


 オーディションの結果を告げたあと、野村先生がパンパン、と手を二回叩く。タイミングよく授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、私はやっと終わったと胸をなでおろした。






「ねーねー!片桐サンッ」


 突然後ろから名前を呼ばれて立ち止まる。

カタギリ、それは自分の名前に間違いないのだけれど、普段先生以外に呼ばれることなんて滅多にないから少しビックリしてしまった。おそるおそる後ろを振り返ると、そこにいたのはどういうことか今日の日直、高城くんだった。

 振り向いた私に、白い歯をニカッと見せて笑顔を作る彼の姿が自分に向いているものだとは思えなくて、思わず眉間にしわが寄ってしまう。

 昼放課、図書室までの誰もいない渡り廊下。

 まさか彼に声をかけられるとは思わなかった。どう返答したらいいのかわからなくて、いろんな言葉が頭をめぐるのだけれど、上手い言葉が何も浮かんでこない。

 こんな昼放課の自由時間、いつもなら人に囲まれている高城くんが私に話しかけるなんて、いったいどうしたんだろう。私、彼に何かしたっけ。


「……なに?」


 迷った挙句、口から出たはそんな言葉。我ながら可愛げの欠片もない。

 高城くんは私の言葉にまたニカッと白い歯を見せて笑った。どうしよう、すごく意味がわからない。

 私は図書室に行こうと思っていたから、そのまま前に向き直って長い廊下を歩き出した。どういう反応をしていいのかわからなかったというのもあるけれど、きっと大した用でもないように思えたからだ。

 だいたい、彼が私の名前を呼んで、わざわざ呼び止める理由がない。

 ……なんて思っていたんだけれど。

何故か、「え、ちょっと、片桐さーん」なんて言いながら私の後ろをついて歩く高城くん。

 いや、本当に意味が分からない。何がしたいんだろう。



 何も返事をしないで無視し続けていると、私の名前を呼んでいた彼の声が止んだ。けれど、ついてくる足音だけは止まらなかった。

 何も言わないまま、私の後ろをついて歩いてくるだけ。足音が重なってなんだかきもちわるい。

 無言の空間はキライだ。騒がしいところも好きじゃないけれど、この空気には息が詰まりそうになる。まるで家にいるときのような息苦しさと窮屈感。

 いい加減、不思議に思って立ち止まった。
そしたら、高城くんも少し後ろで同じように足を止めた。


「何? 私に、なにかあるの?」


 かなり不機嫌なオーラを出したつもりだったんだけど、振り返った先にいた彼はこれまた白い歯を見せて笑っていたものだから少しイラっとする。

 本当は怒ってついてこないで、とでも言おうかと思ったけど、ここは我慢。私の印象をつぶさないためでもあるし、彼を敵に回すのはかなりのデメリットになる。第一、彼だってちょっとからかうくらいの気持ちでやっているんだろう。

 例えば、物静かな優等生に声をかけてみたらどうなるだろう、とか、きっとそんな類の好奇心でしかない。


「うーんと、」


 高城くんは、ポケットに手をつっこんで、少し顔をかたむけてみせた。ゆれるフサフサの茶髪とその人懐っこい笑顔が、なんだか犬みたいだなあと思う。人気の理由はこういうところだろうか。


「俺のバンドの、ボーカルやらない?」


 二カッて、また白い歯を見せて笑った高城くん。まるで当たり前とでもいうように、すんなりとそんな言葉を吐いた彼の気持ちがまったくとって汲み取れない。


「……バンド?」

「うん! あのね、俺いま3人組のバンド組んでるんだけど、ずっとボーカルを探してて——」

「……ごめん、冗談とか好きじゃないんだ。」


 つくり笑いを浮かべてそう言うと、高城くんは「え?」って顔をきょとんとさせた。犬みたいなのは彼の性格のせいでもあるんだろう。

 私は再びムシして止めた足を動かす。後ろでまた私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、それも無視だ。

 ほんとに、なんなの。イキナリ呼び止めて、何かと思ったらそんな冗談。わらえないってば。

 第一、私と高城くんの接点と言えばクラスが同じ、ただそれだけだ。他のクラス、ましてや他校にまでも顔が広いであろう高城くんがわざわざ私にそんなことを言うわけがない。


「ねーね、ホントに、嘘じゃないの!
俺、超マジメに言ってる!これホント!」


 そんな風に言いながら、高城くんは私の後ろをついて歩くことをやめない。廊下に人がいなくて助かった。ただでさえ人気の彼を無視して歩いているなんてそれでこそ私にデメリットしかないんだもの。

 というか、そろそろ図書室に着いてしまいそうなんだけれど。


「高城くんがどういうつもりで言ってるか知らないけど。例え本当に誘ってくれていたとしても、私そういうの興味ないから。ごめんね。」


 一切振り返らずに、歩きながらそう突っぱねる。けれど高城くんは無邪気な声で「だーかーらー!」って後ろをついてくる。

 本当にしつこい。なんなの一体。いくら高城くんだからと言っても、そろそろ我慢も限界だ。うるさい人は好きじゃないし、そんなウソみたいな話にのるほど私は人付き合いが上手くない。


「ねえ、ていうかさ!高城くんってヨソヨソしいなあ。せっかく同じクラスなのにさっ!領(りょう)でいいよ?」


 ビックリした。

さっきまで後ろを歩いてたのに、いつの間にか高城くんが一瞬で私の前に立ちはだかって、二カッてまた白い歯を見せている。

 とりあえずのこと、彼の人との距離の詰め方が尋常じゃないことはわかった。


「……高城 領。そこをどいてくれない?」

「……片桐 綾乃、俺のバンドに入ってくれる?」


 ふいに名前を呼ばれて顔が熱くなった。

片桐 綾乃(カタギリ アヤノ)、私の名前だ。まさかフルネームを覚えていてくれるなんて思ってもみなかった。


「……入らない」


 なんだかいい思いがしなくて、プイッと横をむく。顔が熱くなったのは気のせいだ。

 名前なんて、それくらいで、恥ずかしい。クラスメイトなんだから知っていたっておかしくない。

名前を呼ばれたのがあまりに久しぶりすぎて、少しびっくりしただけだ。



「俺、綾乃が入ってくれたら、絶対いいと思うんだ」

「突然そんなこと言われても意味がわからないし。第一、バントとか私の柄じゃない」

「そんなことないってば! 綾乃、歌うまいし、可愛いし、カンペキだよ? 絶対ボーカル向いてる!」

「……高城くん、冗談はやめて」

「領でいいよ?」

「……」


 可愛いってなんなの。そんなにサラッと言えるものなの。ていうかそもそも、高城領は私のことなんてなにも知らないじゃない。

 人の中心にいつもいる人って、これだから嫌なんだ。自分の考えにすべての人が賛同してくれているって思ってる。それに、思ってもないことをすんなりと口にする。


「俺さ、聞いてたんだ。合唱コンのオーディション!それで、なんていうか、綾乃の歌声聴いたとき、この子だ!って。直感っていうの?ホラ、なんていうかな、運命?そういうの、感じちゃったんだよね」


 「ね」って顔を少し傾ける。
その顔は物凄く可愛らしいけれど、今はなんだか憎たらしい。


「……運命とか、そういうのホントに馬鹿げてる。だいたい、私は歌なんて上手くないし、バンドなんてやる柄でもない」

「俺、ずっと探してたんだ。俺らの曲を歌ってくれる人。綾乃の声が、まさにイメージピッタリだったんだよ。透き通ってて、キレイで……。自分勝手だってわかってるけどさ、一回だけでも…」

「うるさい、しつこい!」


 感情的になって、声を張り上げてしまった。幸い、聞いてたのは高城領だけだ。

 透き通ってて、キレイとか。私には似ても似つかない言葉。高城領と私は違う。だいたい、バンドってこと自体が私にとったら未知の世界なんだ。カンタンに頷けるわけもないし、高城領の話を信じる理由もない。

 普段の、物静かで優等生のイメージを考えたら、今の私の印象は最悪だろうな。明日から、高城領の取り巻きたちにイジメられたりして。

 でも、これは仕方がないと思う。どう考えたって、こんなからかいを受ける必要なんてないもの。


「……そういうことだから」


 ビックリした顔の高城領の横を通り過ぎる。ちょっと言い過ぎちゃったかもしれない。でも、高城領がしつこいから悪いんだ。




「……ただいま」


 ガチャリ、と音を立ててドアを開く。返事がないのにはもう慣れた。普通の家庭よりも幾分か綺麗で大きな家に住んでいるのは知っているけれど、ここには普通の家にあるものが何もない。

 例えば、愛情。例えば、自分の居場所。

 見慣れない靴があるのに気づいて悪寒がした。高そうな大きなローファーだ。また靴を変えたのか。

 ……お父さん、帰ってきてるんだ。胸がざわついて、息が上手くできなくなる。

 リビングまでの廊下を歩きながら、段々空気を吸うのが難しくなってくる。それは、リビングに近づくにつれて大きくなる両親の話声のせいだろう。

 案の定聞こえてきたのは、言い争っている男女の声だ。私の、お母さんとお父さんの声。


「あなたが悪いんでしょう?!全然帰ってもこなくて!」

「俺だって仕事があるんだっ!
だいたいな、お前はいつもそうやって……!」


 物音をたてないように、リビングの横を見て見ぬフリをして通り過ぎ、いつものように階段をかけあがって自分の部屋に入る。扉の開け閉めの音がしないように、細心の注意を払って。

 自分の部屋に着いた瞬間、ほっと胸をなでおろした。そこでやっと、自分が息を止めていたことに気がつく。

 2階まで、2人の大きな声は聞こえる。顔を合わせればいつもこうだ。お父さんは家にあまり帰ってこないから、久しぶりにこんなに冷や汗をかいた。

 

 今日、成績が返ってくる日だって知っていて帰ってきたのだろうか。カバンの中にいれておいた丸めた成績表をきちんと広げておかないといけない。

 うちのお母さんとお父さんは仲が悪い。口喧嘩はもう日常茶飯事だ。ほんのささいなことで、すぐにぶつかり合う。

 お父さんがめったに家に帰ってこなくなったのもきっとそのせいだと思う。

 帰って来ても喧嘩ばかり。正直帰ってきたくないんだと思う。私だってこんな家に帰ってきたくないのに、大人のお父さんが帰って来たいと思うはずもない。


 昔は、仲のいい3人家族だった。


 それを変えたのは、紛れもなく私のせい。私のせいで家族がバラバラになってしまった。それをちゃんと、ハッキリ、私はわかってる。


「オマエがあの子を……綾乃をちゃんと見ておかないからだろう!」

「私だって母親としてやれることはやっているわよ!」


 視線を下に向げた。目の前では名前なんて久しく呼ばれていないのに、2人の喧嘩には私の名前がよく飛び交う。

 とっさに近くにあった参考書を開いて机に座った。イヤホンをつけて、大音量で音楽を流す。


 問題を解くと、何もがすくわれる気がした。勉強に集中すると、他の物が何も気にならなくなる。この世界から、抜け出せたみたいな気分になれる。


 私は勉強が好きなわけじゃない。
だけど、勉強をしているときが多分一番落ち着いていられるんだと思う。

 勉強という逃げ道しか、私にはない。

 私の存在を肯定してくれるのは、たぶんあの丸めた成績表に写った『1』の文字。ただそれだけだ。