◇
「で、綾乃はわかったの? デートとか恋とかいうやつを」
「う、うん……まあ、そこそこには」
「へえー、まあ確かに、この歌詞見る限りはケッコー成長してんじゃん?」
「うん、いいんじゃない」
夏休み明け、1日目。
ホームルームと課題チェック、それから新学期がはじまる簡易的な式を済ませて午前中のみの学校が終わった。久しぶりだからか、制服が堅苦しく感じる。
そのまま音楽準備室に移動すると、怜と浩平が先に待っていて開口一番に「で?歌詞かけたの?」と催促してきたのだった。
ちなみに人気者の領は、久しぶりに会ったクラスメイトたちに囲まれていて、しばらく抜け出せなさそうだった。
「昨日寝ないで書いたんだから」
「ふーん、いいじゃん」
「もう、誰のせいだと思ってるの!」
「まあまあ、怒んなって綾乃ー」
そう、実は昨日のデート、あの後すぐに怜から電話がかかってきて中断になったのだ。理由は怜が電話口で「課題がおわんねー」と泣きついてきたから。
そのままふたりで怜の家近くのファミレスに直行。領も終わっていない課題があったらしく、私は2人に教えたり手伝ったりしながら夜まで課題地獄に付き合った。
私が歌詞を書いたのはその後。深夜の2時までかけたんだから。
「つーか綾乃、大丈夫なん?」
「え?大丈夫って、何が?」
「知らないんだ」
浩平の小声にはてなマークを浮かべると、怜が盛大にため息をつく。「ホントにウチら以外に友達いねーのな」なんて悲しい一言付き。余計なお世話!
「で、なんの話?」
「けっこー噂になってんだよ」
「え、噂って、何の?」
「アンタと、領のコト」
私と領のこと?
思い当たる節がなさすぎて首を傾げると、また深いため息をつかれる。第一、基本的に私は優等生で良い子を貫いているんだから人の噂話に名前が出ることは殆どない。
「昨日デートしてたところ、同じガッコーのやつに見られてたんだって」
「あ、そうなんだ」
「そうなんじゃねーっつーの」
デート、とはいえ。歌詞を書くための「仮」デート。私は領への気持ちを自覚してしまったけれど、そこから何か進展があったわけではないし、第一夏休み前だってクラスで私と領はよく一緒に行動していたはず。
一緒にいるところを見られたなんて、今更焦ることでもないと思うんだけれど……。
「だーかーら! アンタたち手繋いでたらしージャン?! それで領のファンやら何やらが騒いでんの!」
「あ……」
そこまで言われてやっと気づいた。確かにそうだ、昨日、駅に着いた時からずっと手を繋いでいたんだった。
「そ、それって、付き合ってるって思われてるってこと?!」
「そりゃそーよ、厄介なことしてくれんジャン領のヤツ」
「で、でも領ってフレンドリーだし、誰にでもああいうことしてるんじゃ……」
「バカ! 領はああ見えて一途だし馬鹿みてえに硬派なんだよ! つまり、付き合ってる女子にしか手なんて繋がねーの」
「ええ……」
じゃあ昨日は、私が歌詞を書けるために、リアリティを出すために、手を繋いでくれたってこと? ……それとも?
「とにかく、変なやっかみ買うよーなことすんなよ、領は以外とガチファンが多いんだから」
「うん、気をつけた方がいいかもね」
怜と浩平の言葉に、何も言えず頷いた。
◇
噂というものは、案外すぐに広まって、しかも一人歩きしてしまうものらしい。
「ねえ、領って片桐さんと付き合ってるの?!」
そんはウワサが広まって、友達がほとんどいない私の耳にまで届くようになるのに3日もかからなかった。
怜と浩平が言う通り、領のことを好きな女の子って案外たくさんいる。それが恋愛の類じゃなくても、人は人の噂話が大好きみたい。
クラスメイトはもちろん、他クラスの子や他学年の子、終いには先生にも噂は広がって、放課の時間に私たちの教室に人が集まるようになってしまった。みんな、真相を確かめようとしているんだ。
でも、そう聞かれると決まって領は何も躊躇わず笑顔で答える。
「えー、ナイショー」
その無邪気な笑顔にそれ以上何も突っ込めない外野は黙るしかない。もちろん、私には何も聞いてこない。
正直「付き合ってないです!」と言いたいくらいなんだけれど、領が泳がせてるから仕方ない。私が声を上げられることではないし。
……だけど、授業が終わるたびにクラスに人が集まるのは、正直邪魔、だ。
学校にいる間は勉強に集中したいのに。人の噂話によくもまあそんなに気力を注げるものだと逆に感心してしまう。
◇
「まさかあの高城くんがねー」
「あのかわいー目が好きだったのに!」
「話すと本当優しくてさー」
「誰でも好きになっちゃうよね」
「でももう彼女持ちでしょ?」
「今までいなかったのが不思議だけどさ」
「相手はあの、学年1位の子だって」
「片桐サン?」
「えー、正反対じゃない?」
「夏前に領がバンドに誘ったらしいよー」
「真面目な顔してコワイねー」
「領の趣味わかんない」
最初は興味本位だったものも、日が経つにつれて段々と悪意に変わっていくものらしい。
そんな会話を聞こえる位置でわざわざ話す他クラスの女の子たち。悪意は、きっとある。
わかってるけど、そんな風に言わなくたっていいのに。領と私じゃ光と影だ。そんなこと、人に言われなくてもわかってる。
だけど、こうもハッキリ噂が耳に入ってくると……意外と精神的にくるものがあるらしい。
それに、今まで優等生の良い子で通っていた私にとって、悪い噂は心臓に悪いのだ。
否定も肯定もしない領にやきもきするけれど、何を言っても「面白いからこのままでいーんじゃない?」と笑うだけ。
本当は否定してくれてもいいんだけどな。付き合っていないし、両思いなわけでもない。
───私の片思いだ。だからこそ余計に、この噂を完全否定出来ないでいる。
「はあ……」
あまりの周りからの視線と棘のある言葉たちに、ずっとストレスを抱えている。きっとそれは領もなんだろうけれど。
とりあえず席を立って人気のない場所に行こう。もう昼休みだし。
いつものようにクラスメイトに囲まれながら、他クラスの女の子の質問にも笑顔で返している領を横目に教室を出る。
お昼くらい、静かな場所で食べたい。
と、廊下を歩いていると、どこからともなくまた派手な女の子達の会話が耳に入ってきた。
「あれ、いま噂の片桐さんじゃない?」
「ホントだ、地味だよねー」
「もー、マジで領ってあの子と付き合ってんの?」
「信じられないよねー」
「ちょっと聞いてみる? 人いないし」
「いつも声かけづらいけど今なら行けそうじゃない?」
あ、やばい、こっちに向かってくる。
直感でまずいと思った私はくるりと方向転換して1番近くの階段を全速力で駆け上がった。そのまま逃げるようにして廊下を進んだけれど、どこにいても噂されているような気がして。
結局私は、"音楽準備室″に逃げ込んだ。
◇
「はあ、もう、何でこんな目に……」
急いで中に入って扉を閉めて、はあー、と大きな息を漏らす。これじゃ勉強にもバンドにも集中できない。本当に良くないことだ。
「はは、たいへん、一気に有名人」
いきなりした声にばっと目を見開く。その声の方向に顔を向けると、窓の側で浩平が座り込んでいた。床に胡座をかいているから、高さ的に気づかなかったみたいだ。
「浩平、いたんだ」
「モテる奴は大変」
「領のこと?」
「うん、あいつは誰にでも愛想振りまくからああなる。自業自得」
浩平が言うとなんだか説得力がある。だって、ルックスは領と変わらないくらい良いはずなのに、クールで愛想を振りまかない浩平はあまり女の子に騒がれない。影ではきっと相当人気なんだろうけれど。
どちらがいいかなんて正解はないけれど、今は領の人気が仇となってこちらにも迷惑だ。
「昼休み、終わるまでここにいていい?」
「うん、どーぞ」
浩平の言葉に、窓際のパイプ椅子に座った。浩平は楽譜やら雑誌やらを拡げて、尚且つ本を読んでいるみたい。
前から思っていたけれど、浩平はきっと集中力が異常に高くて、同時間にいくつものことをこなせる要領のよさがある。じゃなきゃ、学年2位の勉強量にバンド練習、加えてアルバイトだなんてこなせるわけがない。
「何読んでるの?」
胡座をかいて、猫背を前屈みにして食い入るように読んでいる。ブックカバーのかかったそれは何の本だか見当もつかない。
それに、楽譜や雑誌を広げながら読んでいる意味もわからないし。
私って、あまり浩平のことを知らない気がする。
「音楽の本」
「アバウトだね」
「俺の好きなバンドのボーカルのエッセイ集」
「へー! おもしろそう! だから楽譜広げてるの?」
「うん、こうやってそのバンドの楽譜やインタビュー記事を見ながら読んでると、もっと深く知れる気がして」
いつもより饒舌に話す浩平に何故だか心が躍る。本当に好きなんだろうな。雑誌の年号は数年前だし、楽譜は年季が入っている。
浩平の好きなバンド、私も知りたい。
「そのバンド、あたし知ってる?」
「うーん、どーだろ」
「有名な曲ないの?」
「あ、そういえば、最初にコピーバンドしたやつだよ」
「え?」
「夏にさ、綾乃のデビューライブの日。ひとつコピー曲やったでしょ。あの曲歌ってるバンド」
思い出す。そして、何度も練習した音楽が頭の中に流れ出す。長いイントロとボーカルの高低差が特徴の、激しい一曲だ。
領のギターも、浩平のドラムも、怜のベースも、観客の声援も、全部まだ覚えてる。
あの達成感と高揚感が、私を頑張る気持ちにさせてくれた。
「そっかあ……あの曲、私もすごく好き」
「うん、綾乃の声にあってた」
「他の曲も聞いてみたいかも」
「今度アルバム貸そうか?」
「え、いいの?」
「うん、全部家にあるから」
「へえ!」
───ガラッ
突然勢いよく開いたドアの音にびくりと肩が跳ねて、同じように驚いた浩平と目があった。そして2人とも同時に扉の方へ視線を向ける。
「……なーにしてんのー」
その声の主は、心なしか不機嫌な領だった。
「領こそ何してんの」
浩平の声にヘラッと笑う領。右手で扉を閉めて、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「いや、綾乃が教室にいなかったから探してた」
「……居づらくて」
「そーだよね……それで、なにやってんの、ふたりで」
にこにこと笑っているけれど、どこか棘のある言い方だ。領がこんな態度を取るなんてすごく珍しい、というか初めてだ。
「バンドの話してただけだけど」
「そ、っか」
「領こそ何しに来た?」
返す浩平もなんだか態度が悪い。空気が悪い。私はこれ以上何も言わないでおこう、と口をつぐんだ。
「だから、綾乃を探しに──」
「あのさ、領、そろそろちゃんと周りに言ったら」
「え、何が」
「綾乃と付き合ってるって、否定も肯定もしないで宙ぶらりんにしてるから噂が止まらない。綾乃、迷惑してる」
迷惑、というか。
人に噂されるのって、いいことばかりじゃない。やっぱりそれなりに悪意のあるものだって付き纏うし、何より集中したい時に出来ないことがストレスになる。
「……わかってるよ、おれだって」
「じゃあなんで否定しない?」
「手繋いだなんてことが噂になってるんだ、これで彼女じゃなかったら、綾乃がやっかみをかうとおもったんだよ、」
「それは、どーいう……?」
「俺の彼女ってことになってれば手は出されないだろうけど、ただの友達なのに手繋いでデートしたなんて知れたら、……綾乃に嫌な思いさせるかもしれない」
それはつまり、領のファンたちに私が何かされることを防ぐために、彼女ということにしているっていうことだろうか。
領の彼女という立場なら、悪い噂はたっても手は出せない。
───私のためだったんだ。
「……だとしても、やり過ぎ。さすがに綾乃も可哀想」
「ごめん、おれが手繋いだりしたから……」
「いや、それは全然良いんだけど、うーん……」
確かに、このまま実は付き合ってませんでした、ともなれば皺寄せは全て私にやってくる気がする。
「否定も肯定もしないで、噂がなくなるまで待つのが1番良いって思った、ごめん綾乃」
「ううん、そうだよね……領のこと、私全然わかってなかった」
「……ていうか、ふつーに綾乃にわるい虫がつかないよーにしてるのもあるんじゃない」
浩平が領を睨んでそう言うと、「まーね、ごめん」と口を尖らせる領。
悪い虫って、心配しなくても私は男の子と話すことなんてほぼないし、バンドを辞めることもないんだけれど。誰かに他のバンドにスカウトされるとでも思ってるんだろうか。
「……うん、でも、ごめん、全部おれの自分勝手だ」
はあ、と浩平が大きく溜息を吐いて立ち上がる。
「とりあえず、当事者同士でよく話し合ったら」
「浩平……」
「バンドに支障出さないでね、じゃ」
ひらひらと手を振って部屋を出ていく。重たい空気が部屋中に広がっている。だって、いつも笑顔の領がそうじゃないから。
「ごめん、綾乃、おれ、ちょっと焦ってたのかも」
「焦る?」
「……囲うようなことしてたかも、綾乃が、どっかいっちゃうんじゃないか、ってさ」
「それは、どういう、」
「b-stationのこと。綾乃、どう思ってる?」
見上げると、領が今までにないくらい真剣な表情でこちらを射抜いていた。そうだ、わたし、まだ返事をしていない。
今後、はるとうたたねとして活動を続けていくのかどうか。
「怜と浩平にもちゃんと話した。ふたりは今後もバンドをやってく覚悟を持ってくれてる」
「……うん」
「───綾乃はどう思ってる?」
あのとき聞かれた言葉と同じ。まっすぐに私を射貫く目は真剣に、だけどもやさしく、すべてを私に委ねている。
わたしは。
最初のステージを終えて、抜けきらない感覚を忘れられないまま、何度も違う会場で違うステージに立った。夏休みの間、できるだけ本番を迎えた。染み渡っていく感覚、覚えていく感情、とまることのない期待。
その度に、感じたことのない高揚感と気持ちよさ、ステージの中心から見る景色に何度も泣きそうになった。
───それは、世界でいちばんきれいな光景。
「わたし、ね」
「うん」
「───歌が、歌いたい」
「うん」
「はるとうたたねの一員として、一緒に、夢を見たい」
あ、と思う。
溢れた涙の粒が頬を伝った。気づいたら溢れていた。それを止める方法なんて、今は見つからない。
───ずっと、言ってはいけないと思っていた。認めてはいけないと思っていた。
勉強して、良い成績をとって、良い人生を歩むレールに乗ること。それがすべてで、『1』の数字をとり続けることが私の生きている意味で、存在価値で、自分の意思なんて必要ないと思っていた。
けれど、違う。それは違った。
自分の意思で、自分の言葉で、認められる。認めてあげられる。
「b-station 、わたしもでたい」
そうだ、これが、私の本当の気持ちで、本当の言葉だ。
「うん、綾乃、一緒にやろう」
領の顔は、涙で滲んでよく見えない。だけどその声が、ひどくやさしく耳に届いて、私はもっと泣きそうになる。
「俺らと、夢、見よう」
馬鹿馬鹿しくなんてなかった。音楽を誰かに届けること、誰かと一緒に夢を見ること、私たちだからこそつくれるものがあるんだ。
「文化祭まで、あと1週間ー!」
そう大きく声を張り上げたのは領。よくもまあまだそんな元気がある物だなあと他の二人は顔を見合わせてぐっだりしている。
───夏休み明けから1ヶ月。10月中旬の文化祭と、その次の日のb-station出演に向けて、私たちは毎日8時まで猛特訓していた。
通常の部活動が学校に残っていいのは7時半まで。つまり、7時半までは音楽準備室を使うことができるのだ。
時々スタジオを借りたり、領の家にいったり。とにかく時間をかけて、個人練習から合わせまで入念に何度も音を合わせていく。
新譜というだけあって、表現方法やピッチ、速度、全部いちから相談して合わせなきゃいけない。ひとつひとつの音符に意味があるんだ。
「それにしても、綾乃の歌詞いいなー」
「うん、ウチもこの曲イチバン好き」
領の言葉に怜が頷く。デートの後、徹夜で仕上げた歌詞はみんなに好評で、この1ヶ月の間にあった小さなライブでも観客からかなり大きな歓声をもらった。
「とりあえず今日はこれで終わりなー」
「もーヘトヘト、ラーメン食いにいかねー?綾乃」
「私は明日の予習があるから……」
「エライなホント」
「怜も見習ったら」
「それは無理」
もちろん、バンド活動をやるだけじゃない。今まで勉強していた時間を減らした分、短い時間の中で成績をキープする為に毎日の予習復習に気合いをいれている。私は案外短期集中型みたい。
◇
「ハイ、綾乃」
「わ、ありがとー!」
帰り道。この後バイトに行くというふたりと別れて、怜と一緒に肩を並べた。怜が『そろそろ肉まん売ってそうじゃね?』と言うのでコンビニに寄る途中、『奢るからちょっと付き合って』と公園のベンチに座らされたのだった。
「もう売ってるんだね、肉まん」
「おでんや肉まんが一年間の中でイチバン売れるのって、売り始めの秋らしーよ」
「え、そうなんだ、冬だと思ってた」
「新鮮な物にはみんな食いつくからね」
怜が隣に腰掛ける。渡された熱々の袋を開くと、湯気の上った白い肉まんがひょっこり顔を覗かせた。
確かに、いつもは見ない商品が店頭に並んでいるのを見ると、つい欲しくなってしまうことと似ているのかも。スタバの新作に並ぶ女の子たちと同じ原理だ。
そのままぱくりとかぶりつくと、柔らかい生地に中から肉汁がぎゅっとあふれ出て、思わず目を細めてしまう。
「美味しいー」
「な、なんでかこの季節に食べる肉まんもウメーんだよなー」
怜も片手で肉まんにかぶりつく。
「それで、何か話だった?」
「ん?」
「怜、何か話したそうにしてるな、って」
「あー……」
思い返してみれば、怜と二人きりになること自体結構珍しいことだ。大体私たちはいつも4人でいるから。
「あの歌詞さ」
「うん?」
あの歌詞、つまりきっと私が初めて作詞した歌詞のことだろう。
「───領に向けて?」
「えっ」
びっくりして、思わず持っていた肉まんを落としそうになってしまった。反射的にぐっと力をいれたから、それはなんとか阻止できたんだけれど。
「あれ、完全に片思いの曲だろ。リアルだし、綾乃の気持ち出てる。いい歌詞だけどね」
「えっと……」
「領のこと、好きなんだろ?」
「……」
どうしよう。
素直に頷いていいんだろうか。
確かにあの歌詞を書いたとき、頭の中にはいつも領がいた。デートの日に気づいてしまったけれど、私はどうしようもなく、高城領という人間に惹かれてしまっているんだ。
「隠さなくていーって、悪いことなんかじゃないじゃん?」
「でも、」
はるとうたたねで私が歌を歌う理由は、"領が好きだから"じゃない。自分の意思で、3人と夢を見たいと思ってる。それを勘違いされたくなかった。
「わかってるよ、綾乃のこと、案外ウチ信用してんだからさ」
「怜……」
「綾乃は言いにくいかもしれないけど、同じオンナとして、頼ってくれよって話!……友だち、だろ?」
怜を見る。赤くなった頬を見て、少し照れているのがわかった。
友だち。今更な単語のような気もするけれど、言葉にするとその重みがしっかりと伝わってくる。女の子同士が当たり前にしているような恋の話。誰かにしたことなんてないから。
「うん……わたし、領が好き、だと思う、」
「やっと言った」
「ごめん、隠してて……」
「まあモロバレだったケドな」
「領には黙ってて欲しい……」
「んー、つーか告白とかしないの? 付き合いたいとか思わねー?」
「告白なんて……私じゃ釣り合わないよ」
そうだ、バンドに誘って貰って、こうして同じ時をたくさん過ごしているけど、これはほとんど奇跡みたいなもの。調子に乗るのはよくない。領のまわりには綺麗な女の子がたくさんいるんだし。
「バカだなー、領のこと、わかってるようで全然わかってねーな、綾乃」
「そう、かな」
「まあ、伝えるのも伝えないのも綾乃の自由だけどさ」
「うん、」
「伝えないで後悔だけはすんなよ?」
伝えないで後悔、か。
領への気持ちは明確なものじゃない。そもそも恋とか好きとか、そういう類いの気持ちを明確にしたことがないし、よくわからない。
けれど、何故だか目で追ってしまっている。何故だか領の笑顔をいつも思い出してしまう。心の底から、尊敬していて、カッコいいと思っている。一途にバンドやギターに向き合う姿勢、誰の前でもやさしく明るく振る舞う性格、全部、領のこと、尊敬しているんだ。
「うん、ありがとう、怜」
怜の方を見て微笑むと、「ま、なんでも相談してよ、ウチは綾乃の味方だからさ」と、屈託のない笑顔を向けてくれた。
◇
「綾乃、そこちょっと音上がりしすぎ」
「ごめん、歌ってるとつい……」
「浩平は序盤のリズムが速くなりがちだからもっと性格にテンポとれるよう練習して、怜はのってくると周りの音聞こえなくなってる」
「ゴメン、気をつける」
「領も割と勝手に飛ばすから気をつけて」
みんな、今までないくらい真剣に合わせていく。合わないところは全部言い合って、その曲にベストな演奏方法を模索していく。
「ここはあくまで綾乃メインだから、目立たないで」
「ギターソロもうちょい派手でもいいと思う」
「ピッチ合ってない、チューニングして」
「指まわってないよそこ」
「もう一回合わすよ!」
何度も、何度も繰り返して、楽譜はメモ書きだらけで黒くなっていく。私も夏休みよりは長く歌えるようになってきたけれど、一日に気持ちよく歌える時間は3時間未満。それもこまめに休憩を挟みながらだ。
意見を言い合えること、ダメなところもいいところも一緒に乗り越えていけること、きっとこれが仲間っていうやつなんだろう。
───そして私は、その仲間の一員にいる。
今までじゃ、考えられなかった。
「──今のいいじゃん、合ってる」
「うん、サイコーに気持ちいい」
そうだ、思えば、私がここにいること、この人たちの中で一緒に音楽を作っていること。
「綾乃、高音の伸びもよくなったし低音もしっかり出てる」
「あー、本番楽しみ、」
「もう一回いこ!」
それこそ、奇跡、なんだよ。
◇
文化祭前日、スタジオ練習と本番での体育館練習を終えると、もう時刻は20時をまわっていた。他の部活動や出し物をするグループも残っていて、その中にはいくつかバンドもあった。
「ついに明日、緊張する……」
「これだけ練習したんだからダイジョーブ! 綾乃、最初よりすっげえ上手くなったし!」
帰り道、怜が気を利かせたのか浩平と帰ると言い張ったので、領とふたりで歩く。暗い夜の道、月に照らされてうっすら2人の影が映る。
「ありがとう、嬉しい、」
「うん、お母さんには明日来て欲しいって言えた?」
「一応ね、部活の発表するから来て欲しいとは伝えたんだけど……」
「来てくれるといいね、お母さん」
「うん、」
一週間前くらい。毎日帰りが遅い私に、お母さんから『部活、忙しいの?』と問いかけられた。
普段ほとんど会話をしない中で、気にしてくれただけでも心臓が痛くなる。勇気を出して文化祭のチラシを渡して、『見に来て欲しい』ときちんと伝えた。
お母さんは一瞬黙って、『……あけとくわ』とひとこと言ってくれた。
「領が誘ってくれなかったら、こんなこともなかっただろうな、」
「全部綾乃が頑張ってるからだよ」
「ううん、本当に、奇跡みたいなことなんだ、今のこの状況も、」
「バーカ、綾乃。奇跡なんかじゃないよ。おれ、最初に綾乃の歌声を聞いたときから、『ああこの子、仲間になる子だ』って思ってたよ」
「何それ、運命ってこと?」
「そう。きっと必然ってこと」
領の、この白い歯を見せて笑う表情が好きだ。たぶん、誰よりもずっと。
───明日は本番、文化祭。
◇
───パンパンッ
開始時刻と共に鳴ったピストルの音に続いて、どこからともなくあがる風船たちやカラフルに飾り付けられた校内。教室からは一斉にみんなが飛び出していく。
待ちに待った、文化祭当日。
本番までは時間があるので、私も領と一緒に廊下に出ると、派手に飾り付けられた校内に、食べ物を売り出すクラスからいいにおいが漂っていた。
「焼き鳥いかがですかー?!
「ここのお化け屋敷、めっちゃ怖いですよー!」
「映画研究会でーす!」
「美術部展示してるので見に来てくださいー!」
どこからも勧誘の声が聞こえてくる。私たちもした方がいいのかな?と領に尋ねると、だいじょーぶ、絶対満員になるから、と笑顔で返ってきた。
そういえば、私のクラスの出し物はたこ焼き屋さんだけど、領と私は一切手伝いナシになっている。本来ならシフト制で店員担当しなきゃいけないんだけどね。
人徳のある領が説得してくれたんだ。バンドの練習があるから、って。
「おい綾乃、メイクすんぞ」
「え、」
いきなりグイッと後ろから肩を引かれたと思うと、そこにはいつもより派手にメイクした怜が立っていた。
「怜!」
「領もみたいだろ? もっと可愛くなった綾乃」
「これ以上可愛くなったら困るけど、怜に任せるー」
「えええ……」
「んじゃいくぞ、ぜってーかわいくしてやるから」
強引に手を引かれて走り出す。特別な日の始まりだ。
◇
連れて行かれたのは音楽準備室。自前の大きな鏡にたくさんのメイク道具、髪を巻くコテにヘアオイル。怜の美意識の高さには毎回驚く。本番前はいつもこれだ。
鏡の前に座らされて髪を巻いてもらうと、自分が自分じゃないみたいに思えるんだ。
いつもはワンピースに着替えるけれど、今日は制服。校則違反だけれどスカートは限界まで短くして、胸元のボタンは2つあけた。リボンはゆるめに。これも怜のセッティング。
「本番まで、あと何時間?」
「ん、1時間半」
「え、ホントに?!」
「綾乃がもたもたしてっからー」
「う、ゴメン」
そんな、なんて思いながら、私の心臓はうるさい。最低でも30分前には本番裏に集まらなきゃいけない。その30分前には4人でチューニングを兼ねた最終確認だ。
歌詞、間違えずに歌える? 音程外さずに歌える? 周りの音、ちゃんと聞ける? 失敗しない? 大丈夫?
───"大丈夫″
どこかから、声がしたような気がした。
「今……声しなかった?」
「ん? してないけど?」
じゃあ、今の声は……きっと、私の心の声だ。
私の心の中が、今までの経験や練習が、大丈夫だ、って言ってるんだ。
ふう、とひとつ大きく息を吸い込む。
できる、やれる、大丈夫だ。
本番20分前。十分にチューニングと最終確認を終えてから、舞台裏で待機。出演順ひとつ前のバンドを聞きながらケータイを見る。
お母さんからの連絡は、ない。
今朝、『今日、文化祭だから』とは伝えたものの、いつも通り冷たい反応で、来るともこないとも言われなかった。この前渡したチラシに、一応私たちの出演時間と出演場所はメモとして書いておいたけれど……伝わっているかは謎だ。
「綾乃、お母さんから連絡あった?」
こそ、と。小声で領が耳打ちした。
「ううん、ない。来てくれないかも……」
手の震えを抑えるように、右手に握ったケータイを左手でぐっと押さえる。来て欲しいと思っていた。見て欲しい、変わった自分のこと、変わりたいと思っている自分のこと、誰より近くにいるようで、一番遠い場所にいる家族に。
「じゃあさ、」
「……うん?」
「ステージに立ったら、まずは深呼吸して」
「うん」
「それから、目を閉じて」
「うん」
「3秒数えたら目を開いて、観客全員の顔をしっかり見るんだ」
ひとりひとり、確実に。
いつものステージとは違う。クラスメイトや、見たことのある生徒たち、お世話になっている先生方、他校からファンもやってくるかもしれない。知っている人たちで構成される観客席だからこそ、見なきゃいけないものがある。
「おれたちの音楽を聴きにきてくれてる」
「うん、」
「その中にお母さんがいるかはわからないけど、どんな状況でも、どんな人たちでも、全力で伝えたいと思わない?」
「ベストを、尽くしたいと思う」
「うん、大丈夫だ。綾乃、目が強くなったね」
───「はるとうたたね、本番3分前です、舞台裏最前出てくださいー」
本番は、もう目の前だ。
出演順ひとつ前のバンドが最後の1音を弾き終わると、ステージのスポットライトが消える。運営の生徒に促されてステージへとあがる。
「次は、最近巷で大人気のバンド、"はるとうたたね"です───」
司会者の男の子が場を繋ぐ。観客からは歓声がおこって、「領ー!」と個人名を指す声も聞こえた。もちろん私の名前を呼ぶ人はいないけれど。
セットし終わって、領が舞台裏へと手を挙げて合図する。運営に、準備オーケー、の合図だ。
まだステージが暗いうちに、お決まりの長いイントロが始まる。領に言われたことを思い出して、ぐっと右手を握った。
ライトがつく3秒前、大きく深呼吸する。
ライトがつく1秒前、目を閉じる。
ライトが光った2秒後、ゆっくりと目を開いた。
───体育館を埋めるほどの観客が、こちらを見ていた。
クラスメイトも、他クラスの派手な子も、他学年でかわいいと噂のあの子も、いつも数学を教えてくれる先生も、よくライブを見に来てくれている他学校のあの人も───みんな、目を輝かせて、こちらをみている。わたしたちの歌を、聞こうとしてくれている。
だめだ、泣きそう、ちゃんと聞け!
イントロの旋律を奏でる領のギター、それを支える怜のベース、曲のテンポをすべて牛耳っていく浩平のドラム。
───聞こえる、だから、歌える。
大きく息を吸い込んで、最初の1音を声にしたらもうあとは自然に身体がついてくる。何度も何度も歌った。何度も練習した。何度も、3人の奏でる音楽と合わせた。
だから、歌える。
思えば、私ってこんな人間だった?
人生の成功者を気取っていたくせに、たった2度の失敗で何もかもがダメになってしまった私。
対人関係もうまくいかなくなって、ひとりでいることが多くなって、誰かに頼る方法を忘れてしまっていた。気づけば暗くて地味で、かろうじてなんとか毎回とり続ける『1』文字だけで存在価値を見出していた。
努力しなきゃ、他に何の取り柄もない、本当に出来損ないだと思っていた。
───だけど、変わった。
例えば、授業中の空の色。誰かと「また明日」と次の日の約束を交わすこと。夕日に並んだ影、夏休みの蒸し暑さ、帰り道に食べる秋の肉まん。そして、ステージから見るこの景色。
自分がいるこの世界が、こんなに美しいって、知らなかった。
人と関わること、会話をすること、意思を伝えること、誰かと何かを作り上げること、誰かを好きになること、誰かと思いを共有すること、仲間、という言葉の意味。
全部、はじまりは『ボーカルやらない?』というきみの一言だった。
それがやがてだんだん大きくなって広がって、"はるとうたたね″のひとりになった。
世界が、変わった。
――――……ジャンッ
「今日はありがと―――!!!」
大きな歓声と拍手が会場を包む。いつもそうだ。歌っているときはほとんど無意識の領域にいて、最後の1音と領のこの声で目が覚める。
まるで夢を見ているみたいな感覚。
「最後に、覚えていって!俺たちの名前───」
領のが私のマイクを奪って、叫ぶ。観客は今までにないくらいの歓声と拍手で私たちを包んでいる。全部見える。笑顔も、涙も、汗も、全部。
私たちの音楽を、聴いてくれた。
「───はるとうたたね!」
領がステージの少し後ろにいる浩平と怜を私の隣まで連れてきて、全員横に並んで手を繋いだ。そのまま両手を思いっきり上に挙げて、勢いよく頭と一緒に振り落とす。
4人で手を繋いでお辞儀する。顔をあげるまでずっと歓声は鳴り止まない。スポットライトの明かりと会場の熱気で頬が熱くなる。
涙が出る、今この瞬間、私がここに立っていること、認められたみたいで。
◇
まだ歓声は鳴り止まないけれど、出演時間は決まっているので運営に舞台裏へと促され、戻る。アンコールの声と拍手はここまでまだ聞こえている。どうしよう、泣きそうだ。
「あー、ホント、サイッコー!」
「やっと終わったな、」
怜と浩平の言葉に、領が「まだ、」と呟く。私たちはそんな領を見る。
「綾乃、ケータイ見た?」
「え……」
領に言われてケータイを開く。そこには一件の新着メッセージ。
―――――――――――――――――
件名:綾乃へ
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
よかった
歌、こんなに上手くなったのね
―――――――――――――――――
手が震えた。差出人は、お母さんだ。
「領、なんで……」
「見えなかった? 観客席に綾乃とそっくりの人いるんだもん、おれはすぐわかったよ」
「ウソ……」
あんなに観客席を見渡したのに、お母さんの姿を見つけられなかった。やっぱり私はまだまだ領には敵わない。
「今走れば間に合うんじゃない?」
「でも、」
「言わない後悔より言って後悔!」
「……っ」
「綾乃が帰ってきたら、打ち上げな!!!」
「ありがとう、」
トン、とやさしく押された背中。怜と浩平もすべてを悟って、私をやさしい目で送り出してくれている。
「───頑張れ」
話をしなくちゃならない。今日という日、領が、はるとうたたねが用意してくれた奇跡のような日。
もう逃げない、向き合う姿勢が、私には足りてなかった。
◇
走った。色とりどりに飾られた校舎内、いつもより人で溢れかえっている。そんな人ごみの中をかき分けて走る。
時々、「ねぇ、アレ、はるとうたたねのボーカルの子じゃない?!」なんて声が耳に入ったりしてきても、足を止めるわけにはいかなかった。
体育館から校門まで一番わかりやすくて近いルート。まだ学校の中にいるなら、この道のどこかにいるはず。
走って、探して、目をこらして、───見覚えのある背中を、見つけた。
「───お母さん!」
久しぶりに呼んだその単語。驚くように振り向いた顔。名前を呼んだわけじゃないのに。私の声がわかったんだ。
「っ……はぁ、っは、……話を、しよう?」
全力で走ってきたせいで息が切れる。数メートル手前で足を止めて、膝に手をつく。ぎゅっと目をつぶった。
何を言われたって構わない。私は、私のできることをする。自分の意思で、行動するんだ。
「……そこにいたら通行人の邪魔になるわよ、こっちへいらっしゃい」
お母さんは、そう言って私を手招いた。
◇
「座りなさい」
こんな日でも人通りの少ない校舎裏のベンチに腰かけた。途中、息が切れている私を見かねて冷たいお茶のペットボトルを買ってくれた。
それを握りしめて、お母さんの横に並ぶ。
遠くで、にがやかな文化祭の音が聞こえる。ここだけ、しんと静まりかえっている。家以外で顔を合わせることなんて何年ぶりだろう。
重たい空気に、負けたくない。
「……あのね」
少しの沈黙、息をしっかりと整えた後、口を開いたのは私だった。
言わなくちゃいけない。言いたかったこと。言えなかったこと。
───『頑張れ』
領の言葉が浮かんできた。私の背中を押したときの優しい手のぬくもり。それを見守っていた浩平と怜の強い眼差し。
わたし、もう、一人じゃない。
「私、ずっと、1位をとることが自分の存在価値だと思ってた。そうしなきゃ、この家にいちゃいけないって、生きてちゃいけないって、そう思ってた」
言った瞬間、涙が出た。
お母さんが聞いてくれてる、私の言葉を、想いを。
どう思われるか、何を言われるか、そんなことわからないけど。
もう、黙っているだけの生活は終わりにしたい。
「お母さんやお父さんの期待を裏切りたくなくて、勉強ばかりしてた」
「……」
「受験で失敗して、プライドも、自信も、家族の期待も、全部失って、」
受験合格発表の日。自分の番号がそこになかったあの日。友だちと距離を置いたあの日。お母さんと上手く話せなくなったあの日。お母さんとお父さんが私のせいで喧嘩をはじめたあの日。
何度も、何度も何度も自分のことをせめて、泣いて、思った。『生まれてこなきゃよかった』って、何度も。
「だけど、ね。わたし、変わった。変えてくれる人たちに、出会った」
そう、今、この瞬間だってそうだ。こうやって、自分自身に向き合うきっかけをくれた。逃げ出さない勇気をくれた。
「あのバンドに入って、私、変われたの」
「……」
「お母さん、お母さんの期待通りに生きれなくて、ごめん。何度も失敗して、ごめんなさい。だけど私、もう、自分の意思で歩ける。歩いて行ける」
自分の道は、自分で決める。誰かの物じゃない。
少しの沈黙。お母さんの方は見れなかった。そこは私のまだ弱い部分だ。
「……私の話も、聞いてくれるかしら」
「……うん」
「綾乃は昔から本当に素直で、何をやらせても人より器用にこなして、正直私もお父さんも誇らしかった。同時に、過度な期待もしていた」
キッパリと言われた言葉。私が、今まで演じ続けてきた自分。
「……でも、完璧なんてあるはずないのよね」
完璧を追い求めてきたけれど、結局ずっと、掴むことができなかった。
「今まで上手くいっていた分、失敗したあなたのこと、上手く励ますことが出来なかった」
「……うん、」
「期待していなかったといえば嘘になるけれど、本当はこうして、私からあなたに言葉をかけなくちゃいけなかった」
「え……」
「お父さんもお母さんも、受験に失敗してるの。上手くいかなかった過去があるからこそ、あなたには厳しくしてしまった。……本番が苦手なのは、親子そろって一緒だったね」
「おかあ、さん、」
「今まで、いろんな事、はき違えて、すれ違って、過ごしてしまっていた」
テストのことしか頭になかった。今まで、授業中も、家に帰ってからも、結果を残すことがすべてだと。
お母さんの言葉をちゃんと聞いたのは、きっとこれが初めてだ。
「あの日、部活をやりたいと、私に言ってきた時のこと、覚えてる?」
気のせいか、お母さんの声は震えていた。
「あの日のあなたの目を見たとき、思った。初めてあなたの意思を聞いた。それが本当は、たまらなくうれしかった」
顔をあげることができなかった。
あの日、私は初めてお母さんに意見した。自分の意思を伝えた。冷たくあしらわれたと思ったけれど、違った。なにもわかろうと、理解しようとしていなかった。
「綾乃、歌、最初よりずっと、上手くなったわね。お風呂や部屋で大声で歌ってること、気づいていないとでも思ってた?」
───お母さんの涙に気付いたのは、零れ落ちたしずくが私の手に落ちたからだ。
私の目からも同じように熱いものがこぼれ落ちる。とめようとしたって無理だ。お互いずっと、素直になれなかっただけだった。
鼻の奥がつんとして、喉が痛くて、目頭が熱い。言葉を発しようとしてもうまくできない。
お母さん、わたしたちずっと、本当はこうして話をするべきだったんだね。
「今日のステージ、すごくよかった」
体が温かいものに包まれる。ずっと感じたことのなかった、ほとんど忘れかけていた、お母さんのぬくもり。私は子供のようにお母さんにすり寄る。あたたかい。ひとって、こんなにも、あたたかかったんだ。
「綾乃、素敵な仲間ができたのね、」
ひどくやさしく私の髪をなでる。その手が心なしか震えていること、気づかないフリをしよう。
お母さんの胸の中でとまらない涙を拭う。
失敗して、すべて失って、存在価値がわからなくなって、何度も生まれてこなきゃよかったと思った。同時に、こうしてまたお母さんのぬくもりに触れられる日がくればいいと願った。これは、何度も何度も頭の中で描いたシーン。
「おか、あさん、」
「こんな母親でごめんなさい。自分の娘のことも大事に出来ないなんて、親失格、ね」
「……それなら、私も、娘失格、だよ」
私の言葉に、ふふ、と笑った。お母さんが、笑った。
私たち、親子失格かもしれない。だけど、遠回りしても、わかり合えなくても、存在を認めてくれるだけでいい。
そういう関係があったっていい。
「あの子たちのところ、行くんでしょう」
「……うん」
「……夜ごはん、何がいい?」
「ハンバーグ、」
「うん、わかった」
お母さん、私のこと、わからないふりをして、ずっと本当は気にかけてくれていたんだよね。私が関わり方を見失っていたように、お母さんも同じような葛藤を抱えていたんだよね。
今ならわかるよ。今だから、わかるよ。
「───いってらっしゃい、綾乃」
久しぶりに呼ばれた自分の名前にまた涙をあふれさせながら、私は走り出した。お母さん、私まだ、伝えなきゃいけない気持ちがある。
私を変えてくれた人たちに。
◇
「───領っ」
走って階段をかけあがって、いつもの場所、音楽準備室の扉を勢いよく開けた。ここにいるってわかっていたからだ。全速力で駆け上がったからか息が荒い。
今日、私は走ってばかりだ。
「綾乃! おかあさんどうだ───」
「───好き!」
え、と。領の声にかぶせた私の言葉に、目を丸くした。口をぽかんとあけて固まる。
はあはあと息を整える。どうしよう、いろんな感情でぐちゃぐちゃだ。涙も出る。
だけど、今、きみに伝えたいと思った。伝えなきゃいけないと思った。
「……領が好き、人として、……異性として、好き」
両手でいつもより随分短いスカートの裾を思いっきり握って。まだ整いきっていない声は震えていて、息も荒い。目頭は熱いし、汗はとまらないし、ビジュアルは最悪。状況も最悪。勢い余って、溢れてしまった、だけどもうとまることなんて出来ない。
「え、っと、」
「領、私に、最初に言ってくれた言葉覚えてる?」
「え?」
「"音が、曲が、音楽が……誰かの心に伝える事だって、できると思うんだ!"って。泣きたくなるくらい真剣な顔で、私に言ったよね」
「ああ、そうだったね」
「……本当だった。音楽が、私を変えてくれた。音楽を通して、お母さんの心に伝えることができた」
「……」
「全部、領のおかげ。全部、はるとうたたねのおかげ!」
やっと言えた。ずっと言いたかった。
好きという気持ちも、領への感謝も、はるとうたたねへの想いも、全部。
領、きみがいなかったら、私はずっと言いたいことも言えないまま、生きる意味も見いだせないまま、信じられないくらい暗い世界で生きていたと思うんだ。
「ありがとう、私のこと、誘ってくれて、見つけてくれて、導いてくれて……ありがとう、領のおかげで、世界が変わりました」
言葉の最後は尻つぼみで、言っている間に段々冷静になって恥ずかしくなってきた。勢いって怖い。こんな風に全部言葉にするなんて。
ちらりと領を見ると、まだ驚いた顔のまま固まっている。
どうしよう、穴があったら入りたい。
「え、っと、じゃあ、それだけ、なので、」
「え、」
「で、では」
「ちょっと、綾乃、」
まって、と。扉に手をかけた私の肩をグイッと引いた。その瞬間、力に引かれて領の腕の中に倒れ込む。一瞬のことで何が起ったか理解できなくて、私は目をぱちくりさせる。
「……返事、聞かないの?」
「え、っと」
「自分だけ言うなんてずるいって」
ほとんど後ろから抱きしめられているような状況で、領は私を受け止めた状態のまま放そうとしなかった。声が直接耳にかかってくすぐったい。
自分が気持ちを伝えることばかり考えていて、相手から返事がくることを忘れていた。
「ご、ごめん、」
「……おれの気持ち、ずっと気づいてなかったの?」
「え、気持ち、って?」
「……」
「ご、ごめん、」
「天然タラシって、綾乃のこと言うんだよ」
「いや、それは領だよ、」
「んーん、おれね、綾乃のこと、声かけたときから好きだったよ」
え、と。
その言葉に固まったのは、今度は私の方だ。
「その様子じゃ本当に気づいてなかったんだ」
「え、ちょっと、理解できない……」
「おれ、けっこーわかりやすいって言われるんだけどなあ」
「わかりやすい?」
「うん。たぶん、おれが綾乃のこと好きなのなんて、みんな知ってると思うけど」
「ええ……」
なんだそれ。つまり私って、すごく鈍感? 人の気持ちに無頓着?
「合唱コンのオーディションで、綾乃の歌声を聞いたときから、きっとずっと綾乃に惹かれてた。───今もずっと、どうやったらおれの彼女になってくれるかなって、考えてる」
なにそれ、ずるい、ずるいのはずっと、領の方だ。
「……領、」
「うん?」
「彼女、になりたい」
「うん」
「領の、彼女になりたい」
「うん、なって」
ぎゅっと、後ろから抱きしめられる。ふわりと香る領のにおい。骨張った固い腕。背中に感じるあたたかさ。耳元で聞こえる息遣い。
どうしよう。わたし、いとおしい、という言葉の意味を、知ってしまった。
「あの曲さ、」
くるっと、一瞬にして、後ろから抱きしめられている体制から、真正面で領と向き合う体制へと変えられる。ぱちくりと目を開くと、そこには少しだけ顔を赤くした彼がいて。
「……あの歌詞、おれに向けて?」
あの曲、と指す物が。私が夏休み最終日に徹夜で書き上げた曲を指すことは、容易に想像できる。
「……うん、そうだよ」
「はは、やっぱり」
「気づいてたの?」
「ううん、そうだといいなって、勝手に思ってただけ」
それは、恋を春に例えたバラード曲。きみのおかげで世界は色づきはじめる。それは、青でも、ピンクでも、オレンジでもない。
「……まあ、これの相手がおれじゃなかったら、相当焼いてたけどねー」
「また、そういうこという」
「ほんとの話、ごまかさないのー」
曲名、
───"偏にきみと白い春"
"White spring with you"───
きみと一緒に色づけていく。日常を輝かせていく。青春と言うより、白春、きっとそれがわたしたちには一番似合う。
───20XX年、東京。
道行く自動車のエンジン音と溢れかえる人々の騒音がやまない渋谷スクランブル交差点にて。一際大きなビル広告の映像が4人組バンドに切り替わる。
街を流れるその音楽に、ふと足を止めた。深くかぶっている帽子を少しだけ上にずらし、そのビル広告を目にとめる。
「ねえ、この曲知ってる?」
「ああ、あのバンドの?」
「知ってる知ってる!」
「あたし超好き! 確か、オリコン1位だよね?」
「最近人気だよねー、ライブ行ってみたい」
「バンド名なんだっけ?」
「えっと確か───」
流れる映像と音楽に、周りの数人も同じように足を止めてビルを見上げる。その音は曲は街中を魅了し、やがて日本中に衝撃をあたえることとなる。……そんな気がしている。
ふと、震えたケータイを見ると一件の新着メッセージ。領とマネージャーから鬼のようにメッセージが届いている。大学が長引いて、本番前のセッティングに遅れてしまっているんだった。こんなところで足を止めている場合じゃない。
帽子を元に戻して再び歩き出すと、さっき近くで話していた女子高生の会話の続きが耳に入った。
「───はるとうたたねじゃない? ひらがなで!」
◇
会場のテレビ局につくなり、マネージャーと領に小言を言われた。授業だって元から言っていたんだから、そんなに怒らなくても。
「はるとうたたねさん!もうすぐ本番です!スタジオ入ってください!」
楽屋までやってきた荒々しいスタッフの声とともに、私たちはスタジオへ向かう。領のギターで音合わせはしてもらった。喉の調子も悪くない。
「はえーなー、もう?」
「何言ってんだよ、怜。生放送なんだから遅れは許されないの!」
「それにしても、スケジュールハードすぎ」
「昨日も深夜までラジオゲスト出演だったもんなー」
こんな会話は、もう日常茶飯事だ。
私たちが「はるとうたたね」としてメジャーデビューしてもう1年が経つ。
あの日、文化祭の次の日出演したb-stationを経て武田さんに目をつけられた私たちは、日本一と言われるレコード会社と契約を結んだ。曲のテイストや歌詞のあり方、ビジュアルから売り方までデビュー前にしっかり仕込んで貰って、高校を卒業と共にメジャーデビュー。瞬く間に人気急上昇。
CMや歌番組出演の依頼。この春にはドラマの主題歌にも抜擢されている。
そして来月には、1stアルバム発売が決定。今はその準備と宣伝活動で大忙しだ。
◇
スタジオに着いてセッティングを済ませると、慌ただしくスタッフたちが定位置につきはじめる。もうすぐ本番、この空気にももう慣れた。
「あと1分でCM明けます!位置確認してください!」
全員の定位置を確認する。
中央奥に浩平のドラム。その右斜め前に怜のベース。左横に領のギター。
そして、ステージの中央、ボーカルの私。
ずっと変わらずにやってきた。
「───ねえ、領」
あと30秒というところで、隣にいる領に話しかける。周りは気づいていないくらいの小さな声だ。緊張をほぐすため、とでも思っていて欲しい。
「ん?」
「こんなことになるなんて、出会った頃の私たちは何にも知らなかったね」
「んー、おれはちょっと信じてたけどなー」
なにそれ、領らしいね。CM明け15秒前。私は静かに目を閉じる。
「でも、あの頃からずっと変わらないことがひとつ」
「……何?」
「───綾乃が好きなこと」
領の声と同時に、カウントするスタッフの声がスタジオに響く。それに合わせて、わたしはゆっくりと目を開く。
───3、2、1。
画面が変わる。空気が変わる。司会者がベストなタイミングで声をあげる。
「さあ次は、今人気急上昇中のバンド、はるとうたたねの登場です!」
打ち合わせ通り、その声と共にイントロ、浩平のドラムが始まる。
───曲が始まる。
私は大きく息を吸った。
こんなことになるなんて思いもしなかった。
歌を、音楽をこんなに好きになれるなんて思わなかった。
こんなに信じ合える人たちと出会えるなんて想像も出来なかった。
それを変えてくれた。
きみが、きみたちが私を変えてくれた。
───例えば、世界がもっと綺麗だったなら。
もっと、息を吐くことは楽だったと思う。笑うことは楽しい事だったと思う。ひとの優しさがきちんと感じれたと思う。
朝起きたとき窓から差し込む光が眩しく思えたかもしれないし、通学路で見るパンジーがかわいく見えたかもしれない。落ちていく夕日を綺麗だと感じて、光る星に微笑んで、今日もいい日だったと幸せな気持ちで眠りにつく夜が増えたかもしれない。
そんな風に捻くれた考えをして、毎日自分のことを恨んで、この世界のこと、ずっと嫌いだった。
───でも、あまりにも、このステージから見える景色は綺麗だ。
「───ありがとー!!」
領の声にワッと歓声があがった。その音で我に返る。これも学生時代からずっとかわらない。歌っているとき、いつも夢を見ているような気分で、ほとんど無意識の領域にいる。
見上げれば、泣きたくなるくらい綺麗な光景が広がっている。私たちの曲を聴いて、歓声をあげてくれるひとたち。
こんな景色を教えてくれた。こんな世界を教えてくれた。
「領、私も、あの頃からずっと、はるとうたたねと領のことが大好きだよ」
領はいつもの笑顔で笑った。汗だくで、熱くて、胸が苦しい。だけどこの達成感があるからこそ、歌うことをやめられない。やめたくない。
きっと、ずっと続いていく。
領、浩平、怜、の顔を順番に見て。アンコールの声が鳴り止まない会場をもう一度しっかりと隅まで見渡す。
ああ、綺麗だ。
───この景色が、世界でいちばん、きれいだ。
この景色を教えてくれたきみたちがいるこの世界は、きっとルイアームストロングが歌ったあの曲通りなんだろう。
『What a wonderful world』───この世界は素晴らしい!
【偏にきみと白い春 完】
四つ葉のクローバーなんて見つけたことがない。
世の中のラッキーと呼ばれるもの。四つ葉のクローバーにラッキーセブン、茶柱や流れ星。そういうものとは無縁の人生。ラッキーとかハッピーとかきっと似合わない人種なんだろう。
だって、例えば。
小学校のマラソン大会で、練習は毎回1位をとっていたのに、本番でこけて10位になるとか。兄弟と食べたプリンが自分だけうまく型から落ちなかったとか。いつも見ない朝の星占いで、たまたま見た時に限って12位だったとか。
昔から器用貧乏で、なんでもそこそこにはこなせるけれど、誇れるものが何もないこととか。
数えたらきりがないくらい、多分自分の人生って"ツイてない"ことが多いと思う。
───『春がすきなんだ、人と出逢えるから』
だけど多分、そこそこ、いや、結構。普段ツイてない割には、思わぬところで大きなラッキーを拾っているんだろうな、と思う。矛盾してるかもしれないけどね。
そう思えるようになった、たぶんそれだけでも、自分は結構ラッキーだったりするんだ。
【ラッキーセブンより春がいい】
「好きです、初めて見たときから気になってました」
───歌番組のリハーサル。楽屋から出たトイレへ続く人通りのない通路脇。
突然肩をたたかれたと思えば、テレビでよく見かけたことのある可愛らしい女の子が立っていた。と、状況を理解する前に言葉を紡がれた。
「……え、」
「えっと、いきなりで、ごめんなさい」
「人違いじゃないですか?」
「え! 違います! ……"はるとうたたね"の、ドラム、ですよね?」
はるとうたたね───自分が所属しているバンド名。パートはドラム。合ってる。間違ってない。
だけど俺は、この子と関わった記憶が一切ない。というか、今初めて話した。テレビではよく見かけるけれど。
……多分、今売り出し中の大人数アイドルグループのひとりだろう。顔を知っているということは、人気はトップの方。踊っているのは最前列。
「そうですけど、すみません、話したの、初めて、ですよね?」
「えっと、そうです、」
「……アイドルは恋愛禁止じゃなかった?」
「そう、なんですけど、」
「ていうか、こんなところで話してたら週刊誌とられますよ、気をつけた方がいい」
「あ、あの、でも!」
「……はい」
「好きなんです、高沢 浩平さん、あなたに会いたくて、芸能界に入ったんです……!」
◇
「はあ? それで、何も言わずに逃げ出したの?!」
本番終了後の楽屋にて。
リハーサル前にあったさっきの出来事を"はるとうたたね"のメンバーに話すと、想像以上に驚かれ、同時に罵られた。
「あっりえない、相手はあの平石 結衣ちゃんデショ? コーへー、あんた日本中の男に刺されるぞ」
ベーシストの怜が信じられないといった表情でこちらを指さす。女子なんだからもう少しおしとやかな話し方をしたらどうなんだ、と出会ったときから思っているけれど変わらない。それはそれで怜の個性でもある。
───ヒライシ ユイ。通称ユイユイ、というらしい。最近売り出し中の50人組アイドルグループで、トップ7にランクインする人気アイドルだ。最近は女優業にも励んでいるとかいないとか。
「……いや、喋ったことないし」
「関係ナイだろーが、せっかくのチャンス逃してバッカだなー」
人のことをとやかく言う前に、怜はその男口調を治したら、とは口に出さないでおく。
「なあ領、どう思う? ありえねーよなあー」
「えー? うーん、どーなのかねー、駆け出しバンドの俺らと売り出し中アイドルのあの子じゃ、週刊誌にすぐとられちゃいそうだけど」
まあ、いいんじゃない? 浩平次第でしょ、と。学生時代、というより出会った頃から変わらない笑顔でギターの高城 領が言う。
「いや、つーか、付き合う気とかない」
本当に申し訳ないことをしたとは思うけれど。あの時、『好きです』と叫ばれた声が予想以上に大きかったので、周りを気にした俺はそのままくるりとその子に背を向けて楽屋へと一目散に逃げてしまったのだった。
「コーへーって本当に色恋沙汰ねーよなー」
怜がベースを拭いて大切にケースにしまいながらそんなことを言うけれど、こればかりは仕方がないだろう。
「浩平、顔カッコいーのにな」
「背も高いし」
「てかモテてるっしょ、よく告られてんじゃん」
「ファンもガチ恋してる人多そうだよねー」
昔からそうだ、俺の人生は基本的に"ツイてない"のだ。
それはもちろん、恋愛も例外ではなく。
自分で言うのもなんだけれど、見た目はそんなに悪い訳じゃないだろう。というか、幼い頃からなんとなく自分が異性に好意を持たれやすいことは知っていた。
けれど毎回、自分が好きな子は違う誰かを好きになる。
これはもう、ほとんどジンクス、決まったこと。いくら大勢に好意を持たれても、自分の好きになった人に振り向いてもらえなければ意味がない。
「ね、綾乃もそう思うっしょ?」
そう、例えば。
「ああ、うん、浩平はカッコいいと思うよ。領がいなかったら好きになってたと思う」
こういう風に、一番好きだと思った相手が、一番信頼している親友と付き合っている、とかね。
「おい綾乃ー!冗談でもそういうこと言うなー!この天然タラシが!」
「もー、浩平だからでしょ、他の人には言わないって。領うるさい」
「領、いちいち嫉妬すんのはカッコわりーぞ」
片桐 綾乃。はるとうたたねのボーカル。そして、───領の彼女。
「……俺も領がいなかったら綾乃と付き合ってるんだけどね」
「はあー? 浩平ものるなってー!」
「ハイハイ、領ウッセー」
怜が領を冷たくあしらうと、綾乃はくすくす笑っている。
冗談、だ。
もうずっと、学生時代からずっと、出会った頃からずっと、俺の好意は"冗談"、だ。
領と綾乃が付き合いだしたのは、はるとうたたねが4人組バンドになって半年後、文化祭のステージを終えた後、だった気がする。そこらへんは何度も聞いたけど、あんまりよく覚えていない。多分うまく聞くことができなかった。
誰かを好きになる、ということは、たぶん、誰かに好きになられることよりも、ずっと難しい。
「もう帰り支度おわった? わたし帰るよー」
口だけ達者に動かしている怜と領に綾乃が呆れた声で促す。明日も朝から大学なんだろう。俺もそうだ。
高校卒業と共にメジャーデビュー。1stシングルの売上げはそこそこだったものの、tiktikという短い動画配信のSNSで一躍有名になって、そこからは早かった。CMソングが決まって、歌番組が決まって、2ndシングルは1stシングルの倍売れて、PVの再生回数は月間で1位になった。
デビューして1年以上経った今でもその波は消えていない。ツアーライブも決まったし、1stアルバムは来月発売。領は明るいキャラとトーク力で、最近はバラエティにも呼ばれている。
そんな中で、綾乃は都内の有名私立大学に、俺は同じく都内の医大に進学して、このライブ活動と並行して大学生活を送っている。
二兎追うものは一兎をも得ず、ということわざがたまに頭をよぎるけれど、4人組バンドのうち2人が現役大学生、加えて二人とも名のある有名大学ともなれば、話題性は十分にあった。
「綾乃まって、今日おれ泊まってっていー?」
「ダメだよ、明日小テストあるから勉強しなきゃだし」
「えー、最近冷たい……かまって……」
「だからここでイチャついてんなって」
高校卒業してから一人暮らしを始めた綾乃の家に、領はよく行きたがっているけれど、その大半を断られているのが実情だ。
付き合っているくせにしっかりしている。綾乃のそういうところが、きっと惹かれるところなんだろう。
「じゃあ家まで送るから!ね!」
「はいはい、ありがとうねいつもー」
「んじゃ帰るぞー」
領と怜はギターとベースを抱えて、ガチャリと楽屋の扉を開けた瞬間。
「……あ」
思わずそう声がこぼれたのは、いつでも空気がうまく読めない領だ。
はるとうたたねの控室、楽屋の前、廊下の隅。3人の後ろからでも誰が立っているのかわかった。
「……ユイユイ?」
「あ、えっと、そうです」
さっきは長い黒髪をポニーテールに結んで、煌びやかな衣装を見に纏っていたけれど。今は帰る途中なのだろう、ストレートロングを真っ直ぐ下ろして、メンズサイズのキャップを深くかぶっている。服装はパーカーにジーンズと思いがけずボーイッシュだ。
「もしかして、浩平に用?」
「は、はい、すみませんいきなり……」
芸歴、とかそういうのはよくわからないけれど、初対面のアイドルにその言葉遣いはないだろ、怜。
心の中で睨みつつ、さてこの状況をどうしようかと口を尖らせた。
「とりあえずここだと目立つし、中入りなよ」
領がいつもの笑顔を振りまいてそう言うと、ユイユイとやらは「いいんですか?!」と目を輝かせている。歳はどのくらいだろう。同い年か、少し年下か、はたまたまさかの年上か。
帰るところを引き返して全員楽屋へと戻る。怜と領に押されてユイユイとやらも中へ。なんだこの状況は。
「ごめんねー、浩平って無口で冷たいとこあって! 仲良くなれば大丈夫なんだけどー」
「あ、はい、大丈夫です! というか、ファンなので……」
「カワイー。もしかしてコーコセイ?」
「えっと、今年卒業して、18です!」
俺が一言も話さないうちに話が進んでいく。領と怜は嬉しそうに雑談しているけれど、綾乃は明日のテストが気になって仕方ないんだろう。時計を何度も確認している。
「綾乃、帰る?」
「え、」
盛り上がっている3人の目を盗んで、こそりと綾乃に話しかける。こういうところ、気がつかえるのはこのメンバーで俺と綾乃だけだと思う。
というか、境遇が似ているからこそ、なんとなくわかるのだ。俺と綾乃は、よく似ている。
「でも、せっかく浩平のこと好きっていう子が来てくれてるし……」
「いーよあんなの、気にしないで」
「でも……」
「……それとも、気になる?」
溢れるなよ、と思うけれど。
揺さぶりをかけるように、時々こぼれ落ちてしまうものがある。それは我に帰った時にはもう遅い。
「そりゃあ気になるよ、浩平の彼女になるかもしれない子だもん」
「……まあね」
ほらね、大抵こうやって、揺さぶりをかけたこと、後悔する。
「でもさ、なんか……」
「え?」
「浩平に彼女ができたらちょっと寂しいかも、」
───これだから、相当タチが悪い。
溢れないようにしているのに、時々こぼしてしまう俺の気持ちには見向きもしないくせに、時々こうやって馬鹿みたいに期待させるようなことを言う。
わかっている。その『寂しい』が、仲間として、バンドメンバーとして、友達として、だということ。
わかっているからこそ、叶わないそれに、俺はもうずっと何年も囚われているのだろう。
「おいコーヘー、オマエ目当てに来てくれてんだから、こっちきて喋れって」
怜の声に顔をあげると、ユイユイとやらが真っ直ぐにこちらを射抜いていた。帽子を外すと顔の印象が随分と明るくなる。
人気アイドルなだけあって、本当に可愛らしい顔立ちをしていた。きっと、今までだって恋愛になんて苦労したことないだろう。
俺のことも、落とせると思ったんだろうか。
「……あ、あの、浩平さん、」
「……」
「さっきはいきなりごめんなさい、廊下で後ろ姿を見かけて、舞い上がっちゃって……、いきなりあんなこと、気持ち悪い、ですよね」
「別に、そんなことはないですけど」
いちいち返しが冷たいんだよ、と怜から冷たい言葉が飛んでくる。初対面相手に優しくできるほど、俺はできた人間じゃない。
「コーヘー、もうちょっと優しくできないのかよ? 少なくともはるうたとコーヘーのドラムのファンなんだぞ?」
怜の言葉に、それもそうか、とも思うけれど。
「……じゃあ、今度会う約束でもすればいいの?」
我ながら酷い言い方、だ。
だけど隣に座る綾乃の視線を、どこかでずっと、気にしている。最低だとは思う。というか俺は昔からずっと最低だった。
領のことも、綾乃のことも、同じくらい大切な存在なのに、どこかでずっと、いつかは、なんて、馬鹿げたことを考えていたりした。
そのいつか、が来てしまったら、いろんなことがもう、うまくいかなくなるのにな。
「おい浩平、そんな言い方……」
「あ、いいんです! 私がいきなり話しかけたし、ファンだから、浩平さんが初対面の人に冷たいなんてこと、わかってるので……」
「ごめんねユイユイ、ほんっとアイツ不器用な奴なんだよね、いい奴なんだけどさ」
領のフォローにも俺のこんな態度にもうまく対応して、18歳とは到底思えない。俺の方がずっと子供だな、と思う。
いい子、なんだろう。きっと、すごく。
憧れてくれているんだろう。そういう好意にずっと、目を向けないで生きてきたのは、やっぱりどこかでまだ、くるはずのない「いつか」を思い描いているからなのかもしれない。
◇
「もう、浩平、あんなに冷たくしちゃダメでしょー」
「……だよね」
帰り道。
あのあと、今度ご飯でも、と引かないユイユイに押されてとりあえずの約束を済ませ楽屋をあとにした。
領はいきなりマネージャーに呼び出されてタクシーで違うテレビ局へ。バラエティの打ち合わせに変更があったんだとか。おかげで、代わりに綾乃を家まで送ってくれと頼まれた。
信用、されてるよな。領にも、綾乃にも。
「でも、ユイユイ可愛かったねー、やっぱりアイドルは違うよね」
「ああ……」
「テレビで見るのもかわいいけど、実物は顔が小さくて髪サラサラで別次元! 絶対もっと人気になるんだろうなー」
ふと、横を歩く綾乃を見る。
家バレしない為に、綾乃の一人暮らしのマンション最寄駅でタクシーを降りた。駅から家まで徒歩7分。有名人になった俺らは、もう気軽に電車に乗ったり道を歩いたりすることができない。
深く帽子をかぶって、マスクも。そして出来るだけ暗くて人通りの少ない道を選ぶ。
それでも、横から覗く綾乃のまつ毛の先まで、もうずっと、触れたいと思っている。
人気アイドルのユイユイより、何千倍も、綺麗だと、ずっとそう思っている。
「……あ」
「え?」
「雨、」
綾乃の声と同時に。右の手のひらを広げると、ぽつりとそこに雨粒が落ちてきた。ぽつり、またぽつりと地面を染めるその雫は、いつでも突然やってくる。
……よくある。いきなり雨が降り出すこと。これも、俺がツイてない要因のひとつだ。おまけに傘なんて持っていないし。
せっかく綾乃と久しぶりにふたりで肩を並べて歩いているというのに、ね。
「わ、いきなり降ってきたね、走る?」
「ああ、うん、」
「傘ないしとりあえずうちまで行こう」
「え、」
「ほら走るよ!」
躊躇いもなく、綾乃が走り出す。綾乃の家まではあと4分。走れば2分だ。
「まって、綾乃、俺送ったら駅まで帰るよ」
「え? 濡れてるのに? タオルくらい貸すよ!」
いや、そういう問題じゃないだろ、一人暮らしなんだから。
なんて、俺が言葉を紡げるはずもなく。段々とひどくなる雨の中、ふたりで綾乃の家まで走った。
◇
「もー、いきなり降るから参るよねー。タオルもってくるからちょっとまってて!」
「ああ、うん、ありがと、」
ぎこちない言葉に情けなくなる。というか、今この状況に、俺は信じられないくらい緊張している。バカみてえだけど。
傘を貸りたらそのまま玄関で別れるつもりだった。だけど綾乃はそんな俺を許さず、『送ってもらったんだし濡れてるまま帰せないよ!』と無理矢理俺を部屋まで引っ張った。
……綾乃の部屋に来るのは初めてじゃない。けれど、ふたりきりで、なんて、それはもちろんあるわけがなくて。
現役大学生とは思えないほど綺麗なマンション。もちろん、バンド活動でそれなりに稼いでいるからこそだ。
白とウッドを基調としたナチュラルでシンプルな部屋。無駄なものが一切ないところが綾乃らしい。あと、いつきてもやさしいいい香りがする。
……色々ダメだ、と思う。
領や怜とここへ来ることはたまにある。4人で集まったり、打ち合わせをしたりする際に。……でも、そういう時とは訳が違う。
2人きり、だから、男女になる。
「ごめん、これでいい? よかったらシャワーも貸すけど……」
洗面所からタオルを一枚持ってきた綾乃が、何気ない顔でそんなことを言ってのける。意識されてない、だからこそだということは十分わかってる。
「……流石に悪いからいいよ、タオルだけ借りる」
「そう? 寒くない? 大丈夫?」
「うん、綾乃は? シャワー浴びてきてもいいよ」
「ううん、それは後でいいや。濡れてるし着替えだけしてもいいかな…?」
「うん、俺ここで体拭いてるよ、ありがと」
わかった、と。一言残してまた洗面所へ消えていく。雨に濡れたせいか、はたまた彼女の家の中のせいか、綾乃のにおいが濃く鼻奥をくすぐる。
受け取ったタオルを頭にかぶってガシガシと拭いてみるけれど、やはりこれも、綾乃の香りがする。
……こうなるのが嫌だから、近づきすぎないようにしているのに、不覚だ。
近づけば近づくほど思い知らされる、手を出せない彼女のことが、どうしようもなく、俺の心を掻き乱していくことを。
「浩平、タオル足りた?」
「え? ああ、うん、」
「てかさむいよね、コーヒーでも淹れるよ」
いつの間にか洗面から戻ってきた綾乃が、当たり前のようにキッチンに立ってお湯を沸かしはじめた。
さっきまで着ていた綺麗目のワンピースから、大きめのTシャツにショートパンツというラフな格好に着替えている。部屋着なのかもしれないけれど、流石に、無防備すぎる。
俺のこと、多分、1ミリだって男だなんて思ってないんだろう。意識したことなんてないんだろう。
バカだな、そういう、気の抜けたところに、男は欲情するものだよ。
「綾乃、はさ」
「うん?」
「両親と、うまくいってる?」
欲に塗れないように、そっと話題をずらした。そういうのは、結構得意だ。
「うん、たまにメールくれるよ。CD買ったよ、とか」
「そっか、」
「……浩平は? まだ許してもらえてない?」
「いや、殆ど目を瞑ってるって感じだな。まあ、大学さえ卒業すればもういいんじゃない」
綾乃も俺も、両親がひどく厳しい家庭環境で育ってきた。
俺は医者の息子で、親族揃って医療関係に就く家庭で育った。もちろん両親は、俺も例外なく父親と同じような道を進むと思っていただろう。
高校受験、わざとレベルを落としたことを、両親は決して許さなかった。おまけにバンド活動を続けるためにバイトも始めて、とことん期待を裏切り続けたと思う。それでもとりたあえずは都内の有名大学医学部に進学した。育ててもらった恩はある。
ただ、高校2年の、あの文化祭の日から、俺も領も、『音楽で生きていく』って、ほとんど腹を括っていたけれど。
大学に通っているのは、罪滅ぼしみたいなものだ。
「浩平は器用だもんね、いろんなこと同時にこなせてすごいな」
「……その言葉、そっくりそのまま返すよ」
同じく、都内の有名私立大学に通いながら共にバンド活動を続けている綾乃だって、正直言ってかなりのハードスケジュールをこなしていると思う。
それに、自分のこと、器用だなんて思ったことは一度もない。どちらかというと俺は、器用貧乏、なんだと思う。
なんでもそれなりにこなせるけれど、群を出て人より誇れるものは、ほとんどない。
勉強も、ドラムも、……恋愛も。上にはずっと上がいて、いつもどこかで憧れてばかりいる。基本的に、何事もストレートに上手くいったことがない。
「浩平が器用じゃないなんて、思ってるのは自分だけだと思うけどなあ」
「……人より得意なものとかないし、なんていうか、昔からツイてない、基本的に」
「でも、ドラムだって領に言われて中3から始めたんでしょ? 信じられないくらい上達早かったって言ってたよ」
中3の春。鬱陶しいくらい付き纏ってきた高城領という男は、何故か初めからおれにはドラムがあっていると言い放っていた。
「それに、わたしはこうやってはるとうたたねのメンバーに入れてること自体、ラッキーだなあって思うんだ」
素直で、純粋で、真っ直ぐに見ている。その眼差しがいつも眩しくて、優しくて、そしてとても愛おしかった。ずっと。
「……領にも出会えたしね」
「はは、それはまた別の話だけどさ!」
「綾乃はさ」
「うん?」
「俺と出会えたことも、ラッキーだって思う?」
つくづく、懲りないよな。揺さぶって、試して、答えなんていつだって分かっているのに。
「あたりまえだよ!」
そうやって屈託なく笑う綾乃のことを、どうしようもなく、想っているのに。
◇
「あの、すみません、ご迷惑おかけしちゃって……」
人気のないカフェ、一番窓際。心地のいい音楽とコーヒーの匂いが心を落ち着かせる。けれど目の前にいるのは何故か、あの人気アイドルユイユイとやらだ。
「いや、別に暇だったから」
「わ、私は一緒に映画見れて本当に嬉しくて…!」
今朝、目覚まし時計の代わりに鳴ったのは領からのウルセー着信音。今日は一日オフのはずなので緊急連絡かと慌てて電話に出ると、『ユイユイとデート取り付けといたから!12時に〇〇駅ね!じゃ!』と一方的に言われてしまったのだった。
ありえない。信じらんねえ。
うぜえことに怜からも『ドタキャンすんじゃねえぞ』とLINEが入っている始末。あいつら俺をなんだと思ってんだよ。
「ああうん、ありがとう。映画面白かったね」
とりあえずのこと、急いで支度をすませて駅に向かって、待っていたユイユイと何故か今流行りの恋愛映画を見ることになったのだった。観賞後、何故かこんなカフェにまで来てしまって。
俺って意外と押しに弱いのかもしれない。
「あ、の、」
「うん?」
「この間は、急に告白なんてして……ごめんなさい」
「いや、こっちこそ嫌な態度とったよね、ごめん」
俺はブラックコーヒー、相手はミルクティー。入り口のショーケースにあるケーキを見て目を輝かせていたのに、俺に気を遣って頼まなかったんだろう。
綾乃とだったら、きっと頼んでいた。ひとつでも何かを共有したくて、1分でも長く一緒にいる理由が欲しくて。
なんて、考えてる時点で、相当最低だ。
「浩平さんは、彼女とか、好きな人、とか、いないんですか?」
「彼女は、いないよ」
「……じゃあ、好きな人は、いるってことですか?」
そんなこと、突っ込んでこなくてもいいのに、と正直思う。怜や領にも言ったことがないのに。まあ言えるわけないんだけどさ。
でもきっと、だからこそ。あの2人は俺に恋愛させたがるんだろう。
「……どうなんだろうね」
「今日、本当は、きたくなかった、ですか?」
「来たくなかったわけじゃないけど、俺がきみのことを好きになることはない、と思う」
人気絶頂期のトップアイドルだ。容姿端麗で、礼儀正しくて、きっとすごく良い子なんだろう。
でも、知りたいと思わないんだ。
俺にとっての「好き」はきっと、「知りたい」「近づきたい」だと思うから。
「そう、ですよね。わかってました、振り向いてもらえるなんて、そんな夢みたいなことあるわけないです、」
「……俺と付き合うより、きみと付き合いたい人の方が大勢いると思うけど」
「でも、私は、浩平さんのことずっと、好きだったんです……」
「ずっと、か」
「……高校の文化祭で、初めてはるとうたたねの歌を聞いてから、ずっと」
「え、」
「隣町に住んでたんです、友達に誘われて、わたしはまだ中学生だったけど……」
「そんな前から知っていてくれたの、か」
「はるとうたたねに、浩平さんに憧れて、芸能界に入ったんです、私」
だから、こうして話ができたこと自体、奇跡みたいなものなんですよ、と。笑ったユイユイの目には涙が溜まっている。必死に溢れないように抑えているんだろう。
はるとうたたねが、誰かの世界を変えることもあるんだな、と。
この目で見て聞いて、初めて実感して、おれはすごい場所に立っているんだな、と今更思うよ。
「……すごいな、」
「え?」
「領のこと」
「……え?」
突然にも程があるよな。話の脈絡をまるで掴んでいない。でも、ユイユイの話を聞いて、純粋にそう思ってしまった。
「はるとうたたねが今こうしてバンドをやれてるのも、……きみが俺を見つけたのも、全部あいつのおかげ」
「あ、えと、領さんがバンド結成の立役者……なんですよね、」
いきなり何の話をしているのだろうかと、涙ぐむ瞳を優しくぬぐって笑ってくれる。優しい子なんだろう。
はるとうたたねの結成話は、今までテレビや雑誌のインタビューで腐るほどしてきた。中3の春に領が俺をドラムに誘って、高1の春に怜をベースに誘って、高2の春に綾乃をボーカルに誘った。
全員、領に誘われて、領に救われて、ここにいる。ここに立ってる。
「どんなふうに、……誘われたんですか?」
「領に?」
「はるとうたたねの、ファンなので、知りたいんです」
「ファンか、ありがとう」
領に誘われたのは、中3の春の話。
その頃俺は結構捻くれていて、あまり周りとうまく打ち解けることができていなかったと思う。好きなこととか得意なことはその頃からなかった気がする。勉強は出来たけれど、それは人一倍の努力をしていたからだ。
中3の春。クラス替えがあって、最初の教室で、高城領という男は他の人に見向きもせず、俺の机へとやって来たのだった。
『ねえ! バンドとか興味ある?』
『……は?』
『ドラムやらない? 俺はギターやるからさ!』
正直本当に意味がわからなかった。
高城領のことは知っていた。同級生の男女共に人気があるだけには止まらず、先生にも、先輩にも後輩にも注目されていて、どこにでも友達がいるようなやつ。知らない人なんてきっといないだろう。
そうとは言え、こいつと喋ったのはそれが初めてなわけで。自己紹介もせずいきなりそんなことを言ってくる領のことはその頃からずっと理解不能だった。
『いや、何の話?』
『あーごめん! おれ、イキナリ話しちゃう癖があって! あのさ、バンド組みたくて! そのドラムに、コーヘーを誘ってるの!』
『……は?』
『えーと、だからね、ドラム……』
『まって、俺ときみって初対面だよね? というか、そんなのやりたい人なら他にいくらでも……』
『コーヘーにビビッと来たんだよ! こんなこと、わかんないかもだけど……』
『意味不明すぎだから』
『でも、将来絶対成功するよ?』
はあ? と、俺が眉間に皺を寄せたのをみて、ポカンとそんなことを言ってみせた領のこと、心底バカヤロウだと思ったことを覚えている。
親族含めて家族全員医療関係の家庭に生まれて、将来の選択はそれ以外考えたことがなかった。だってその道が当たり前だと言われて育ってきたから。
なのにコイツは、バカみてえなことを言って、バカみたいなことで、将来なんて言葉を口にする。
とりあえず放課後家にきてよ、と。強引に誘われるがまま領の家に連れていかれて、地下にある防音室に招かれた時は驚いた。
ギターとドラムだけじゃない、ベースもキーボードも大量の楽譜やCDも、全部揃っていた。後から聞いたことだけど、領の家系は代々音楽一家らしい。
ポカンとする俺をドラムへと招いて、足の使い方からスティックの持ち方、叩き方、一から説明する領につられて音を出した。それが始まりだ。
領は幼い頃から音楽に触れていて、この部屋にある楽器は一通りなんでも使いこなせるらしい。ギターが一番得意らしいけど。
『やっぱり、おれの目に狂いはないなー!』
『いや、ドラムとか触るの初めてだし…』
『ドラムってさ、色んなところに意識を向けて曲の土台を作っていかなきゃいかない超大事なパートなの』
『……』
『だから浩平にピッタリだし、器用だからすぐにうまくなるって思ったんだ』
なんだそれ、俺と喋ったのなんて、今日が初めてだろ。
『初対面なのに?』
『同じ学校だし、浩平カッコいいから女子たちから名前よく出てたし、おれは知ってたよー? 人気者じゃん』
『お前が言うか?』
『いつもさ、なーんかつまんなそうな顔してるって思ってたんだよね』
『……』
『ねえ、ちょっとでいいからさ、おれのこと信じてみてくれない?』
バカじゃねえの、こいつ、初対面なのに、「信じてくれない?」だなんて。
『……バンド組んだらどうするんだよ』
でも、話を聞いてみようと思った俺も、大概バカやろうだ。
『とりあえずね、俺がギターで、浩平がドラムで、』
『それはわかったけど、2人組でやるつもりなの』
『ベースがあとは欲しいかなー、今のところピンとくる人には出会ってないけど。ボーカルは俺でもいいけど……上手い人がいたら任せてもいいかなー』
『最高4人ってこと?』
『うん、ていうか多分、4人組になる気がするんだよね』
『なんだそれ』
『勘かな、そういうの、おれ結構あたるんだー!』
その時は、頭空っぽなんだなコイツ、と呆れたように思ったけれど。
今はわかる。高城領という男は、世の中で”ツイてる”や”ラッキー”と呼ばれるものたちを、全て引き寄せる力を持っているんだ。中学3年の春から現在まで、ずっと領と一緒にいる俺にはわかるよ。
『……それで、バンド名は?』
『はるとうたたね!』
『はあ?』
『響きいいでしょ? 略して「はるうた」』
『変な名前、お前の頭の中どうなってんの』
『えー、カッコいいと思うんだけどなー』
『そんな変なバンド名聞いたことない』
『でもさ、春が好きなんだよね』
『は?』
『こうやってさ、人と出逢えるから』
俺と出会ったのも、怜や綾乃をスカウトしたのも、今思えば全部春のこと。あの時の領は、まだ何も知らなかったはずなのにな。
全部見透かしていたのかもしれない。本当に侮れなくて、すげえやつだよ。
「……そこからは早かったな」
思い出を懐かしむように、つらつらと話し続ける俺の言葉を、ユイユイは嫌な顔ひとつせず頷きながら聞いてくれていた。
人の話を聞く態度って、案外その人の素性が出るものだよな。俺にはもったいないくらいの女の子だ。
「勉強ばかりしていた俺が、初めて何かに夢中になった、今もずっと」
「すごい、ですね」
「今思えばあんな胡散臭い話に乗るなんて馬鹿らしいけど、本当はずっとどこかで、つまらない日常から抜け出したかったのかも」
それに初めて気づいてくれたのが、高城領という男だった。
「ふふ、浩平さん、領さんのこと、本当に大好きなんですね」
「大好きというかなんというか……」
「こんな話聞かされたら、敵うわけないって思っちゃいます」
「……ごめん」
「ううん、いいんです、浩平さんにとって、はるとうたたねが一番大切な場所で、それ以外は見れないって、そういうことですよね」
「……うん、ごめん、今は、他のことに目移りする余裕がないんだ」
ああそうだよ、やっと気づいた。
自分のことずっと、ツイてないって、運がないって、そう思っていた。世の中のラッキーなものとは無縁の人生だって。
領みたいなのとは、正反対の人種だって。
だって、四つ葉のクローバーなんて見つけたことがない。
世の中のラッキーと呼ばれるもの。四つ葉のクローバーにラッキーセブン、茶柱や流れ星。そういうものとは無縁の人生。ラッキーとかハッピーとかきっと似合わない人種なんだろう。
小学校のマラソン大会で、練習は毎回1位をとっていたのに、本番でこけて10位になるとか。兄弟と食べたプリンが自分だけうまく型から落ちなかったとか。いつも見ない朝の星占いで、たまたま見た時に限って12位だったとか。昔から器用貧乏で、なんでもそこそこにはこなせるけれど、誇れるものが何もないこととか。
数えたらきりがないくらい、多分自分の人生って"ツイてない"ことが多いと思う。
───『春がすきなんだ、人と出逢えるから』
だけど多分、あの日領に声をかけられたことが、そもそもすっげえラッキーなことなのかもしれないんだ。