『What a wonderful world』
英語と音楽の授業で習った、ルイ・アームストロングの名曲だ。一度は誰だって聞いたことがあると思う。別に詳しいことは知らないけれど、なんとなく頭の片隅に残るメロディと歌詞は、こんな私でも「いいな」と人並みな感想くらい持ったのを覚えている。
タイトルの和訳は『この素晴らしき世界』。カンタンな英語だ。カンタンな、日本語だ。
わかりやすくて、迷いのない、まっすぐな和訳。でも私は、世界がスバラシイって、その発想に驚いた。
———例えば、本当にこの世界が素晴らしかったなら。
もっと、息を吐くことは楽だったと思う。笑うことは楽しい事だったと思う。ひとの優しさがきちんと感じれたと思う。
朝起きたとき窓から差し込む光が眩しく思えたかもしれないし、通学路で見るパンジーがかわいく見えたかもしれない。落ちていく夕日を綺麗だと感じて、光る星に微笑んで、今日もいい日だったと幸せな気持ちで眠りにつく夜が増えたかもしれない。
世界は決して私に優しくない。それはもう、ずっと前から変わらないことだ。
成績表に記された『1』の文字以外で、私を救ってくれるものなんてない。勉強机に向かうこと以外で、落ち着く空間はない。背筋を伸ばして、笑顔を作って、『優等生』でいること。『1位』をとること。
それが私の存在価値。私の生きる、くすんだ世界だ。
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White spring with you !
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1.逆立ちして迎える
ザワザワと騒つくテスト返しの教室内。教卓の目の前、つまりクラスメイトたちの真ん前に、世界史担当兼このクラスの担任である坂口先生が私を呼んだ。
「よし。片桐、今回も素晴らしいな。先生は鼻が高いぞ」
少し小太りの坂口先生は、まるで自分がエライみたいに鼻高々に成績表を差し出した。ニコリと笑ってそれを受け取ると、背筋を伸ばして先生に背を向ける。表情は決して崩さない。
自分の席に着いた瞬間、机の下で渡された紙切れを開いてにサッと目を通す。
手の中にあるその紙切れには、数学から古典まで、文理関係なくすべての教科の下に『 1 』という数字が並んでいた。
———すべて1位だ。
もちろん、クラス順位も、学年順位も。
その結果にほっと胸をなでおろすと同時に、緊張感が抜けたからか周りの声が妙にハッキリ聞こえ始める。
「すっげぇー」
「また1位? 頭どうなってんの」
「天才は違うよなあ」
そんなクラスメイトの声が耳に入った途端、私の胸はドキリと音をたてる。まだ教壇の上で偉そうに笑っている担任も、わざわざみんなの前で言う必要なんてないのに、と思う。
結果を見てしまった成績表はもう必要ない。机の下でそれをクシャッと丸めてから、私はまた背筋を目一杯伸ばした。
まだだ。
まだ、全然すごくなんかない。
だって、完璧じゃないから。
「あーもうテスト悪すぎー」
「てかアタシ、今回赤点確実だわ」
「それはヤバイって」
派手なメイクをした、喋り方もこれまた派手な女の子たちの集団の声が耳の横を通り過ぎていく。
───うるさい。
ただでさえ1時間目から音楽という最悪の授業日程に嫌気がさしているというのに、わざわざ大きな声の愚痴を聞きたくない。
ガタリ、とわざと大きな音を立てて席を立った。私がそんなことをしたって何の影響力もないことはわかっているのだけれど。
移動教室ほど面倒なモノはないと思う。移動が面倒くさいのもあるけれど、一緒に行く友達とやらが存在しない私にとっては尚更だ。それに、校舎の3階、いちばん端にある音楽室に行くのはムダな時間にしか思えない。
「……はあ」
思わずためいきをつく。ひとりで歩くのにはもう慣れた。けれど、ひとりきりの廊下だからこそ、こんな盛大にため息を吐いたって聞いている人は誰もいないだろう。
音楽が苦手教科だからっていうのもあるけれど、こんなに憂鬱な気分になっている原因は自分でわかりきってる。
───また、完璧じゃなかった。
ポケットの中でぐちゃぐちゃに丸めた成績表を取り出して、親指でそれを軽く広げて見直してみる。
満点と90点台、加えて並ぶ順位は『1』ばかりの中、ひとつだけポツリと89点。順位は『2』。
……やっぱり、コイツが原因だ。
───音楽。私の最大の苦手教科。
せっかく広げた成績表をまた丸めて、ポケットへとつっこんだ。喉元に広がった詰まったような悔しさと不安と情けなさ、そして怒りも一緒に飲み込んで。
◇
「ハイ、じゃあ日直号令かけてー」
チャイムが鳴った瞬間、騒がしい生徒たちの声を遮って音楽担当の野村先生が手をパンパンと二回叩いた。若くて端正な顔立ちの野村先生は女子からも男子からも人気がある。手をたたくのは野村先生お馴染みの授業が始まる合図だ。
「ハイハイー! きりーつ! ……ってオイ! おまえら立てよー!」
ハハハッて、一旦時間を置いてから立ち上がったクラスメイト達に一瞬にして笑いが生まれた。
号令をかけたのは、今日日直の高城(たかしろ)くん。彼が号令をかけるとき、大抵このやりとりが毎回行われる。何が面白いのか私には理解し難いけれど、人気者の彼だからこそ生まれる笑いだってことは容易にわかる。
……まあ、私は興味ないけれど。
たまに目に入る茶髪な毛が、どうしようもなく鬱陶しいと思うことだけは確かだ。
「さ、みんなテスト返ってきたな? 出来はどうだった?」
野村先生が成績表らしきものを見ながら話し出す。さっき見た『2』という数字が頭の中にチラついて胸の奥がモヤっと曇る。思い出したくないけれど、その数字をとってしまったのは自分の努力不足だってこと、ちゃんとわかっているからこそ余計に苦しくなる。
「おれ、音楽はできたー!」
勢いよく手を上げてそう叫んだのは、またもや高城くんだった。これまたみんな高城くんの方を向いて笑顔になる。彼の声はどこにいてもよく通る。
「オマエは音楽だけだろ!」
「ウルサイ、体育も出来るし!」
高城くんのトナリの男子が「勉強できねーくせになー」なんてツッコミをいれると、クラス中にまたどっと笑いがおきる。こういうやり取りは音楽の授業中だけじゃない。先生達も彼らみたいな人種が好きなのはもうわかってる。
彼らみたいな能天気で何も考えてない人種が、私は心底キライだ。努力も何もしないくせに、楽しそうに笑うことが出来ることがどれだけ恵まれたことなのか、きっと一生かかってもわからないであろう人たち。
「はいはい、いつも元気だなーおまえらは。俺、今回のテスト難しく作ったつもりなんだけどねー」
野村先生が笑って、冗談交じりで話す。『つもり』ってどういうことだろう。『音楽はできた』という高城くんに対しての言葉だろうか。
「おれには簡単すぎたよ先生ー」
「んーそうみたいだなー。高城はホント音楽だけ出来るみたいだからまいるよ」
高城くんは嬉しそうに笑った。その会話を聞いていたクラスメイトが、「おまえ何点だったの?」と高城くんに尋ねると、彼は笑顔で「94点!」と返す。
「ちなみに高城が学年最高得点なー」
クラス中にどよめきが起きる。私だってビックリだ。音楽と体育は出来るって豪語していた高城くんだけれど、まさか私より上の———『1位』をとっているだなんて思ってもみなかった。
「もー先生、そんな俺のこと褒めないでよっ」
「おまえ授業態度がよければ言う事ないんだけどなー」
クラス中に笑いが起きる中、私は上手く笑うことができないでいた。いつもなら、周りが笑うタイミングに合わせてきちんと笑顔を作ることができるのに。
笑えない。
だって、私よりずっとずっと努力なんてしていない彼に、私が欲しくてたまらないものを取られたんだもの。何でも簡単に手に入れてしまうような、そんな人のくせに、どうしてそんなところまで奪っていくの、って。
黒い感情が溢れて止まらない。
「えーっと、じゃあテストの話はここまでとして。
11月にある合唱コンのパート決めを今日はしようと思うんだけど」
先生の声にみんなからブーイングの嵐が起こる。その声で我にかえってきちんと前を向く。
合唱コン。ブーイングが起きるのも無理はない。
間違いなくうちの高校の馬鹿げた行事ナンバーワン。中学生でも今時真面目になんてやりたがらない。みんなで心を一つに!なんてのがお決まり文句の合唱コンクール。正直アホかとも思ってしまう。誰が好んでそんなことをやりたいだなんて言うだろう。高校生のこんな時期に、クラスで合唱だなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「ホラホラ、そんなに文句言わないの。ウチの学校の伝統なんだから。じゃあ、女子はアルトとソプラノで希望取るから」
先生が忙しそうにプリントを配りだす。たぶん課題曲の楽譜だろう。うちの学校が馬鹿みたいに伝統として続けてきた合唱コンだけれど、毎年どのクラスも適当ソコソコに終わらせるだけ。意味なんて全然ない。
だいたい、今時高校生で合唱ってどうなの。
11月に行われる文化祭の前日が合唱コン。元々、クラスの団結を目的に始まったらしいけれど、正直高校生にとってのメインイベントは合唱コンよりも断然文化祭のクラス別出し物だし、そっちの方がより仲も深まる。少し考えればわかることだ。
それに、今はまだ夏休みにも入っていない、期末テストが終わったばかりの7月。準備が早すぎると思う。
「じゃあ、ソプラノやりたい人こっち集まってー」
課題のCDを聴いたあと、野村先生の指示に従ってパート決めをする。ソプラノっていう声に私も足を動かそうと思ったけれど、その足をピタリと止めた。
どうしてかって、ソプラノ希望の人たちが、私とは真逆の、派手でクラスの中心的人物な人たちだったから。
濃いメイクに短いスカート。いつも無駄にうるさくて、会話の内容を盗み聞きしているかぎり頭の出来もよろしくない。可愛くてキラキラして、———例えば高城くんの隣にいても問題ないような、そんな女の子たち。
しぶしぶと、私は反対方向のアルトに足を動かした。
「うーん……アルト多いねぇ」
野村先生が悩んだ口調で首をかしげた。
それもそのはずだ。ソプラノに集まったのは、あの派手な子たちだけ。クラスの中にある見えない階級を、自分が位置している場所を、きちんと理解して生きてる証拠。
「誰か移動する人いない? って、……いるわけないか。困ったなあ。うーん、しょうがないけど簡単なオーディションするしかないね。」
オーディション。その言葉に怪訝そうな顔を浮かべるクラスメイト達。私だってだ。
そういえば、去年もアルトが多くてオーディションになったんだっけ。私は幸い少数派だったから、受けなくて済んだんだけれど。
オーデイションは正直嫌だけど、あの派手組みに混ざるのはそれこそ絶対に嫌。
受けるしかないか。
そう思って、自分の順番を待った。
音楽のテストは嫌いでも、こう見えて歌うのは別に嫌いじゃない。というか、音楽の成績は実技も評価点に入るから、気を抜けないっていうのもある。歌を歌うのも楽譜を読むのも、もちろんリコーダーだって。小学生の時からひとりできちんと練習してきた。体育のマラソンだって一緒だ。
元々才能なんてない私は、練習しないと何もできなかったから。
◇
「えっと、オーディションの結果、相川さん、堀池さん…」
野村先生がザッと6人ほど名前を呼んだ。呼ばれた人たちは顔色を曇らせて何かコソコソ話し出す。
「は、ソプラノにうつってもらいます」
そこに、私の名前はなかった。希望通りのアルトになれたことに安堵して、ほっと胸をなでおろす。
オーディションは、主に先生のピアノの前で歌う。ひとりずつ、簡単な音階をピアノと共に歌うだけのもの。それでも、後ろにはパートがすでにきまって練習しているクラスメイトがいたから、すこし緊張した。
まあ、誰も私のことなんて気にしてないとは思うけれど。
「じゃあ、今日の授業終わりなー」
オーディションの結果を告げたあと、野村先生がパンパン、と手を二回叩く。タイミングよく授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、私はやっと終わったと胸をなでおろした。
◇
「ねーねー!片桐サンッ」
突然後ろから名前を呼ばれて立ち止まる。
カタギリ、それは自分の名前に間違いないのだけれど、普段先生以外に呼ばれることなんて滅多にないから少しビックリしてしまった。おそるおそる後ろを振り返ると、そこにいたのはどういうことか今日の日直、高城くんだった。
振り向いた私に、白い歯をニカッと見せて笑顔を作る彼の姿が自分に向いているものだとは思えなくて、思わず眉間にしわが寄ってしまう。
昼放課、図書室までの誰もいない渡り廊下。
まさか彼に声をかけられるとは思わなかった。どう返答したらいいのかわからなくて、いろんな言葉が頭をめぐるのだけれど、上手い言葉が何も浮かんでこない。
こんな昼放課の自由時間、いつもなら人に囲まれている高城くんが私に話しかけるなんて、いったいどうしたんだろう。私、彼に何かしたっけ。
「……なに?」
迷った挙句、口から出たはそんな言葉。我ながら可愛げの欠片もない。
高城くんは私の言葉にまたニカッと白い歯を見せて笑った。どうしよう、すごく意味がわからない。
私は図書室に行こうと思っていたから、そのまま前に向き直って長い廊下を歩き出した。どういう反応をしていいのかわからなかったというのもあるけれど、きっと大した用でもないように思えたからだ。
だいたい、彼が私の名前を呼んで、わざわざ呼び止める理由がない。
……なんて思っていたんだけれど。
何故か、「え、ちょっと、片桐さーん」なんて言いながら私の後ろをついて歩く高城くん。
いや、本当に意味が分からない。何がしたいんだろう。
何も返事をしないで無視し続けていると、私の名前を呼んでいた彼の声が止んだ。けれど、ついてくる足音だけは止まらなかった。
何も言わないまま、私の後ろをついて歩いてくるだけ。足音が重なってなんだかきもちわるい。
無言の空間はキライだ。騒がしいところも好きじゃないけれど、この空気には息が詰まりそうになる。まるで家にいるときのような息苦しさと窮屈感。
いい加減、不思議に思って立ち止まった。
そしたら、高城くんも少し後ろで同じように足を止めた。
「何? 私に、なにかあるの?」
かなり不機嫌なオーラを出したつもりだったんだけど、振り返った先にいた彼はこれまた白い歯を見せて笑っていたものだから少しイラっとする。
本当は怒ってついてこないで、とでも言おうかと思ったけど、ここは我慢。私の印象をつぶさないためでもあるし、彼を敵に回すのはかなりのデメリットになる。第一、彼だってちょっとからかうくらいの気持ちでやっているんだろう。
例えば、物静かな優等生に声をかけてみたらどうなるだろう、とか、きっとそんな類の好奇心でしかない。
「うーんと、」
高城くんは、ポケットに手をつっこんで、少し顔をかたむけてみせた。ゆれるフサフサの茶髪とその人懐っこい笑顔が、なんだか犬みたいだなあと思う。人気の理由はこういうところだろうか。
「俺のバンドの、ボーカルやらない?」
二カッて、また白い歯を見せて笑った高城くん。まるで当たり前とでもいうように、すんなりとそんな言葉を吐いた彼の気持ちがまったくとって汲み取れない。
「……バンド?」
「うん! あのね、俺いま3人組のバンド組んでるんだけど、ずっとボーカルを探してて——」
「……ごめん、冗談とか好きじゃないんだ。」
つくり笑いを浮かべてそう言うと、高城くんは「え?」って顔をきょとんとさせた。犬みたいなのは彼の性格のせいでもあるんだろう。
私は再びムシして止めた足を動かす。後ろでまた私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、それも無視だ。
ほんとに、なんなの。イキナリ呼び止めて、何かと思ったらそんな冗談。わらえないってば。
第一、私と高城くんの接点と言えばクラスが同じ、ただそれだけだ。他のクラス、ましてや他校にまでも顔が広いであろう高城くんがわざわざ私にそんなことを言うわけがない。
「ねーね、ホントに、嘘じゃないの!
俺、超マジメに言ってる!これホント!」
そんな風に言いながら、高城くんは私の後ろをついて歩くことをやめない。廊下に人がいなくて助かった。ただでさえ人気の彼を無視して歩いているなんてそれでこそ私にデメリットしかないんだもの。
というか、そろそろ図書室に着いてしまいそうなんだけれど。
「高城くんがどういうつもりで言ってるか知らないけど。例え本当に誘ってくれていたとしても、私そういうの興味ないから。ごめんね。」
一切振り返らずに、歩きながらそう突っぱねる。けれど高城くんは無邪気な声で「だーかーらー!」って後ろをついてくる。
本当にしつこい。なんなの一体。いくら高城くんだからと言っても、そろそろ我慢も限界だ。うるさい人は好きじゃないし、そんなウソみたいな話にのるほど私は人付き合いが上手くない。
「ねえ、ていうかさ!高城くんってヨソヨソしいなあ。せっかく同じクラスなのにさっ!領(りょう)でいいよ?」
ビックリした。
さっきまで後ろを歩いてたのに、いつの間にか高城くんが一瞬で私の前に立ちはだかって、二カッてまた白い歯を見せている。
とりあえずのこと、彼の人との距離の詰め方が尋常じゃないことはわかった。
「……高城 領。そこをどいてくれない?」
「……片桐 綾乃、俺のバンドに入ってくれる?」
ふいに名前を呼ばれて顔が熱くなった。
片桐 綾乃(カタギリ アヤノ)、私の名前だ。まさかフルネームを覚えていてくれるなんて思ってもみなかった。
「……入らない」
なんだかいい思いがしなくて、プイッと横をむく。顔が熱くなったのは気のせいだ。
名前なんて、それくらいで、恥ずかしい。クラスメイトなんだから知っていたっておかしくない。
名前を呼ばれたのがあまりに久しぶりすぎて、少しびっくりしただけだ。
「俺、綾乃が入ってくれたら、絶対いいと思うんだ」
「突然そんなこと言われても意味がわからないし。第一、バントとか私の柄じゃない」
「そんなことないってば! 綾乃、歌うまいし、可愛いし、カンペキだよ? 絶対ボーカル向いてる!」
「……高城くん、冗談はやめて」
「領でいいよ?」
「……」
可愛いってなんなの。そんなにサラッと言えるものなの。ていうかそもそも、高城領は私のことなんてなにも知らないじゃない。
人の中心にいつもいる人って、これだから嫌なんだ。自分の考えにすべての人が賛同してくれているって思ってる。それに、思ってもないことをすんなりと口にする。
「俺さ、聞いてたんだ。合唱コンのオーディション!それで、なんていうか、綾乃の歌声聴いたとき、この子だ!って。直感っていうの?ホラ、なんていうかな、運命?そういうの、感じちゃったんだよね」
「ね」って顔を少し傾ける。
その顔は物凄く可愛らしいけれど、今はなんだか憎たらしい。
「……運命とか、そういうのホントに馬鹿げてる。だいたい、私は歌なんて上手くないし、バンドなんてやる柄でもない」
「俺、ずっと探してたんだ。俺らの曲を歌ってくれる人。綾乃の声が、まさにイメージピッタリだったんだよ。透き通ってて、キレイで……。自分勝手だってわかってるけどさ、一回だけでも…」
「うるさい、しつこい!」
感情的になって、声を張り上げてしまった。幸い、聞いてたのは高城領だけだ。
透き通ってて、キレイとか。私には似ても似つかない言葉。高城領と私は違う。だいたい、バンドってこと自体が私にとったら未知の世界なんだ。カンタンに頷けるわけもないし、高城領の話を信じる理由もない。
普段の、物静かで優等生のイメージを考えたら、今の私の印象は最悪だろうな。明日から、高城領の取り巻きたちにイジメられたりして。
でも、これは仕方がないと思う。どう考えたって、こんなからかいを受ける必要なんてないもの。
「……そういうことだから」
ビックリした顔の高城領の横を通り過ぎる。ちょっと言い過ぎちゃったかもしれない。でも、高城領がしつこいから悪いんだ。
◆
「……ただいま」
ガチャリ、と音を立ててドアを開く。返事がないのにはもう慣れた。普通の家庭よりも幾分か綺麗で大きな家に住んでいるのは知っているけれど、ここには普通の家にあるものが何もない。
例えば、愛情。例えば、自分の居場所。
見慣れない靴があるのに気づいて悪寒がした。高そうな大きなローファーだ。また靴を変えたのか。
……お父さん、帰ってきてるんだ。胸がざわついて、息が上手くできなくなる。
リビングまでの廊下を歩きながら、段々空気を吸うのが難しくなってくる。それは、リビングに近づくにつれて大きくなる両親の話声のせいだろう。
案の定聞こえてきたのは、言い争っている男女の声だ。私の、お母さんとお父さんの声。
「あなたが悪いんでしょう?!全然帰ってもこなくて!」
「俺だって仕事があるんだっ!
だいたいな、お前はいつもそうやって……!」
物音をたてないように、リビングの横を見て見ぬフリをして通り過ぎ、いつものように階段をかけあがって自分の部屋に入る。扉の開け閉めの音がしないように、細心の注意を払って。
自分の部屋に着いた瞬間、ほっと胸をなでおろした。そこでやっと、自分が息を止めていたことに気がつく。
2階まで、2人の大きな声は聞こえる。顔を合わせればいつもこうだ。お父さんは家にあまり帰ってこないから、久しぶりにこんなに冷や汗をかいた。
今日、成績が返ってくる日だって知っていて帰ってきたのだろうか。カバンの中にいれておいた丸めた成績表をきちんと広げておかないといけない。
うちのお母さんとお父さんは仲が悪い。口喧嘩はもう日常茶飯事だ。ほんのささいなことで、すぐにぶつかり合う。
お父さんがめったに家に帰ってこなくなったのもきっとそのせいだと思う。
帰って来ても喧嘩ばかり。正直帰ってきたくないんだと思う。私だってこんな家に帰ってきたくないのに、大人のお父さんが帰って来たいと思うはずもない。
昔は、仲のいい3人家族だった。
それを変えたのは、紛れもなく私のせい。私のせいで家族がバラバラになってしまった。それをちゃんと、ハッキリ、私はわかってる。
「オマエがあの子を……綾乃をちゃんと見ておかないからだろう!」
「私だって母親としてやれることはやっているわよ!」
視線を下に向げた。目の前では名前なんて久しく呼ばれていないのに、2人の喧嘩には私の名前がよく飛び交う。
とっさに近くにあった参考書を開いて机に座った。イヤホンをつけて、大音量で音楽を流す。
問題を解くと、何もがすくわれる気がした。勉強に集中すると、他の物が何も気にならなくなる。この世界から、抜け出せたみたいな気分になれる。
私は勉強が好きなわけじゃない。
だけど、勉強をしているときが多分一番落ち着いていられるんだと思う。
勉強という逃げ道しか、私にはない。
私の存在を肯定してくれるのは、たぶんあの丸めた成績表に写った『1』の文字。ただそれだけだ。
「……おはよう」
毎朝同じようにリビングのテーブルに用意された食パンと牛乳を見ながら、毎朝同じトーンの「おはよう」に、お母さんは目線だけで返事をする。その、冷たい視線がいつも痛い。
残すと冷たい視線をおくられるから、食欲がない日でも必ず全部食べなければいけない。本当は、朝にパンは喉元に突っかかって好きじゃない。そんなこと、絶対に言わないけれど。
今日は珍しくお父さんもいるから、よけい空気が重たく感じるんだろう。何も言わないで新聞を読んでいるだけのお父さんの存在感は計り知れない。
めったにつけないテレビから漏れる音が、やけに大きく聞こえるのは、この空間がとっても静まり返っているからだ。食事中、家族で会話を交わすというごく当たり前のことでさえ、うちには存在しない事。
できるだけ急いで朝ご飯を飲み込んだ。食器を自分で片付けてから、沈黙の中リビングを出る。私の背中にかかる言葉はないけれど、毎日玄関で静かにそっと「いってきます」と呟くのは私の中の意味のないルールだ。
そして今日も、つまらない一日が始まる。
◇
「おーはよっ!」
誰もいない下駄箱。今日はいつもより少し早く家を出たから、大分早く学校に着いてしまったと思ったんだけれど。
朝から屈託のない笑顔でそう言って私の背中を勢いよく叩いたのは、あの高城領だった。
ビックリして顔が固まったのも無理はないと思う。
だって、私は領の前で大声を張り上げたんだもの。普段の私のイメージからして、絶対にありえないこと。
再び声をかけられる日が来るなんて思わなかった。というかむしろ、イジメにでもあうんじゃないかってビクビクしてたっていうのに。
「おーい? 綾乃? おはよって言われたらおはよって返してよー!」
クラスにいる時と同じテンションで言う高城領は、私の目を見つめてそう笑う。その屈託のない笑顔にウソは一つもないみたいに見えるから困る。
周りに人がいなくてよかった。高城領のファン……というより、彼にはとにかく友達が多いから、2人で話しているところを見られてやっかみを買うなんて事だけは避けたい。
昨日、初めて私は私のイメージを人前で壊した。物静かで、ひとりが好きな優等生。そんな私のイメージを。ひかれて、当然だと思ってたのに。
まさか、まだ話しかけて来るなんて思ってもみなかった。
「……おはよう」
「おっ!なんだ、ちゃんと言えるじゃんー!」
また白い歯を見せて笑った高城領。それにうまく表情を作れない私。同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろうと思ってしまう。
だって、なにがそんなに楽しいの。どうして私の目の前で、笑えるの? 私なんかに、笑顔を向けることが出来るの。
あまりにも私が固まっていたからだろう。高城領は不思議に思ったのか、今度はきょとんと私の顔をのぞきこんだ。
「綾乃?」
「……なんで……?」
「何がっ?!」
「だって昨日、私、すごい感情任せに大声出して、あなたを拒絶した。ひかれたと、思ってたの……違うの?」
自分でも、なんでこんな事を言っているのかわからなかった。ただたどしく口から零れ落ちた言葉は想像以上に情けなくてカッコ悪い。でもだって、高城領があまりに屈託のない笑顔で笑うから。
高城領は、元々まん丸の目をさらに見開いて、ブハッと吹きだした。
「アハハハハッ!そんなのでひくわけないじゃん!綾乃おもしろー!まあ、ちょっとは驚いたけどさー」
高城領が突然歩き出したから、咄嗟に私もその後ろをついて歩く。向かう教室が同じなんだから仕方ない。
でもこれじゃ、昨日と立場逆転だ。
「驚いたよね、そーだよね……」
物静かでひとりが好きな優等生。周りに貼られたレッテルと、自分自身が決して破ってこなかった周りからの評価。
それに比べて高城領は、クラス内どころか学内イチの人気者。この学校で領の名前を知らない人なんてきっといない。いつも笑っていて、いつも人に囲まれていて、そのくせ誰にだって優しくて。……分け隔てなく人に優しくできる彼のことを、私本当は知っていた。
朝日で出来た私と高城領の影を見て、私と彼は本当に正反対だなあとつくづく思う。例えるなら、光が高城領でそれで出来た影が私だろう。
「うん、驚いたけど、嬉しかった。」
ハハッてまた領が笑う。少し前を歩いてるから、表情は見えないけれど。
「……嬉しかった?」
「うん。すっごい嬉しかったなー。だって、綾乃の本当の姿でしょ?アレは。」
そう言われて、ガツンと鈍器で頭を叩かれたような衝撃に襲われた。驚いたのかなんなのか自分でもよくわからないけど、足が動かなくて思わず立ち止まってしまう。
だって。“本当の姿”?
高城領が後ろを振り向いて、いつもの笑顔でニカッと笑う。
この人は、笑うことしかできないんだろうか。こんなに笑顔が似合う人を、たぶん私は今まで見たことがない。
「……じゃあ、今の私は、嘘の姿なのかな」
止めた足を、再び動かして呟く。高城領も前を向いて、歩き出す。どうしてこんな風に、会話を続けてしまうんだろう。高城領の笑顔は魔法か何かなのかもしれない。
「んー。別に、嘘の姿とかそういうことじゃないよ。でもさ、綾乃って、いろんなこと我慢して生きてるんじゃないかなーって思ってさ」
「……なにそれ」
「うーんとね、例えば」
その先の言葉が気になって高城領の後ろを歩く事をやめない私は、どうかしてるのかも。
「本当は昨日みたいに言いたいことがあっても、誰にも言わないで飲み込んでるんじゃない?」
高城領が、昨日私の目の前に立ちはだかった時みたいに、超高速移動で顔をのぞきこんできた。移動が早すぎると思うのは私だけだろうか。彼は人と関わるスキルがあまりにも高すぎる。
「……違う」
「ウソだー! だって綾乃、今ホントは俺のことなんなのコイツって思ってるでしょ!」
「……それは、若干正解」
ふ、って。高城領が面白そうに頬を緩めた。いつも白い歯を見せて笑うのとはちょっと違う、目を細めて優しそうな笑顔。それからやんわりと、彼は口角をおろした。
「嘘が上手いよね、綾乃は。でもそれじゃ、自分は幸せになれないんじゃない?」
初めて見たと言ってもいいほど真面目な顔をしてそう呟いた高城領は、いつの間にか着いていた教室へと一足先に入っていった。
後ろからやってきた派手グループの輪の中に入る高城領。それはあくまでも自然なこと。むしろ、さっきまで彼と会話をしていたことが私にとっては非現実なことなのだけれど、何故だか無性に泣きたくなった。
それはもしかしたら、高城領が突飛でおかしな、けれども随分と的を得た事実を言葉にしたからなのかもしれなかった。
◇
──キンコンカンコーン…
お昼休憩を合図するチャイムが鳴り終えて、私はホッと息を吐き出した。日直の号令と共に授業は終わって、教室内の空気が一気に暖かくなる。
今やったばかりの数学の問題、この間予習した時は出来ていたはずなのに解くのに随分と時間がかかってしまった。今日は当てられなかったからよかったものの、これがテストだったらと思うと冷や汗が出る。
それがどうしてだなんて、原因はわかりきってる。
高城領のせいだ。朝から彼の言葉とあの笑顔が頭にチラついて、どの授業も全然集中出来ない。家で今日の範囲を総復習しないと思うと心の底から自分が情けなくなってくる。
お昼休憩は堅苦しい授業から開放される至福の一時なんだから、いつまでもこんなことでグダグダしてるわけにはいかない。お弁当を急いで食べて、いつものように図書室に向う。これが私の毎日の日課。
……だったはずなんだけれど。
何を思ったのか、私の足は何故か屋上へと向かっていた。本来なら開いていないはずのそこが鍵が壊れていると知ったのは、小太りの担任が前に「息抜きにどうだ」と勧めてくれたからだ。教師が言うことか、とも思ったけれど。
なんとなく、今は外の空気でも吸いたい気分だったんだ。ただ、それだけ。
「はあ……」
重たいため息をついて、フェンスにもたれかかる。屋上の鍵は本当に壊れていて、どこまでも広がる青空に私は目を奪われてしまった。あの担任、意外と良い場所を教えてくれるじゃないか。
───嘘を、ついてる。
自分を、偽ってる。本当の私は、こんなに真面目で、こんなに勉強熱心でもない。イイコちゃんを演じていても、内心はみんなに悪態をついている。
そんなこと、自分が一番よくわかってる。私は決して完璧な人間じゃないし、優等生でもない。むしろ、本当に最悪な人間だと思う。
けれど。
どうしてそれを、高城領が言うの?どうして一回しゃべっただけの高城領がそんなことに気づいたの?
「……私、そんなに嘘っぽいのかな」
ふと地面に視線を下ろす。あるはずのない影がふたつあることに気がついて、ハッと顔を上げた。
「うん。嘘っぽい。」
白い歯を見せて笑う領がそう言って目の前に立っていて、私は声が出ないくらいビックリしてしまった。担任のヤツ、私だけじゃなくてお気に入りの生徒みんなにこの場所を教えていたらしい。
「……いつからいたの?」
「今来たとこ」
高城領は、いつものようには笑わなかった。笑顔は笑顔なんだけれど、どこか落ち着いた、そんな微笑み。黙って私の横に座り込むものだから、私もフェンスにもたれかかる。
なんか、ヘンな感じ。
屋上は空気が美味しくて、2人きりの空間なのにちゃんと息が吸えている。高城領って不思議なひとだ。
こんなに人と関わったのは、本当に久しぶりのこと。
「私、嘘っぽいんだ?」
「うん。ものすごーくね」
そこまで聞いて、ガクリと肩を落とす。高城領はきっと、私が本当は全然イイコちゃんなんかじゃない事を知っている。
「もっとさあ」
唐突に、沈黙が破られる。強く吹いた風が高城領の茶髪の髪を揺らした。上から見上げているからか、いつもより小さく見える高城領。私の方は見ないで、真っ直ぐ前を向いている。
「もっと、自分の思ってること言えばいーじゃん。昨日、俺に怒ったときみたいにさ」
高城領が空を見ていた。
右手を上げてまっすぐ上を指差すから、私もつられて空を見上げる。
「なあ、知ってた?屋上から見える空が、こんなにキレイなこと」
その声に、高城領の方を向く。そこでやっと、高城領がいつものように二カッと白い歯を見せて私を見た。
私はもう一度上を見上げて。どこまでも広がる空は、信じられないくらい青かった。
「……キレイだね」
「でしょー?」
ああ、そっか。わたし、空の色まで忘れていたのかもしれない。こんなに青い空が、どこまでも続いているなんて知らなかった。
「空気が、おいしいね」
「うん」
「雲が、流れてるね」
「うん」
本当に当たり前のことを、ポツポツ呟いて。高城領はそんな私の言葉に、相槌をうって頷いてくれた。
「……私、全然知らなかった」
なんでかな、わかんないよ。
だけどね、ただ、空が空気が、この世界が。あまりにも広くて、きれいだったから。
「……私ね。
本当はすごい、できそこないなの」
隣で相槌を打つこの人に、本当のことを聞いてもらいたいって思ってしまったんだ。
「できそこない…?」
高城領の言葉に重なるように、授業の始まり5分前のチャイムが鳴り響く。私たちはそれに一瞬固まって。
でも。
高城領は動こうとしなくて、私もまた動こうとは思わなかった。なんでかなんて、そんなことわからないけど。真っ直ぐ見つめてくれる高城領の目が、私に行くなって言ってる気がしたからかもしれなかった。
「……私の話、聞いてくれる?」
いつからだろう。
人に話を聞いてもらうことが怖くなったのは。人と、関わることをやめたのは。
それでも、何故か私は、きみに、領に、聞いてもらいたいと思ったんだ。
「うん。聞かせて?」
高城領は、いつもより優しい笑顔で私を見上げた。私はその言葉に、ズルズルと座り込む。高城領の隣に。
「……あのね」
空は青いし、雲は白いし、風は冷たくて、当たり前のように私達は息を吸う。
そんな当たり前のことが、何故だか今は泣きたくなるくらいキレイなことだと思うんだ。
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今でこそあんなにも壊れてしまっているうちの家族だけれど、最初から関係が悪かったわけじゃない。むしろ、昔は本当にごく普通の仲のいい3人家族だった。
優しいお母さんと、仕事熱心なお父さん。平日はお母さんが作る美味しい食卓を家族3人で囲んで、休みの日には一緒に遊びにも出かけたし、美味しいものをたくさん食べに出かけたりした。
動物園や遊園地、水族館に映画館。家族でいろんなところに行った。お父さんもお母さんも優しくて、ずっとずっと笑っていた。笑うことが当たり前だった。
それだけじゃない。今でこそいつも一人でいる私だけれど、あの頃は仲のいい友達もたくさんいた。小学生の頃の私は、どちらかというと高城領みたいに常に周りに人がいるタイプの人間だったと思う。
昔から頭の良かった私は、先生にも親にも褒められ、可愛がられ、周りに好かれながら、何不自由ない生活をしていた。
世界は、私だけで輝いていた。
そんな私に、周りは大きな期待を抱いていた。
小学校のテストはほぼ100点しか取ったことがなかったし、入学試験が難しいと噂の有名な塾には一発合格で通っていた。
クラスメイトたちはわからない問題があれば私に聞きに来たし、先生たちは何を聞いても答える私を授業中嬉しそうに何度もあてた。
確か学級委員も何度もやらされた気がする。その時の私はそれすら当たり前のことだと思っていた。だって、クラスで1番しっかりしているのはこの私だって自分で知っていたから。
そんな順風満帆な小学校時代を過ごした私にとって、失敗や挫折なんていう言葉それ自体が無知だったのだ。
周りの人間たちは、私に期待を抱いていた分、期待はずれだった時のショックが大きかったんだろう。
私は、中学受験の失敗をした。
それが、私の人生初の挫折だった。有名な難関私立中学の受験。親も、先生も、クラスメイトたちも、私だって、合格を信じて疑わなかった。絶対に受かると思ってたんだ。完全に己惚れていた。
受験票に載った自分の番号が、合格者一覧の数字から抜け落ちているのを発見した時、『こんなことがあるのか』と本気で思った。それくらいに自信があったし、落ちるはずがないと思っていたんだ。今考えれば、随分と自分を驕った考えだとは思うけれど。
そうして中学受験に失敗した私は、みんなが行く公立の中学へと進学することになった。それが何故だかとても惨めで、惨めで、仕方なかった。
だって、あんなにも私を囃(はや)し立てた周りの人間たちは、いとも簡単に私から離れていったのだ。
中学へ入学後、私から友好関係という言葉は一切消えた。
偉そうに学級委員までやっていた私が、簡単に受験に失敗したのがそんなに面白かったのか、周りは私のことを笑い者にしていた。特に、クラスで1番派手なグループの子たちが。
『先生のお気に入りだったのにね』『あんなになんでも出来ます!ってオーラだしといて、落ちたんだって』『でも片桐サンってちょっとウザかったよねー』『それ、私も思ってた!』『何様?って感じー?』
キャハハハ。聞こえるように言うのが彼女たちのポリシーだったみたい。笑い声が耳に響いて、もうこんな耳いらないとまで思った。
友達がいないどころか、しゃべる相手すらいなかった。
そりゃあそうだ。入学早々から1番派手なグループに目をつけられた私に構ってくれる心優しいニンゲンなんて、星の数ほどいる中のほんの少数なんだから。私の場合、その少数派は1人たりともいなかったけれど。
でも、その時はまだお母さんもお父さんも私に希望を持ってくれていた。家に居場所があった。
「次があるわよ」
「高校受験を頑張ればいい」
「最終学歴で勝てればいいのよ」
「綾乃は頭がいい、自信を持つんだ」
そんな言葉を浴びせられたら、私は勉強するしかなかった。悔しくて、悔しくて、辛くて、苦しかった。
その時から、勉強は私の唯一の逃げ道になった。「1」の文字が、私を助けてくれていたんだ。
耐え抜いた中学時代。楽しかったことなんてもうあまり思い出せない。ていうかそもそも、楽しかった思い出なんて存在しないのかもしれないけれど。
やがてやってくる高校受験に、私は県内イチの進学校への受験を選んだ。中学受験のあの悔しさを、どうしても払いたかった。でも。
私はまさかの、高校受験も失敗した。
私なりに頑張ったつもりだった。中学3年間、トップ3を逃したことはなかった。通知表は常に5が並んだ。評価を得るために、苦手な美術や体育の実技もコソコソと練習した。
勉強して勉強して。
勉強しかすることがなかったから。毎日そればかりだった。受験日当日、やっと私の努力が報われると思った。やっと、この苦痛から抜け出せると思った。
けど神様は、それすら許さなかった。
自分の受験番号がのっていなかったのを確認した時、私は思ったんだ。
「終わった」
って。これでもう、私の人生は終わったと、本気でそう思った。だって目の前が真っ暗で、この先どうしていいのかすらわからなかった。
それから、お母さんの視線が冷たくなって、2人の間に喧嘩が増えた。まあ元々、中3に上がる頃にはもうほとんどこの状態だったところに、私がトドメを刺したのだ。お父さんはあまり家に帰ってこなくなった。
───全部、私のせいだ。中学受験と高校受験に失敗したのも、周りから人が消えたのも、家族が壊れていったのも、お父さんが帰ってこなくなったのも。
全部全部、私のせいなんだ。
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「それから、もう全部ダメで。人付き合いとか、家族関係とか、……この学校に来てからはほとんど諦めた。私には、勉強しかないんだ。」
空を見ながら話す私の言葉を、高城領は時々頷きながらちゃんと聞いてくれていた。その横顔に、何故だか目頭が熱くなる。
だってこの世界に、まだ私の話を聞いてくれる人がいたんだなあって。
気づけば、もう授業も学校も終わる時刻だった。青かった空が、段々と暖かい色へと変化してきている。それくらい長い間話をしていたらしい。自分では一瞬のことのように感じたのに。
授業をサボっただなんて、お母さんが知ったら大変なことだ。そして、これまでの私からして絶対にありえないことをしてしまった。
「ごめんね。こんな話、聞かせちゃって」
苦笑いを浮かべて立ち上がる。高城領に何故こんなことを話したのかわからない。久しぶりに人と関わったから、私はどこか浮かれていたのかも。
誰だって、こんな話を聞いていい思いなんてしない。むしろ迷惑に決まってる。申し訳ない気持ちを含んだ言葉を選んだのに、高城領は私を引き留めた。
「待って」
歩き出した足を止めて振り返ると、高城領領が真剣な目で私を見ていた。
あまりにもまっすぐなその瞳に。吸い込まれてしまうんじゃないかって思うほど、彼の目は綺麗な色をしていた。
「なあ、綾乃」
すっと、高城領が息を吸い込んだ音が聞こえた。他人の呼吸音。言葉を吐き出すための空気。
「歌にしようよ、綾乃の気持ち。」
高城領の目が光る。キラキラした目だなあと思う。まっすぐで、曇りのない、キレイな目だ。……けれど、その言葉は私には響かない。
「……ばっかじゃないの」
こればっかりには、私も腹が立った。
真剣に聞いてくれていたと思えば、話が逆戻りだ。結局私にそのボーカルとかなんとかいうヤツをやらせたいだけじゃない。ここまで来ると腹立たしいのも通り越して呆れてきた。
「話した私が馬鹿だった。帰る」
じゃあ、と言って高城領に背を向ける。
「まってまって、違くて。あの、だからさ!綾乃、いつも思ってること隠すクセあるだろ?俺にいま話したみたいに、本当はいろんなこと思ってるのに、押し殺してるじゃん」
「……」
「なあ、だからさ、それ全部、曲にして歌っちゃえばいいよ。伝えたい気持ち、あるんじゃないの? 周りにも、親にも。」
「……結局、私に貴方のバンドに入ってもらいたくて聞きたくも無い話をわざわざ聞いてくれたんでしょ?」
嫌味たっぷりだ。私の言葉には棘がありすぎる。でも、しょうがないじゃない。本音なんて、言えない。
「ホラ、綾乃。そういう風に、思ったこと口にすればいいんだよ」
「……は?」
「思ったよりも簡単に、ニンゲンって殻を破れるってことだよ」
何それ。高城領の目は真剣だ。意味わからないよ。聞きたくない。私は止めていた足を動かした。
「なあ、綾乃!」
私が屋上から下へおりる階段の扉に手をかけたとき、高城領は私の名前を強く呼んだ。引き止められる経験があまりないからか、私の手はピタリと止まる。
〝思ったよりもカンタンに、ニンゲンは殻を破れる。〟
聞きたくない?高城領の言葉が意味わからない?———本当に?
「音が、曲が、音楽が……誰かの心に伝える事だって、できると思うんだ!」
サッと風が吹いた気がした。映画のワンシーンみたいに時が止まったんじゃないかと思う。だって、全身が震えるのを感じた。彼の真剣な目が、私を捉えて離さないから。
高城領の言葉がリピートされる。———音が、曲が、音楽が。誰かの心に伝える事ができる。
「俺は、俺のために綾乃を誘ってるわけじゃない。綾乃のために、誘ってるんだよ。なあ、綾乃。」
音が、曲が、音楽が。誰かの心に訴える。響く、届く、伝える。
背を向けていた高城領のほうに振りかえる。
なによ、どうして。
どうして高城領が、そんなに泣きそうな顔をするの? あなたはいつも、笑っているはずじゃない。
「音楽の素晴らしさ、おれが教えてやる」
あまりにも真剣なまなざしに、私は不覚にも、感動してしまったりして。彼を見ていたら、私まで泣きそうになってしまう。
自分でも本当に単純だと思う。今までこんなこと一度だってなかったのに、どうして彼の言葉はこんなにもすんなりと私の中に入り込んできてしまうのだろうかと不思議に思う。
けれどほんの少しだけ。彼を、高城領を、信じてみたくなったんだ。
「……わかった」
気づけば落ち葉が地面に落ちてゆくみたいにポロリと口から言葉が落ちていた。高城領が大きな目をさらにまんまるにして私を見る。
「そのかわり、高城領が言う音楽の素晴らしさ、見せてもらおうじゃない……!」
高城領が、いつもの笑顔を作った。「上等だ!」って声を張り上げて。
───音が、曲が、音楽が。
誰かの心に伝えることだってできる。
高城領の言葉は不思議だ。何故かすんなりと、私の心に響いてくる。信じたくなる。
ねえ、夕日って、こんなに赤かったんだね。青空と同じくらい、とっても綺麗だ。
私、たぶん昨日とは違う今日をスタートさせた。私の世界が変わっていくのかもしれないし、変わらないのかもしれない。そんなこと、まだわからないけれど。
今日という日を変えてくれたのは、紛れもなく高城領だ。