「じゃあ、手、つなぎなおす?」
「…………」
 差し出された手を見ながら無言でいると、またもや小さく噴きだされ、
「いいよ、今日はもう」
 と言われた。やはり、お見通しだ。私は照れ隠しで、ほんの少し口を尖らせる。
「そういえば、千早にも噂届いたみたい」
 すると、先輩が思い出したかのようにそう言い、ベンチにのけぞった。
「そうなんですか?」
「うん、今日、釘を刺された。一応コーチなんだから、節度のある交際をしろって」
「節度……」
 節度もなにも、本当に交際していないのだから、手つなぎ以上に進展しようもないのだけれど。
 そんなことを思いながら先輩の顔を見ると、なんだか少し覇気がないように思えた。そして同時に、九条先輩が藍川先生へとたまに向けている、あの優しい眼差しを思い出す。
 そういえば、先輩は、藍川先生のためにこんなことをしているんだったっけ。藍川先生が大事だから、彼女が白い目で見られないように。
 でも、それって……。
「あの……九条先輩って、もしかして藍川先生のこと……」
「あ、バス来た」
 九条先輩が声を出したその絶妙なタイミングに、うまくはぐらかされた感がぬぐえない。私は鼻でため息をつき、バッグを肩にかけながら立ち上がる。そして、
「ホントにいいんですか? 誤解されたままで」
 と、さっき先輩にされた質問をし返した。
すると、先輩がふわりと笑った。それは今までとは違う、心を許したような顔に見えた。
「いいんです」
 バスのエンジン音にかき消されそうだったその返事を聞き、私は互いの秘密を共有したような気持ちになった。核心的なことは言っていないけれど、きっと、私の予想は当たっているし、私の気持ちも先輩にはバレている。
「……それじゃ、おつかれさまです」
「じゃーね」
 バスに乗りこみ、席に座った私は、先輩との関係を思った。
それぞれ他に好きな人がいるのに、バス停で15分間手をつないで会話するという、妙なパートナーシップ。そして、気持ちの成就を考えていないという共通点。
「……なんなんだろう、ホント」
 このへんてこな関係に、私はふっと笑ってしまったのだった。



 次の金曜日は、部活中は曇り空だったけれど、帰り際になってから急に土砂降りになった。先日梅雨入りが発表されてから折り畳み傘は常備しているものの、きっとバス停に向かうまでに、横雨で濡れてしまうだろう。
倉庫で最後の点検をしながら、体育館に打ちつける雨の音にそう思っていると、
「あんた、まだ残ってんの?」
 背後からかけられた男の声に「わっ」と驚いた。この前は政本君だったけれど、今度は九条先輩だった。
「……はい。今日はバスケ部が最後だったんで、用具と照明の最後の確認をしてて」
「真面目」
 九条先輩は鼻を鳴らし、つかつかと中に入ってきた。そして、おもむろに拭いたばかりのバスケットボールを手に取る。
「帰らないんですか?」
「雨がひどいから、千早が送ってくれるって」
九条先輩はボールを弾ませながら、倉庫から体育館へと出る。
「……よかったですね」
 そして私がそう言うと、振り返り、
「あんたも一緒。バス停同じだって話したら、まとめて送ってやるって」
 と言った。
「え? いや、そんな、悪いですよ。私、傘持ってるし」
「いいんじゃない? 彼女なんだから。千早もそれわかってて言ってくれたんだろうし」
「……彼女……」
 微妙な気持ちだ。九条先輩は藍川先生が好きだというのに、どういうつもりで話しているのだろうか。
「仕事済ませてくるから、ここでしばらく待ってろだって」
「……わかりました」
 九条先輩は、待ち時間を潰すためだろうか、そのままドリブルをして軽やかにレイアップシュートを決めた。私はそれを見て、あいかわらずきれいな動きだな、と感心する。
「はい」
 すると、シュッとこちらへボールが飛んできた。驚きながらもキャッチした私は、
「え?」
 と言ってたたずむ。
「1対1(ワンオンワン)」
「や、私は……」
「暇つぶしに付き合ってよ」
 そう言うや否や私のボールを奪いにきた先輩。その顔が眼前に来て、私はとっさに先輩の伸ばされた手をかわした。体勢を低くして、ひらりと体を翻す。
「やるね」
 九条先輩が面白そうに口角を上げた。私は、気付けばドリブルをしていた。もうずいぶんやっていないのに、体がバスケを覚えている。
「みんなのプレーを毎日観察してるからだと思います」
「見るのとやるのじゃ違うだろ」
 たしかに全然違う。その証拠に、うまくできたと思った途端、ボールが手から離れていた。九条先輩に取られたのだ。そして、そのまま一気にシュートを決められる。
「…………」
 私は、毎日片付けでボールに触れているというのに、それとは全く違う感覚の残った手を見た。ピリピリとした重い感じが手のひらから腕を伝い、心臓まで届いているかのようだ。さっき、たしかにボールと一緒に私の心も弾んでいた。見るのとやるのじゃ、興奮も段違いだ。
「も、もう一回……」
 気付けば、私はそう言っていた。九条先輩は、何も言わずにまたボールをパスしてきて、私優位にゲームを始める。
もう、大きな雨音も聞こえなくなっていた。何度もミスしたり取られたりしつつも、ひとつのボールを追いかける楽しさに夢中になる。そして、最後になってようやく、私はスリーポイントシュートを決めることができた。
「……やった!」
 入った……。その声は、声になっていなかった。久しぶりにこんなに息が切れているからだろう。それよりなにより、嬉しさが半端ない。リングネットにボールが入った気持ちいい音が、何度も耳にこだましている。
「やっぱり、いいフォームじゃん」
 全然息の切れていない余裕そうな九条先輩が、私のシュートフォームを真似て言ってきた。私は、瞬きを繰り返しながら、なんて言ったらいいのかわからずにたたずむ。“やっぱり”が2年前にかかっていることに気付いたからだ。
 それよりなにより、自分の心臓の音がこんなにけたたましく打っているなんて、いつぶりだろうか。体を動かすことがこんなに面白かったのも、いつぶりだろうか。
「やればいいのに、部員として」
 先輩にそう言われたことで、耳に大雨の音が戻ってきた。コート内だけのキラキラした世界だったのが、薄暗いいつもの体育館に元通り。急に現実に戻されたかのようだ。
私は胸に手をあてて息を整えながら、
「……いえ、それは無理です」
 と答えた。
「もう3年で、今さらっていうのもあるし、それに……」
「“体が弱いから”? だったっけ?」
「……はい」
「今、めっちゃ動けてたのに?」
 九条先輩はそう言って、ポンと一回ボールをバウンドさせた。その音が体育館の隅々にまで反響したことで、急にこのだだっ広い空間にふたりきりだということを意識させられる。バス停でのふたりきりとは、空気が違っていた。
 しばらく押し黙っていた私は、「あの……」と言い淀んでから、また口を開きなおす。
「先輩と一緒です。短時間ならいいけど、試合とかってなると別っていうか。激しく動き続けたり、たくさん走ったりできないんです。発作が出るっていうか……過呼吸になることがあるので」
「発作? 持病持ちっていうこと?」
「……いえ、小学校のときに手術をして、もう完治はしてるんですけど」
 先輩は普通に疑問を投げかけているだけなのだろうけれど、問い詰められているようで後ろめたい気持ちになる。わずかにかいていた汗が冷え、背筋が冷たい。
「よくわからない。どういう意味?」
「……私もわかりません。発作が出るたびに病院に行くんですけど、お医者さんもわからないって。健康体だし、なんの問題もないはずって毎回言われます」
「精神的なヤツ? 自分で心当たりとかあるの?」
 質問が矢継ぎ早に飛んできて、ひるみそうになる。
「えっと……フラッシュバックのひとつっていうか、発作が出たときの息苦しさを思い出しちゃって、逆に発作を誘発させているのかもしれません。それが怖いし、みんなにも迷惑かけちゃうので、クラスマッチとか体育祭の団体競技も見学させてもらってます」
「へぇ……」
 こういうふうにちゃんと説明したのは初めてだったから、少し声が上擦ってしまった。先生や友達には、“体が弱くて発作が出るから”と、おおまかにしか言っていなかったし、触れてはいけない話題のように思われているのか、深く追究してくる人もいなかった。
「てかさ、この前、あんたが犬の散歩してるとこ見たんだけど」
「え?」
「河川敷のあの長い一本道、けっこう走ってなかった?」
「…………」
 見られていたんだということに驚き、そして言い当てられていることに動揺する。たしかにこの前の散歩のとき、モコに引っ張られ、早くはないものの、けっこうな距離を走った。そして、それはその日に限った話ではない。
 私は、無意識にジャージのポケットに手を入れ、ハリネズミのストラップを探していた。部活中はいつも、バッグからジャージのポケットに移しているからだ。けれど、今日はバッグの中に入れたままで、手元にない。そのことで、いっそう胸の奥がザワザワと落ち着かなくなる。
「あぁ……ハハ、あのときは大丈夫で……」
「大丈夫なときと大丈夫じゃないときがあるってこと?」
「……たぶん」
 自分でも曖昧なのだけれど、発作が出そうなときは、なんとなくわかるんだ。そういう予兆を感じるときは、体にブレーキがかかる。自己防衛本能なのかもしれない。
逆に大丈夫なときもわかる。モコの散歩のときも、さっき先輩と1対1をしたときも、大丈夫だとどこか確信めいたものがあった。
お母さんには言っていないけれど、実を言うと、モコの散歩のときには毎回走っているし……。
「あー、いたいた。お待たせ。今から送るから出てきてー」
 そのとき、体育館の入口から藍川先生が顔を出して私たちを呼んだ。その声でふっと空気の緊張の糸が緩み、話が中断される。そして、先輩は倉庫へボールを片付けに、私は部室へ鍵をかけに走った。
 バッグを手にしてストラップを取り出した私は、それをぎゅっと握って息をつく。そして、先生へと向かい、
「すみません。よろしくお願いします」
 と笑顔でそう言った。

「ここ右折って言ったっけ? 荘原さん」
「はい、そうです。それからしばらく道なりで、郵便局が見えたら、そこの次の筋を左にお願いします」
「はーい、郵便局ね」
 藍川先生がウィンカーを出し、私の家へと向かってくれる。いくぶん雨も落ち着いてきて、なんだか申し訳ないなと思いながら、
「お願いします」
と繰り返して頭を下げる。
 先生に言われ、私と九条先輩は後部座席に並んで座っていた。車には陽気な洋楽が小音量で流れていて、先生は鼻歌まじりに運転している。
「ていうか、ホント意外だったわ。まさか、荘原さんと敦也が……」
 ルームミラー越しにこちらへ喋りかけ、
「おっと、ごめん。九条、九条」
 と、慌てて舌をペロッと出して言い直した先生。すると、九条先輩が呆れたように口を挟む。
「マネージャーは知ってるよ、千早と俺のこと」
「え? マジ? そっか、彼女だもんね」
 部活のときとはまったく違うふたりの空気に、私はそわそわした。そして、“彼女”と言われることにも慣れず、どんな顔をしたらいいのか困る。
「ていうか、お互い“マネージャー”と“先輩”呼びなの? 下の名前で呼ぶのはふたりのときだけ?」
「千早、そういう質問、オヤジ臭い」
「だって、なんかよそよそしいからさぁ。あ、ていうか、敦也。この前も言ったけど、荘原さんは3年で受験生なんだから、ちゃんと本業優先させるように。部活中も節度のある交際を……」
「わかってるから。あいかわらず先生みたいだな、ホント」
「先生だし」
 仲の良さがうかがえる会話のテンポに、私はただただ愛想笑いと相槌を打つのみ。先輩が高3のときも、裏ではこんなふうにフランクに話していたのだろう。あの頃は全然知らなかったけれど。
「しかしさー、本当に荘原さんはよくやってくれてるよね。マネージャーひとりになったのに、準備片付け洗濯手当て、完璧にこなしてるし。部員のこともひとりひとりよく見て日誌とか反省つづってくれてるし。リストバンドもさ、ありがとう、イニシャル入りで私までもらっちゃって」
「イニシャル?」
 聞き返した九条先輩に、
「そう。荘原さん裁縫得意で、部員全員分のリストバンドにイニシャルを刺繍してくれたんだ」
 と大げさに褒める先生。
「へー、俺にはないのに」
「それにさ、私知ってるんだよね。試合で負けると、部員を励ました後で、みんなから見えない所でこっそりひとりで泣いてるの」
「あっ、いや、それは……」
 私は慌てて身を乗り出して、運転席のシートに手をかける。
 そういう場面を見られることほど恥ずかしいことはない。ていうか、先生も、私がこっそりそうしていたってわかっているなら、言わないでほしい。
「なんていうか、バスケ愛とかバスケ部員愛がね、素晴らしい。マネージャーの鏡っていうか」
「あー……そういや、俺らの引退試合のときも、体育館裏で泣いてたな。今思い出したけど」
 九条先輩にまで見られていたことに、顔から火を噴くほど恥ずかしくなる。私は慌てて、
「もっ、もうそういう話はいいですから、あの、今後のことを話しませんか?」
 と話題を変えた。
「あー、今後といえばさ、女バスがヤバいんだよね」
「え? ヤバいって……」
「人数的な話。まだ職員内でしか共有されてない話だけど、2年の後藤(ごとう)が家庭の事情で急遽今月いっぱいで転校することになってさ。まったく、中途半端な時期に……って、あ、これ一応内密にね」
「え……」
 後藤さんは女子バスケ部の主力選手だ。そうでなくても、女子は人数がギリギリで、ひとり抜けられるともう試合に出場できない。北見さんと根津さん、そして1年と2年がそれぞれひとりずつの4人になってしまう。
「じゃあ、大急ぎでもうひとり勧誘するか、試合の日だけでも引っ張ってきてお願いするかしないと……」
 私が口元を押さえながら言うと、先生が、
「そうなんだよねー」
 と頭をかく。
「ていうかさ、荘原さん、試合の日だけでも出られないかな? ルールも熟知してるし、みんなとの結束力もあるわけだし、ピンチヒッターとして適任だと思うんだけど。無理?」
「あ……」
 急な提案に、私は返す言葉が出ない。横で頬杖をついている九条先輩が、ちらりとこちらを横目で見たのがわかった。さっき、体育館でバスケをしたことが思い出される。きっと、先輩も同じことを思い出しているのだろう。
できないことはないんじゃないか。そう言われているような気がして、私はゴクンと唾を飲みこんだ。たしかに、さっき本当に楽しかった。シュートを決めたときの手の感覚、体育館の空気が澄み渡ったような音、そして胸の高鳴りが、鮮明によみがえってくる。
 でも……。
「か……考えさせてください」
 私の口はそう動いていた。わずかに唇が震え、私の手はまた、あのハリネズミのストラップを探る。バッグから取り出してぎゅっと握り、聞き取られないように息を細く長く吐く。
「あぁ、そうだった。荘原さん、体が弱いんだったね。クラスマッチとか、体育の球技とかも休んでるんだったっけ」
「はい……すみません」
「ごめんごめん、こっちこそ気軽にお願いしちゃって。無理なら、かまわないよ。気にしないでね」
 先生の言葉にゆっくり頷くと、やはり九条先輩からの視線を感じた。目を合わせると、腕組みをしながらシートに体を預けている先輩が、ちょっと意味深な表情をしている。私は何か言われるのが嫌で、ふいっと顔を車窓へと背けた。
 窓に付いたいくつもの雨粒が、玉になっては風で伝い流れていく。生き物のようなその様子を暗がりに見たあとで、窓にぼんやりと映る自分の顔へとピントを合わせた。
 眉を下げた自信のない表情に、ほんの少し笑みを足したその顔は、どうしようもない空気を繕おうとする顔。本音を自分にも見えないように隠して、気にしていないふりをする、私のお決まりの顔だ。
「俺がちょっと練習に付き合ってみて、大丈夫そうなら試合出すよ」
 そのとき、そんな言葉が3人の真ん中に置かれて、私はパッと顔を戻した。九条先輩の言葉に、藍川先生が、
「マジ?」
 と声のトーンを上げる。
「まぁ、他に出てくれそうな人が見つからなかったときのための保険としてだけど。無理ない程度の動きで邪魔にならないようにするなら、大丈夫だろ」
「あの、先輩、私……」
 話を進める先輩に、私はいっそう強くストラップを握りしめる。勝手に決めないでほしい。
「体力の消耗が激しかったり発作が出そうになったりしたら、即やめさせるから」
 先輩の手が、ストラップを握る私の手を覆った。つなぎ慣れている手はいつものように大きく少しひんやりしていて、私の動揺をちょっとは落ちつかせてくれる。でも、不安はぬぐいきれない。
「じゃあ、とりあえずお試しということで、荘原さん、いい? 敦也と手慣らししてみて、やっぱり無理だってことなら、断ってもいいから。で、もしいけそうなら、今度の練習試合に人数合わせで出てもらうということで」
「えっと……」
「マネージャー業務は、私含めみんなで協力してさせるから、心配しないで。あんまり走らず、パスをつないでくれるだけでいいし」
 藍川先生が、運転しながら「ね!」と押してくる。もともと熱い先生だから、私が首を縦に振らない限り車から降ろしてくれなさそうだ。
 私は観念して、
「はい……約束はできないですけど、とりあえずできそうかどうか試してみます」
 と頷いた。頷きながら、この流れをつくりだした九条先輩を横目で見る。先輩はふてぶてしい腕組みの姿勢のまま、同じように私を見た。ちょっとだけ笑っているようにも見える。
「……練習っていったって、いつするんですか?」
「恋人なんだから、週末にデートがてら?」
「恋び……」
 恋人なんて名目上じゃないか。バスを待つまでの15分間だけの関係のはずなのに。それに、先輩は今目の前にいる藍川先生のことが好きで、彼女を守るだけに装っているはずなのに。
 そんな私の気持ちはよそに、藍川先生は「ハハッ」と笑った。
「いいな、10代の恋愛は爽やかで」
「まぁ、終始爽やかかどうかはわからないけど」
「こら、健全な交際を努めてよ? 一応、敦也はコーチなんだから」
 笑っていいのかどうなのかわからないような冗談。私はふたりの会話に複雑な気持ちになりながら、口を開けたり閉めたり百面相をしていた。
 家に着いた頃には、雨は小降りになっていた。傘を差さなくても大丈夫なくらいで、私はお礼を言って、そのまま車を降りようとする。
「先生、ありがとうございました」
「いえいえ、じゃあまた来週ね」
「あ、そうだ」
 けれど、九条先輩に腕を引かれ、耳元で「スマホ貸して」と言われる。
「…………?」
 言われるがままスマホを渡すと、先輩は手早く私のメッセージアプリに自分の登録を済ませる。そしてスマホを私に返すも、そのまま自分のスマホで操作を続ける先輩。
「どうしたの?」
 藍川先生が振り返って私たちを見たとき、返された私のスマホにメッセージが届く。
『下の名前、なに?』
 私はすぐ返信すべきだと圧を感じ、
『澪佳』
 と短く返した。互いに鳴る通知音に、藍川先生は首を傾げたままだ。
「じゃーな、澪佳。連絡するから」
「…………」
 九条先輩から呼び捨てで名前を呼ばれたことで、私の心臓は一瞬跳ねた。そういえば、今までずっと“あんた”か“マネージャー”呼びだった。
「……うん、わかった。じゃあね、あ……先輩」
 ここは、こちらも“敦也”と呼ぶべきだったのだろうか。でもどうしてもそんな勇気は出ずにそう言って手を振った私は、慌ててドアを閉めた。先輩の顔を見るのが恥ずかしかったというのもある。
 ふたりの乗る車が、すでに霧のような雨の中を走っていく。そのライトが見えなくなるまでたたずんでいた私は、ようやく大きく息を吐ききり、額を押さえた。
 そして、とぼとぼと家の玄関へと向かいながら、
「……なんか、いろいろ……どうしよう」
 と、呟いたのだった。