*

 水槽のガラスに反射して映り込んだ自分の顔は、とても酷い顔をしていた。眉間に皺が寄っていて、目付きも悪い。誰がどう見ても不機嫌なのだと一発でわかる表情。とても水族館には似つかわしくない。それもこれも全部、あの男のせいだ。
 南波洸基。
 彼とは小学校と中学校が同じだった。だからといって特別親しかったのかと聞かれればそうでもない。彼は親友の幼馴染み。つまり友達の友達。話すことはあっても、二人で何かをしたりはしない。そういう関係。
 私は彼のことを快く思っていなかった。小学生の頃、彼はしょっちゅう私の親友にいたずらをして笑っていたから。
 中学生になって、彼の親友へのいたずらはぱったりと止まった。心を入れ替えたのか、単に飽きたのか、真相は知らないけど彼が親友に手を出してくることはなくなった。
 だけど、私は彼を許そうとは思えなかった。今振り返ってみれば、男子小学生がよくやる行動だったのだとは思う。近場にいる、ある程度気心の知れている女子をからかって遊ぶ。そんなもんじゃん男子って。
 わかってるの。昔のことを咎めたところで意味がないということ。今になってその話を持ちだすのは、とてもずるいことだって。
 それでも彼への怒りが落ち着いてくれないのは、親友が私ではなく彼を選んだから。
 親友が死んでから十日目。
 私は親友と再会した。
 同時に彼とも再会した。
 親友は幽霊となって彼と一緒に日々を送っていた。
 私はどうしても受け入れられなかった。
 親友が戻ってきたこと。
 その親友が私の元ではなく、彼の元へ行ったこと。
 理由はわかっていた。私達が喧嘩をしていたから。喧嘩をしている相手にわざわざ会いに行ったりしない。そういうことだ。
 私のこれは嫉妬だ。
 私は南波洸基に嫉妬している。
 それを正当化するために、全部彼のせいにしようとしていたんだ。
 過去に嫌がらせをしていたから気に食わないなんて、後付けの理由でしかない。本人達がもう何も思っていないのなら、外野がとやかく言うべきではない。本当はわかっている。でも嫉妬の火種は簡単には消えてくれない。
 こんなお門違いな感情を向けられるなんて、彼もいい迷惑だろう。少なくとも今の二人の関係は良好で親友は彼を信頼している。彼が選ばれたのは、今の私に会う価値がなかったから。ただそれだけなのに。
 このままだと私は本格的に二人を傷付けると思った。だから遠ざけようとした。酷い言葉を言って、嫌な態度を取って、冷たくすれば、私から離れてくれると思った。
 なのに、何故か今私は南波に誘われて一緒に水族館に来ていた。
 最愛の親友、篠崎椿との喧嘩の原因となった水族館に。
 水槽の中で漂うクラゲをみつめる。すぐ隣に気配を感じて、視線だけで確認すると椿がいた。でもガラスに映る私の横には誰もいない。だって彼女は幽霊で、もう死んでいるのだから。
「何か用?」
 一切熱のこもっていない声が喉から出る。
「綺麗だよね、ここ」
「……そうだね」
 まるで私の心と正反対。
「これを見せたかったんだよね。私がクラゲが好きって言ったから」
 クラゲがゆらゆら揺れる。
「…………病気のこと、黙っててごめん」
 視界が揺らぐ。
「何で」
「心配かけたくなかったの。それでどうしても言えなかった」
「違う!」
 我慢出来なくて、ついに私は椿の方を見てしまう。
「悪いのは私じゃん。私が勝手に怒って、椿を傷付けた。何で椿が謝るの。謝らないでよ!」
「でも桃花は知らなかったんだから。言わなかった、私の責任だよ」
「……違うんだよ」
 高校生になって学校が離れて、それでも私達は親友だと思っていた。中学生のときのように、気軽に連絡を取り合って、たまに何処かに遊びに行って、くだらない時間を共有するものだと思っていた。
 けど連絡は取れても、遊びに行くことはなかった。どれだけ誘っても、毎回断られる。仕方がないのかなと思いつつも、何処か私は納得出来ないでいた。
 そんな状態が約一年続いて、春休み。私は近場にある水族館内のクラゲ館がリニューアルすることを知った。
 クラゲは椿が好きな生き物だった。だからこれならきっと飛びついてくれると思った。ようやく一緒に遊びに行けると、そう思った。
 でも断られてしまった。私がどれだけ「椿の空いてる日でいい」「全部椿の都合に合わせる」と言っても、返事はひたすら「ごめんね。どうしても駄目なんだ」だった。
 それでつい、言ってしまった。
「私のことなんて、もうどうでもいいんでしょ」
 私は椿と連絡を取るのをやめた。
 そして椿は死んだ。
 そのときになって初めて、椿が病気になって入院していたことを知った。
 私は自分の行いを恨んだ。
 知ろうと思えば、いくらだって知ることが出来た。椿が会えない理由を教えてくれないのなら、彼女の母親に聞くとか、事情を知っていそうな人に聞いて回るとか色々出来たはずなのに私はそれを怠った。ただ自分の感情に身を任せて、酷い態度を取った。
 後悔していた。でもいくら後悔したって、椿は帰って来ない。二度と言葉を交わすことが出来ない。椿は死んだ。私は一生、親友を傷付けた罪を背負って生きていく。そう思っていた。
 だけど椿は今ここにいる。
 私の隣にいる。
 だから少しだけ私の心残りに付き合って欲しい。
「椿」
 私、ずっと。
「ごめん。ごめんね」
 ずっと、椿に謝りたかった。
「何もわかってあげられなくてごめん。辛いときに傍にいてあげられなくてごめん。傷付けてごめん。酷いこと言ってごめん」
 目から大粒の涙がこぼれ落ちる。でもそれを拭う余裕なんて私にはなかった。
「戻ってきて欲しくなかったなんて嘘。本当はずっと会いたかった。会って謝りたかった。ごめん、椿。ごめん」
 どうしようもなく涙が止まらない。泣き落としみたいで嫌なのに、溢れてきてしょうがない。
「もういいよ」
 そんな声と共に椿の手が私に伸びてきて、優しく目元に触れた。私の涙を拭おうとしてくれたのだと思う。でも確かに椿の手は私に触れているのに、涙は彼女の手をすり抜けて地面に落ちていく。その様子を見て、椿はとても残念そうにしていた。
「そっか。涙は触れないんだね」
「ううん。今、こうしていられるだけで充分だよ」
「ありがとう。それから」
 今度は椿の目に涙が溜まる。
「何も言わずに死んじゃってごめんね」
「……いいよ、そんなの」
 そんなこと、もうどうでもいい。
「だって、また会えたんだから」
 椿が私にしてくれたように、私も彼女の目元に触れようとした。
 でも、出来なかった。
 私の手は椿をすり抜けてしまった。そして私に触れていたはずの椿の手も、いつのまにか私をすり抜けていた。
「……ここまでか」
 どうやら私に与えられた魔法はここまでらしい。理由は自分の中で何となくわかっていた。納得もしている。こればかりは仕方がない。受け入れるしかない。
「桃花……」
「大丈夫。触れることは出来なくなっちゃったけど、でも、椿の姿は変わらず見えるし声も聞こえる。ただ普通の幽霊と人間に戻っただけだよ」
「うん。そうだよね」
「そうだよ」
 そう、だから大丈夫。
 触れ合えなくても、私達の関係は変わらない。決して消えてなくなったりはしない。
 たとえいつか椿が消えてしまうのだとしても。
「行こう。南波達のところに」
「うん!」
 私の少し先を椿が行く。
「ねえ、椿」
 彼女が振り返る。
「ありがとう」
 閉館を告げるアナウンスが私の後ろで鳴っていた。

 *

 僕は一足先に早乙女と館外に出ていた。
「良かったの? ついて行かなくて」
「僕はそこまで過保護じゃない」
 それについて行ったって僕に出来ることは何もない。篠崎が、結城が、自分で頑張らないと意味がない。
「過保護だよ。立派に」
「じゃあもう過保護ってことでいいよ」
「その投げやりな感じ、南波くんらしい」
 早乙女の中の僕は一体どういう人物なのだろう。怖くてとても聞けない。
「でも別に先に出なくても良かったんじゃない?」
「まあそうだけど」
 どんな話をするのか、喧嘩にならずちゃんと仲直りをすることが出来るのか。近くで聞き耳を立てて見守っていたいという気持ちは確かにあった。この場を設けた僕には、二人の空気が険悪になった際に止める責任があると思った。
 けどやめておくことにした。
「大丈夫だって信じてるから」
 あいつらの仲の良さを僕はよく知っている。こんな簡単に終わるような関係じゃない。
「あとは本人達に任せる」
「もし結城さんしか出てこなくても同じことが言える?」
 その質問はちょっとずるくないか。
「……言えるように努力するよ」
「南波くんらしいね」
 だから僕はどんな印象なんだよ。
「南波くんは何かある? 死ぬまでにやりたいこと」
「どうだろう」
 考えてみてもこれといって思いつくものがない。小さいこと、例えば何処でもいいから旅行がしたいとかそういうのはあるけど、何か違うような気がする。別に行けなくても「まあいいか」って諦められる。簡単に諦めきれない「どうしても」死ぬまでにやりたいことみたいなのは、特に見当たらない。
「……篠崎さんのことは?」
「篠崎のこと?」
「何かないの?」
 何かって、何だ。
「ううん、何でもない。気にしないで」
 気にしないでと言われると、余計に気になってしまう。でも聞いたところで教えてくれなさそうだし、今は大人しく気にしないでおこう。
「そろそろかな」
 閉館を告げるアナウンスが外まで聞こえてきた。ということは結果がどうであれ、じきに出てくるだろう。僕達はあくまでも客だから、どれだけ間が悪くても閉館時間は守らないといけない。
「あ、出てきた」
 早乙女の声で僕は出口の方に顔を向ける。
 結城。
 そして。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
 その隣に篠崎がいた。
 僕はまた、僕を嫌いになる。
「いや、別に気にしてない」
 篠崎の方を上手く見れなくて、代わりに結城の方を見ると思いっ切り目が合った。そしてその結城の目が真っ赤に腫れていることに、僕は気付いた。
「何」
「ああ、えっと」
 こういうのって言った方がいいのだろうか。その目で電車に乗ったら人目につきそうだった。トイレとかで軽く洗えば多少はましになるかもしれない。でも僕、結城に嫌われているみたいだし下手なことを言ったらデリカシーがないとかで怒られそうだと思った。
「桃花の目、結構腫れちゃってるね」
 そんな僕の気遣いを無下にするような発言を篠崎がする。僕の葛藤を返せ、おいこら。
「え、嘘。どうしよう」
「桃花ハンカチ持ってないの? お手洗い外にもあるみたいだし、濡らして目に当てるといいんじゃないかな」
「そうする。ごめん、もう少しだけ待ってて」
 結城がトイレに向かって駆けていく。その背中を篠崎はとても優しい瞳でみつめていた。
 そんな二人のやり取りを見て僕は確信を持った。
「……仲直り、出来たんだな」
「うん!」
 幸せそうな笑顔を咲かせる篠崎を見て、やっぱりこっちが正しくて、僕が間違っているのだと再確認させられた。
「良かったな」
「洸基のおかげだよ。ありがとう」
「僕は別に」
「ありがとう」
 篠崎の言葉が笑顔が胸に突き刺さる。やめてくれ。僕はそんな綺麗な感情を向けられていい人間じゃないんだ。
「きららちゃんも一緒に来てくれてありがとう」
「私の方こそ何もしてないよ」
「それでもありがとう」
 笑顔の対象が僕から早乙女に変わったことに、ほんの少しだけ安心してしまった。それがまた嫌になる。
「南波のそれはどういう顔なの」
「結城」
 いつのまにか戻って来ていたらしい結城が僕の隣に並ぶ。
「僕、どんな顔してた?」
「今にも海に飛び込みそうな顔」
「わかんねえよ」
 そうは言いつつも、何となくは想像がついた。今の僕が素直に笑えていないということくらいわかっていた。
「あ、桃花おかえりー」
「ただいま」
「じゃあ結城さんも戻ってきたことだし駅まで移動しよう」
 早乙女の声で僕達は動き出した。篠崎がまだ早乙女と話し足りないのか、彼女の横に並ぶ。その早乙女は少しだけ困った顔をして、伝家の宝刀スマホを取り出し、僕もやる通話スタイルで篠崎の相手をしている。
 仕方がないので僕は結城と並んで歩く。いや仕方がないは失礼か。言葉の綾というやつ。他意はない。
「何よ」
 相変わらず僕に対しては氷点下な声が飛んでくる。
「別に」
 微妙に気まずい。
「篠崎と話さなくて良かったのか?」
 何を話せばいいのかわからなくて、思いついたのは結局僕達の共通の友人のことだった。
「仲直りしたんだろ? 積もる話とかあったんじゃねえの」
「椿は私だけのものじゃないから」
 話終わっちゃったよ。どうすんだよ。これが嫌だったから早乙女を呼んだのに、早乙女は篠崎と楽しそうに話してるし。だからといって二人の間に割って入る勇気もない。どん詰まりだった。
「あのさ、結城って僕のこと嫌いだよな」
 血迷った僕は一番聞くべきでないことを聞いてしまう。
「好きか嫌いかだったら、もちろん嫌いだけど」
「……だよな」
 知ってたけど、直接聞くものじゃないな。
「五段階評価ならちょっと嫌い」
「五段階評価ってアンケートかよ」
 そして五段階でも普通ですらないのかよ。
「だって私、ずっと南波のこと大嫌いだったし」
「ああ、そうですか」
 ここまで嫌われているといっそ清々しくなってくる。なのにどうしてか悲しいし、虚しい。
「でも今日ので見直した」
「え」
「だからちょっと嫌いに昇格したって訳」
「昇格システムとか聞いたことないんだけど」
 けど大嫌いよりはましか。
「ま、この先降格はあっても昇格はないから安心して」
「世界一安心出来ねえよ」
 あとこういうのって、上がることはあっても下がることはないって言ってくれるものじゃないのか。いかに僕の好感度が低いのか改めて身に染みた。
「冗談はさておき」
「おい」
 篠崎といい、冗談がくそつまんないんだよ。ていうか冗談になっていない。
「椿から聞いた?」
 結城の顔が急に真面目なものになる。
「……何を」
 二人が戻って来てから僕が聞いた話といえば、仲直りしたということだけだ。他には特に何も話していない。
「じゃあまだ言ってないんだ」
「だから何を」
 変に勿体ぶらないで欲しい。
「私、椿に触れなくなった」
「……………………は?」
 篠崎に触れなくなった?
「は、え」
 衝撃的な告白にただひたすら意味のない音が漏れ出る。
「…………どういうことだよ」
 時間をかけて何とか聞き返す。
「そのまま。私はもう椿に触れないし、椿も私には触れない」
「でも見えるんだよな?」
「見えるよ。見えるし会話も出来る」
「じゃあ触ることだけ出来なくなった」
 結城が頷く。
「何でまた」
「……私はもう大丈夫だから、かな」
「は? どういう意味だ」
「南波って案外鈍いよね。それとも心の奥底ではわかってるの?」
「何の話だよ」
 とぼけているとか誤魔化している訳じゃなくて、本当に何を言われているのかわからなかった。それも無意識のうちにシャットアウトしているからだと指摘されたら反論のしようがないのだけれど。
「私、南波は簡単には幸せになれないと思う」
「変な呪いかけるなよ」
「呪いとかじゃなくて割と本気でそう思ってる」
 その声は僕を敵視したものとはまた違っていた。
「南波は幸せになれない」
 至って真面目な顔で、もう一度そう言った。
「ああ、そうかよ」
 ほっといてくれと思った。