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 僕の心は穏やかではなかった。
 一夜明けて日曜日。僕は早乙女の家である神社を訪ねていた。
「何か飲む?」
「いや、いいよ」
 賽銭箱のすぐ横の段に座り、神社を一望する。僕以外の参拝者は一人もいない。
「人全然いないな」
「小さい神社だから。お正月と七五三の時期以外はこんな感じだよ」
「ふーん」
 早乙女の姿をじっと見る。僕の前で箒を持ちながら立っている彼女は巫女装束を着ていた。家の手伝いで掃除をしているらしい。見慣れない格好に、ほんの少しだけドキッとする。おまけに似合ってるし、普通に可愛い。
「それで今日はどうしたの?」
「……篠崎のこと、なんだけど」
 僕がそう言うと早乙女はなるほどという顔をした。
「あれ、そういえば今日篠崎さんは?」
「ちょっと昨日色々あって」
「喧嘩したの?」
「喧嘩したっていうか、しているっていうか。でもそれは僕じゃなくて」
 早乙女が首を傾げる。確かに僕の言い方だと伝わるものも伝わらない。というか今日はこれを相談しに来たんだ。今さら渋ってどうなる。
「実はさ、昨日会ったんだ。篠崎のことが見えて、触れる人物に」
 からんと音を立てて早乙女の持っていた箒が地面に落ちる。
「それ本当なの?」
 早乙女が詰め寄ってくる。
「本当だ。嘘なんか吐かない」
「そう。他にもいたんだ」
 早乙女は口元に手を当てて何かを考え始める。そんな彼女に僕は情報を与えていく。
「名前は結城桃花。僕は小中と同じで高校で離れてそれっきりって感じだったんだけど、篠崎は高校が離れても変わらず仲が良かったらしい」
「つまり二人は」
 僕は頷く。
「ああ、二人は親友だった」
「親友」
 そう篠崎と結城は親友だった。あの二人の関係は何かと聞かれたら誰もが「親友である」と答えるくらいに、彼女達はいつも一緒にいてとても仲が良さそうだった。
「……順番に話すよ。昨日あったこと、僕が聞いたこと」

 僕は結城を部屋に通した。当然、篠崎もセットだ。篠崎はもうほとんど僕の部屋で暮らしているようなものだから、こうして一緒に帰ってくるのはもう普通のことになっていた。
「南波の部屋、初めて来たかも」
「そうだっけ」
 誰を部屋に招いたことがあるのかとか、いちいち憶えていない。
「で、その子、何」
 軽く睨むような目で篠崎のことを見る姿は、僕が知っている二人の関係図とはまるで違っていた。「その子」という呼び方にも違和感しかなかった。
「篠崎だよ。篠崎椿。僕の幼馴染みで、君の親友」
「そういうことじゃなくて!」
 さっきからずっと苛立っている結城を見ていると、僕も感化されて苛立ってしまう。だけどここは僕が大人にならなければならない。深く息を吐いて、僕は話す。
「幽霊だ。篠崎は死んだ。それは揺るぎない真実」
「触れるのは?」
「そのことに関しては僕にもわからない」
「南波はどうなの」
「僕も触れる。でも僕の友達は篠崎のことが見えて会話も出来るけど、僕達のように触れることは出来なかった」
「…………そう」
 結城の視線が僕から外れ、全然会話に交じってこない篠崎の方に向けられる。
「椿」
 篠崎の肩が跳ねる。何でそんな反応なのか、聞こうにも二人の間に割って入る勇気が出なかった。
「どうして戻ってきたの」
「……わかんない。洸基達との話では、未練なんじゃないかって」
「未練」
 結城の顔が僅かに歪む。
「ごめん」
 鞄を手に取り結城が立ち上がる。
「…………私は戻って来て欲しくなんかなかった」
 それだけ言うと結城は僕の部屋を出て行ってしまった。
「ちょ、おい結城」
 慌ててその背中を追いかけると、彼女は既に靴を履いていた。
「待てよ」
 家を出ようとした彼女の腕を掴んで、何とか引き留める。
「今の何だよ。もっと他に言うことないのかよ」
 結城の態度にさすがの僕も苛立ちを隠せなくなってしまった。掴む手に自然と力が入る。
「篠崎だって戸惑ってるんだよ。気付いたら幽霊になってて、今だって僕以外に触れる人がみつかって、それで」
「南波は」
 僕の言葉を遮って、結城が言う。
「南波はいいよね。あの子と変わらず接することが出来て」
「僕は別に」
「……私は無理だよ。だってあの子は!」
 そう篠崎は。
「…………死んだんだよ」
 消えそうな声だった。
「でも今篠崎はここにいる」
「そうだね。だけど私はそんな簡単に受け止められない」
 僕の手を振り解いて、結城は家から出て行ってしまった。追いかけるべきか悩んで、やめておくことにした。今は結城よりも篠崎の方が心配だった。それに篠崎に聞きたいこともあった。
 部屋に戻ると、篠崎はわかりやすく落ち込んでいた。俯いて、その場に立ち尽くしていた。
「結城帰ったよ」
 ひとまずその報告をする。
「あのさ、篠崎、最初に僕に会った日。家族とか友達に会って来るって言って一回出て行ったけど、そのとき、結城はお前のこと見えなかったのか?」
「会ってない」
「え?」
「桃花には、会いに行ってない」
「何で」
 だってあんなにも仲良さそうにしていたじゃないか。なのにどうして会いに行っていない。今だって、二人ともずっと様子がおかしかった。何より結城が「戻って来て欲しくなかった」と言ったのが、衝撃的だった。
「結城と何があったんだよ」
「…………喧嘩したの。死ぬ少し前に。だから会いに行かなかった」
「喧嘩って」
「ごめん。しばらく一人にして欲しい」
 そう言って篠崎は僕の部屋から出て行ってしまった。
 夕方になっても篠崎は帰って来なかった。そのまま僕達の約束である立ち入り禁止の夜になって、朝が来ても篠崎が僕の部屋に来ることはなかった。
 どうしたらいいかわからなくて、僕は早乙女を頼ろうと考えた。事情を知っている彼女なら、相談に乗ってくれると思った。

 僕は早乙女に一通り話した。
 早乙女はずっと難しい顔をしながら僕の話を聞いていた。
「どう、思う?」
 沈黙に耐え切れなくて、僕の方から聞いてみる。
「とりあえずはその結城さん? と篠崎さんはどうして喧嘩をしたのかよね」
「そこなんだよな」
 喧嘩の内容を聞く前に篠崎は何処かへ行ってしまったし、結城にはとても聞けるような雰囲気じゃなかった。今なら多少は頭も冷えただろうけど、やっぱりどうしても聞きづらさの方が勝ってしまう。
「篠崎さんは他に何か言ってた?」
「いや全然」
 本当に何も言っていなかった。僕が知っているのは、ただ喧嘩をしたということだけ。
「結城が触れることに関してはどう思う?」
「…………思うところはあるけど」
「本当か?」
 今度は僕の方が早乙女に詰め寄る番だった。思わず掴んでしまった手を見て、早乙女が少しだけ顔をしかめた。
「ちょっと、近い」
「ああ、悪い」
 手を離し一定の距離を取る。確かにちょっと近付き過ぎた。相手は幼馴染みの篠崎じゃない。距離感を間違えてはいけない。
「そ、それでどうなんだ?」
「今はまだ言えない」
 ここまで焦らしておいてそれはないだろと叫びたい衝動を抑え込む。
「何で言えないのか教えてくれないか」
 あくまでも冷静に聞き返す。さっきの反省を踏まえて、ちゃんと適した距離を保てるように心がける。
「確証がないから。って、こんなこと初めてだから確証とか得られるものなのかわからないんだけど」
「まあそういうことなら」
「ごめんね。もう少し自信が持てたら話すから」
「わかった」
 早乙女に状況を話すことは出来たし、触れるという問題に関しては今はこれが限界か。なんて、そんなの早乙女に失礼だよな。そもそもたったこれだけの情報で何かしらを思い付ける時点で凄いんだ。僕なんて何一つとして考えつかず、こうして早乙女に泣きついているのだから、考えてくれるだけでも感謝しなくてはいけない。
「何か考えをまとめるのに必要な情報とかあるか?」
「……二人が、今お互いをどう思っているのかそれが知りたい」
「それは」
 僕だって知りたい。
「結城さんに連絡とか取れない?」
「取れなくはないけど」
 だから聞きづらいんだって。それにあの意地っ張りが、簡単に気持ちを吐いてくれるとは思えない。聞けるとしたら篠崎の方だけど、彼女は現在進行形で行方不明。そのうち帰ってくるとは思うけど、いつ帰ってくるかわからないからすぐに何かを聞ける訳ではない。
「篠崎さんか結城さん、せめてどちらか片方だけでも気持ちがわかればいいんだけど。何か気持ちがわかるものってないのかな」
 気持ちがわかるもの。
 持ち合わせていない訳ではない。
 篠崎が遺した、僕がみつからなかったと嘯いて鞄に隠してしまった、あのノート。
 あれは篠崎がやりたかったことを書いたものだ。詳しく読んだ訳じゃないからまだわからないけど、闘病日記的な役割も担っていた可能性がある。もしそうだとしたら、親友であった結城のことで何か書いているかもしれない。
 でも。
 僕は中を見てもいいのだろうか。
 篠崎といられる時間を選んでしまった僕が、あのノートに綴られた思いを知ってしまってもいいのだろうか。
「どうしたの?」
 僕が何も言わないからか早乙女が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや、何でもない」
「あんまり思い詰めない方がいいよ。誰も何も悪くないんだから」
 悪いんだよ、僕が。なんて言えたら、どれだけ良かっただろう。僕は自分の罪を告白することすら出来ない、本当にどうしようもない人間。
「ありがとう。今日は帰るよ」
「もういいの?」
「うん。掃除の邪魔して悪かったな。また明日、学校で」
「あ、うん、また明日」
 急ぎ足で神社をあとにする。これ以上早乙女といたら、僕はお門違いな八つ当たりをしてしまいそうだった。こんなにも親身になって話を聞いてくれて協力をしてくれている早乙女に、そんな醜い感情をぶつけたくはなかった。
 家に帰っても篠崎の姿はなかった。一体何処で何をしているのだろう。どれだけ考えても僕にわかるはずがなかった。
 そのまま時間は過ぎていき篠崎が帰ってくることなく、また夜を迎えた。
 鞄から篠崎のノートを取り出す。少なくともこの時間は篠崎が僕の部屋に入ってくることは絶対にないから、安心して鞄から出すことが出来る。
 けどもし篠崎が現れたら、どうしよう。謝るべきだということはわかっているけど、どうして隠してしまったのかの理由を正直に白状出来る自信がなかった。
 だったら何でこんなことしたんだよ。
 悲しませたくなかったから、傷付けたくなかったから、変わろうと努力したんじゃなかったのか。なのに、どうして逆戻りしてるんだよ。
 真面目な方の僕が言ってくる。
「……うるさい」
 後悔してるなら、早く謝れよ。今ならまだ間に合う。引き返せる。謝って、ちゃんと理由を話せば許してくれる相手だろ。
「うるさいんだよ」
 うざい。うるさい。わかってるのに出来ないから、今こうなってるんだろ。それくらい僕ならわかるだろ。何なんだよ。
「うざいんだよ、お前」
 これが僕の本質なんだよ。意地悪で、くだらないことばかりして、本心を隠して、大切にしたい人でさえ結局は傷付けてしまう。最終的には自分を選んでしまう、利己的な人間。
 篠崎のことだってそうだ。手伝うって言ったくせに、篠崎の選択を尊重するって言ったくせに、今こうして篠崎を傍に置いておこうとしている。こんなの裏切りだ。僕は篠崎の気持ちを裏切った。僕は篠崎じゃなくて、自分を選んだんだ。
「僕が死ねば良かったんだ」
 僕じゃなくて、篠崎に生きていて欲しかった。僕なんかより、篠崎の方がよっぽど生きる価値がある。だけど篠崎に命をあげることなんて出来ないし、時間を遡って彼女を救うことも出来ない。現実は非情。篠崎は死んだ。覆すことなんて出来る訳がない。
 僕は僕が嫌いだ。噓吐きで、誰にも優しく出来ない僕なんて大嫌いだ。きっと僕の魂は酷く歪で穢れているに違いない。
 魂といえば、人の魂は二十一グラムらしい。
 だとしたら僕の魂のうち、どうしようもなく救えない最低な部分が二十グラムを占めているのだろう。
 だからさ、僕のたった一グラムの良心よ。
 どうか教えてくれ。
「僕はどうすればいい?」
 優しい一グラムの真面目な僕が教えてくれる。
 だったらせめてあの二人の関係くらいは修復してみせろ、と。
 ああ、それなら僕にも出来そうだ。
 ノートを開く。流し見ながらページを捲っていき、その名前を探す。
「…………あった」
 結城桃花。
 篠崎の字ではっきりとその名前が書かれたページを、今度は熟読する。
 ノートには結城への思いがずらりと書かれていた。そして彼女達の間に何があったのかも、そこに全て書かれていた。
 何ページかに渡る篠崎の言葉はまるで遺書のようだった。いや遺書なのだろう。大切な親友へ向けて書いた、遺しておきたい言葉。
 読み進めてページを捲ると結城ではない別の人物の名前が出てきた。つまり結城に向けた部分はここまでということなのだろう。その別の人物も僕がよく知っている人だったけど、見なかったことにした。今その人のことまで考えだすと、今度こそ僕は僕を制御出来なくなるような気がした。
 結城に関することが書かれている部分の最終ページに付箋を貼って、もう一度最初から読んでみる。書かれている想いを全て僕の心に落とし込む。
 篠崎の気持ちはよくわかった。
 ただ僕の中に嫌なものが溜まっていくような感覚があった。その感覚に蓋をするようにノートを再び鞄の中に入れ、布団の中に潜り込んだ。
 目を瞑る。
 瞼の裏には結城のことで辛そうにしている篠崎の顔が焼き付いていた。
 どうするべきかなんて、答えは明白だった。
 それでもまた二十グラムの僕が顔を出してくる。耳を塞いで意地でも声を聞かないよう努め、眠りについた。
 朝、目を覚ますと、部屋に篠崎がいた。
「おはよ」
 作られた笑顔を張り付けて言う姿に、僕はもう我慢出来なかった。
 篠崎の手を引いて、僕は彼女を強く抱きしめた。
「え、ちょ、何?」
 動揺したような悲鳴が部屋に響いた。だけど次の瞬間には「どうしたの?」と優しい声を僕にかけてくれる。
「嫌な夢でも見た?」
 僕は首を振る。
「私がいなくて寂しかったの?」
「……そんなんじゃねえよ」
 精一杯の強がりだった。
「じゃあどうして?」
「それは」
 篠崎の存在を感じたかったから。
 触れたかった。触れてまだここにいるということを確かめたかった。
 欲を言えば、篠崎の温度も感じたかった。
 でもやっぱり篠崎は死んでいて。
 どれだけ身体を寄せて、肌を密着させても、熱を感じることは出来ない。ただ彼女が僕の腕の中にいるということしかわからない。
「言いたくないなら言わなくてもいいよ」
「ごめん」
「いいよ。そういう日もあるよね」
「なあ篠崎」
 彼女の身体を解放し、その目を真っ直ぐにみつめる。
「……結城に会いに行かないか?」
 僕がノートを隠したりなんかしていなければ、きっと今こんなことにはなっていない。中身を共有していれば、結城と再会したあの瞬間に僕はノートを結城に見せることが出来た。二人の関係を悪化させることはなかった。
 だけど僕は酷い人間だから、このノートを隠したことも、篠崎の断りもなしに読んでしまったことも言い出すことが出来ない。
 だから。
「僕も一緒に行くから」
 篠崎と結城を仲直りさせる。
 これが僕の償い方。
 結城との関係を修復することで篠崎が成仏するのだとしたら、それこそが僕への罰になると思った。
 だって僕は篠崎にここにいて欲しいから。
「大丈夫。僕に考えがあるから」
「……うん。私、桃花に会いたい。桃花と仲直りしたい」
「篠崎ならそう言うと思ったよ」
 あのさ、篠崎。
 もう一つ君に言えていないことがあるんだ。
 僕はどうやら、まだ君のことが好きみたいだ。
 諦めきれないバカな僕を、どうか赦して欲しい。

 放課後、僕達は結城の高校の校門前で彼女を待っていた。
「ねえ、私、いてもいいの?」
 隣にいる早乙女が不安げな顔で聞いてくる。
「いやさ、僕だけじゃ間が持たないっていうか」
「知らない人いきなり連れてこられた方が間が持たないと思うけど」
 それはそうだけどさ。
「でも傍から見たら僕と結城の二人だけになる訳だろ。それは何て言うか」
「もしかして結城さんと仲悪いの?」
「悪くはないけど」
 篠崎のように何でも気兼ねなく話せる相手かと聞かれたらそうでもない。普通に友達の友達といった程度の仲でしかない。だからあの日、帰ろうとしたところを腕を掴んで無理やり引き留めたり、まくし立てるように言葉を並べてしまったことを、僕は少なからず反省していた。そういう理由で、僕は結城とはちょっと一緒にいづらかった。
「その、上手く僕達を取り持ってくれたら嬉しい」
「出来る限りのことはしたいけど」
 早乙女の視線が今度は篠崎に向けられる。
「私は全然気にしてないよ。それにきららちゃんと桃花が仲良くなってくれたら嬉しいもん」
「あんまり僕達に話しかけるなよ。不審者扱いされたら篠崎のせいだから」
「その発言が駄目なんじゃないの」
 的確なツッコミを早乙女から受け、僕は口を噤んだ。今は電話作戦をしていないから、確かに今の発言はまずかった。他の人から見れば、僕はいもしない幻の三人目に話しかけたことになる。
「他に人がいなくて良かったね」
 まだ結城の学校が終わっていないおかげで人通りは全然なかった。本当に不幸中の幸いだった。
 ポケットに入れていたスマホが震える。そろそろ終わるという旨のメッセージが、これでもかというほど素っ気ない文章で送られてきた。
「結城さん?」
「ああ」
 結城からのメッセージを二人に見せる。
「『終』って、え、これだけ?」
「これだけだな」
「終一文字って、小説とか映画みたいな、そういう創作関係のものでしか見たことないよ」
「洸基、桃花に嫌われてるんじゃないの?」
 その可能性は大いにあると思う。
 結城とメッセージのやり取りをしたのはこれが初めてなのだが、そのたった数回の彼女の返信はどれも一文字だった。つまり僕との会話は適当なスタンプすら押す価値がないということだ。無視されなかったのが奇跡だと思っている。
「と、とにかく、もうすぐ結城来てくれるから」
 これでも結構気にしてるんだよ。あまり傷口に塩を擦り込まないで欲しい。
 やがてちらほらと生徒が出てくる。
 敷地内を覗くと、明らかに不機嫌そうな女子生徒が一人、重い足取りでこっちに向かってきている。
「帰らないであげたけど」
 言わずもがな、結城である。
「その子、誰」
 結城が睨むような目付きをしながら早乙女を指差す。
「こいつは僕の友達。早乙女きらら、神社の娘」
「きらら…………神社」
 今度は怪訝そうな顔になる。確かに神社の子にしてはちょっと珍しい名前かもしれない。失礼な話だが、僕も最初聞いたときは「え」って固まってしまったし。
「早乙女です。よろしくお願いします」
 早乙女が素晴らしく礼儀正しいお辞儀をする。こんなところで神社感出さなくていいんだぞ。
「もしかして、この子が椿のことを見えるっていう?」
「そうだ。まあ前にも言ったと思うけど、僕達みたいに触れる訳じゃないんだけどな」
「ふうん」
 結城が早乙女に片手を出す。
「聞いてると思うけど、私、結城桃花。よろしく、きらら」
 温厚そうな表情を浮かべ、柔らかい声で結城は言った。その姿はこれまでとはまるで正反対だった。
「うん。よろしく」
 そして早乙女がその手を取り握手が成立した。ここで変に揉められたらどうしようかと思っていたが杞憂だったらしい。
「で」
 だが安心したのも束の間、結城の刺すような冷たい視線が篠崎に向けられる。
「今日はどういう用件?」
 冷たさが、今度は僕を突き刺してくる。どうやら僕はよっぽど嫌われているらしい。心当たりしかないのが本当に苦しい。
 だけどここで臆する訳にはいかない。怯えていたって始まらない。自分を必死に鼓舞して、僕は言う。
「今から何処か遊びに行こう」
 短い沈黙があって。
「は?」
 三つの声が綺麗に重なった。
「え、待って。ごめん、南波。もう一回言ってくれる?」
「だから遊びに行こうって」
「ふざけてる?」
「僕は至って真面目だ」
 意を決して言ったのに、ふざけているのかと聞かれるなんて心外だ。
「いやさ、せっかく篠崎が帰ってきたんだから、何処か連れて行ってやりたいじゃん。ついでに親睦会的な意味も込めて、皆で遊びに行けたらなって。そうだな、例えば」
 篠崎と結城の目を見る。
「水族館、とか」
 瞬間、二人の顔が僅かに歪んだ。
 それを見て、僕は心の中で息を吐く。大丈夫。これであっている。二人の反応なんて予想していたはずだ。何も焦ることはない。大丈夫。大丈夫。
「ほら何か春休みくらいにすぐそこの水族館の一部がリニューアルしただろ。平日のこの時間なら空いてるだろうし、ちょっと行ってみようぜ」
「南波、何か企んでる?」
「企んでるって?」
「……別に」
 結城が怪しむのも無理はない。
 何故ならその水族館こそが、二人が喧嘩をした理由なのだから。
「僕は単純に皆で遊びに行きたいだけだよ」
 まあ嘘なんだけど。
「早乙女はどう? 水族館」
 二人に気付かれないように早乙女に目配せをすると、彼女は小さく頷いて言った。
「私は構わないよ。私神社の手伝いばかりで、そういうところあんまり行ったことがないの。良かったら案内して欲しい」
 完璧な対応だった。僕の意図が正確に伝わったようで良かった。とりあえず早乙女を仲間に引き込むことには成功した。
「早乙女もこう言ってることだし別にいいだろ? それとも行けない理由でもあるのか?」
 篠崎と結城が気まずそうに顔を見合わせる。けどそれも一瞬のことで、二人はすぐに顔を逸らした。
「な、いいだろ?」
 空気を読めないふりしてごり押す。
「…………ま、行ってもいいけど」
 結城が折れた。
 これであとは篠崎だけ。
「篠崎は?」
 そういえば篠崎は賛成も反対もしていなかった。
 篠崎はどう思っているのだろう。結城と同じように急に水族館に行こうと言い出した僕を怪しんでいるのだろうか。
「……水族館」
 蚊の鳴くような声で篠崎が呟く。
「そう、水族館。嫌か?」
「ううん、嫌じゃないよ。ただちょっと思うところがあるだけ」
 知ってる。だから言ってるんだよ。
「その返事じゃ、どっちかわかんないんだけど」
 なんて言える訳もなく適当に言葉を返した。
「ああ、ごめん。そうだよね。うん。私は賛成だよ。水族館」
 ぎこちない態度だけど、それを咎めたりはしない。だって僕は全部知っているのだから。
「じゃあ全員賛成ということで、時間も迫ってるし早く行こうぜ」
 僕が先陣を切って歩き出すと、三人は黙って僕についてきた。賛成するふりして逃げられたらどうしようとか思っていたから安心した。
 すぐそこの水族館とは言ったが、水族館までは電車で三十分程かかる。車内は適度に人がいるという感じだった。話してるうちに一番人が多い時間は過ぎていたらしい。席も並んで座れるくらい空いていたのだけど、結城は一緒に行くとは思えないくらい離れたところに座った。仕方がないので僕と早乙女の二人で並んで座った。ちなみに篠崎は人から見られないのをいいことに、運転士のすぐ隣で優雅に景色を堪能している。僕と学校に行くときもいつもそうだから、どうやらそこから景色を見るのにハマったらしい。
「悪い。説明もせずに連れまわして」
「気にしてないよ。協力するって言ったのは私だし」
「ありがとう。凄く助かる」
 僕がそう言うと、何故か早乙女は不思議そうな顔をしてきた。
「何?」
 堪らず聞いてみる。
「南波くんって、私には腰が低いときの方が多いよね」
「え、そうか?」
「そうだよ」
 全くもって心当たりがないという訳ではない。
 現在四月の下旬。早乙女とは今年初めて同じクラスになって、最初の席替えで隣になったことがきっかけで話すようになったという感じだから、友達になってからまだ日は浅い。
 そして篠崎が現れたことを機に、僕達はより時間を共有するようになった。特に最近は、早乙女の表情も柔らかくなってきたように感じる。だからこそ、あの日、僕が距離感を間違えて手を握ってしまった日、僕は絶対に早乙女に不必要に近付かないと決めていた。二度と不快な思いをさせたくはなかった。
 早乙女に対して腰が低くなってしまうのは、そんなふうに僕が少なからず距離を取っていたからかもしれない。
「気に障ったならごめん」
 僕が良かれと思って取った態度が、結果、早乙女を不快にさせていたのなら元も子もない。反省しなければいけない。
「そこまで重く受け止めなくていいんだけど。というか、そういうところも含めて腰が低いっていうか」
「あー」
 これは難しい。でも早乙女に対して篠崎や結城のような態度を取るのは何か違う感じがしてしまう。
「普通にしてくれたらいいよ。前みたいにいきなり手を掴まれたらびっくりするけど、気を使われる方が私は嫌。南波くんには南波くんでいて欲しい」
 真剣な瞳だった。僕はこんなだから人に好かれるタイプではない。友達が全くいないという訳ではないけど、少ないというのもまた事実だった。僕はずっと、適度に、狭い世界で生きてきた。だから早乙女のように言ってくれるような人なんて、ほとんど出会ったことがなかった。
「わかった。早乙女がそう言うなら、僕らしくいられるように心がけるよ」
「その言い方が固いんだって」
「そこは徐々に直していくってことで見逃してくれよ」
 僕達は笑った。普通の何処にでもあるような一幕だった。
 どうか篠崎と結城も、普通に笑い合ってくれますように。

 僕の読み通り館内はかなり空いていた。平日の最終入館時間ぎりぎりに入ったのが功を奏したらしい。
「リニューアルしたのって何処なの?」
「えっと確か」
「一番最後にあるクラゲ館」
 僕が入口でもらったパンフレットで確認するよりも先に、結城がぶっきらぼうな口調で教えてくれた。事情を全て知っている僕は、彼女が自ら教えてくれたという事実が嬉しくて口元が綻んでしまう。ここが照明が暗めに設定されている水族館で良かった。これが屋外の動物園だったら、絶対に気付かれていた。
「じゃあなるべく早く回るか」
 閉館まで時間がほとんどないから道中に時間を割き過ぎると、肝心のクラゲ館をじっくり堪能出来なくなってしまうかもしれない。それに二人が話をする時間も作らないといけない。そういう意味でも時間配分は非常に大事だった。
「別に個人で好きなペースで見ればいいでしょ」
 なのに結城が早速団体行動を乱す発言をしてくる。
「それだと何のために一緒に来たのかわかんねえだろ」
 僕の考えを知らないから仕方がないのかもしれないが、少しは歩み寄る姿勢を見せて欲しい。篠崎と僕しかいないならまだしも、早乙女だっているんだから。こんなにもあからさまに避けられたら何の非もない無関係の早乙女が可哀想だろ。
「私は結城さんとも一緒に回りたいよ」
「…………きららがそう言うなら」
 その無関係にもかかわらず来てくれた早乙女のナイスアシストのおかげで、どうにか結城を思い止まらせることが出来た。早乙女にはもう感謝しかない。
 二人がそのまま会話に花を咲かせるうちに、僕は数歩後ろにいた篠崎に声をかける。
「篠崎も、今なら人もいないし普通に会話に交じれよ」
「いいの?」
 どうやら外では話しかけないという僕との約束を守ろうとしていたらしい。
「いいに決まってるだろ」
 だってお前のためにこの場を設けたんだから。
「ほら、来いよ」
 そう言って片手を差し出す。
「今は特別。いくらでも触っていいし、話しかけてもいいから。まあ人が多い場所では考慮して欲しいけど」
「……ありがとう」
 篠崎が僕の手を控えめに握る。その手を握り返し、早乙女と結城の後ろについた。
「何か、今日の洸基、ちょっと優しいね」
「僕はいつも優しいだろ」
 全然そんなこと思ってないけど、ふざけて言ってみる。
「そうだね。洸基はいたずらっ子だし、意地悪で、性格もまじで終わってるけど、本当はとても優しいもんね」
「え?」
 まさか普通に褒めてくるとは思わなくて、酷く間抜けな声が出てしまう。いやほぼほぼ悪口だったけど、篠崎が僕を優しい人だと認識しているなんて思ってもみなかった。
「今ここに洸基がいてくれて良かった」
 その称賛を僕は素直に受け止められない。
 だって僕は篠崎にそんなふうに言ってもらえる資格なんてないのだから。
「さすがに買い被りすぎだって」
 僕はそんな善人じゃないんだ。徐々に申し訳なさが募っていく。僕のこれはただの罪滅ぼしだって言ったら、篠崎はどうするんだろう。それでも朝のように優しく抱きしめてくれるんだろうか。
 無理だと思った。
 言ったらそこで僕達の関係は終わる。
「せっかく来たんだからちゃんと楽しめよ」
「うん。ありがとう」
 僕達は館内を順番に見て回った。その間篠崎と結城は、僕や早乙女と話すことはあっても、二人で話すことはなかった。どうにかしないととは思いつつも、どうすればいいのかわからず、考えている間に目当てであったクラゲ館に到着してしまった。
 深海を模したクラゲ館はさっきまでいた本館よりもずっと薄暗い。水槽ごとに照明が違っているのだが、その使われている照明も淡い色が多く何とも幻想的な空間が広がっていた。
「綺麗」
 篠崎が小さく声を漏らした。
「そうだな」
「私、クラゲ好きなの」
 なるほど、それで、と僕は勝手に納得する。
「なあ結城とも話して来いよ」
 一番大きな水槽の前でクラゲを眺めている結城を指差しながら篠崎に耳打ちする。
「え、でも」
「大丈夫だって」
 いくらリニューアル仕立てといっても閉館時間目前だからか、この場にいるのは僕達だけだった。今こそが二人が話をする絶好のタイミングだと思った。
「仲直りしたいんだろ? こんなところだし、あいつも逃げ出したりしないだろ」
 繋いでいた手を離し、その背中を押す。
「僕は早乙女と待ってるから好きなだけ話してきなよ」
「あ、ちょっと」
 返事を聞くより前に僕は早乙女の元へ向かう。それでも横目で篠崎の様子はうかがっていた。もし僕についてきたらチョップでも入れてやろうかと思った。
 けど篠崎は真っ直ぐに前を向いて、結城の元へと歩いて行った。
 やっぱり、篠崎は篠崎だ。
 この姿こそが、僕の好きになった篠崎椿だ。
「頑張れ」
 頑張れ、篠崎。
 お前なら絶対に大丈夫だから。