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 次の日も篠崎は普通に僕の部屋にいた。
「おはよう、洸基」
「一応確認したいんだけど、いつからここにいる」
 昨日の夜、僕達は一旦解散した。というのもさすがに寝るときまで部屋にいられるのは嫌だったから、夜の間は自分の家か何処かに行ってくれと頼んだのだ。篠崎はそれを承諾してくれて、僕の部屋から出て行ってくれた。
 で、だ。
 朝、目を開いたその瞬間から篠崎は僕の部屋にいた。
 いくら何でも来るのが早過ぎないか。
「嫌だな。まさか洸基が寝たのを確認してすぐさま部屋の中に入ったとか、そんなことある訳ないでしょ」
「つまり、一晩中いたんだな」
 ほんの一瞬でもこいつを信じた僕がバカだった。
「嘘。冗談。冗談だから! 本当についさっき来たばっかりだよ! いくら私でもそんなことしないって! ねえ無視しないでよ」
「着替えたいから出ていって」
 壁にかけていた制服を手にしながら言う。
「もしかして恥ずかしいの? 一緒にお風呂入ったこともあるじゃん」
「ちょっと黙ってくれないかな」
 目覚めたばかりでこのやり取りをするのはしんどい。
「早く出ていけ」
 ドアを指差すが篠崎は見向きもしない。
「洸基って寝起き悪いタイプ?」
「いいから、出ていけって!」
「わ、ちょ、押さないでよ!」
 篠崎の背中を押して、ドアの向こうに突き出す。幽霊に触れるなんてどうしようかと思ったけど、これは便利だ。こうやって追い出すときにちょうどいい。
「絶対にいいって言うまで入るなよ。もし入ってきたら、僕はもう篠崎の面倒は見ないからな」
「はーい」
 間の抜けた返事に頭が痛くなる。もっとちゃんとルールを作ろう。いちいちこういうやり取りをするのは疲れるし面倒だ。
「まだ?」
「まだ」
 てか学校、どうするんだよ。絶対についてくるって言うよな。出来ることなら部屋で大人しく待っていて欲しいんだけど、篠崎が大人しくしていられる訳がない。
「まーだ?」
「もう少し」
 だったらついてくるのを許可するか? いくら篠崎でも学校で僕を困らせたりはしないはずだ、たぶん。それに篠崎は入学してすぐに入院したとのことだから、高校生活というものに憧れているかもしれない。僕もそこまで鬼ではないし、雰囲気だけでも高校生を味わってもらいたい。
「まああだああ?」
「いいよ」
 僕が許可して一秒も経たずに篠崎が入ってくる。
「あのさ、学校のことなんだけど」
「え、もちろんついていくけど」
 まあ、そう言うだろうとは思っていた。
「……ついてきてもいい」
「本当に?」
「ただし条件がある」
「条件」
「僕が一歩でも部屋から出たら、絶対に話しかけない、触らない、僕の傍から離れない。これが守れないなら、僕はこの先一生君をいないものとして扱う」
 というか、普通に考えて外にいたら話しかけられても答えられないし、触られても反応出来ない。そして勝手に何処かに行かれて変なことをされたら非常に困る。
「特別な事情、例えば他にも篠崎の姿が見える人が現れたとか、そういうことでもない限り僕は基本的に外ではガン無視するから。わかったか?」
「わかった!」
 本当にわかっているのだろうか。いささか不安ではあるが、今それについて議論している暇はない。そろそろ部屋から出ないと母に突撃されてしまう。
「じゃあ、出るから」
 ブレザーと鞄を持って僕は部屋から出た。篠崎は僕の真後ろにぴったりとくっ付いている。いやそこまで近くなくていいんだけど。
「おはよう」
 リビングにいる父と母に朝の挨拶を投げかける。
「今日ちょっと遅くないか」
 新聞を読みながら、僕のことなんて一切見ずに言ってくる父の姿に少しだけ苛立つ。
「別に、普通だろ」
「そうか」
 何なんだよ。
 父の対角線上に座ると、朝食の食パンを母が運んでくれた。
「洸基、あんたの部屋からずっと話し声聞こえてるけど何してるの?」
 訝しげな母の顔を見て、僕は篠崎を睨みたい気分になった。だけどそんなこと出来るはずもなく、僕は誤魔化しの言葉を口にする。
「友達と電話してるだけだから」
「電話ねえ。まあ、もう少し声のボリューム下げてくれる?」
「気を付けるよ」
 おい聞いたか?
 篠崎のおかげで僕の家庭内での地位はダダ下がりだ。わかったら、次からはあまり僕に大声を出させないでくれよ。
「ごちそうさま」
 食器を下げて、そのまま洗面所に向かう。歯を磨いて、顔を洗い、髪を適度に整える。鏡の中の僕は不機嫌そうな顔をしていた。
 そういえば、今さらだけど篠崎は鏡に映っていなかった。僕のすぐ隣にいるのに、鏡の世界には僕の姿しかなかった。鏡に映らないということは、写真とかにも写らなさそうだなと思った。
 一瞬だけ篠崎と目が合った。篠崎はさっきまでの僕のことなんてまるで気にしていないようで、にこりと笑った。その笑顔を見ていると、自然と心が落ち着いてきた。
「変なとこ見せてごめんな」
 控えめな声でそれだけ言うと、僕はリビングに戻りブレザーを着て、鞄を肩にかけ家を出た。

 高校には電車で通っている。家から駅まで徒歩十分。乗車時間およそ二十分。そこから徒歩五分で学校に着く。
 二年生の教室は三階にある。僕は真っ直ぐ三組の教室へと向かう。後ろの扉から入って、廊下側二列目の最後尾にある席に座る。本当はその隣である廊下側一番後ろが良かったのだけど、くじ引きなので仕方がない。後ろの席になっただけ感謝しなければならない。
 その僕が座りたくてやまなかった席の主は既に登校していて、何か小説を読んでいた。
「おはよ」
 一応、声をかける。
「おはよう」
 素っ気ない返事だが、彼女の場合はこれがデフォルトだ。決して僕の父のように、冷たい人間という訳ではない。会話の一言目はどうしても緊張してしまうのだと前に話してくれた。
 彼女が小説を閉じて、僕の方に顔を向ける。
「……南波くん、何かつかれてる?」
 朝の挨拶の次にそれを言われるとは、僕は相当酷い顔をしているのかもしれない。
「ちょっと色々あってさ。そんなに疲れてるように見える?」
「いや、そうじゃなくて」
 彼女の言いたいことの意味がわからず首を傾げてしまう。
 そして彼女は衝撃的な言葉を放った。
「何か、女の子に憑かれてる(、、、、、)、気がするんだけど」
 僕はつい篠崎の方を見てしまった。篠崎もまた僕の方を見ていて、目が思いっ切り合う。
 そうだ。
 そうだった。
 彼女は。
「あのさ、今日の昼休みちょっと話せないか?」
 彼女の名前は早乙女(さおとめ)きらら。
 神社の一人娘とは思えないくらいにきらきらとした名前の持ち主である。

 昼休み、僕は早乙女を連れて空き教室へ行った。空き教室といっても少人数の選択授業で使われている感じの場所だから、昼休みでも普通に開放されている。ただまあ、わざわざ昼休みにこんなところまできて食事を摂るような物好きな生徒はいない。だから秘密の話をするのにはうってつけだった。それでも一応念のため、一番奥の窓際の席を使用する。
「それで何の話?」
「いやさ、普通に考えてわかるだろ」
「まあ、その子のことだよね」
 早乙女の視線が僕の斜め後ろに行く。そこには篠崎がいる。
「早乙女、見えるのか?」
 意を決して聞いてみた。
「……見える。普通にそこにいるみたいに」
「だってさ」
「聞こえてるよー」
「声は? 今こいつ喋ってんだけど」
「一応」
 そのことに少しだけ安心する。これで伝言ゲームをしなくて済んだ。
「南波くんも、はっきりと見えてるの?」
「はっきりというか……」
「何?」
「おい、言うぞ」
「言えばいいじゃん」
 一度深呼吸をして、僕は言う。
「僕達は互いに触れ合うことが出来る」
 普段あまり表情を崩さない早乙女の目が大きく見開かれる。
「え、触れるの? 幽霊だよね、その子」
「でも本当なんだ。見てろよ」
 信じてくれるかはわからないけど、それでも見せない訳にはいかない。
「手、出して」
「はーい」
 篠崎が僕に手を差し出してくる。僕は何の迷いもなく彼女の手を取った。
「どう?」
「…………触れてる。南波くん、彼女本当に幽霊なの?」
 信じられないとでも言いたげな顔だった。僕もこの現象に初めて遭遇した瞬間は篠崎に生死の確認をしてしまったから、そんな顔になってしまうのも頷ける。
「死んでる。彼女は僕の幼馴染みで、先週、心臓の病気で死んだんだ」
「そう、なの」
 早乙女がじっと篠崎をみつめる。
「貴方、名前は?」
「篠崎椿。早乙女さんの下の名前は?」
「きらら。早乙女きらら。それが私の名前」
「じゃあ、きららちゃんって呼んでもいいかな」
「いいよ。ねえ、篠崎さん」
 早乙女が篠崎に向けて自身の手を伸ばす。
「私も試してみてもいい?」
「うん。もちろんだよ」
 早乙女の手に応えるように篠崎が手を伸ばす。
 二人の手は徐々に近付いていき。
 そしてすり抜けた。
「……駄目、みたいだね」
「そうだね。残念」
 二人の手が遠くなる。
「じゃあ何で僕は」
 僕はてっきり、篠崎の姿が見えれば触れるものだと勝手に思っていた。でも違った。早乙女も僕のようにそれはもう生きているときと同然レベルに見えているみたいなのに駄目だった。ということは何か別の条件があるのだろうか。また謎が生まれてしまった。
「早乙女は霊感あるのか?」
「少しだけど。たぶん、神社の家系だからだと思う。そういう南波くんは? 当然あるんだよね?」
「ところがどっこいしょういち。洸基には霊感がないらしい」
 だからその壊滅的なギャグセンスは一体何処で手に入れたんだ。
「ないの?」
「ないな。幽霊なるものを見たのは篠崎が初めてだ」
「そう」
 早乙女の顔付きが真面目なものに変わる。
「篠崎さんは、どうして幽霊になったとか心当たりはある?」
「それが全然わからないんだよね。気が付いたらなってた、的な?」
「なるほどね。南波くんの方は何か心当たりは?」
「ある訳ないだろ」
 スマホで検索をかけるレベルには心当たりがない。
「本当に?」
「本当だって」
「ならいいんだけど」
「何なんだよ」
 さっきから全部わかっているような口ぶりで話を進めてくる。勿体ぶらないで早く言って欲しい。
「未練」
 真っ直ぐはっきりとした声で早乙女は言った。
「この世界に強い未練がある。だから幽霊になった。差し詰め、そのあたりだと思う」
 未練。
「篠崎、何かやり残したことがあるのか?」
「え、そりゃ数えきれないくらいあるよ」
 何でそれならそうと早く言わないんだよ。呆れて溜め息が出る。
「……未練。ああ、確かによく聞くフレーズだ」
 どうしてこんな初歩的なこと思いつかなかったのだろう。なんだかんだで、僕は篠崎が戻って来てくれたことが嬉しくて舞い上がってしまっていた。
「それで二人はこれからどうするの?」
「どうするって?」
「未練、消していくの?」
「未練を消す」
 消したら。
 未練がなくなったら篠崎は。
 いや駄目だ。僕の感情で動いたら駄目だ。
「篠崎はどうしたいんだ?」
「私は、うーん、そうだなあ」
「僕は篠崎の選択を尊重したい」
 たとえどんな選択をしようと、僕は篠崎を応援する。
「やっぱり、やり残したことはやりたいかな。せっかく戻ってきたんだし」
「そうか」
 篠崎がそうしたいのなら、僕はそれについていく。
「わかった」
「洸基は」
「何」
「洸基は私が成仏したら、どう思う?」
「どうって」
 そんなの。
「……うるさいのがいなくなってくれて気が楽になるだろうな。この状況、結構大変だってわかってんのか?」
「わ、わかってるよ!」
「どうだか。早乙女がいなかったら、お前それこそ一生そのままだったんだからな」
「そうだよね。ありがとう、きららちゃん」
「私は別に何も。じゃあ、それでいいのね?」
 僕と篠崎は顔を見合わせ、同時に頷いた。
「篠崎の未練を消していくよ」
「そう。もし何か手伝えることがあれば遠慮なく言って」
「ありがとう」
「そろそろ教室に戻らないとね」
 持ってきていた弁当を持ち、立ち上がる。
「あ、篠崎。お前ここから出たら、またあの約束守れよ。これからは早乙女にまで迷惑かかるんだからな」
「わかってますう!」
 教室を出た瞬間、僕達は三人から二人になる。
 横に早乙女がいて、少し前に篠崎がいる。だけど僕達の目に篠崎は映してはいけない。
 彼女はここにはいない。僕は早乙女と二人でいる。そして二人で教室に帰るために廊下を歩いている。それが他者から見た、僕達の形。
 でも考えない訳にはいられない。
 篠崎が成仏する。
 そんなの。
 嫌に、決まってるだろ。
 けど。
 これは篠崎の人生だから。
 篠崎が決めることだから。
 僕にそれを止める権利なんて、何処にもないんだ。