「さあ、旦那様がお待ちですよ」
そう言われて、ふわふわとした夢心地のまま次に連れていかれたのは食堂だった。食堂といっても、ちょっとしたパーティが開けるほど広かった三笠家の応接室よりもさらに広い。
その部屋の真ん中に長いテーブルが置かれている。その端には既に加々見が席についていた。
絹子は反対側の席に案内され、椅子を引かれるままに腰を下ろす。
見違えるように美しくなった絹子を見て、加々見は満足げに目を細めた。
「きれいだよ、絹子。さすが、私の花嫁だ。さあ、お腹がすいただろう。何が好みかわからなかったから、いろいろ用意させてみた」
パチンと指を鳴らすと、使用人たちが次々と料理を運んでくる。
彼らもまた、一人として普通の人間らしい者はいなかった。顔の中央に大きな一つ目がある者や、首の長い者、髪の毛がずっと燃え続けている者などこの屋敷には異形のものしかいないようだった。
そして彼らが運んでくる料理はどれもが、絹子は見たことがない料理ばかりだった。和食もあったが、洋食のほうが多い。どこの国の料理なのかよくわからないものもあった。
ガラスのグラスに、琥珀色の飲み物が注がれる。しゅわしゅわと泡のたつそれを不思議に思って眺めていると、加々見も同じグラスを持って掲げた。
見よう見まねで絹子もやってみると、加々見はにっこり笑う。
「私たちの結婚を祝って、乾杯」
そう言ったあと、加々見はグラスの中のものを飲み干した。絹子も真似して口をつけてみるが、口の中で小さな泡が弾ける初めての刺激に驚いてしまった。
乾杯が終わると、加々見は使用人に言って料理を取り分けさせる。使用人は絹子の前にも同じものを置いてくれる。
皿の周りにはいくつものフォークやスプーンが置かれていたが、絹子にはどれを使って食べればいいのかわからない。戸惑っていると、すぐに使用人の一人が箸をもってきてくれた。
ほっとして目の前の料理を食べ始める。どれも食べたことがないものばかりだったが、一口食べたとたんあまりの美味しさに驚いた。
(こんなに美味しいもの、食べたことない)
そこで初めて、自分が空腹だったことに気づく。
夢中で箸を進めていたが、一人で食べてばかりだったことに気づいてハッと顔を上げると、加々見は目を細めて嬉しそうな顔で絹子を見ていた。
(こんな素敵なことばかり続くなんて、これはきっと夢に違いないわ。私は今もあの隙間風の多い家で凍えて布団にくるまっているにちがいないもの。でも……)
夢ならば、覚めなければいいのに。夢を見たまま寒さに凍えて死んでしまうのであればそれでもいい。この夢に永遠に続いてほしい。そんなことを密かに願った。
でも嬉しいのは、清潔で上等な服や、美味しい食事ばかりではない。
何より絹子の心をとらえていたのは、加々見をはじめ、この屋敷の人たちの絹子に対するあたたかなふるまいだった。
誰も絹子を無視したり、邪険にしたり、八つ当たりしたりしない。
一人の人として、扱ってくれる。それが何より嬉しかった。
そのことで胸がいっぱいになり、熱い気持ちが雫となって一滴、頬を伝う。
一度あふれだした気持ちは、堰を切ったように流れ出す。涙が静かに頬を伝って、止まらなかった。
いままでどれだけひどい仕打ちをされようと、どれだけ傷つけられようと泣いたことなんてなかったのに。母が死んだとき以来、泣かないと決めていたのに。
手の甲で流れる涙をぬぐっていると、加々見が慌てた様子で絹子のそばへとやってくる。
「ど、どうしたんだ!? なにか、嫌なものでもあったのか?」
悠然とした様子がすっかり崩れておろおろと心配そうにする加々見に、絹子は静かに首を横に振ると、涙の伝う顔のまま微笑んで彼を見た。
「いえ、何もありません。ただ、こんな風にしてもらったことがなかったから、嬉しくてたまらなくて……」
「そ、そうか……」
絹子の涙の訳を知ってようやく落ち着きを取り戻した加々見は、安心した様子でふわりと笑うと絹子の頭へなでるように手を乗せた。
「これからここで暮らすのだ。どれも当たり前の日常になる」
「私、ここにいていいんでしょうか……」
「もちろんだとも。私の妻なのだから。わからないことがあれば、なんでも聞くといい」
彼が山神なのかどうかは、まだ絹子にはよくわからなかった。しかし、これだけたくさんの異形のものたちを従えているのだ。人知を超えた存在なのだと考えた方が腑に落ちた。
ここにずっといたい、もうあのあばら屋や三笠の家には戻りたくないという気持ちがどんどん募ってくる。
そのためにはどうすればいいのだろうか。
「あの……」
「ん? なんだい?」
「私はここで何をすればいいのでしょうか……」
わからないことは聞けばいいといわれたので、率直にそう尋ねてみた。
その質問に加々見は急に顔を赤くして視線をそらし、
「うーん。ゆくゆくは私と子をなしてほしいのだが……」
もごもごと小声で言う。
たしかに夫婦であれば、それを望まれるのは当然だろう。
「わか……」
わかりました。そう言おうとした。
しかし、それより早く加々見が言葉をかぶせてくる。
「それも、君の好きにすればいい。私は何も強要はしない。君の自由にしてほしい」
きっぱりはっきりと彼は絹子の目を見てそう言った。
子を望んではいる。たが、絹子がそれを望まないのなら、手を出さない、と。
でもそれでは自分はいったいなぜここにいるのだろう。ここにいる理由がなくなってしまうのではないか。何も役割を与えられないなんてことは、いままで経験したことがなかった。
自由にしていい。それがかえって、大きな不安として絹子にのしかかる。
「い、いえっ……それでしたら、私、家事でもなんでもいたします! 三笠の家でもずっと働いてきました。たいていの家事はできます。ですから……」
泣きそうな気持で加々見にそう訴える絹子。
だが、加々見は困ったように顎に手を当てて、うーんと唸る。
「私は君を使用人のように扱うつもりはさらさらないのだがな。……そうだ。何かやることがほしいというのなら、一つやってほしいことがあるんだ。いずれ話そうとは思っていたんだが、良いかな」
加々見の提案に、絹子は何度もうなずく。
「はいっ。なんでもいたしますっ」
「君には、教養とマナーを身に着けてほしい。それが今後、役立つことになるからね」
予想だにしなかった加々見の言葉に、絹子は言葉をなくす。
何度か目をぱちくりさせて、ようやく言葉を発した。
「……教養とマナー……ですか?」
「そう。本物の淑女になるためのね」
そう言われて、ふわふわとした夢心地のまま次に連れていかれたのは食堂だった。食堂といっても、ちょっとしたパーティが開けるほど広かった三笠家の応接室よりもさらに広い。
その部屋の真ん中に長いテーブルが置かれている。その端には既に加々見が席についていた。
絹子は反対側の席に案内され、椅子を引かれるままに腰を下ろす。
見違えるように美しくなった絹子を見て、加々見は満足げに目を細めた。
「きれいだよ、絹子。さすが、私の花嫁だ。さあ、お腹がすいただろう。何が好みかわからなかったから、いろいろ用意させてみた」
パチンと指を鳴らすと、使用人たちが次々と料理を運んでくる。
彼らもまた、一人として普通の人間らしい者はいなかった。顔の中央に大きな一つ目がある者や、首の長い者、髪の毛がずっと燃え続けている者などこの屋敷には異形のものしかいないようだった。
そして彼らが運んでくる料理はどれもが、絹子は見たことがない料理ばかりだった。和食もあったが、洋食のほうが多い。どこの国の料理なのかよくわからないものもあった。
ガラスのグラスに、琥珀色の飲み物が注がれる。しゅわしゅわと泡のたつそれを不思議に思って眺めていると、加々見も同じグラスを持って掲げた。
見よう見まねで絹子もやってみると、加々見はにっこり笑う。
「私たちの結婚を祝って、乾杯」
そう言ったあと、加々見はグラスの中のものを飲み干した。絹子も真似して口をつけてみるが、口の中で小さな泡が弾ける初めての刺激に驚いてしまった。
乾杯が終わると、加々見は使用人に言って料理を取り分けさせる。使用人は絹子の前にも同じものを置いてくれる。
皿の周りにはいくつものフォークやスプーンが置かれていたが、絹子にはどれを使って食べればいいのかわからない。戸惑っていると、すぐに使用人の一人が箸をもってきてくれた。
ほっとして目の前の料理を食べ始める。どれも食べたことがないものばかりだったが、一口食べたとたんあまりの美味しさに驚いた。
(こんなに美味しいもの、食べたことない)
そこで初めて、自分が空腹だったことに気づく。
夢中で箸を進めていたが、一人で食べてばかりだったことに気づいてハッと顔を上げると、加々見は目を細めて嬉しそうな顔で絹子を見ていた。
(こんな素敵なことばかり続くなんて、これはきっと夢に違いないわ。私は今もあの隙間風の多い家で凍えて布団にくるまっているにちがいないもの。でも……)
夢ならば、覚めなければいいのに。夢を見たまま寒さに凍えて死んでしまうのであればそれでもいい。この夢に永遠に続いてほしい。そんなことを密かに願った。
でも嬉しいのは、清潔で上等な服や、美味しい食事ばかりではない。
何より絹子の心をとらえていたのは、加々見をはじめ、この屋敷の人たちの絹子に対するあたたかなふるまいだった。
誰も絹子を無視したり、邪険にしたり、八つ当たりしたりしない。
一人の人として、扱ってくれる。それが何より嬉しかった。
そのことで胸がいっぱいになり、熱い気持ちが雫となって一滴、頬を伝う。
一度あふれだした気持ちは、堰を切ったように流れ出す。涙が静かに頬を伝って、止まらなかった。
いままでどれだけひどい仕打ちをされようと、どれだけ傷つけられようと泣いたことなんてなかったのに。母が死んだとき以来、泣かないと決めていたのに。
手の甲で流れる涙をぬぐっていると、加々見が慌てた様子で絹子のそばへとやってくる。
「ど、どうしたんだ!? なにか、嫌なものでもあったのか?」
悠然とした様子がすっかり崩れておろおろと心配そうにする加々見に、絹子は静かに首を横に振ると、涙の伝う顔のまま微笑んで彼を見た。
「いえ、何もありません。ただ、こんな風にしてもらったことがなかったから、嬉しくてたまらなくて……」
「そ、そうか……」
絹子の涙の訳を知ってようやく落ち着きを取り戻した加々見は、安心した様子でふわりと笑うと絹子の頭へなでるように手を乗せた。
「これからここで暮らすのだ。どれも当たり前の日常になる」
「私、ここにいていいんでしょうか……」
「もちろんだとも。私の妻なのだから。わからないことがあれば、なんでも聞くといい」
彼が山神なのかどうかは、まだ絹子にはよくわからなかった。しかし、これだけたくさんの異形のものたちを従えているのだ。人知を超えた存在なのだと考えた方が腑に落ちた。
ここにずっといたい、もうあのあばら屋や三笠の家には戻りたくないという気持ちがどんどん募ってくる。
そのためにはどうすればいいのだろうか。
「あの……」
「ん? なんだい?」
「私はここで何をすればいいのでしょうか……」
わからないことは聞けばいいといわれたので、率直にそう尋ねてみた。
その質問に加々見は急に顔を赤くして視線をそらし、
「うーん。ゆくゆくは私と子をなしてほしいのだが……」
もごもごと小声で言う。
たしかに夫婦であれば、それを望まれるのは当然だろう。
「わか……」
わかりました。そう言おうとした。
しかし、それより早く加々見が言葉をかぶせてくる。
「それも、君の好きにすればいい。私は何も強要はしない。君の自由にしてほしい」
きっぱりはっきりと彼は絹子の目を見てそう言った。
子を望んではいる。たが、絹子がそれを望まないのなら、手を出さない、と。
でもそれでは自分はいったいなぜここにいるのだろう。ここにいる理由がなくなってしまうのではないか。何も役割を与えられないなんてことは、いままで経験したことがなかった。
自由にしていい。それがかえって、大きな不安として絹子にのしかかる。
「い、いえっ……それでしたら、私、家事でもなんでもいたします! 三笠の家でもずっと働いてきました。たいていの家事はできます。ですから……」
泣きそうな気持で加々見にそう訴える絹子。
だが、加々見は困ったように顎に手を当てて、うーんと唸る。
「私は君を使用人のように扱うつもりはさらさらないのだがな。……そうだ。何かやることがほしいというのなら、一つやってほしいことがあるんだ。いずれ話そうとは思っていたんだが、良いかな」
加々見の提案に、絹子は何度もうなずく。
「はいっ。なんでもいたしますっ」
「君には、教養とマナーを身に着けてほしい。それが今後、役立つことになるからね」
予想だにしなかった加々見の言葉に、絹子は言葉をなくす。
何度か目をぱちくりさせて、ようやく言葉を発した。
「……教養とマナー……ですか?」
「そう。本物の淑女になるためのね」