「ちょっと絹子! もうちょっと丁寧にやりなさいよ。なんでそんなに下手なの?」

 四つ下の妹、美知華(みちか)。おろしたばかりの煌びやかなドレスに身を包み、その名の通り人目を惹く華やかな容姿をもつ彼女は、鏡台の前で鏡越しに絹子を睨んでいた。

「もうしわけありません、美知華さま」

 絹子は表情を動かすことなく、暗くうつむき加減のまま謝ると、美知華のウェーブのかかった長い髪をブラシでより一層丁寧に()いていく。

 いまだって何も雑な梳き方をしていたわけではない。美知華は絹子がやることにはいつも不平をいい、怒りの言葉をぶつけてくるのだ。

 絹子にできることはただ頭を下げて、彼女に決して逆らわず、理不尽な要求に従いつづけることだけだった。

 鏡に映った絹子の姿はみすぼらしかった。擦り切れて色褪せた古着の和服。使用人が捨てたものを繕いものをしてなんとか着られるようにしたものだ。

 絹子の背後から嘲るような笑い声がする。美知華の支度を眺めていた、義母・蝶子だった。
 彼女もまた、贅を尽くしたドレスを着て、クジャクの羽で彩られた扇子を口元にあてている。

「その子は、生まれつき愚鈍なのだから仕方ありませんわ。そういう娘はどこかに売られるのが関の山なんでしょうけれど、旦那様は慈悲深い方だから残してあげてるのよ。さあ、美知華さん。もう車の用意はできているわ。そろそろ出かけないと遅れてしまいますわよ」

 蝶子は、元は絹子の父・茂の愛人だった。
 茂はここ三笠家の婿養子だ。商家として財をなした三笠家。その一人娘であった絹子の母と結婚してこの家と三笠商会を継いだのだ。

 しかし、商会を仕切っていた祖父が亡くなり、絹子の母も後を追うように亡くなると、茂は好き勝手をするようになった。
 絹子の母が亡くなったのは絹子が四歳のときだったが、その翌月にはもう愛人の蝶子と生まれたばかりだった美知華を屋敷に呼び寄せていた。

 そのときから、絹子の苦悩は始まる。
 茂は蝶子と美知華を溺愛し、母によく似た容姿をもつ絹子のことを無視するようになった。そのため蝶子と美知華も、絹子をまるで使用人のように扱った。茂の目の前で露骨ないじめをすることも多かったが、茂は見て見ぬふりしていた。

 絹子にとっては、この家こそがすべて。逃げ出す術はなかった。

 学校も、妹の美知華は華族も通う私立の名門女学校へ通っていたが、絹子は地元の尋常小学校に四年間通っただけ。高等小学校に進むことすら許されず、それからはひたすら使用人のように家の家事をして過ごしてきた。

「美知華さん、行きましょう。今日の舞踏会には華族のご子息たちもいらっしゃるのですから、気合をいれていかなければ。絹子! 暖炉の火を絶やさないようにしてちょうだいね!」

 今日は蝶子と美知華は日比谷の鹿鳴館(ろくめいかん)で開かれる外国大使を歓迎する舞踏会に参加するのだそうだ。

 本来であれば三笠家の長女である絹子も招かれてしかるべきなのだが、十六歳になれば良家の紳士淑女は社交界に参加するよう明治政府のお達しが出ているにもかかわらず、今年二十歳になる絹子はそんな煌びやかな世界とは縁がなかった。
 父・茂が三笠家の跡取りは美知華であり、絹子は病弱で長くは生きられないため跡取りには適さないと公表していたからだ。

 そのため、絹子は世間から完全に忘れられた存在となっていた。誰も彼女の境遇に気づかない。誰も気に留めない。ただ使用人として生きる道しか絹子には残されていなかった。

(でも……それも、仕方ないのかも)

 物心つくころから使用人として、ただただ家族の機嫌を損ねないように下働きをして生きてきた絹子。
 美知華たちが出かけたあとの鏡台を片付けながら、ふと鏡に映った自分の姿を見て絹子は小さくため息をつく。

 そこに映るのは、貧相な顔をしたやせ細った女だった。年頃の娘のようなはつらつさの欠片(かけら)もない。肌にも髪にも艶はなく、ただ伸びた黒髪を紐で後ろに一つくくりにしただけのみすぼらしい姿。

 生き生きとした肌艶の美しさと若さが溢れる美知華とは比べるべくもない。
 いまの境遇に不満を持つなんて、そんなことすらおこがましい。そう自分で思い込んでいた。