雨の巫女は龍王の初恋に舞う

 あまりの突飛な内容に、龍宗はあきれて二の句がつげない。璃鈴もただ茫然とその話を聞く。

 その様子を見て、憎々し気に伝雲が続けた。

「その証拠がその毒のお茶です。陛下の信頼を得てからその命を狙おうなどと……全く、恐ろしい小娘ですわ」

「そんな……このお茶は、秋華が……」

 言いかけたが、その秋華がここにはいない。

「秋華? お前と一緒に来たあの娘ですね。お前は、その娘に罪を押し付けようというのですか?!」

「違……!」

 言いかけて、ふと璃鈴は気づいた。


 ここに秋華がいないのは、偶然なのだろうか。璃鈴の胸に、恐ろしい予感が広がった。


(秋華は、どこ?)

「陛下、こちらへ。その娘は危険です」

 は、と璃鈴は龍宗をみあげるが、龍宗は毅然として周尚書に言い放った。

「璃鈴は、そんなことはしない」

「龍宗様……」

 だが、伝雲はそんな龍宗の様子にも全く引くことなく続けた。


「騙されてはいけません、陛下。この女官が証言いたしましたわ。その秋華と言う侍女に言われて、毒入りのお茶を用意したと。それも、皇后の指示だったのですね」

 璃鈴は、伝雲の後ろに真っ青になって震えている夏花を見つけた。璃鈴と目が合うと、今にも泣きそうな顔で夏花はうつむいてしまう。

 仕組まれたと、璃鈴はすぐに気づいた。確かにあの時の夏花の様子はおかしかった。夏花は、あの時に自分が持っていたものを知っていたのだ。

(夏花……つらかったでしょうに)

 あのとき、もっとそのことについてちゃんと考えてみればよかった、と璃鈴は後悔するが今ではもうどうにもならない。なにより、どうしたらそれを証明できるのかがわからない。


「その女を捕縛せよ」

 周尚書がそう言うと、その背後から衛兵がばらばらと現れた。とっさに璃鈴は、龍宗の腕をつかむ。

「璃鈴に触れるな!」

 龍宗の鋭い声に、衛兵たちはびくりと足を止めた。

 衛兵たちから守るように自分の目に立ちふさがった龍宗を、璃鈴は見上げる。


「龍宗様は、このことを心配しておられたのですね?」

「璃鈴?」

 怪訝な声で、龍宗は璃鈴を振り向いた。

「龍宗様は、後宮では一度も、食べ物も飲み物も口にされたことがございません」

 は、と龍宗は表情をこわばらせた。そんな龍宗を切なそうに見てから、璃鈴は卓に置かれた茶碗に視線を落とした。


「このお茶には、毒が入っているのですか?」

 伝雲は、その言葉を聞いてあざ笑う。

「何を白々しい。それは、お前が一番知っているのではないのですか?」

 璃鈴は、まっすぐに龍宗を見つめた。

「私は、このお茶に何もいれておりません」

 そう言うが早いか、璃鈴は茶器を手にすると、その中にあった茶を一気に飲み干した。

 夏花の悲鳴が響き渡る。

「皇后様!」


「ばかな……璃鈴!!」

「信じてください。私は……龍宗様、を……決して……」

 全てを飲み下すと、途端に胸が焼けるような激しい痛みが襲ってきた。璃鈴の視界が瞬く間に暗くなっていく。遠くで龍宗が呼ぶ声が聞こえた。

(信じて……ください……)

 それだけを考えながら、璃鈴の意識は薄れていった。


  ☆


「……殿、秋華殿!」

 自分が呼ばれていることに気づいて、秋華は、ふと、目をあけた。


「ああ、よかった。ご気分はいかがですか?」

 ほ、としたように微笑んだのは、飛燕だった。

「飛燕、様……? どう……痛っ!」

 自分が横になっていることに気づいた秋華は、言いながら体を起こそうとして、ずきりと痛んだ頭を押さえた。


「無理に起きてはいけません。頭が痛いのですか?」

「少し。……ここは?」

 体を起こした秋華は、その場に座りこむ。秋華の寝ていたのは、冷たいむきだしの土の上だった。薄暗いその場所を、秋華は見回す。
「ここは、古い地下牢です」

 同じようにあたりを見回しながら飛燕が言った。

「地下牢?」

「はい。数年前に新しい地下牢が完成しましたので、今はもう使っていませんが」

 牢と聞いて秋華は、その不気味さのためかそれとも実際に寒かったからか、ふるりと体を震わせた。窓もなく、通路に等間隔に置いてある灯が心もとなく揺れている。雨が続いているせいで、じめじめと湿っぽくひんやりとしていた。


「私が連れられてきたときには、すでにあなたはここに横になっておられました。ここに来る前になにがあったのか、覚えておられますか?」

 飛燕が心配そうに問う。混乱する頭で、秋華は一生懸命今までのことを思い出そうとした。

「ええと……確か、冬梅様に呼ばれていると言われて璃鈴様の部屋を出て、それで……あ」

 後宮の廊下を急いでいる時に、ふいに後ろから誰かに掴まれて顔を覆われた。驚いて暴れる暇もなく、何か甘い匂いがして、それからの記憶がない。


「薬を使われたのですね」

 秋華の話を、飛燕は難しい顔をして聞いていた。そして、失礼、と断ってから秋華の額に手をあてる。

「熱はないですね。けがもないようですし、その頭痛はおそらく薬を使ったせいだと思います。気持ち悪くはないですか?」

「その、さっきからなんだか視界がぐらぐらと揺れているような気がして……気持ち悪い……」

「遠慮せずに私に寄りかかってください」

 そう言って飛燕は秋華の隣に座り、着ていた上着を脱ぐと秋華にかけてくれた。


「ありがとうございます。でも、これでは飛燕様が……」

「私は大丈夫です。これでも鍛えてますのでね。ここは冷えますから、どうぞかけていてください」

 わずかに笑んだ飛燕に、秋華は少しだけ安堵の笑みを浮かべる。飛燕が一緒にいることで、異常な状況にあることの心細さは半減した。


 まだめまいの続いていた秋華は遠慮がちに飛燕に肩を借りると、ぼんやりと上を見上げる。秋華ですら手が届きそうなほど、その天井は低い。飛燕なら立つこともできないだろう。

「なぜ私たちは、こんなところにいるのでしょう?」

 飛燕が、表情を引き締めた。

「皇帝暗殺未遂の罪だそうです」

「ええ?! なぜです?!」

 驚く秋華に余計な混乱をさせまいと、飛燕はことさら落ち着いて言った。


「周尚書がいらっしゃって、私が功儀国と通じていると。おそらくあなたも、同じ罪を着せられたのでしょう」

 その名前を聞いて、さ、と秋華の顔が青ざめた。薄闇の中ではあったが、それを飛燕は見逃さない。

「何か、心当たりがあるのですね?」

 わずかにうつむいて、秋華は自分の手を握りしめた。秋華の葛藤を感じて、飛燕は穏やかに続きを促す。

「よければ、話してください。このままでは、私たちはおそらく死罪になってしまいます」

 は、と顔をあげた秋華は、覚悟を決めるように一度唇を引き締めると、絞り出すような声で言った。


「周尚書は……私に、皇后様のお食事に、毒を混ぜろと……」

「なんですって?!」

「でも!」

 つい叫んでしまった飛燕を、秋華は涙をためた目で見返す。

「私は確かに毒を受け取りましたが、皇后様のお口に入れるようなことは一切しておりません!」

「ああ、いえ。あなたがそのようなことをするとは思っておりません」

 悲痛な声で言った秋華に、飛燕は、なだめるように続けた。


「かいがいしく皇后様のお世話をしているあなたは、心からあの方を大切に思っているのだと見ていてもわかりました。皇后様も、まるで本当の姉のようにあなたを慕っておられた。あなた方の間にある信頼を、私は疑ってはおりません」

「飛燕様……」

 くしゃり、と秋華の顔が歪む。
「ただ、周尚書が直接的な手を使ってきたことに驚いただけです」

 秋華はまたうつむいてしまう。しかし、今までずっと心の中にためてきた思いは、一度その口から出始めるともう止まらなかった。


「初めてその話をされた時は、間違ってもそんなことはできないと断るつもりでした。どんなに脅されても、私の命と引き換えになるとしても、私が璃鈴様を裏切るなどできないと……けれど、私が引き受けなければ、周尚書はきっと他の誰かに同じことをやらせるのだと気づいたのです。少なくとも私が周尚書の言うとおりにしている間は、璃鈴様の身は安全かもしれないと……でも、周尚書と璃鈴様の間を行き来している間も、どうしたらいいのか……誰に相談したらいいのか、わからなくて……私は……」

 話ていいる間もかたかたと震え続けていた秋華の手を、そっと飛燕が握る。


「あなたは強い人だ。その判断は、正しかったと思います。よく、お一人でがんばりましたね」

 思いがけずねぎらわれたことで、秋華の目から我慢できずにぽたぽたと涙が落ちた。

 璃鈴を守るために、周尚書たちの話にのせられたふりをして、必死に彼らをだまし続けてきた。だがそうやって自分を偽り続ける日々は、秋華の神経を常にすり減らしていった。

 今、飛燕の優しい声を聞いて、ずっと誰にも言えずに胸の中に籠めておいた黒いものが緩やかに溶けだしたのだ。


 しばらくの間声もなく涙を落としていた秋華は、しゃくりあげながら一つの可能性を口にする。

「ですが、私がここにいるということは、もしかしたら皇后様にもなにか……」

 その言葉に、飛燕は頷く。

「私も問答無用でここへ入れられました。とにかく一度陛下に……」

 その時、飛燕がふと何かに気づいたように顔をあげた。

「そうはいかない」

 突然、知らない男の声が割り込み、二人は格子に目をやる。薄暗い通路には、複数の影があった。飛燕は、すばやく視線を走らせてその気配を探る。

(全部で……五人、か)


 がちゃりと牢の戸が開いて、そのうちの一人が入ってきた。衛兵の服を着たその男は、にやりと笑う。

「お前たちには、ここで死んでもらう」

 とっさに飛燕は秋華を背にかばった。

「お前は?」

 飛燕の鋭い眼光にひるむことなく、男は続ける。

「知る必要はない」

「周尚書の命令だな」

 それには男は答えずに、すらりと腰の刀を抜いた。飛燕も普段は佩刀しているが、牢に入れられる時に剣は取りあげられてしまっていた。


 罪人と謁見するときには、不必要な暴力を防ぐために必ず二人以上でという決まりがある。だが牢の外の男たちは、その決まりを守るためにそこにいるわけではなさそうだ。

(ここでどれほど騒いでも、誰も気づかないな)


 飛燕は秋華を背にして、牢に入ってきた男を睨む。

「この方は、神族の巫女であるぞ。その巫女に手をあげるか」

「何が雨の巫女、だ。そんなおとぎ話、今どきは子供だって信じないぞ」

 男は、ばかにしたように鼻で笑った。

「皇后にしたって、しょせんただの小娘だろう? そんな女をわざわざ皇后になんか据えているから、この国はだめなんだ。陛下だって、ふさわしい地位の妃を持てば目が覚めるだろうさ」

「お前たちは何も知らない」

 飛燕はあくまで冷静だ。その様子に、目の前の男は逆に苛立って剣を構えなおした。

「おとなしく死にな」


 ぶん、と振り下ろした剣を、飛燕は秋華を背にかばったままよける。だが、満足に立ち上がることもできないせまい牢の中では、思うように動くことができない。


「おいおい、そんな丸腰相手になに遊んでんだ」

「とっとと片付けろよ」

 牢の外にいる男たちが野次を飛ばす。

「うるせえ! こいつ、ちょろちょろと……!」

 仲間にからかわれた男の剣が、目標を変えて飛燕の背後にいた秋華を狙った。

「!」

 とっさに秋華の前に出した飛燕の腕が剣をとめる。同時に、その腕からばっと鮮血が飛んだ。

「飛燕様!」
「大丈夫。かすっただけです」

 太刀筋は悪くない、と飛燕は冷静にその男を観察する。ただのごろつきではなく、本物の衛兵だろう。秋華と同じように、周尚書に買収でもされたか。ただしこちらは本人の意思で行動しているようだが。


「くそっ……!」

 苛立った男はさらに打ち込んでくる。その男の腕をつかんだ飛燕は、そのまま男の背後に回ってその場に背中から倒し、剣を持った手に手刀を叩きこんだ。

「うがっ!」

 痛みで男が剣を落とす。飛燕はそれを素早く拾うと、男の首に突き付けた。

「動くな!」

 にわかに殺気立った牢の外の男たちに向けて、飛燕は叫んだ。首に剣を突き付けられた男はもとより、外の男たちも動きを止める。


「秋華殿、こちらへ」

 少し離れてその様子を見ていた秋華は、そろそろと飛燕の近くに寄っていく。

 飛燕はゆっくりとその男を立たせると、その姿勢のまま慎重に牢を出た。


 男たちの様子をうかがいながら、飛燕と秋華はじりじりと通路の出口へと向かう。

 飛燕が出口を確認するために視線を外した一瞬を狙って、男たちの一人が剣を抜いて向かってきた。

 飛燕は、捕まえていた男をおもいきりその男に突き飛ばして、剣を構える。


「秋華殿、行ってください!」

「でも……!」

「私があいつらを足止めしているうちに、早く!」

「させるか!」

「やっちまえ!」

 秋華を背にかばったまま、飛燕が男たちと切り結ぶ。鋼のぶつかり合う高い音が、せまい牢の通路に響いた。多人数を相手にしても、飛燕は一歩も引くことなく剣をふるう。


「きゃ……!」

 分が悪くなったことを感じた男の一人が、飛燕ではなく秋華に剣を向けた。気づいた飛燕が、あやういところでその剣をはじき返す。が、わずかに飛燕の姿勢が崩れた。

「もらった!」

 そのすきを逃さず、別の男が飛燕に剣を突き刺そうとする。

(しまった!)

「だめっ!」

 その切っ先が飛燕に届くかと思った刹那、急に男の動きが止まった。目を見開いた男が、その場にゆっくりと崩れ落ちる。


 飛燕は、その男の横に立っていた秋華の手に、血のりのついた短剣が握られているのを見た。


「秋華殿、それは……」

「ひ、飛燕、様……」

「飛燕!」

 その時、通路の向こうから鋭い声が響いた。飛燕と秋華が振り向くと、そこには息をきらした龍宗がいた。

「無事か?!」 

 衛兵たちに囲まれた飛燕を見て安堵しかけた龍宗は、飛燕の腕が血に濡れていることに気づいて一瞬足を止める。その龍宗に向かって、新たな敵とばかりに男たちが剣をふりあげて向かっていった。


「おおお!」

 瞬時に状況を把握した龍宗は、駆け寄りながら自分の腰の刀を抜く。向かってきた男たちの剣が、容赦なく龍宗に襲い掛かった。飛燕との切り合いで頭に血がのぼっていたらしい男たちは、自分たちが誰を切りつけているのかまったく気づいていない。

 かん、と高い音をたてて一人の剣を弾き飛ばした龍宗が、思い切り声を張った。

「痴れ者めが!」

 薄闇に響いた龍宗の怒号に、びくり、と男たちの動きが止まる。その声が聞いたことのあるものだと気づいて、男たちは龍宗の顔をまじまじと見つめた。


「まさか……陛下……?」

「何故こんなところに……」

「陛下は何も知らないと……が……」

 男たちは、そこにいるのが誰なのかをようやく認識してそれぞれに動揺する。

「主たる我に刃を向ける意味、重々承知しての行動だろうな!」

 龍宗の体からあふれる気迫に、男たちは無意識に後ずさった。
 戸惑っていた男たちのうちの一人が、ぐ、と剣を握りしめた。

「陛下に剣を向けたとなればどうせ死罪……それなら、こっちの方が人数は勝ってんだ。皇帝陛下がご乱心なら、大義名分がたつ!」

 言うなり、龍宗に切りかかっていく。

「うおおおおお!」

 他の四人も同じように後がないことを悟って、死に物狂いで龍宗にむかい始めた。それを龍宗は、右へ左へと受け流し相手を追い詰めていく。実に見事な剣捌きだった。そして一人の男に剣を突き刺そうとした瞬間。


「陛下、殺してはいけません!」

 飛燕の声で、龍宗の手が止まった。

「大事な証人です。やるなら半殺しで止めて下さい!」

「ちっ」

 龍宗はくるりと剣を返すと、柄の部分で男の腹を思い切り殴打した。

「ぐっ」

 男は白目をむいてその場に倒れる。残りの男たちも同様に、次々と倒していった。


「陛下! 飛燕!」

 すると、また新たな声と複数の足音が通路の出口の方から聞こえた。衛兵たちを従えた余揮だ。

 余揮は、足元に呻いて転がる男たちをよけながら、龍宗たちに近寄る。飛燕の腕が血にそまっているのを見て、眉をひそめた。


「どこか切られたのか?」

「たいしたことはありません。それより、陛下、お怪我は?」

 剣を腰のさやに戻しながら、龍宗は答えた。

「俺がそんなへまなどするものか。秋華は大丈夫か?」

 聞かれて飛燕が振り返れば、壁際に呆然と立ちつくしていた秋華は、今だ震える手に短剣を握り占めていた。

「わ、私……は……」

 言いかけた秋華だが、事が終わったことを理解して緊張の糸が切れたのか、すい、と意識が遠のく。

 倒れかけた秋華を、あわてて飛燕が支えた。その手から短剣をとろうとするが、気を失っても秋華の手はそれを握りしめたままだ。こわばった秋華の手からなんとか短剣を引き抜くが、よほど力をこめていたのか、その手には血の気がなく真っ白だった。それを見て、飛燕は目を細める。

 どれほどの勇気を振り絞って、その行動を起こしてくれたことか。秋華があの時男を刺していなければ、飛燕はこんな傷ではすまなかっただろう。

「本当に、ありがとうございました。おかげで助かりました」

 意識のない秋華に言って、飛燕はその体を抱き上げた。


「あとはまかせたぞ」

 転がっていた男たちを衛兵が連れて行くのを確認すると、龍宗は足早に牢を後にした。急いているその様子に疑問を持って、飛燕が余揮に視線を向ける。余揮はその額に深く溝を刻んで言った。


「皇后様が毒を飲まれて意識がない」

「!」

「毒の種類はすぐに特定できたので問題はない。今、薬師が治療にあたっている」

「そう……ですか。それはよかった。それで龍宗様は急いでおられたのですね」

 龍宗のあとを追って、飛燕たちも通路をゆっくりと出口へと向かう。衛兵たちの姿はすでになく、残されたのは飛燕たち三人だけだ。


「余揮様も早くここから出られた方がよろしいです。ここは冷えるので、膝にきますよ」

 とたんに顔をしかめた余揮を見て、飛燕は続けた。

「最近、少し右の足を引きずっておられます。痛むのではないですか?」

「気づかれているとは思わなかったぞ」

「あなたがそういう風に育てたのでしょう?」

「期待以上に育ったな。……なぜ、陛下の側を離れた」

 余輝の声は低い。


「申し訳ありません」

 ちら、と余揮は秋華に目を走らせる。

「人質をたてにとられたか」

「目的が陛下ではなく皇后様のようだったので、それならば捕らえられている秋華殿の方が危険な立場にあると判断しました。おとなしく周尚書についていけばきっと彼女と同じところに連れていかれるでしょうから、まずは彼女の方を助けてから、と」

「だからと言って、陛下の身の安全を確保せずに動いたのは失敗だったな。どちらも、とる、のが最善の策だ」

 当たり前のように言った余輝に、飛燕は苦笑する。

「やはりあなたは厳しいですね」

「……いや、違うな。最善ではない」

 考え直したように、余揮が言った。


「では?」

「陛下も、この巫女も、そしてお前も。全てをとらなければ最善とは言えない」

 飛燕は、軽く目を見開く。

「ああ……そうでした」

「陛下に何かあったら、お前が次の皇帝だ。なんのために、お前を陛下の側においているのか、よもや忘れてはいまいな?」
「わかっております。陛下をお守りするため、と、皇帝の仕事について学ぶため、ですね」

 淡々と答えた飛燕に、余揮は複雑な表情になる。

「私が指示したこととはいえ、あれの側についていて、まともに皇帝の仕事を学べるかは疑問だがな」

「私ならもうちょっと要領よくやりますよ」

「だろうな。お前の方がどちらかといえば、龍元に近い質を持っている。陛下が龍元を超えるには、まだまだ遠いだろう。それでも」

 余揮は、どこか遠くを見る目つきになった。その視線の先には、今は亡き余揮の親友がいることを飛燕は知っている。

「最近は、いくらかましにはなってきたようだがな」


「それは、ぜひ陛下に言って差し上げてください。きっと喜びますよ」

 飛燕の言葉に、余揮はただ渋面を返しただけだった。気にせずに、飛燕は続ける。


「陛下があのように変わられたのは、皇后様のおかげでしょうね」

「最初あの娘を見た時はどうなることかと思ったが」

 余揮は、ふ、と秋華に視線をうつす。かすかにそのまつげが動いたような気がした。

「案外に、陛下と相性がよかったようだ」

「陛下が皇后様とお心を合わせることができたのも、皇后様の人となりゆえなのでしょう。私ではきっと無理だった。そうでしょう? 秋華殿」

 飛燕は、抱いていた秋華に声をかける。すると、秋華のまぶたが震えて、ゆっくりと目をあけた。その様子に笑んで、飛燕は言った。


「私たちの声がうるさかったようですね。申し訳ありません」

「いえ……気づいておられたのですか?」

 飛燕は、笑みを浮かべたまま何も言わない。


 飛燕と余揮が話している最中に意識が戻った秋華は、聞くともなしに二人の話を耳にしてしまった。その内容がなんとなく聞いてはいけないもののような気がして、起きるに起きられず気を失ったふりを続けていたのだ。

「申し訳ありません。それに、あの、私、自分で歩けますので……」

 秋華は言外に降ろしてほしいと告げる。だが飛燕は、秋華を腕に抱いたまま離そうとしない。

「このまま医務室までお連れします。あなたには、休息が必要だ。これからのためにも」

 その言葉の意味を瞬時に察して、秋華は息を飲む。そして戸惑ったように、飛燕と余揮の顔を見比べた。

「飛燕様は、一体どういう立場のお方なのですか?」

 飛燕は、いつもの笑みを浮かべて言った。

「お聞きになりましたね。私は、陛下の実の弟です」


 龍宗が生まれて四年後、飛燕が生まれた。飛燕が生後半年の時に、妃たちによる毒殺事件が起こる。二人は皇后の機転であやういところで助かったが、危険を感じた皇帝の判断で、飛燕だけはその場で死んだことにしてこっそりと後宮を出された。そして余揮の養子として育てられ、長じては皇帝の側近として龍宗の側で過ごしてきたのだ。

 龍宗に子のない今、飛燕は、人知れずとも輝加国のれっきとした皇太子だった。


「そうだったのですか」

「陛下と来家の一部以外は、誰も知らない話です。ですから、ここだけの話にしておいてください」

「はい」

「秋華殿」

 余揮が硬い声を出した。

「あなたは、周尚書とつながっていましたな」

 秋華は顔をこわばらせる。

「詳しくお話をきかせてもらいましょう」

 そう言った余輝を、秋華は見つめた。


 自分たちが助けられ周尚書の話がでているということは、おそらく、すべては明るみに出たのだ。無意識のうちに、秋華は大きく息を吐く。

 ちょうど、地下牢からの階段をあがりきったところで三人は外に出た。外はまだ雨が降っている。その空を一度見上げると、秋華は飛燕の腕から地に足を下ろした。今度は飛燕も止めなかった。

 秋華は、余輝の顔を見あげる。心の重荷が降りたことで、秋華は自分でも意外なことに、はんなりと笑むことができた。

「はい。お話しします。すべて」
 ふ、と璃鈴は目を開いた。

 あたりは暗闇だ。

 目を開いているのか閉じているのかもわからない暗闇の中で、璃鈴はただぼんやりとしていた。意識がもうろうとしていて、何も考えることができない。なにかとても大事なことを言い忘れているような気がする。


(私、なんでこんなところにいるのかしら)

 身体中がだるく、ひどく眠かった。もう一度目を閉じようとした時、目の前にぼうっと光る何かが現れた。暗闇に慣れた目にはわずかな光も眩しく、璃鈴は目を細めてその光を見つめる。それはどうやら人らしく、音もなく璃鈴に近づいて来る。すぐ目の前までくると、その人は璃鈴に話しかけてきた。


「毒は、宮城の薬師によって中和されました。もう大丈夫ですよ」

 璃鈴は一生懸命その人影をみつめるが、明るい光を背にしたその人物の顔はよく見えない。かろうじて、優しい声と柔らかな雰囲気から女性であることがわかるだけだ。

「毒……? あなたは……」

 璃鈴の問いに答えることなく、急速にその女性は遠ざかっていく。もしかしたら遠ざかっているのは璃鈴の方かもしれないが、よくわからなかった。

 ただその女性の声だけが、途切れ途切れに届く。

「……あの子を……どうか…………お願い……」

「待って! あの子、って……!」

 璃鈴は必死に、その光に向かって手を伸ばした。


  ☆


「……璃鈴!」

 伸ばした手を、誰かが掴んだ。温かい手だった。気がつくと、あたりが明るくなっている。

「璃鈴」

 ぼやけた視界がもどかしくて何度か瞬きすると、次第に視野が鮮明になってくる。

 目の前には、心配そうな龍宗の顔があった。


「龍宗 さま……」

 声がかすれて、うまくしゃべれない。眉を寄せた璃鈴に、それでも龍宗は、ほ、とした表情になった。

「よかった……目が、覚めたな」

「私は……」

「覚えているか? お前は毒を飲んだんだ」

 言われて、記憶が戻ってきた。

(そうだ。伝雲たちが部屋に来て……お茶に、毒が入ってるって……)


 自分は、そのお茶を飲みほしたのだ。璃鈴は、自分の手を握っていた龍宗の手を握り返す。その感触で、これが夢ではないことを実感した。 

「本当に毒が入っていたのですね。……よかった。生きてる」

「当たり前だ。死んでたまるか」

 璃鈴が無事なのを確認して、龍宗は大きく息を吐いて肩を落とした。が、すぐに顔をあげると眉をつりあげる。


「お前は本当に馬鹿だな! 死んでしまったら相手の思うつぼだぞ!」

「でも、生きているのでいいじゃないですか」

「それはたまたまだ! 渡されたものが毒だとわかったあの女官が、半分をただの茶にすり替えていたのだ。そうでなければ、お前の目が二度とは開くことがなかったのだぞ!」

 どなりつける龍宗の剣幕に、璃鈴は驚いて肩をすくめる。


「半分……ですか?」

「ああ。それくらいなら、警告ですむと思ったらしい。故郷の家族を人質にとられて周尚書たちの言うことに逆らえなかったらしいが、それでもお前が殺されてしまうことを黙って見ていられなかったんだそうだ。結局、半分ですら致死量に近かったために、お前は死にかけたのだがな。とんでもない毒を使ってくれたものだ」

 忌々しそうに龍宗は吐き捨てるが、その目は今にも泣きそうに見えた。龍宗のそんな顔は初めて見る。


「龍宗様……」

「あまり、心配させるな」 

 小さく言った龍宗の手が、小刻みに震えていることに璃鈴は気がついた。

「ご心配をおかけいたしまして、申し訳ありません」

「二度と、あんな真似はするな」

「それは……約束できません」
 きっぱりと言い切った璃鈴の言葉に、龍宗は、か、と目を見開く。

「お前は……!」

「私は!」

 龍宗の言葉を止めて、璃鈴は叫んだ。少しかすれてはいたが、その勢いに龍宗は目を瞬く。


「龍宗様に信じて欲しかったのです」

「何……?」

「私は、決して龍宗様を裏切るようなことはしません」

 龍宗は、おもいがけず厳しい表情になった璃鈴にのまれたように黙り込む。


「龍宗様に供するものは、どんなものをお出ししても、毒など、私は絶対にいれたりしません。それくらいなら、自分でその毒を飲み干します。だから……決して裏切ることなどないと、私を、信じてください」

 短くない沈黙が、二人の間に落ちる。


「気づいていたのか」

 龍宗の声は、重かった。

「はい」

 食事はもちろんのこと、璃鈴の入れた茶の一杯すらも、龍宗が一口とて飲んだことはなかった。そう気づいたのは、つい最近だ。


「ずっと、毒を心配していたのですね」

 龍宗は、居心地悪そうに目をそらした。

「お前を疑っていたわけではない。もうくせのようなものだ。幼い頃にここで毒を盛られそうになってから……そして母がその毒の後遺症で亡くなってから、自室以外の後宮では、食事をすることも眠ることもできなかった」

「眠る、ことも?」

 初耳だった璃鈴は、目を丸くする。

「ああ。お前がくるまで、ここは俺にとって安心できる場所ではなかったのだ」

 だから、結婚した当初は、璃鈴が隣にいても眠ることはできなかった。璃鈴だけではなく、この後宮にいるすべての者を、龍宗は信じられなかったのだ。


「今は、ちゃんと眠れる。……眠れて、いるんだ」

 龍宗は、ふ、と表情を和らげた。

「信じよう。これからは、何があっても、お前を。だから、もうこんな肝を冷やすような真似はしてくれるな」

「はい」

 璃鈴も、ようやく笑みを浮かべた。


「龍宗様のために、とびきり美味しいお茶を入れます。だから今度は、私と一緒に飲んでくださいましね」

「ああ……」

 龍宗が璃鈴の頬に触れて、その上にかがみこむ。二人の唇が重なる瞬間、派手な音が響いた。


「……」

「……」

 龍宗がゆっくり起き上ると、璃鈴が真っ赤な顔をしていた。

「腹が減ったのだな」

 笑いだしそうになるのを我慢しながら、龍宗が聞いた。

「それもそうだろう。お前は、三日も眠っていたんだ」

「三日?!」

 とりあえず枕元に水があったので、璃鈴は龍宗に起こしてもらってそれを飲む。体を動かすとあちこちが痛んで、璃鈴は三日眠っていたという龍宗の言葉を実感した。


 璃鈴が眠っていたのは、後宮内の自分の部屋だった。あたりを見回して、ふと璃鈴は違和感を持つ。見慣れた部屋なのに、いつもと何かが違う。少し考えてその違和感の正体に気づいた璃鈴から、血の気が引いた。

「龍宗様、秋華は?」

 ちょっと用があって出ているだけかもしれない。けれど、璃鈴が倒れる前から姿が見えなかった秋華が今もここにいないことは、璃鈴に言われのない不安をもたらした。


 その名を聞いて、龍宗が表情を歪める。

 その様子が、さらに璃鈴の不安を駆り立てる。

「秋華は、どこにいるのですか? 無事ですか?」

「無事……だ」

 歯切れの悪い言い方に、璃鈴の不安が増す。

「なぜ、ここに秋華がいないのですか?」

「あの娘は、後宮を追放となった」

 ざ、と璃鈴の血の気が引く。
「な……ぜ……」

 璃鈴を動揺させないよう、龍宗はゆっくりと事の経過を話し始めた。


 璃鈴の飲んだ毒は、周尚書と尚宮の伝雲が仕組んだものだったこと。その罪を被せられて飛燕と秋華が殺されそうになったこと。その二人も、無事、龍宗が助け出したこと。周尚書と伝雲は、死罪が決まったこと。


「では、どうして秋華が追放になるのですか?」

「あの娘は、お前の食事に毒をいれていたと伝雲が証言し、本人も認めたからだ」

「毒? 私は毒なんて……」

「ああ。伝雲と周尚書は秋華に確かに毒を渡していた。だが、秋華は一度もお前の口にするものには毒は入れていなかったと言っている。しかし、それは秋華自身の証言だけで証拠がない。さらには周尚書たちがそろって秋華が仲間だったと証言したこと、実際に秋華が毒を所持していたことが裁判の場で明らかになったことで、どうしても彼女を罪に問わざるをえなかったのだ。本来なら周尚書たち同様処刑となるところだったが、神族の巫女ということもあって、せめても、後宮追放の処分ですませることができた」

「そんな……」

 璃鈴の震える手を、龍宗がしっかりと握った。


「璃鈴。秋華は今は安全なところにいる。だから、心配するな」

「だって……」

 ぽろぽろと璃鈴の目から涙が流れる。

「秋華は、私に毒を盛るなんて、そんなこと絶対にしません」

「ああ。わかっている」

 なだめるように言った龍宗に、璃鈴は首を振る。


「わかっているのに、どうして追放なんて……私の意識があったら、秋華を助けられたかもしれないのに……なんで、三日も……」

「お前だって、生死の境をさまよっていたのだ。人のことまで心配している場合ではなかっただろう」

「そんなの、秋華の辛さに比べれば!」

 叫んだ璃鈴に、龍宗は眉をあげた。


「きっと秋華のことだから、毒なんて受け取ったのは私を守るためです。どうしてそうなったかはわかりませんが、自分が罪になることが分かっていても、きっと私を守ろうとしてくれたはずです」

 龍宗は璃鈴の手を握りしめながら、おだやかに笑んだ。

「その通りだ。よくわかっている。お前は秋華を心の底から信じているのだな。それを聞いたら、きっと秋華も報われることだろう」

「そんなこと……秋華がここにいなければ、私は何もしてあげられない……秋華、どこに……」

 泣き崩れる璃鈴を龍宗が抱きしめた。その胸にすがって璃鈴は泣いた。しばらくはあやすようにその体を抱きしめていた龍宗だが、扉を叩く音に気づいて顔をあげた。


「側仕えがいなくなっては不便であろう。それにお前も淋しいだろうと思って、新しい侍女をつけることにした」

 涙で濡れた顔を、璃鈴があげる。

「誰も、秋華の代わりになど……!」

「そうか? 新しい侍女も、なかなかよい働きをするぞ? ……入れ」

 龍宗の声を聞いて扉を開けた侍女は、寝台に起き上る璃鈴の姿を見て思わず持っていた水桶を落とした。


「皇后様っ!!」

 足元が濡れるのにも構わずに駆け寄るその侍女を見て、璃鈴はぽかんと口をあける。

「よかった。気が付かれたのですね? ご気分はいかがですか? ずっと、ずっと眠り続けで、本当に心配致しました」

 そう言って、涙を浮かべる女性は。


「秋華……?」

 秋華は後宮追放になったと今聞いたばかりだ。呆然とする璃鈴に、龍宗が言った。


「紹介しよう。秋華の代わりに新しく入った春玲だ」

「春……玲?」

 は、と気づいたように秋華……春玲は璃鈴の寝台の横に膝をついて礼をとる。


「つい、皇后様の御無事な姿を見て取り乱してしまいました。お見苦しい姿をお見せしてしまったことをお詫びいたします。改めまして、このたびこちらの配属になりました、春玲と申します。以前にいた侍女の代わりに、皇后様のお世話をいたします」

「春玲は、冬梅の娘だそうだ。なかなかしっかり者だぞ」

 にやりと龍宗が笑う。璃鈴の頭がついていかない。